第20話 緊急任務
玄心が暖心を連れて武家町の新居へ戻った頃には、近隣の家々の灯はすでにほとんど落ちていた。
ようやく一晩中はしゃぎ通しだった暖心を寝かしつけ、ほっと一息ついた、その時だった。
ドン、ドンッ!
静まり返った夜に、不釣り合いなほど切迫した戸叩きの音が響く。
玄心が戸を開けると、四番隊所属の除妖回同心が、肩で息をしながら立っていた。額からは汗が流れ落ちている。
「宗鏡隊長! 武部様より、緊急の通達です!」
言い終えるや否や、赤い封蝋で封じられた竹筒を差し出した。
除妖回では文書を竹筒に封じる。封蝋の色で緊急度を示し、白が通常、赤は最優先――すなわち即時出動を意味する。
玄心は油断なく封を確かめてから竹筒を開き、中の書状を取り出した。
【命。
五番隊副隊長・宗鏡玄心。
直ちに島源城西三十里、竹谷村へ赴き支援せよ。
到着後、五番隊同心・小沢次郎と村北の井戸にて合流。
――武部鉄心】
文面は簡潔極まりない。
場所と合流相手以外、状況説明は一切なし。
だが玄心の脳裏には、すぐにあの村の光景が蘇った。
竹谷村――。
この世界へ来て間もなく、巨大な鼠の妖と遭遇した因縁の地。
あの戦いで五番隊は十数名の武士を失い、当時の隊長は目前で惨殺された。地面を染めた血の色は、今も忘れていない。
再びあの村へ支援。
新たな鼠の妖か。
それとも、前回の件と何らかの繋がりがあるのか。
答えを得るには、自ら行くしかない。
————
島源城から竹谷村へ続く山道。
一陣の影が駆け抜けた。
疾駆する奔馬の如く、地を蹴るたび砂塵が舞い上がる。木々に眠っていた鳥たちが一斉に羽ばたいた。
二度の身体強化を経た玄心は、全力を解放すれば常人の限界を遥かに超える速度で走れる。
かつて立ち寄った朽ちかけの庵を通り過ぎると、やがて村北の井戸が月明かりの中に浮かび上がった。
玄心は速度を落とし、荒れた呼吸を静める。
腰の打刀に手を添え、異常がないことを確かめてから、慎重に歩み寄った。
深夜の竹谷村は、異様なほど静まり返っている。
遠くで犬が数度吠える声以外、何も聞こえない。
月光に照らされた田畑には、刈り取りを待つ稲穂が揺れていた。だが数日前の鼠の妖の騒動以来、村人は誰一人として畑に近づけずにいる。
井戸の傍。
そこにあったのは――
まだ乾ききらぬ大量の血溜まり。
そして、真っ二つに折れた打刀。
人影は、ない。
合流予定だった小沢次郎は、すでに……。
玄心はしゃがみ込み、地面の足跡や血の飛沫を観察する。
その時。
山から吹き下ろす風が、ひときわ強く頬を打った。
秋の草木や土の匂いは混じらない。
代わりに鼻腔を刺したのは、鉄のような血臭と、獣の体臭にも似たむせ返るような悪臭。
玄心は静かに立ち上がり、風上へと視線を向けた。
闇に沈む山林の奥。
木立の間に、人より半身ほど大きな影が四つ、五つ――揺れている。
次の瞬間。
密林の奥から黒い塊が放物線を描いて飛来した。
地面を転がり、玄心の足元で止まる。
それは。
泥と血に塗れた、人の首。
見開かれた両目。
歪んだ口元。
小沢次郎の顔だった。
無念と恐怖が、そのまま刻み込まれている。
つい一昨日、五番隊の巡察で言葉を交わしたばかりだ。
妻が懐妊したと、何度も嬉しそうに語っていた。
父になるのだと、照れながら笑っていた。
それから、たった二日。
家で帰りを待つ妻は――
もう二度と、夫の声を聞くことはない。
夜気が、重く沈んだ。
ざわり、と枝葉を打ち鳴らす音が近づく。
玄心はゆっくりと顔を上げ、闇の中の影を見据えた。
月光に照らされ、姿が浮かび上がる。
艶やかな黒毛。
盛り上がる筋肉。
醜悪に歪んだ面相。
