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第22話 転機と「神技」

 渾身の一撃が――

 黄皮鼠妖の鼻面を直撃した。


 どれほど皮膚が硬化しようと、どれほど肉体が進化しようと。

 鼻だけは違う。

 生物にとってそこは常に急所だ。

 妖魔へと変じた存在であっても、鼻は所詮、少し大きな軟肉に過ぎない。


「ギィィィィッ!!」


 予想外だったのだろう。

 全身が爛れた状態で、なお拳を振り抜くとは思っていなかった。


 激痛。

 先ほどまでの余裕も嘲笑も吹き飛ぶ。

 甲高い悲鳴を上げながら、黄皮鼠妖は大きく後退した。


「クソが……ッ!」


 紅霧の噴出が一瞬だけ鈍る。

 その隙を逃さない。


 玄心はようやく霧の包囲から脱出した。

 残る理性を総動員し、距離を取る。

 離れるにつれ、皮膚の腐食速度がわずかに落ちていく。


 自分の腕を見下ろす。

 皮膚は半ば溶け、粘つく膠状へと変わりかけている。


 ――異常だ。

 あの紅霧は。

 視界を奪い、万物を腐らせ、さらには精神まで侵食する。

 攻防一体。


 しかも、あの斬撃を受けたはずの腹部。

 すでに傷が閉じかけている。


(再生能力まであるのか……)

(あれが完全に塞がったら、次は本気で来る)


 呼吸が荒い。

 今の自分の戦闘力は、せいぜい三割。

 これ以上剣技を使えば、立つ力すら残らない。


(反撃……?)


 自嘲が浮かぶ。


(守ることすら怪しいな)


 抜こうとした脇差。

 だが掌は溶けかけ、滑る。

 二度試みるが、柄を掴めない。

 腕が震える。

 視界が滲む。

 痛みが思考を削る。


(今日が……最期か)

(小沢次郎の遺体も持ち帰れないな)

(妹の朝飯も……食えないか)


 まぶたが重い。

 眠い。

 このまま眠ってしまえば。


 目が覚めた時には――

 元の世界に戻っているかもしれない。


(……悔しいな)

(剣技強化の“あれ”も、まだろくに使ってないのに)


 ――その瞬間。


(……待て)


 意識が跳ねる。


(なんで忘れてた?)


 玄心は残る精神力を振り絞り、剣技強化の系統を開く。

 滲む視界の中に、文字が浮かび上がった。

【鼠妖×6 撃破】

【妖魔寿命 92年 抽出成功】

【現在可支配妖魔寿命:94年】

【返済必要妖魔寿命:50年】

【残り返済期限:21日】


(……94年?)


 思考が一瞬止まる。


 たった六体で、九十二年。

 帰一境へ一門を引き上げるのに必要なのは三十年前後。

 ならば。

 九十四年あれば。

 流派一つを、極限まで押し上げられる。


 そして、境界突破の瞬間に起きる肉体強化。

 あれを利用すれば。

 この損壊した身体を、強制的に上書きできる。

 理屈は単純。

 だが今、それが唯一の活路。


 迷う時間はない。

 玄心は即座に寿命を注ぎ込む。

 対象――

 剣技『隠貫』。


 意識の奥で、何かが弾けた。


【1年目、あなたは木剣を拾い、すでに身体に染み付いた剣技『隠貫(いんかん)』の修練を始めた。】


【2年目、剣技は一向に進境せず。修練法に誤りがあるのではと悟ったあなたは、再び放浪の旅へ出て、突破の一縷の機を探し求めた。】


【5年目、各地で立ち合いを重ねる。幾度も生死の境を彷徨う中で剣技はわずかに磨かれたが、それでもなお壁を越えることは叶わなかった。】


【10年目、仇敵の闇討ちに遭い、猛毒を受ける。視力を失い、かつて名を馳せた剣客は路上の乞食へと堕ちた。】


【13年目、重病に侵され、治療費を捻出するため刀を手放す。武器を失ったあなたは度々人に辱められ、極度の空腹に狂った野犬にすら肉を二片噛み千切られる。ガブリ、と。】


【15年目、長き放浪の末、あなたを憐れんだ一人の商人が琵琶の奏法を教え、あなたを“蝉丸(せみまる)”として引き取った。】


【17年目、あなたの身を寄せる遊女屋が盗賊の襲撃を受ける。商人への恩義に報いるため、あなたは再び刃を取る。盲目でありながらも、感覚はかつて以上に研ぎ澄まされていた。盗賊の頭目を一刀のもとに斬り伏せるが、寡兵多勢。やがて無数の刃が突き立ち――ザシュッ、ザクッ、ザンッ。あなたは乱刃に貫かれた。

 死の間際、剣技の型が花火のように眼前を駆け巡る――パァン、パァン、と。】


【剣技3:隠貫(帰一)】


【現在使用可能な妖魔寿命:77年】


【注意:『神玄無反流』三種の剣技がすべて“帰一”に到達しました。流派“神技”の推演を行いますか? はい/いいえ】


「隠貫」が“帰一”へ至った瞬間、懐かしい温流が突如として玄心の体内に生じた。


 それは血脈に沿って疾走し、ドクン、ドクンと脈動しながら全身を巡る。通過した筋肉は、水を吸い上げた海綿のように瑞々しさを取り戻していく。

 震えていた小腕は止まり、胸の上下も静まり、眩暈はスッと霧散した。


 だが、皮膚の裂傷も、焼け付くような痛みも消えてはいない。むしろ意識が冴えた分だけ、その痛覚はより鮮明に突き刺さる。


(どうやら“帰一”への昇華は、体力の回復に限られるらしい。傷そのものを癒す力はない……)


 視線を落とすと、再び浮かび上がる選択肢――

「神技を推演しますか?」


 残された妖魔寿命は77年。

 躊躇はなかった。


「はい――推演!」


 その瞬間、紅光を帯びた『神玄無反流』の文字がバチィッと爆ぜ、無数の赤い光点となって玄心へと突進する。


 視界が止まる。

 否、世界そのものが静止したかのようだった。

 暗い視野は徐々に墨を流したような漆黒へと染まり、やがて完全なる虚無が玄心を包み込む。


 音もない。

 匂いもない。

 色もない。

 鼓動すらない。


 何も――ない。

 玄心は命を失った小石のように、黒き宇宙を漂う。

 ただ一つ、減り続ける妖魔寿命の数字だけが、時間の流動を示していた。


 77年……

 69年……

 ……

 51年……

 ……

 32年……

 ……


 どれほどの時が過ぎたのか。

 数字が「12年」で止まった瞬間――

 漆黒の彼方に、三つの微小な光点が現れる。


 青。

 白。

 灰。


 光点は互いに旋回しながら飛翔し、通過した闇を次々と呑み込んでいく。


 やがて巨大化した三光は、玄心の目前で――


 ドンッ!!


 中央へと激突した。

 瞬間、視界は蒼灰の光に埋め尽くされる。


 その時、玄心の胸に奇妙な確信が芽生えた。


 ――悟った。


『神玄無反流』の神技を。


 その名は――


 神取一刀(かみとりいっとう)

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