第18話 昇進
道中、言葉を交わすこともなく、宗鏡玄心は武部鉄心の後について執務室へと向かった。
部屋に入るや否や、武部は有無を言わさず玄心を茶几の前に座らせる。
「まあまあ宗鏡、正直に答えてくれ。
お前――もう一神武杰になったのか?」
「武部与力殿。
いえ、まだ一神武杰には至っておりません」
一瞬だけ間を置き、玄心は落ち着いた声音でそう答えた。
武部がこれまで二度にわたり自分を庇ってくれたこともあり、この件で嘘をつくつもりはなかった。
「……ふぅ」
否定の言葉を聞いた武部は、はっきりと安堵の息を吐くと、両手で玄心の肩を掴み、真剣な眼差しで見据えた。
「宗鏡君。
五番隊副隊長の任を、引き受けてくれぬか?」
実のところ、武部はすでに一連の経緯を把握していた。
宗鏡玄心が一太刀で種魔を斬り伏せたと知った時には、しばらく言葉を失ったほどだ。
まさか自分の配下である同心の中に、これほどの実力者が潜んでいようとは。
――この男は、是が非でも手放してはならない。
ただ一つ気がかりだったのは、玄心がすでに一神武杰へ到達しているかどうか。
規定では、武士が一神武杰となった時点で自動的に与力へ昇格する。
そうなれば、武部はこの有能な部下を失うことになる。
だからこそ、野村将に呼び出されたと聞いた瞬間、真っ先に駆けつけた。
この稀有な才を守るため、そしてその境地を見極めるために。
「副隊長……ですか?」
玄心は眉をひそめ、即答しなかった。
日々を適当にやり過ごしてきた同心である彼にとって、昇進の話など縁遠いものだった。
その様子を察したのか、武部は呵呵と笑い、丁寧に説明を始める。
「副隊長といっても身分は同心のままだが、立場はまるで違う。
中級武士として扱われ、月俸も五石に上がる」
「それだけではない。
内城に屋敷が一つ、あてがわれる。もっとも、建築費は自己負担だがな」
「内城の屋敷……?」
玄心は思わず声を上げた。
住まいの件で頭を悩ませていた矢先に、まさかこんな形で解決の糸口が見えるとは。
島原藩には内城と外城があり、外城に住むのは主に町人や貧しい下級武士だ。
城壁に近いため、妖魔襲来の際は常に最前線となる。
その点、内城は堅固な防壁に加え、番士が昼夜を問わず巡回しており、安全性は比べものにならない。
とはいえ、建築費が必要となると話は別だ。
多少の蓄えはあるが、決して余裕があるとは言えない。
「武部殿、その屋敷……費用はどれほどに?」
「大した額ではない。
名目上の負担として、二十両ほどだ」
「二十両……」
玄心は頭の中で勘定する。
野村兄弟から得た十五両を差し引いても、なお五両足りない。
「恐らく、その額は用意できぬかと……」
「ははは、心配はいらん」
武部は朗らかに笑った。
「以前討った鼠妖の報奨に、今回の種魔討伐。
合わせれば十両になる」
その口調には、玄心が本当に鼠妖を斬ったのかという疑念は、もはや一切含まれていなかった。
「……それでしたら」
玄心は立ち上がり、深く一礼する。
「この度のお引き立て、ありがたくお受けいたします」
「よし!」
武部は満足げに玄心の肩を叩き、今度は自らが軽く頭を下げた。
「これから、よろしく頼むぞ。宗鏡君」
それからの三日間、玄心は目の回るような忙しさに追われた。
妹と共に屋敷を見て回る合間を縫い、五番隊隊長・霜月八千姫に引き連れられ、配下の同心や業務内容を一通り叩き込まれる。
要するに――妖魔退治である。
ただし、副隊長である玄心は常に最前線。
妖魔の情報収集に加え、その力をもって敵を拘束・牽制する役目を担う。
危険は大きく、見返りは少ない。
誰もが敬遠する役回りだ。
だが、その「割に合わなさ」こそが、玄心の望みだった。
妖魔を最初に斬れる。
誰かに横取りされ、寿命を得損なう心配もない。
――これ以上の好条件はない。
ようやく生活が軌道に乗り始めた頃、妹の暖心が神社参拝を提案してきた。
兄が心を入れ替え、無事に出世できたのは神のご加護だと、きちんと感謝したいのだという。
玄心自身は神仏を信じてはいなかったが、近頃は心身ともに疲れていた。
気分転換に出かけるのも悪くないだろう。
そう考え、彼は素直に頷いた。
……
