第3話 宗鏡暖心
島原藩、藩城侍町の西北隅。
一軒の古ぼけた土壁の民家の内。
黄ばみ始めた畳の上には、開かれた四本の蛇の目傘が一直線に並べられ、ほとんど部屋いっぱいを占めていた。
部屋の片隅には、か細い体つきの少女が正座している。
細い筆を指先に挟み、碗に入った淡い紅色の染料を含ませては、傘の面に咲く桜の蕊を、少しずつ丹念に描き込んでいた。
少女は最も簡素な垂髪を結い、継ぎの当たった小袖は隅々まできちんと整えられている。
雪のように白く柔らかなうなじには、細かな汗が玉となって浮かび、糯米餅のようにしっとりとした横顔は、陽光を受けて真珠のような清らかな艶を帯びていた。
しばらくして、磁器の碗の中の染料は底を尽くす。
少女はそっと筆を置き、こわばった手首を揉みほぐしながら、ふと窓の外の空模様を見やり、小さく息を吐いた。
「もう二日も帰ってこない……。あの役立たずの兄さん、また賭場で入り浸っているんじゃないでしょうね」
九歳の宗鏡暖心は、眉をひそめた。
かつてはあれほど大人しく、優しかった兄が、両親を失ってからというもの、どうしてまるで別人のようになってしまったのか――彼女にはどうしても理解できなかった。
博打という悪癖に染まったばかりか、わずか二年の間に家産の大半を質に入れ、挙げ句の果てには多額の借財まで抱え込んでしまったのだ。
それだけではない。今では「除妖廻」の目明という立場を盾に、悪友どもと徒党を組み、近隣の者たちから金品をゆすり取るような真似までしている。
たとえ誰もが武士を面と向かって非難できずとも、陰では「宗鏡家のどら息子」という渾名が、すでに町中に知れ渡っていた。
そうしたことを思い出すたび、暖心は頬が熱くなるのを感じ、近所の人々の前では、とても顔を上げることができなかった。
「……仕方ない。まずは手元の仕事を片づけましょう。千葉姉さんを、これ以上待たせるわけにはいかないもの」
そう呟くと、少女は身を起こし、甕のそばへ清水を汲みに行こうとした。最後の一本の傘面を描き上げるためである。
この蛇の目傘の仕事は、店屋町で反物屋を営む千葉優子姉さんから任されたものだった。
もし彼女が日頃から目をかけてくれ、紙傘の張り仕事を回してくれなければ、兄妹二人は食べていくことすらままならなかっただろう。
ところが、水甕の前にたどり着いたその瞬間、外から「どんどん」と戸を叩く音が響いた。
少女は口をへの字に結び、小さな顔をぴんと張りつめた。
きっとあの賭博狂の兄の帰りだ!
彼女はわざと足音を強めて戸口へ向かい、勢いよく門栓を引き外した。
「え……?千葉姉さん……?」
戸を開けると、そこに立っていたのは、濃い墨緑色の着物をまとった、背の高い女性だった。
「どうした?歓迎してくれないの?雇い主として、仕事の進み具合を確かめに来るくらい、構わないでしょう?」
わざと厳めしい口調を作ってはいたが、千葉優子の眼差しには、隠しきれない慈しみの色が満ちていた。
両家の父がともに「除妖廻」に仕えていた縁もあり、行き来は昔から多かった。
宗鏡暖心は幼い頃から彼女の目の届くところで育ち、優子にとっては、すでに実の妹同然の存在だった。
今、両親を亡くし、兄も頼りにならぬ今の境遇を思うと、彼女はそれを目の当たりにし、心を痛めていたのだ。
「い、いえっ……!そのようなつもりでは……。どうぞ、ぜひお入りください!」
暖心は慌てて身を引き、優子を中庭先へと招き入れた。
そしてすぐさま家の中へ駆け戻り、ほどなくして仕上がった数本の蛇の目傘を抱えて戻ってくると、両手で大切そうに差し出した。
「千葉姉さん……ご覧ください。ご要望に、かなっておりますでしょうか……?」
優子は傘を受け取ったものの、開こうとはせず、そのまま暖心の手を取り、軒下の陰へと導いた。
唇をきゅっと結んだまま、しばし言葉を発さない。
その様子を見て、暖心は無意識のうちに衣の裾を握り締めていた。
「……あの……傘の出来が、よくなかったのでしょうか……?」
「傘は、とてもよくできているわ……」
優子は、できる限り声を和らげて続ける。
「今日、姉さんが来たのはね……あなたに聞きたいことがあって。千葉の家で、一緒に暮らす気は、ないかしら?」
「え……姉さんのお家へ……?で、でも……どうして……?」
「だって、考えてみて。ここでは寒さもしのげないし、ろくに食べられないでしょう。それに……頼りない兄貴もいる。」
「千葉家に来たら、父も、きっと実の娘のように迎えてくれるわ……」
「……千葉姉様……もしかして……兄様が……」
暖心は小さな声で言葉を遮り、ゆっくりと俯いた。
優子は口を開きかけたが、あらかじめ用意していた言葉は、喉の奥で詰まってしまった。
彼女が今日、確かに父の頼みを受けて来たのは。
宗鏡玄心の死を伝えること、そして暖心を家に引き取ること。
妖魔が跋扈するこの世で、九つの少女がたった一人で生きていくには、あまりにも過酷すぎたのだから。
「……死んだんでしょう……兄は。」
宗鏡暖心は、顔を上げなかった。
あの甲斐性なしの兄が死んだ?
