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第5話 生死闘

「そ、宗鏡……玄心!?き、貴様……生きていたのか!?」

 野村賀力の瞳孔が、ぎゅっと縮む、思わず半歩後ずさった。


「に……兄……さん?」

 宗鏡暖心は目を大きく見開き、信じられないものを見るように、戸口に立つその懐かしい姿を見つめた。

 次の瞬間、彼女は野村賀力の拘束を振りほどき、叫び声を上げながら走り出した、そのまま宗鏡玄心の懐に飛び込む。

「う……うぅ……!生きてた……生きてたんだね……!」

 堪え続けてきた恐怖と悔しさが、ようやく行き場を見つけた。

 痩せた小さな身体は、玄心の腕の中でかすかに震え、嗚咽を押し殺すこともできず、声を上げて泣き崩れる。


 宗鏡玄心は、ほとんど反射的に妹の肩を抱き寄せた。

 そのまま頭に手を置こうとして、わずかに逡巡し――やがて、そっと撫で下ろす。

 まさか、この“名目上の妹”との本当の初対面が、こんな場面になるとは思ってもみなかった。

 戻ってくる道すがら、彼は己の身の上に関する記憶を、何度も頭の中で整理し直していた。

 両親は亡く、家には妹一人が残されただけ。

 前世では常に独りで生きてきた彼にとって、「妹」とどう向き合えばいいのか、正直なところ戸惑いしかなかった。

 しかし記憶の中の、暖心ちゃんが朝に粥を炊く横顔、深夜に縫い物をする時にしかめた眉の先、借金取りに追い詰められた時の強い眼差し……

 一つ一つが彼の心に重みを加えていった。

 これほど出来のいい妹がいながら、兄である自分は酒と博打に溺れ、九つの子に働かせ、家計を支えさせていた。

 ……人でなしにも、ほどがある。

 否、畜生以下だ。


 そう噛みしめるように思いながら、玄心は暖心の柔らかな髪を撫で、低く、しかし確かな声で告げた。

「……暖心ちゃん。兄ちゃんは、帰ってきた。もう……怖がらなくていい」

 その腕の中で、妹の震えは、ほんのわずかに和らいでいった。

「……うん」

 玄心の胸に抱かれたまま、暖心の泣き声は次第に小さくなっていった。

 それでもなお、彼の衣の裾を掴む指だけは緩まず、白くなるほど力が込められている。


 パン。

 ……パン、パン。

 不意に、乾いた拍手の音が響いた。

 少し離れたところで、野村賀力が手を打ち鳴らしていた。

 口元には、あからさまな嘲りの弧が浮かんでいる。

「いやはや……実に感動的な光景だな」

「兄妹の情、ってやつか。涙を誘われるよ」

 そう言いながら、彼はゆっくりと視線を巡らせる。

「だがな――」

 声音が、すっと冷えた。

「お前は、俺の仲間を打ち飛ばした」

「しかも、あいつはれっきとした“在籍武士”だ、この件をどう処理しますか?」

 野村賀力は先ほど宗鏡玄心に弾き飛ばされ、地に伏した同心を指し示した、表情は陰鬱に歪み。

 宗鏡玄心が無事に戻ってきたことに内心では疑問を感じてはいたが、大して気には留めていなかった。

 相手の剣術は平凡で、後ろ盾もないのだから、結局のところ、この男は逃げ場のない獲物に過ぎない。


「ほう?俺の記憶違いでなければここは、俺の家のはずだが?それを、お前たちは許しもなく踏み込んできた、明らかな私宅侵入だ」

 宗鏡玄心は、野村賀力を真正面から見据えた、声は低く、しかしはっきりと響く。

「怪我をさせた程度で済んでいるだけ、まだ情けをかけてやっている。あなた方のような闖入者に、直接刀を抜かなかったことだけでも、最大の慈悲です。」

 玄心は、この身体の“元の持ち主”ではない。

 理不尽を前に歯を食いしばって耐えるような真似をすれば、悪党はつけ上がるだけだ。

 それに、彼分は、つい先ほどまで、この男の手で殺されかけていたのだ。

 仇に情けをかける理由など、どこにもない。


「はははっ!俺たちを斬る、だと?お前がか?」

 野村賀力は腹を抱えて笑い出した、だが、その笑いは唐突に止まる。

 左手が、腰の刀の鞘を握り、カチリ、と小さな音を立てて、刃が半寸ほど覗いた。

「どうした?前に受けた傷じゃ、まだ懲りなかったらしいな。もう一度、武士同士の立ち合いをやる気か?」


 相手が自ら“決闘”を口にした瞬間、宗鏡玄心はすぐに奮起しました。

(来た……!)

 記憶を辿れば、この江戸期にも似た世界では、「決闘」という文化が確かに存在する。

 武士同士が深刻な対立に至った場合、奉行所を通す正規の裁きもあれば、私下で刀を交えることで決着をつける道もあった。

 もっとも、決闘にも二種類ある。

 木刀で腕を競うだけの「試合」と、本物による「生死闘」があります。

 後者は、よほどの覚悟がなければ選ばれない。

 だからこそ、滅多に行われるものではないのだ。

 だが今の玄心は違う。

 “成長システム”によって磨き上げられた剣技は、もはや以前の比ではない。

 それを、野村賀力は、まだ知らない。

 本来なら、こちらから機会を作り、どうにかして「生死闘」に持ち込むつもりでいた。

 でも今はですね......

