第13話 刀、種魔を斬る
「なに……!?」
野村将は目を見開き、信じられない思いで太刀を見つめた。
鉄すら断つはずのその刃が、今は、肉すら斬れなくなっている。
いや、違う。
斬れないのではない。
種魔が筋肉を極限まで引き締め、刃を生きたまま、挟み込んでいるのだ。
それに気づいた瞬間、長年の戦闘経験が野村将に即座の判断を促した。
それ以上踏み込まず、逆に力を込めて太刀を引き抜く。
よろめきながら数歩後退し、再び顔を上げたその時、自分が刻んだはずの斬痕が、
すでに跡形もなく消えているのを目の当たりにした。
「滅魔回の坊主ども、聞け!!
この種魔は肉体損傷を回復する能力を持っている!俺たちの攻撃は、ほとんど効いていない!」
野村将は目の前の種魔から視線を逸らさぬまま、反対側にいる角川たちへ向かって怒鳴った。
「効いていないんじゃない。まだ、相手の耐久限界を超えていないだけだ」
角川は荒い息を吐き、額から汗を滴らせながら答える。
先ほどの術法の連続行使が、彼らにとっても相当な消耗だったことは明らかだった。
「……つまり、俺の斬撃が足りないと言いたいのか?」
野村将は顔を曇らせ、不快そうに問い返す。
「野村与力様、そう解釈していただいても構いませんよ~」
角川は鼻で笑った。
以前から器の小さい男だと聞いていたが、今日会ってみて、その評判に偽りはなかった。
だが、その感想はすぐに頭から追い出し、彼は早口で続ける。
「魔気には七つの系統がある。暴食、憤怒、傲慢、嫉妬、怠惰、強欲、色欲。
どの魔気に侵されたかで、人が変じた種魔の能力も異なる」
「俺の推測が正しければ――こいつは『暴食』の魔気に侵されている。肉体損傷を修復する能力を得た種魔だ」
「くそっ……!よりにもよって、最も厄介な種魔か!」
野村将は歯噛みしながら叫ぶ。
その名を聞いた瞬間、彼の脳裏にも該当する情報が蘇っていた。
「じゃあ、どうすればいい?!このまま死ねっていうのか!」
「方法は二つ。一つ目は『一神武傑』が出張り、回復能力を上回る戦技で、一撃必殺すること」
「冗談言うな!今、島源藩にいる一神武傑は老中様ただ一人!まだ帰城していない以上、望みはない!……二つ目を言え!」
「……なら、残るは一つ。絶え間ない攻撃で回復能力を削り続け、最終的に“疲弊させて”倒すしかない」
「……連続攻撃、か……」
野村将は歯を食いしばり、次の瞬間、怒号を上げて踏み込んだ。
だが、太刀を振るうよりも早く。
鈍重に見えた種魔が、先に拳を繰り出していた。
不意を突かれた野村将は、とっさに身体を捻ることしかできず次の瞬間、恐るべき怪力に叩き上げられ、身体は宙に浮き、切れた凧のように吹き飛ぶ。
ドンッ!!
