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第6話 あっさり勝利

 野村賀力は顔を強張らせたまま、袖留めを引き抜き、両袖を何重にもきつく縛り上げる。それからようやく、ゆっくりと刀を抜いた。

 中段の構え。

 切っ先は冷たい星光を宿し、十歩先の宗鏡玄心を真っ直ぐに指している。


 だが、当の宗鏡玄心は、その場に立ったまま、驚くほど力を抜いていた。左手を軽く柄に添えている以外、構えらしい構えは一切見せない。


「……くく、鼠妖にでも脅かされて、頭でもやられたか?基本の立ち合いの構えすら忘れたとはな」 野村賀力が鼻で笑う。

「忘れたわけじゃない、ただ……お前ごときに、抜く価値がないと思っただけだ」玄心は淡々と返した。

「戯言を!!後で泣いて詫びても知らんぞ!」


 沈みゆく夕日が屋根越しに差し込み、二人の影を細く長く、土道へと引き伸ばす。


 街道沿いには、いつの間にか多くの見物人が集まっていた。侍町の下級武士や、その家族たちだ。真刀を用いた“生死の立ち合い”は珍しいものではないが、そうそう毎日見られるものでもない。とはいえ、場にいる者の誰もが、立ち合いの空気には慣れていた。


 そして、彼らの視線は、次第に同じ結論へと収束していく。力量差が、あまりにも大きすぎる。

 総髪の少年は袖も縛っていない。どう見ても経験の浅い若造だ。対する月代頭の武士は、構えも足運びも老練そのもの。勝敗は、すでに決している、誰もが、そう思っていた。


「……惜しいな。若さゆえの血気か」

「宗鏡家の倅だろ? 顔立ちは悪くないが……」

「今日は誰が死体を片づけることになるやら。たしか、妹がいたはずだが……」


 そんな囁きが広がる中、場の二人の距離は、刻一刻と縮まっていく。


 八歩。

 五歩。

 三歩。


「はああっ!!」

 野村賀力の眼に凶光が走った。喉奥から叩き出すような咆哮とともに、踏み込み。右上から、渾身の一太刀が斜めに振り下ろされる!


 速い。

 刃は暮色を裂き、惨白な光を曳いた。

 刀風だけで土埃が舞い上がる。

 これを真正面から受ければ、牛でさえ両断されかねない一撃。


 見物人から悲鳴が上がり、中には思わず目を閉じる者もいた。

 人混みの中で、宗鏡暖心が小さく身を震わせ、叫ぶ。

「に、逃げてっ!!」


 白光が玄心を呑み込む、

 その、寸前。

 玄心の瞳に、恐怖はなかった、代わりに浮かんだのは困惑だ。


(……遅い?)


 思わず、そう感じてしまうほど。


 野村賀力の剣は、自分より上だと聞いていた。

 だが、玄心は、ほんの半歩、後ろへ引いただけだった。それだけで、刃は紙一重、空を切る。

 だが、終わらない。

 野村賀力はすぐさま横薙ぎへと繋げる。

 しかし、それすらも。玄心は、余裕をもってかわした。


 シャッ、シャッ、シャッ。


 続く七太刀。

 一太刀ごとに速度は増していく。

 だが、それでも、宗鏡玄心の衣の端にすら、触れることはなかった。


 やがて、見物人たちも気づき始める。あの少年は、新手ではない。むしろ、相手を遥かに凌ぐ実力者だ。刀を抜くことすら惜しむほどに。


 一方、宗鏡暖心は口を開けたまま、言葉を失っていた。目の前で軽やかに舞う、その背中が本当に、自分の兄なのか。

 彼女は知っている、宗鏡玄心の剣の腕を。賭場通いで道場を疎かにし、「神玄無反流」の稽古など、まともに受けたことはない。

 対して野村賀力は、道場でも上位に名を連ねる実力者のはずだった。勝てるはずがない。それが、常識だった。


 だが、場で最も動揺していたのは他ならぬ、野村賀力自身だった。


(なぜだ……!?)


