第21話 窮地
宗鏡玄心は、十歩先で四肢を地につけた金毛の鼠妖を見据えた。
――嫌な予感がする。
ほんの数呼吸。
だがその短い時間で、相手の肉体はまるで別物へと変貌していた。
腕は桶ほどの太さから、象の脚のように肥大。
鋭い爪はさらに伸び、もはや脇差ほどの長さ。
そして、全身の金毛が次々と抜け落ち、下から現れたのは金属光沢を放つ角質の皮膚。
鈍い光が月を反射する。
周囲の黒毛鼠妖たちは、その姿を見るや否や一斉に跪いた。
まるで神でも拝むかのように、甲高く吠え立てる。
だが。
それは玄心の刃を止める理由にはならない。
視線を金毛から外す。
次の瞬間、地を蹴る。
残る黒毛鼠妖へ一直線。
残像が揺れる。
一瞬で間合いを潰す。
跪いた姿勢のままの鼠妖は、対応すらできない。
蒼光が走る。
首が宙を舞う。
続けざまに、二体。
三体。
血が弧を描く。
五体目へ刃を振り下ろそうとした瞬間。
――風圧。
耳元で爆ぜる。
反射的に身体を捻る。
両手で刀を握り、風の来た方向へ叩きつける。
ガァンッ!!
火花が散る。
金毛鼠妖の巨大な前爪と打刀が激突した。
凄まじい衝撃。
手首が悲鳴を上げる。
首筋の血管が浮き上がる。
次の瞬間、玄心の身体は砲弾のように吹き飛んだ。
地面を削りながら二十歩。
ようやく止まる。
刀を見下ろす。
刃に――四つの欠け。
心臓が重く沈む。
これまで斬れなかったものはない。
だが今、初めて。
斬れない相手がいる。
しかも奥義を纏わせた刃が、逆に傷つけられた。
「……また四匹、殺したな」
金毛鼠妖が、痺れた前爪を振る。
低く、怒りを孕んだ声。
妖は繁殖が難しい。
進化に失敗し、幼くして死ぬものも多い。
長年かけて残った子は十にも満たぬ。
それが――
数日で半数。
しかも同じ人間に。
赤い瞳が細まる。
「最初に殺しておくべきだった」
先ほどの切腹の提案など、もはや欠片も残っていない。
今欲しいのは。
苦痛。
絶望。
そして死。
「死ねェッ!!」
地面が爆ぜる。
巨体が弾丸のように迫る。
だが玄心は、真正面からは受けない。
速度で勝る。
横へ流れ、そのまま最後の黒毛鼠妖へ。
ブシュッ。
ブシュッ——
胸に風穴。
黒毛二体が、理解する間もなく崩れ落ちた。
玄心は最後の死体の上に立つ。
刀を引き抜き、毛皮で血を拭う。
そして金毛を見上げる。
「これで数えなくて済むな」
淡々と告げる。
「全部、殺しておいた」
わずかに首を傾ける。
「礼を言われてもいいくらいだろ?」
金毛鼠妖の呼吸が荒くなる。
そしてゆっくりと背を伸ばした。
「……全滅か。餌代は浮いたな」
口角が歪む。
「ならば――心から礼を言おう」
その瞬間。
皮膚が震え始めた。
ぶるり、と。
次第に振動が激しくなる。
金属のような表皮がざらつき、光沢を失う。
無数の毛穴が――開く。
そこから。
血のように赤い煙が溢れ出す。
もくもくと。
瞬く間に広がる。
赤煙は球状に膨れ上がり、金毛鼠妖を中心に巨大な霧となった。
触れたものは腐る。
鼠妖の死体。
畦道の草。
土さえも。
ジジジジジ……
腐食音。
やがて黒い液体へと変わる。
異様な光景。
だが玄心は動じない。
予想はしていた。
この一帯を束ねる首領が、ただの怪力だけで頂点に立てるはずがない。
赤い煙が、ゆっくりと玄心を包み始めた。
つい一昨日、五番隊副隊長への正式な任命を受けた直後。
玄心は急遽、妖魔に関する基礎知識を叩き込まれていた。
この世界では、妖魔はその武力と危険度によって六段階に分類されている。
下から順に――
畏・乱・禍・災・厄・滅。
最下位の「畏」。
それは、一つの藩城を震え上がらせるに足る存在を指す。
実力で言えば、武士でいうところの一神武傑級に匹敵する。
そして厄介なのは、その多くが人間に劣らぬ知性を持ち、さらには常識外れの異能を操るという点だ。
先ほどまで斬ってきた鼠妖や種魔のように、肉体と本能だけで動く存在など――
最低位の「畏」にすら届かない。
じわじわと迫る紅い霧を見据えながら、玄心は決断した。
――体力を温存する段階ではない。
一歩、霧へ踏み込む。
逆手に持った打刀を、水平に静かに振り抜く。
動き自体は決して速くない。
だが刃に宿る蒼い光は、見る間に濃さを増していった。
「――青嵐!」
ふわり、と。
晩秋の田野に、あり得ぬ微風が生まれる。
草木の香りを帯びた、春を思わせる柔らかな風。
だがそれは瞬く間に勢いを増し、
黄皮鼠妖の放つ紅霧へと到達する頃には、連なる蒼き気浪へと変貌していた。
轟ッ――!
蒼波が紅霧へ衝突する。
腐食性を帯びた紅の雫は、蒼い光粒に触れた瞬間、
音もなく浄化され、澄んだ水滴となって地へ落ちていく。
此消彼長。
やがて霧の中心から、黄皮鼠妖の巨体が姿を現した。
玄心は迷わない。
地を蹴り、一直線に跳ぶ。
「――逆巻!!」
打刀を振り下ろす。
刃に宿る蒼光はすでに消え、代わりに無数の細かな風刃が纏わりつく。
紅霧放出中は身動きが取れぬのか。
一切の抵抗なく、刃は肩口へと食い込んだ。
帰一境二種融合の奥義。
その切れ味は再び、毛髪すら断つ鋭さへと戻る。
鼠妖の皮膚と肉が紙のように裂け、
巨大な裂傷が肩から腹部まで一直線に走った。
――勝った。
そう思った瞬間。
裂け目の奥から、先ほどの十倍はあろうかという紅霧が爆発的に噴き出す。
近すぎた。
玄心は咄嗟に息を止め、目を閉じる。
だが遅い。
全身が紅に包まれた。
次の瞬間――
まるで溶岩の中へ叩き込まれたかのような灼熱。
皮膚という皮膚が焼け、
針で刺されるような激痛が全身を貫く。
だがそれ以上に恐ろしいのは――
脳裏に溢れ出す、底なしの恐怖。
そして、血を求める凶暴な衝動。
理性が軋みを上げ、削られていく。
視界の向こうで、黄皮鼠妖が頭を垂れ、嘲るように口を動かしている。
何かを言っている。
だが、聞こえない。
玄心は骨に食い込んだ打刀を、静かに手放した。
五指を握る。
血に濡れた拳を、引き絞る。
そして。
鼻先へ――
渾身の一撃を叩き込んだ。




