第16話 剣道についての思索
この世の万物と比べれば、人という存在はいかにも小さい。
たとえ天地の理を、ほんの一端でも覗き見ることができれば、それだけで頂点に立つ強者となり得る。
「青嵐」と「逆巻」、二つの剣技がいずれも「帰一」の境地に至ったことで、宗鏡玄心は神玄無反流という流派への理解を、これまで以上に深めていた。
もし「青嵐」が“新生”を象徴する技だとするならば、「逆巻」は生命を“定め、留める”ものに近い。
そう考えれば、第三の剣技「隠貫」が示すのは“消滅”、あるいは“虚無への回帰”なのだろう。
生から始まり、やがて滅びへ至る。
その流れこそが、「時は決して巻き戻らない」という真理を雄弁に物語っている。
神玄無反流とは、まさにその法則を宿した剣だ。
一つの規則を三つに分け、三種の剣技として昇華し、武士にそれを振るわせることで、最終的に“理”へと至らせる。
「……なるほどな」
武部殿が語っていた言葉が、今になって腑に落ちる。
三種すべての剣技を極限まで修めなければ、“神技”には辿り着けない――それは、どれか一つでも欠けていれば、理を完全に理解することができないからだ。
他の剣道流派も、きっと同じ原理に基づいているのだろう。
手法こそ異なれど、いずれも修行者を通して、一つの天地の法則へ触れさせようとしている。
それはまるで、東京へ向かう道のようなものだ。
舗装された高速道路もあれば、花草に囲まれた石畳の小径もある。
道中の景色も、曲がりくねり方も違うが目指す先は、どれも同じ。
「……剣道の果て、か」
そこにどんな景色が広がっているのか。
一度でいいから、自分の目で見てみたい。
玄心は、自身が強化パネルを持っていることを、心から幸運だと思っていた。
成長の速度を飛躍的に高めてくれるだけではない。
何より、「努力すれば、必ず報われる」という実感を得られるのだ。
この世には天才もいる。
だが、大多数を占めるのは、名もなき凡人たちだ。
彼らは表舞台に立つことはなく、それでも夢を抱いて生きている。
しかし、その夢は――一生を費やしても、叶わないこともある。
それでもなお、人が生きる意味とは、努力し、成長し続けることではないだろうか。
たとえ一日一歩でも、その積み重ねこそが、人生を豊かにする。
宗鏡玄心は軒下に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
新たな天地を、全身で感じ取る。
木々の葉擦れの音が、次第に遠のいていく。
彼方で流れていたはずの渓流も、いつしか止まったかのようだ。
膝に横たえた刀身へ、指先をそっと滑らせる。
青白い微光が立ち昇り、その内側では淡い白霧が渦巻いている。
それは、“生”と“定”――二つの奥義が発現した証だった。
それらは刀に宿りながらも、決して刃そのものに縛られてはいない。
今の玄心は、もはや型に頼る必要すらなく、ただ一太刀振るうだけで、己が会得した理を剣に乗せることができる。
「これで、戦いのたびに技名を叫ばなくて済むな」
そう思い、思わず小さく笑みがこぼれた。
先日遭遇した鼠妖や種魔――もし二体同時に現れていたなら、逃げる以外に選択肢はなかっただろう。
だが、今なら話は別だ。
相手が何者であれ、この刀の切れ味を、存分に味わわせてやる。
……とはいえ。
残り二年分しかない妖魔寿命というのは、正直かなり心許ない。
できることなら、早めに次の妖魔と遭遇したいところだが。
「……いやいや、今のは物騒すぎるだろ」
玄心は一人、苦笑した。
◇
翌朝。
除妖回・第二与力執務室。
包帯だらけの身体で、野村将は机に向かって座っていた。
血の気を失った顔には、深い悲嘆の色が浮かんでいる。
机の上には、二振りの刀。
柄頭には野村家の家紋、そして「賀力」の銘が刻まれていた。
「……宗鏡、玄心」
「一神武杰、か」
長い沈黙の末、野村将はゆっくりと刀を抜く。
鏡のように澄んだ刀身に映るのは、氷のように冷え切った双眸だった。
その時、執務室の扉が叩かれる。
「入れ」
