第2話 銀光がひらめく
宗鏡玄心が意識の中で命令を下した瞬間、借り受けた妖魔の寿命が、凄まじい速度で減少し始めた。
眼前に浮かんでいた字幕の光は、ぎゅっと収縮する。
それに取って代わるように、文字列が逆巻くように、下から上へと流れ出した。
【1年目、あなたは木刀を拾い上げ、「神玄無反流」に属する剣技『逆巻』の鍛錬を再開した】
【3年目、不断の修練により、剣技『逆巻』は「熟練」へと到達】
【8年目、剣技『逆巻』は「達人」の域へ】
【15年目、剣技『逆巻』は「極致」へと昇華】
……
【23年目、苦修を重ねるも成長は見られず、月下に独坐し、人生に疑問を抱き始める】
……
【40年目、荒野を横切る竜巻に遭遇。その風勢から着想を得て剣道に昇華。境地を突破し、剣技『逆巻』は「帰一」へ】
……
【50年目、この剣技に没頭するも、更なる境地の存在を感じつつ、ついに踏み込むことは叶わなかった……】
【妖魔寿命、消耗完了……】
【剣技2:逆巻(帰一)】
文字が次第に薄れ、静寂が戻った。
(これで……終わり?!)
宗鏡玄心は一瞬、呆然とした。
次の瞬間、膨大な記憶の奔流が、激流となって脳裏へと流れ込んだ。
幾千もの昼と夜。
休むことなく剣を振り続けた日々の光景が、走馬灯のように次々と浮かび上がる。
朝も、夕も。
風雨を問わず、ただひたすら修練を重ねる姿。
「うっ……頭が……痛い!」
脳を鈍器で叩き続けられているかのような衝撃に、
宗鏡玄心の表情が歪む。
だが、その痛みは来た時と同じく、あまりにも早く引いていった。
一瞬後には、まるで何事もなかったかのように消え去る。
宗鏡玄心は、勢いよく目を見開いた。
瞳の奥に、鋭い光が宿る。
先ほどまで身体を蝕んでいた重傷の痛みは、すでに感じられない。
それどころか、全身に力が満ちているのがはっきりと分かった。
鍛え抜かれた筋骨、肉体の内側には、長年の修練によってのみ得られる強靭さが潜んでいる。
そして、最も大きな変化は、手の中。
見慣れた打刀が、今やまるで自分の身体の一部であるかのように馴染んでいる。
腕の延長、血脈で繋がった存在と錯覚するほどだった。
五十年分の修練の蓄積。
意識せずとも、剣技『逆巻』が自然と使える。
「……これが、強くなるってことか……!」
刀の柄を、きゅっと握り締める。
だが、安堵する間もなかった。
「チチ……うるさい……食い物は……嫌い……」
鼠妖が、口から彼をつまみ上げると、
次の瞬間、巨大な前脚を振るい、殿内の石仏へと投げ飛ばした!
ゴォッ!
空気を引き裂くような風切り音。
先ほどまでの宗鏡玄心であれば、この一撃で全身の骨を砕かれていたに違いない。
だが、今の彼は違った。
宙を舞う最中、即座に身を捻り、膝を引き、姿勢を整える。
石仏へと迫った瞬間、つま先が鋭く伸びた。
パッ、パッ。
二度の軽い音とともに、彼は石仏の胸部に、正確に着地する。
その瞬間、時間が止まったかのような静寂が訪れた。
宗鏡玄心は顔を上げる、瞳には前方の鼠妖の小山のような巨躯が映っていた。
その瞳に、もはや恐怖や絶望の色はない。
宿っているのは、燃え上がる怒りと、揺るがぬ決意のみだった。
左手で鞘口を押さえ、
右手の五指が柄を確かに捉える。
膝を沈め、力を溜める。
足元の石仏が、音を立てて崩れ落ちた。
ドンッ!