(……天が与えた好機、とはこのことだな)

 玄心の口元に、狩る側のわずかな笑みが浮かぶ。


 だが、そのまま相手の決闘の申し出を受けようとした、その瞬間、胸に抱いていた妹が、突然、彼を突き放した。

「……だめっ!!」

 怯えた叫び声が庭に響く。

 暖心は玄心の前に立つと、くるりと身を翻し、少し離れた野村賀力へ深く頭を下げた。

「……野村様。先ほどは、兄が気が動転しておりました。どうか……妹である私が、代わってお詫び申し上げます……」


「ほう……」

 野村賀力は、面白そうに目を細める。

「やはりな。お前のほうが、あの役立たずの兄貴よりよほど物分かりがいい」

 だが、すぐに口元を歪めた。

「とはいえ――さっき、あいつは俺を斬ると言った。武士の矜持というものはな、そう安々と踏みにじられていいものじゃない」


「……で、では……どうすれば……?」


「簡単な話だ」

 野村賀力は指を折り、白く光る刃をと軽く弾いた。

「お前が、俺と一緒に一度、遊女屋へ行けばいい。もちろん、嫌だというなら無理強いはしない」

 にやりと笑う。

「その代わり違約金として、十両金を払ってもらうがな」


「……じゅ、十両……!?」

 暖心は思わず声を上げた。

 十両、それは、兄の一年分の俸禄に等しい額だ。

 しかも家はすでに借金まみれ。とても用意できる金ではない。

 だが、この金が払えなければ、野村賀力は必ずこれを口実に難癖をつけてくる。

 剣の腕に勝るとは言えない兄が、その末に斬られるかもしれない、そんな結末だけは、決して受け入れられなかった。

「……わ、わかりました……」

 心が灰のように冷え切るのを感じながら、暖心は一歩、前へ出ようとする。

「……私が……ついていきます」

 その瞬間、横から伸びた一つの手が、彼女の行く手を遮った。


「……暖心ちゃん」

 低く、しかし穏やかな声。

「今日のお前は……本当によくやった。ここから先は、兄ちゃんの役目だ」

 玄心はそう言って、妹へ微笑みかけると、半歩前へ出て、その小さな身体を背中に庇った。

「野村賀力。……ずいぶんと、商売上手じゃないか」

 一歩、前へ。

「こうしよう。お前と俺で、一つ勝負をする」

 玄心の視線が、鋭く突き刺さる。

「俺が負けたら、金は必ず払う。その場で地に跪いて詫びも入れよう。……これまでお前が俺にしたことも、すべて水に流す」

 一拍、置いて。

「だが......俺が勝ったら、どうする?」

 さらに一歩、踏み込む。

「お前は『除妖廻』の門前で、俺の妹に頭を下げて詫びろ」

 声は、低く、断固としている。

「そして、二度と侍町に足を踏み入れるな。……今すぐ、ここから消え失せろ!」


 野村賀力は、宗鏡玄心が“以前の件”に触れた瞬間、胸の奥がひやりとするのを覚えた。

 だが次の瞬間には、わざとらしく天を仰ぎ、ははは、と二度高笑いする。

「宗鏡玄心……妖魔に殴られて、とうとう頭までやられたか?」

 嘲るように鼻を鳴らす。

「お前の、その目も当てられん剣の腕で?」


「……どうした?」

 玄心が、低く遮った。

「まさか……怖気づいたのか?」


「怖気づいただと!?」

 野村賀力のこめかみに、ぴくりと青筋が浮かび上がる。

 顔は一気に紅潮し、怒気が噴き出した。

「いいだろう……!ただし、賭けは変えさせてもらう!」

 彼は一歩踏み出し、吐き捨てるように言った。

「お前が負けたら、金を払って土下座するだけじゃ済まさん。右腕を、その場で斬り落とせ。そして二度と『除妖廻』に足を踏み入れるな!」


 その言葉に、玄心は眉一つ動かさない。

 むしろ、顎を少し上げ、薄く笑った。

「……そんな回りくどいことをする必要があるか?」

 静かに、しかしはっきりと告げる。

「負けたほうが、命を差し出せば、それでいいだろう」

 その瞬間、庭に、音が消えた。

 風も、人の気配も、すべてが凍りついたかのような静寂。


「……兄さんっ!」

 暖心は玄心の袖を力いっぱい掴み、震える声で叫んだ。

「行かないで……!やっぱり、わたしが……私が先方についていきます……」


 だが、その言葉は最後まで届かなかった。

「いい!いいとも!」

 野村賀力が、甲高く笑い声を上げる。

「そこまで死に急ぐなら、望みどおりにしてやる!」

「武士なら、外へ来い!」

 そう吐き捨てると、背を向けて歩き出した。二人の仲間がよろめきながら後を追った。


 玄心は、彼らの背を追わなかった。

 ただ、しゃがみ込み、暖心の前に目線を合わせる。

 指先で、彼女の頬に残る涙の跡をそっと拭い、穏やかに笑った。

「……大丈夫だ」

 それだけを告げると、彼は立ち上がり、振り返ることなく門を出た。


 黄昏は、さらに色を深めていく。

 侍町の細い通り沿いでは、家々の戸が、いつの間にかほんのわずか開いていた。

 夕餉の香りに混じって、ひそひそとした囁き声が流れる。

 人影が、道の両脇へと集まり始めていた。

 土埃の舞う路上。

 宗鏡玄心と野村賀力は、十歩の間合いを隔てて向かい合う。

 路地を抜ける風が、枯葉を巻き上げ、

 遠くで、烏の鳴く声が、低く響いた。

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