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第17話 影に潜む密会

 一触即発の空気が張り詰めた、その瞬間だった。


 執務室の外、廊下の方から怒号と乱闘の物音が響き、続いて扉が乱暴に押し開けられた。


 先頭を切って踏み込んできたのは武部鉄心だった。

 足早に室内へ入ってくるその背後には、除妖回の武士が一男一女、控えるように続いている。


 左側の背の高い男は、紺色の羽織をだらしなく半分はだけさせ、胸元から白い下着がのぞいていた。

 乱れた髷に眠たげな目つき、無精ひげの浮いた顔には気怠げな雰囲気が漂い、まるで今しがた起き出してきたかのようだ。


 対照的に、右側の女武士は隙のない装いだった。

 鴉青の羽織は身体にぴたりと合い、襟元はきっちりと留められ、菱文様の帯は角を正した結び方。

 鬢の一本に至るまで乱れはなく、小柄な体躯とは裏腹に、深褐色の瞳には自信に満ちた冷ややかさが宿っていた。


 玄心はこの二人を知っている。

 四番隊隊長、風間新之助。

 そして五番隊隊長、霜月八千姫。


「野村兄、失礼する。うちの部下を一人探しているのだが……」


 武部鉄心はそう言いながら野村将へ歩み寄り、机の前に立ったところで、不意に玄心の姿に気づいて目を見開いた。


「……え? 玄心? どうしてここにいる?」


「ご報告いたします、武部与力殿。野村与力殿に呼ばれた次第です」


 玄心は表情を変えず、一礼して答えた。


 現代から一人でこの世界へ来た玄心にとって、この江戸という時代はいまだにどこか現実感が薄い。

 藩主や大義、武士道といった言葉は、遠く隔たった異国の概念のように感じられた。


 粗雑に作られたゲームのNPCのように、彼らは世界を賑やかにする存在でしかない。

 玄心にとって確かな現実は、目に映る色彩、鼻腔をくすぐる匂い、そして妹・暖心の温もりと団吉との友情だけだった。


 自分を武士だと思ったことはない。

 ましてや正義の象徴など、最初から背負う気もない。


 もし野村将が妹に手を出すつもりなら、躊躇なく斬る。

 その覚悟は、すでに固まっていた。


 だがこの場に武部鉄心が現れたことで、胸中に渦巻いていた殺気は、わずかに沈静化する。


「それで、野村兄。うちの除妖回の英雄をお呼び立てとは、どういうご用向きかな?」


 武部鉄心は笑みを浮かべ、わざとらしく首を傾げた。


「まさか、玄心の命を救われた礼を、直々に言うためじゃあるまい?」


 野村将は目を細め、武部鉄心を一瞥した後、彼の背後で刀柄に手を添える二人の隊長にも視線を走らせた。

 しばらくしてから、口角を吊り上げるように笑い、机の上の打刀を静かに戻す。


「ははは……まさにその通りだ」

「宗鏡玄心を呼んだのは、その礼をするためだよ」

「そうそう。以前から聞いているが、野村兄の配下には暗黙の決まりがあるそうだな」


 武部鉄心は軽い調子で続ける。


「妖魔を討った者には、除妖回の報奨とは別に、あんた個人からも褒美が出るとか」

「……確かに、そういうことはあるが……」

「五両だったかな?」


 野村将は押し黙った。


「なら話は早い。玄心を呼んだのも、その件だろう?」


 武部鉄心は玄心の肩を軽く叩き、諭すように言った。


「ほら、野村与力の五両だ。早く礼を言いなさい。大金だぞ」

「……え?」

「そんな顔をするな。野村兄は気前のいいお方だし、命を救った礼としては当然だ」

「それでは……このたびは、寛大なお心遣い、誠に感謝いたします」


 玄心が視線を向けると、机の向こうで野村将のこめかみに青筋が浮かび上がっていた。

 思わず笑いそうになるのを、かろうじて堪える。


 なぜ野村将が、自分より力で劣る相手には強硬で、武部鉄心には一転して大人しくなるのか。

 理由は分からないが、相手が苦い顔をするなら、それで十分だった。


「では野村兄、これ以上ご用がなければ、仕事の邪魔になる。失礼しよう」


 返事を待たず、武部鉄心は玄心を促して部屋を出る。

 扉をくぐる直前、ふと思い出したように足を止め、振り返った。


「そうだ。あの賞金だが、こちらから人を遣わす。忘れないでくれよ」


 そう言い残し、四人は執務室を後にした。

 廊下を遠ざかっていく足音が完全に消えると同時に、野村将の顔に浮かんでいた怒りは、まるで潮が引くように静かに消え去った。