彼の体全体が放たれた矢のように、飛び出していく。
速度はさっきより十倍以上も速い。
十歩――
五歩――
三歩――
鼠妖の須毛一本一本までもが、鮮明に視認できた。
「剣技……」
「逆巻!!」
ンゥン——
刀は、まだ完全には抜かれていない。
それにもかかわらず、周囲の空気が震え、気流が巻き上がった。
薄暗い廟の中、一条の銀光が閃く。
刀身は鼠妖に触れていない。
だが、その足元から、刃の旋風が生じる。
無数の風刃が、硬質な黒毛を切り裂いた。
鎧のような体毛は瞬時に粉砕され、その下の青白い皮膚が露わになる。
旋風は勢いを失わず、皮膚を削ぎ、肉を裂き、無数の剣痕を刻み込んだ。
「チチチ――――ッ!!!」
鼠妖は痛みに泣き叫び、あわてて体をかわし、脇へ逃げようとする。
しかし、旋風にしっかりと吸い寄せられ、まったく身動きが取れない。
風の勢いがようやく衰えるまで、よろめきながらその姿を現した。
今や、その全身は皮が破れ肉が裂け、無傷のところはなく、血が小川のように全身を流れている。
数瞬の後、 巨体は轟音とともに地へと崩れ落ちた。
舞い上がる埃の中、廟内は、完全な沈黙に包まれる。
宗鏡玄心は片膝をつき、荒く息を吐いた。
手中の打刀が、かすかに震えている。
彼は顔を上げ、虚空へと視線を向けた。
【鼠妖×1 討伐成功】
【妖魔寿命15年を抽出】
【現在使用可能な妖魔寿命:15年】
【返済必要妖魔寿命:50年】
【残り返済期間:30日】
宗鏡玄心はゆっくりと立ち上がり、手首を一振りして刀身の血しぶきを払い、刀を鞘に収めた。
一連の動作は流れる雲と水のようになめらかで、まるで本能になったかのようだ。
廟内は血と瓦礫に満ちている。
それにもかかわらず、彼の心は不思議なほど静まり返っていた。
それは、五十年に及ぶ剣技修練の末に得た、「心静如水」の境地なのかもしれない。
字幕越しの視線は、鼠妖の死体の下敷きとなっている脇差へと向けられた。
下級武士にとって、二振りの刀は不可欠な存在だ。
武力の象徴であると同時に、身分を示す証でもある。
加えて、記憶によれば、元の持ち主の家は極めて貧しかった。
脇差を失えば、今後は打刀一本で生きることになる。
宗鏡玄心は歩み寄り、脇差を引き抜くと、鼠妖の毛皮で丁寧に血を拭い取った。
「鼠妖一匹で……妖魔の寿命はわずか15年、借金を返し終えるには、あと四匹斬らねばならないか……」
彼は呟き、前方の鼠妖の死骸を見つめた。
少し前の宗鏡玄心であれば、このような考えすら抱けなかっただろう。
だが、『帰一』の境地に至った剣技は、妖魔を一撃で屠る力を示した。
妖魔は、もはや絶対的な恐怖ではなくなりつつあった。
刀身を清め終えると、脇差と打刀を揃えて左腰に差し戻す。
今、寺の外は夜色が濃く、風に乗って遠方から何かのこそそぎ声が伝わってくる。
さらに、先ほどの戦闘によって、宗鏡玄心の身体は限界に近づいていた。
あの斬撃を放てるのは、せいぜいあと一度が限界だろう。
その後は力尽きて、完全に戦闘能力を失うだろう。
(どうやら『逆巻』の剣技は威力こそ驚異的だが、体への負担も同様に大きいようだ)
記憶の中で、鼠妖は最下級に分類される存在である。
もし血の匂いに引き寄せられ、より強力な妖魔が現れれば、対応は困難だろう。
宗鏡玄心は、半壊した荒廟を一度だけ振り返り、敷居を越えて、夜の闇へと歩き出した。
島原藩の城下までは、まだ距離がある。
だが、現在の体力であれば、明日中には辿り着けると見込まれた。
自分を死地に追いやった野村賀力のことを思うと、彼は今すぐにでも相手の前に飛んで行き、刀の下に斬り伏せたい衝動に駆られる。
なぜ他の穿越者は、最初から頼りになる仲間がいて、穏やかで平和な環境があるのか?
なのに自分は、最初から「仲間」の手にかかり、死にそうになったのか?!
妖魔が存在する世界では、皆が妖魔を斬り、大切な人を守ることを心中の目標とするべきではないのか?
――妖を斬り、
――守るべき者を守ること。
私欲のために大義を踏みにじる者を、宗鏡玄心が決して許容することはない。
その決意を胸に、彼の足取りは迷うことなく、夜の彼方へと続いていった。