 確実に斬れるはずの太刀が、ことごとく空を切る。まるで、すべてを見透かされているかのように。


(まさか……今まで、弱さを装っていたのか!?この機会に、俺を殺すつもりで……!?)


「あり得ん!!」


 野村賀力は叫び、さらに速度を上げる。

 だが、焦りは動きを乱し、体力は確実に削れていく。

 そして、「神玄無反流・逆巻き」を振り抜いた直後。着地の瞬間、足がもつれた。

 膝が折れ、野村賀力は、無様にも地に崩れ落ちる。打刀が手を離れ、乾いた音を立てて転がった。


 その瞬間。

 宗鏡玄心が、踏み込んだ。

 初めて、刀を抜く。


 シュン――


 抜刀音が耳に届いたとき、すでに刃は、野村賀力の喉元にあった。


「……で、どっちが死に急いでたんだ?」


 静寂。

 あまりにも、完全な沈黙。

 誰もが予想していた一方的な結末は、こうして、正反対の形で終わっていた。


 野村賀力は土に跪き、首筋に走る細い血線から、血珠が滲む。

 玄心を睨みつけるその顔には、驚愕と憤怒、そして屈辱。


(速すぎる……)


 どう抜いたのか、見えなかった。これは反撃?自分の隙を突いた、卑怯な勝ち方?


(小賢しい……!!)


 だが、そんな考えに意味はない。今、命は相手の一念に委ねられている。武士の誇りも、敗北の恥も、すべてが霧散し。残ったのは、ただひとつ。

 死にたくない!この“廃物”の手で、死ぬわけにはいかない。


 野村賀力は歯を緩め、低い声で言った。


「……認めよう。俺は、お前を侮っていた。だが、考えろ……俺の父は島原城の城代だ。俺を斬れば、野村家の怒りを一身に受けることになるぞ」

「……ん?」


 玄心は眉を寄せる。確かに、迷いはあった。一人身なら、斬って浪人になるのも一興だ。

 だが、自分には、妹がいる。彼女まで苦しめることだけは、絶対にできない。


「生きたいなら、そう言えばいい。親父を盾にするな」


 玄心は冷ややかに言い放つ。


「だが……斬らずに済ませて、俺の武士の誇りは、どう守る?」

「金を出す!一両金だ!兄妹の損失の補填に」

「……は?」


 玄心の声が、低くなる。


「お前の命は、犬以下か?その程度なら……約束通り、賭けを果たそう」


 刃が、ゆっくりと沈む。野村の額に、脂汗が滲む。


「ご、五両……!い、いや……十両金だ!!それ以上は、もう無理だ……!」


 慌てて懐から、ずしりと重い巾着を取り出し、差し出す。

 だが、玄心は受け取らない。


「暖心。こっちへ来い」人混みに向かって声をかける。

「野村賀力。妹に、跪いて詫びろ」

「に、兄さん……もう……」顔を青くした暖心が、玄心の袖を掴む。

「……き、貴様……!調子に乗るな!父が……」


 最後まで言わせなかった。

 玄心は刀を立て、手首を返し、刃の側面で――

 バンッ!!

 乾いた音。

 野村は横倒しになり、起き上がったときには、片頬が真っ赤に腫れ上がっていた。口元から、血と唾が垂れる。


「……今、何て言った?」


 玄心は笑っていた。だが、その瞳は、氷のように冷たい。

 野村の胸が激しく上下し、やがて、額を地に叩きつけた。


「……先ほどの無礼、誠に……申し訳ございませんでした……」

「声が小さい。妹に聞こえない」

「申し訳ございませんでした!!」


 怒号のような叫び。首筋の血管が浮き上がる。


 五秒。玄心はそれを見下ろし、静かに頷いた。

 刀を収める。

 巾着を拾い、暖心の手に握らせ、優しく頭を撫でた。


「帰ろう」

「……うん! おうち、帰ろう!」

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