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第7話 除妖回への帰還

 家の大門が再び閉じられてからも、宗鏡暖心はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 見かねた宗鏡玄心が、そっと妹の肩を叩いた。


「今日はさすがに疲れただろ。夕飯は兄ちゃんが作ろうか。家に何が残ってる?」

「え……あ、うん……」暖心は一瞬遅れて答える。

「三合米が半袋と、大根と……それから筍が少し」

「それだけか……」


 玄心は小さく唸った。現代人の感覚を持ったまま、しかも一日中山を歩いた直後に、この献立で腹を満たせと言われるのは正直きつい。

 ふと、暖心の腕に抱えられた重みのある巾着袋に目が留まる。


「暖心ちゃん、せっかく十両ももらったんだし、今夜は外で食べよう。侍町には飯屋も蕎麦屋もあるし、居酒屋も二軒あったよな……あ、でもお前はまだ酒は駄目か」


 ぶつぶつと独り言を続ける兄を、暖心はただ黙って見つめていた。

 今日一日の出来事は、あまりにも非現実的だった。兄が妖魔に殺されたという知らせ。野村賀力が家に押しかけ、自分を遊女屋へ売ろうとしたこと。そして、死んだはずの兄が戻り、野村賀力を打ち倒したこと。


 目の前の人物が、確かに自分の兄と同じ顔をしていなければ、妖魔の化け物だと疑っていたかもしれない。


「そうだ、蕎麦にしよう」

 玄心はぱっと決めたように言った。

「前にあの店の前を通るたび、暖心、ちらちら見てただろ? 兄ちゃん、ちゃんと気づいてたんだぞ」


 そう言ってから、玄心は妹の顔を見つめる。

 胸の奥に、言葉にできない後悔が溢れ出してきた。


「……今まで、苦労かけたな」

「……うん」

「もう賭け事はしない。これからは、ちゃんと暮らしていけるようにする。お前も友達と遊びに行っていい」

「うん!」

「それに、兄ちゃんは、もう昔の兄ちゃんじゃないからな」

「……うん? え?」

「あ、いや……つまりだな、これからは本気で妖魔退治に打ち込むってことだ。はは……」暖心は少し俯き、小さな声で尋ねた。

「……それって、また命が危ないってこと?」

「ん? 先のことは先に考えよう。今夜はまず、腹いっぱい食べる! ほら、行くぞ、もう腹ぺこだ」


 玄心は答えを待たず、暖心の小さな手を引いて庭を出た。

 夕闇が町を包み始める。

 騒がしい通りを、一つの影がもう一つの影に寄り添うように歩いていった。


 ――――


 翌朝。

 玄心は、くっきりとした隈を浮かべた顔で目を覚ました。

 久々にぐっすり眠れると思っていたのだが、江戸の夜は甘くなかった。

 夜回りの更鼓持ちが、一定の間隔で声を張り上げる。


「火の用心! 戸締まりの用心!」

「油断せず、火元を確かめよ!」


「……なるほど、金持ちが屋敷の奥に寝所を作るわけだ」

 玄心は布団の中でため息をつく。

「よし、将来はでかい家に住む。寝室は通りから一番遠い場所だ」


 一方、暖心はすっかり慣れた様子だった。

 昨夜しっかり食べたおかげか、朝から元気いっぱいで朝食を用意している。

 粥一椀、漬物一皿、豆腐一切れ。

 質素だが、温かい食卓だった。

 玄心は心から美味いと思いながら、それを平らげた。


「行ってくる」


 そう言って、妹の用意した弁当を手に家を出る。


 記憶に染み付いた道を辿り、除妖回の詰所へ足を踏み入れた瞬間、空気が違うことに気づいた。

 すれ違う同心や岡引たちが、ひそひそと視線を投げてくる。


「……あれ? 宗鏡玄心って、前の妖魔討伐で死んだんじゃなかったか?」

「しっ……妖魔が腹いっぱいだったから、運よく逃げられたらしいぞ……」

「やっぱりな。あんな腕もない博打打ちが、生きて戻れるわけないと思ってたんだ。運だけはやたらといいよな……」


 皆、声を落として話してはいるが、身体能力を強化された玄心の耳には、その一言一句がはっきりと届いていた。

 だが、彼はそれらをまったく気に留めない。くだらない噂に心を乱すよりも、今は一刻も早く妖魔の痕跡を探すべきだ。

 何しろ、自分にはまだ三十五年分の「妖魔寿命」が残っているのだから。


 自分の執務室に向かおうとした、その時だった。


「宗鏡兄! 宗鏡兄!」


 背後から呼び声が飛んでくる。

 振り返ると、丸々とした体格の若い武士が、満面の笑みでこちらへ駆け寄ってきた。


 田中団吉(たなか だんきち)

 玄心と同じ下級武士であり、除妖回に所属する同心の一人だ。

 家柄も似通っており、性格も実直でお人好しなため、玄心のこれまでの黒歴史など気にも留めず、自然と友人になった男である。


「おお、田中兄か。久しぶりだな。……なんだか、また太ったんじゃないか? はは」

 玄心は相手に違和感を与えぬよう、記憶にある通りの軽口を叩いた。


「えっ? そ、そうかな……」団吉は一瞬きょとんとした後、眉をひそめて真剣に考え始める。

「ここ数日、道場で稽古してなかったから、そのせいかも……」


「冗談だよ。で、何か用事か?」

 慌ててそう付け加える。団吉の様子を見るに、急ぎの用件があるのは明らかだった。


「あっ、そうそう! 危うく忘れるところだった、さっき与力様にお会いしてさ。宗鏡兄が戻ったって聞いて、話を聞きたいから呼んでこいって」

「分かった。今から伺うよ。知らせてくれてありがとう」


 団吉の言う与力様、それが、武部鉄心である。

 除妖回に三人いる与力の一人で、第四番隊と第五番隊を統括する人物だ。

 剛健な体躯と圧倒的な実力を誇り、その刀の下で斃れた妖魔は、十数体にものぼると言われている。


「……待ってくれ、宗鏡兄」


 玄心が歩き出そうとしたところで、団吉が慌てて呼び止めた。


「どうした、田中兄? まだ何かあるのか?」

「……今さらかもしれないけどさ、無事に戻ってきてくれて、本当に良かった」

「はは。ありがとう。田中兄に会えて、俺も嬉しいよ」


 その言葉は、偽りのない本心だった。

 妖魔の残虐さと、同僚からの裏切りを味わった直後だからこそ、こうして純粋に自分を案じてくれる存在のありがたさが、胸に染みる。


「そうだ、それならさ、今夜は祝杯だ! 煮売茶屋に行かないか? あそこのおでん、美味いって評判だぞ」

「えっ……ほ、本当か!?」団吉は思わずごくりと喉を鳴らしたが、すぐに不安そうな表情になる。

「でも、あそこ結構高いって聞いたぞ……角打ちか居酒屋の方が」

「それはダメだ」

「え? どうして?」

「妹も一緒に連れて行くからな。酒は飲めない」


 玄心はそう言って軽く手を振り、団吉に背を向けた。


「じゃあ、また後で」


 そうして彼は、武部鉄心の執務室へと足を向けた。

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