九月も半ばを迎え、西から広がる秋の夕焼けが世界を包み込む。
空から降り注ぐ淡い桃色は、山の斜面一面に広がる楓の紅葉と呼応するように重なり合い、通りすがる人々までも同じ色に染め上げていった。
誰もが頬を赤らめ、自然と笑顔を浮かべている。
今日は縁日だ。
神社で毎月一度行われる定例の祭礼日であり、この日ばかりは家族や友人を連れ立って出かける者が多い。
神に守られる日であり、妖魔も姿を潜める――人々はそう信じて疑わなかった。
玄心が妹の暖心を連れて参拝を終え、神社を後にした頃には、山道の両脇にはすでに色とりどりの屋台が並び、呼び声と笑い声が途切れることなく響いていた。
「お兄ちゃん、団子食べたい。三色のやつ」
暖心が玄心の袖を引き、小さな指で屋台の一つを指さす。
その屋台の前には人だかりができており、通り抜けてくる人々の手には、白・緑・桃の三色団子が握られていた。
玄心は団子屋を見つめたまま、困ったような顔をしてごくりと喉を鳴らす。
「暖心、来る前に話しただろ。新しい家を買ったばかりなんだから、しばらくは節約しないと。俺が任務に出てる間、食費が足りなくなったら困るだろ」
「お兄ちゃん、変わっちゃった! 昨日はこれからどんどん良くなるって言ってたのに!」
「誰にそんな口の利き方を教わったんだ。千葉姉ちゃんを見習って、もう少しおしとやかになりなさい」
そう言いながらも、玄心は小さく息を吐き、ぺたんこの巾着袋を確かめてから団子屋の前へ歩み寄った。
「すみません、三色団子はいくらですか?」
「一本三文だよ。可愛い妹さんに買ってあげな」
店主は玄心の前に割り込んできた暖心を見下ろし、にこやかに答えた。
「じゃあ一本――」
「五文で二本にしてやるよ」
兄妹そろって団子を欲しそうにしているのを見て、店主はそう付け加える。
「じゃあ二本! 私とお兄ちゃんで一本ずつ!」
暖心が即座に言い切り、玄心は苦笑しながら肩をすくめた。
五文を差し出すと、店主は団子を二本取り、醤油をかけて手渡してくる。
玄心が自分の分を受け取り、ふと暖心を見ると、彼女の手にはすでに何も残っておらず、竹串だけが握られていた。
頬をふくらませた姿は、まるで小さなハムスターのようだ。
「お……お兄ちゃん、その団子……おいしい?」
玄心は笑って暖心の頭を撫でた。
「俺のはあんまりおいしくないな。暖心が食べてくれ」
「ほんと? じゃあもらう!」
遠慮なく受け取った暖心は、大きく口を開け、三色の団子を嬉しそうに頬張った。
兄妹で屋台を眺めながら歩いていると、玄心は通りすがりの若い女性たちの会話に、ふと耳を留めた。
「さっき山の下で会った若い浪人さん、絵がすごく上手だったの。自分がこんなに綺麗だなんて思わなかったわ」
格子柄の着物を着た少女が、手にした楮紙をうっとりと見つめている。
「どうせその浪人に惚れたんでしょ。ああいう美少年が、私たちみたいなのを見るわけないじゃない」
隣の友人がからかうように言う。
「どうして分かるの? だって、ずっと私のこと見てたもの」
「描くんだから見るに決まってるでしょ。まったく、おめでたいんだから」
「え、もしかしてあなたも気になってる?」
「ふふ、そうかもね。じゃあ公平に競争しましょ」
楽しげな笑い声を残し、少女たちは去っていった。
その背中を見送りながら、玄心の中に一つの考えが浮かぶ。
この時代には写真というものがなく、姿を残す手段は絵しかない。
先ほどちらりと見えた楮紙の絵は見事なもので、簡素な筆致ながらも特徴を的確に捉え、本人と見比べれば一目で分かるほどだった。
この世界で、自分にとって唯一の家族は隣を歩く妹だけだ。
彼女がいるからこそ、孤独を感じずにいられる。
二人で生きていく以上、こうして一枚の「記念」を残すのは、決して無駄遣いではない。
「行こう。俺たちも絵を描いてもらおう」
空を見上げると、縁日の終わりも近い。
玄心は暖心の手を取り、山道を下り始めた。
「お兄ちゃん、これあげる。おいしいよ」
暖心が差し出した竹串には、白い団子が一つだけ残っている。
玄心は微笑み、それを受け取って口に運んだ。
もちもちと柔らかく、塩味の中にほんのりとした甘さが広がっていった。