扉が開き、除妖回の装束を纏った武士が一歩前へ出る。
その背後には、総髪の若い武士の姿。
「与力様。宗鏡玄心をお連れしました」
野村将は応じない。
ただ、手にした刀を見つめ続けている。
武士は一礼すると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まるのを見届け、玄心は改めて野村将へ視線を向ける。
なぜ自分が呼び出されたのか、見当がつかなかった。
今朝、奉公のため除妖回へ向かったところ、門前で呼び止められたのだ。
与力殿がお呼びだと――名前までは告げられていなかった。
昨日の種魔事件を思えば、上官から事情を聞かれるのも自然な流れだ。
武部鉄心の呼び出しだと、最初は疑いもしなかった。
だが、扉を開けた瞬間、そこにいたのが野村将だと知り、状況は一変した。
最初は、今回の妖魔事件が第二与力の管轄だったのかとも思った。
しかし、相手の表情を見た途端、それが単なる公務ではないと悟る。
緊張はした。
だが同時に、今の自分なら、相手を圧倒できるという確信もあった。
(……さて)
この、あからさまに敵意を向けてくる与力殿は。
一体、何の用で自分を呼び出したのだろうか。
「宗鏡玄心、か」
野村将は、パチンと乾いた音を立てて刀を鞘へ収め、顔を上げて玄心を見据えた。
「昨日、お前が人を殺した件について……何か弁明はあるか?」
その言葉を聞いた瞬間、玄心は鼻で笑った。
相手に悪意があることは察していたが、ここまで露骨に“殺人犯”として決めつけてくるとは思っていなかった。
「……ふん。野村与力殿、何を仰っているのか、まったく理解できませんな」
「昨日、私が斬ったのは“種魔”だけです。他の人間には、指一本触れておりませんが?」
「触れていない、だと?」
野村将の声が、低く唸る。
「ならば、滅魔回の三名と――我が弟は、いったい誰に殺されたのだ?」
「馬鹿な話です」
玄心は即座に言い返した。
「彼らは種魔に殺された。それを、与力殿はすぐそばで見ておられたはず。まさか……ご覧になっていなかった、と?」
「……よくも言ってくれたな」
野村将の額に、青筋が浮かぶ。
「では、こう問おう。貴様には、あの種魔を斬る力があった。それにもかかわらず、なぜ彼らが殺されるのを、ただ見ていた?」
「我が弟との因縁を理由に、あえて助けなかったのではないか?
それは立派な――故意による殺人だ!」
「その理屈には、同意しかねますな」
玄心は一歩も引かない。
「その場にいて、手を出さなかった者など他にも大勢いた。
その全員が、あなたの弟君を殺した“共犯”になると?」
「それに――」
玄心は静かに続ける。
「最終的に、種魔を討ち取ったのは私です。
理屈の上では、与力殿の命も救ったことになる」
「にもかかわらず、命の恩人にこの言い草……。
与力殿、果たしてそれが“道理”というものでしょうか?」
玄心は終始、落ち着き払っていた。
この件に関して、彼に落ち度はない。
昨日、妹と団吉と共に茶屋に立ち寄った際、彼は刀を携えていなかった。
浪人から刀を借り受けるまでに時間がかかり、その間に悲劇が起きただけだ。
この事実は、少し調べればすぐに明らかになる。
だが――
(今さら説明しても、無意味か)
野村将はすでに、玄心を“弟殺し”と見なしている。
今ここで何を言おうと、耳を貸すはずがない。
それに、玄心自身も説明する気はなかった。
今の自分は、一神武杰に比肩する力を得ている。
一介の除妖回与力など、もはや恐れる相手ではない。
「ははは……命の恩人、か!」
野村将は怒りの極致で、逆に笑った。
その視線は、刃のように冷たい。
「茶屋で聞いたぞ。お前には、妹がいるそうだな……」
「……しっかり守ってやるがいい。
我が弟のように、少し目を離した隙に――殺されぬようにな」
「……ほう?」
玄心は、ゆっくりと目を伏せた。
声は、凍りつくように低い。
「それは、脅しですか?」
「さあな……どう思う?」
野村将は、じわりと刀の柄を握り締めた――。