 先ほどまでの悲嘆や憤激は、最初から用意された芝居だったかのように、表情は瞬く間に古井無波へと戻る。

 立ち上がり、机の上に置かれていた野村賀力の佩刀二振りを手に取ると、壁際へ無造作に放り投げた。

 そして姿勢を正し、机の背後にある書架に向かって、深々と一礼する。


「大人……すでに全員、立ち去りました」


 静まり返った執務室に、乾いた金属音が響いた。

 錠が外れる音だった。


 壁一面を覆っていた書架の中央が、ゆっくりと内側へ沈み込み、そのまま滑るように横へ移動する。

 やがて一人が身を横にして通れるほどの鉄扉が現れ、その奥には光を吸い込むような暗闇が口を開けていた。


 隠し部屋だった。


 鉄扉が静かに押し開けられ、その闇の中から、白髪の老人が姿を現す。

 手には折扇、身にまとうのは銀灰色の絹の和服。金糸で蒼竹や寒梅、遠山と流水が細やかに刺繍され、雅やかさの中に重々しい威厳を宿していた。


 老人は脇に控えて深く頭を垂れる野村将を一瞥することもなく、悠然と机の前へ進み、そのまま先ほどまで野村将が座っていた椅子に腰を下ろした。


「……野村賀力がお前の弟であることは承知している。

 だがな、お前は昔から、ああいう愚か者と肩を並べる男ではなかったはずだ」

「それが今日は、ずいぶんと感情を前に出したな」


 老人の声は低く、感情の起伏を感じさせない。


「正直に言え。

 私の力を使って、宗鏡玄心を始末するつもりだったのではないか?」


 その言葉を聞いた瞬間、野村将の身体がびくりと震えた。

 額には一気に冷や汗が浮かび、顔色はみるみる青ざめる。


「か、家老様……そのような考え、決して……! 卑職はただ、宗鏡玄心の実力を表に出させたかっただけでございます!」


「……そうか?」


 白髪の老人は鼻で笑うと、冷ややかな視線を野村将に向けた。


「ならば覚えておけ。

 私は“私の目の届かぬところで、勝手に駒を動かす者”が嫌いだ」


 次の瞬間、圧倒的な気配が老人の身体から噴き出した。

 銀灰色の和服が気流に煽られ、大きく膨れ上がり、布擦れの音が室内に響く。


 その威圧は凄まじかったが、広がる範囲はわずか二間ほどに抑えられていた。

 ただ一人、野村将だけを包み込むために。


 中心に立たされた野村将は、まるで小山を全身に押し付けられたかのような重圧を感じた。

 骨は軋み、筋肉は悲鳴を上げ、呼吸すらまともにできない。

 二息も耐えきれず、膝が崩れ落ちる。

 彼は床に額を打ち付け、そのまま平伏した。


「お、大人……! 卑職、決して欺くつもりは……! どうかお怒りをお鎮めください……!」

「……ならばよい」


 老人が気配を収めると同時に、野村将は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ち、大きく息を吸い込んだ。


 しばらくして呼吸を整えた後も、彼は立ち上がらず、正座のまま問いかける。


「家老様……あの宗鏡玄心は、やはり一神武杰なのでしょうか」

「気配は近いが、まだ一星武杰には至っておらぬ」

「な……では、その境地に至らずして、種魔を一太刀で……?」

「世の中は広い。誰が決めた、普通の武士に種魔が斬れぬと」


 老人は淡々と続ける。


「極致の上には、帰一という境地があると聞く。そこに至れば、理に触れ、変じたばかりの種魔を斬ることなど難しくはない」

「では……宗鏡玄心は、一つの剣技を帰一まで……? 剣道の天才ということですか」

「ふん」


 老人は折扇を軽く閉じた。


「育ち切った天才だけが、天才だ。たとえ偶然帰一に触れたとしても、大勢の前では、藩主の前では、そして私の前では、指で潰せる蟻にすぎぬ」

「おっしゃる通りでございます! 家老様の真の境地は、外聞にある一神武杰などというものではございませんから!」

「その言葉、この場限りにしておけ。外に漏らせば命はない」

「はっ……決して口外いたしません!」


 野村将は深く頭を下げ、やや間を置いてから恐る恐る続けた。


「……それでは、宗鏡玄心が脅威でない以上、先の計画は」

「予定通り進めよ」


 老人は即答した。


「事が成れば、お前を一神武杰にしてやる。その約束は違えぬ」

「ははっ! この命、万死に値しようとも、お仕えいたします!」


 やがて、執務室には再び、完全な静寂だけが残された。

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