腰には布を巻き、人の真似事のような格好をしている。
――七体。
いや、正確には六体の鼠の妖と。
その中央に立つ、異質な一体。
他よりやや小柄な体躯。
だが纏う気配は、明らかに別格。
そいつは――
淡い桃色の大きな着物を羽織っていた。
そして月光の下で際立つ、金色の毛並み。
他の黒毛とは明確に違う。
数瞬後、彼らは山道へと降り立ち、玄心の前で足を止めた。
玄心は小さく首を傾げながら歩み出る。
鞘走る音。
打刀が静かに抜き放たれる。
刃が完全に姿を現した時、彼はすでに相手の間合いに立っていた。
「よく一人で来たな」
金毛の鼠妖は気怠げに顔を上げる。
口に咥えていた小枝を抜き、ぺっと肉片を吐き出した。
「しかも……この俺の前で刀を抜くとはな」
流暢な人語。
声は太く、落ち着いている。
「せっかくだ。ひとつ聞いてやろう」
目を細める。
「お前、息子はいるか?」
唐突な問い。
「数日前な、俺の息子が一匹死んだ。俺には……」
鋭い爪を折りながら数え始め、途中で苛立たしげに舌打ちした。
「……まあ、数はどうでもいい」
金色の瞳が細く光る。
「別に気に入っていたわけじゃない。だが、急に一匹減ると……妙に胸が空く」
「除妖回の同心に斬られたと聞いた。冗談かと思ったが……」
視線が玄心を射抜く。
「今夜見て、少しは信じた」
「勇気は認めてやる。今回は喰わん」
指先で地面を叩く。
「腹を切れ。自害しろ」
あくびを一つ。
左右の鼠妖が牙を剥き、低く唸る。
「……は?」
玄心は鼻で笑った。
「俺に切腹しろ、だと?」
金毛の鼠妖はもはや見た目以外、人と変わらぬ振る舞いだ。
だが。
所詮は喋る獣。
それ以上でも、それ以下でもない。
玄心は返答をやめた。
代わりに――踏み込む。
一歩、左へ。
次の瞬間、姿が掻き消える。
最外縁にいた一体の懐へ一瞬で肉薄。
鼠妖の瞳孔が収縮する。
刃が閃いた。
ブシュッ!
肉を裂く鈍い音。
喉を貫かれた鼠妖は声も上げられず崩れ落ちた。
玄心はすでにその背後。
刀を引き抜いた時、他の妖たちがようやく事態を理解する。
甲高い咆哮が田畑に響き渡った。
金毛の鼠妖は、己の着物に飛んだ血を見下ろす。
ぽたり、と赤が滲む。
ゆっくりと口角が裂けた。
視線が上がる。
玄心の目と合う。
澄み切った瞳。
そこにあるのは感情ではない。
ただ、濃密な殺意。
「……こうやって殺したのか」
低く呟く。
前にいた鼠妖を押しのけ、一歩出る。
半開きの瞳に、獰猛な光が宿る。
「今度は――俺をか?」
地を蹴った。
巨躯が宙へ舞い上がる。
大袖が月光を遮り、影が覆いかぶさる。
一閃の爪撃が振り下ろされた。
同時に、他の鼠妖たちは左右へ散開。
退路を断ち、包囲を完成させる。
玄心は受けない。
足運びのみで横へ流れる。
金毛の一撃が地を砕く。
土砂が爆ぜた瞬間。
反転。
青い光が閃く。
一体の腹が斜めに裂け、内臓が零れ落ちた。
すでに戦闘開始前から。
玄心は「帰一」の奥義――
『生』と『定』を刃に重ねている。
身体能力の強化と相乗し、常人には絶望的な妖魔も。
今の彼には。
ただの、大きな的に過ぎない。
「散れッ!!」
金毛の鼠妖が怒号を放つ。
さらに二体が地に伏した。
怒りにより体毛が逆立つ。
着物が引き裂かれ、布片が舞う。
他の鼠妖は命令に従い、三歩後退。
円を広げる。
そして。
金毛の鼠妖は四肢を地につけ、ゆっくりと伏せた。
背骨が軋む。
筋肉が膨張する。
赤い血管が眼球を覆い尽くす。
喉奥から漏れる。
ギィ、ギィィッ!
それはもはや人語ではない。
怒りに呑まれた獣が。
完全に、“人”を脱ぎ捨てた瞬間だった。