母が遺してくれた装身具を質に入れた、先祖代々の家を売り払った、あの兄が......死んだというのか。
そんな兄など、生きていても米を無駄にするだけ……。
彼女は喜ぶべきなのだ。
でも、なぜ胸には巨石が乗ったように、息苦しくてたまらないのか?
しばらくして、彼女は苦しげに醜い笑顔を作り、手を上げて自分の胸を軽く叩いた:
「はあ……よかったぁ……。これで、みんなもう、あの人に迷惑をかけられずに済むんだもの。」
「暖心……今日は、姉さんの家に来て少し休まない?だって……」
「大丈夫っ!」
暖心は勢いよく手を振り、声を張り上げて遮った。
「私…私は元気です!そうだ、前に近所のおばあさんに洗濯を手伝うと約束したんです、明…明日、また姉様のお宅へ伺います、いいですか?」
「……ああ……そ、そうなのね。」
優子は、はっきりとした拒絶の意思を悟った。
このような凶報は、誰であれ消化する時間が必要だ、ましてや子供ならなおさらだ。
「それじゃ……今日は、これで失礼するわ。何かあったら、必ず姉さんのところに来てね。」
そう思い定めると、優子はこれ以上引き止めることなく、傘を手にして庭を出た。
門をくぐる間際、ふと振り返る。
相手がぼんやりと立ち尽くしている様子を見て、優子は小さく首を振り、ゆっくりと戸を閉めていった……
遠ざかっていく足音を聞きながら、宗鏡暖心は、顔に貼り付けていた笑みを、ゆっくりと剥がしていった。
彼女は軒下の段に腰を下ろし、再び筆を取って傘を描こうとしたが、手首は激しく震え、どうにも言うことをきかない。
結局、筆は力なく脇へと放り出された。
しばらく呆然と座り込んだまま時を過ごしたのち、暖心は立ち上がり、屋内へ戻る。
両親の神棚の前で、細い線香に火を灯し、静かに跪いた。
「……お父さん……お母さん……あの、出来の悪い息子は……もう死んだよ……あなたたちのところへ、行ったんだよ……」
小さな肩が、かすかに揺れる。
「わ、わたしも……とても、会いたい……もしかしたら、しばらくしたら……わたしも、そっちへ行くかもしれないね……
そうしたら……また、みんなで一緒になれるよね……」
「……ばか……」
「……最低……」
途切れ途切れの嗚咽が零れ落ち、やがてそれは、必死に押し殺した泣き声へと変わっていった……。
窓の外では、日暮れの色が静かに深まり、初秋の風が庭先を吹き抜ける。
片づけられぬままの紙傘が、地面の上を、からりと転がっていった。
バン、バン、バンッ!
屋外で、再び戸を叩く音が鳴り響いた。
短く、強く、切迫した響き。
宗鏡暖心は、神棚の前からゆっくりと顔を上げる。
虚ろだった瞳に、次第に焦点が戻っていった。
「除妖廻」のお役人たちだろう。
兄の遺品を、届けに来たのだ。
持ってくるのは、何だろう。
兄が身に着けていた衣か。
それとも、家に伝わるあの二振りの宝刀か。
遺体は……きっと、ない。
妖魔に喰われた者は、骨一つ残らぬと、誰もが口を揃えて言っていた。
バン、バン、バンッ!
戸を叩く音は、いっそう激しさを増す。
暖心は、はっと我に返り、両の頬を強く叩いた。
「……暖心。しっかりしなさい。これからは……一人なんだから……人に、侮られちゃだめ……」
「せめて……兄さんと……お父さんとお母さんを……同じ場所に、葬ってあげなきゃ……」
口角を懸命に持ち上げ、泣き顔よりも痛々しい笑みを作ると、戸の向こうへ向かって声を張り上げた。
「はーい!今行きます!……すぐ、開けますから!」