茶屋の土壁に激突。
土と瓦が崩れ落ち、口からは血が噴き出した。
太刀は、十数メートル先へと弾き飛ばされる。
「兄貴!!」
つい先ほどまで得意げだった野村賀力は、倒れ伏す兄の姿に、驚愕と怒りを滲ませて叫んだ。
だが、叫び終える前に。
身体は種魔の巨大な手に軽々と掴み上げられ、そのまま口元へと運ばれていく。
「や……やめ……!」
空中で腕を上げた、その瞬間、巨口が閉じた。
バキッ。
乾いた音とともに血が飛び散り、野村賀力の上半身は、一瞬でその口の中へと消え失せた。
次の瞬間、種魔の皮膚が不気味に蠕動し始める。
数回の呼吸の後、白かった肌は黒灰色へと変わり、まるで犀の皮膚のように、粗く、しかし圧倒的に硬質なものへと変質した。
「……賀……力……ぁぁぁぁ!!」
地に伏す弟の亡骸を見つめ、野村将は悲痛な叫びを上げる。
ふらつきながら立ち上がり、腰の脇差を引き抜くと、狂気に駆られたように種魔へ突進した。
「行くな!!」
遠くの角川が叫ぶ。
だが、理性を失った野村将の耳には届かない。
種魔は振り返ることすらせず、ただ、鬱陶しい虫を払うかのように、背後へ腕を振った。
野村将は再び吹き飛ばされ、地面を何度も転がった末、ようやく止まる。
起き上がろうとした、その時彼は、自分の両腕が、すでに折れていることに気づいた。
「……くそっ!」
角川は顔色を変えた。
野村将という牽制役を失った今、次に標的にされるのは、自分たち四人だ。
案の定、種魔の視線が、彼らへと向けられる。
地面を蹴り、猛然と突進してきた。
「止めろ!!」
角川の怒声に、残る三人の滅魔回武士は互いに視線を交わす。
過度な術法使用による眩暈を必死に抑えながら、両手で再び高速の印を結ぶ。
数秒後。
再び、火球と氷錐の群れが召喚され、唸りを上げて種魔へと殺到した。
ドン! ドン! ドン!
爆音が、再び通りを揺らす。
だが、煙が晴れたその先で。
進化した種魔の身体には、焦げ跡と砕けた氷が残るのみ。
皮膚一枚、破ることすらできていなかった。
種魔は持ち上げていた両腕を下ろし、猩紅の眼を剥き出しにしたまま、角川たちへと突進した。
一人の滅魔回武士は避けきれず、巨大な掌に叩き飛ばされる。
残る二人は鉄鎖を投げ、その腕を拘束しようとしたが。
しかし、彼の力があまりにも小さかったため、彼は悪魔によって地面に投げ飛ばされました
肉と血が弾け、二つの肉塊が路上に広がる。
瞬く間に、広々とした通りに立っているのは、顔面蒼白の角川ただ一人となった。
彼は茶屋の壁にもたれ、必死に印を結び続ける。
だが、どれほど集中しようとも、術式は一つとして発動しなかった。
種魔は低く唸り声を上げ、涎を垂らしながら、最後の一歩を踏み出す。
巨大な影が、完全に角川を覆い尽くした。
茶屋の中では、生き残った町民たちが、もはや先ほどの高揚など欠片もなく、隅に身を寄せ合い、口を押さえて震えていた。
窓の外を見つめるその瞳には、ただ底知れぬ恐怖だけが映っている。
絶望が、冷たい潮のように空気を満たしていく……。
その時、種魔が巨大な手を振り上げ、角川へと叩きつけようとした、まさにその瞬間。
茶屋の入口から、一つの影が、静かに歩み出た。
タッ、タッ、タッ。
足音が、
死のように静まり返った空間に、はっきりと響き渡る。
角川は、弾かれたように振り返った。
夕暮れの中、黒い除妖回の制服の裾が、風に揺れている。
抜き身の打刀が、冷たい光を放っていた。
「……っ!?」
そこに立っていたのは先ほど茶屋で見かけた、あの除妖回同心ではないか。
あれほどの実力を持つ野村将ですら、為す術なく叩き伏せられた相手だ。
今さら出てきて、何をするつもりだ?
町民を守る?それとも、時間稼ぎか?
どちらにせよ、これは自殺行為に他ならない。
「正気か!?早く、ここから離れろ!!」
角川は声を抑え、そう叫びながらも、視線は再び種魔へと戻していた。
「お兄……っ……!」
茶屋の中で、宗鏡暖心が息を呑む。
だが、叫びかけた口を、団吉が慌てて塞いだ。
団吉自身も、呆然と立ち尽くしていた。
ついさっきまで、暖心を頼むと言って戻ったばかりの玄心が、まさか再び外へ出てくるとは。
(今がどんな状況か、分かってるのか……! 英雄気取りも大概にしろ! あの化け物の強さを、見てなかったのか!?)
遠くで重傷を負い倒れている野村将も、この光景を見て、鼻で笑った。
(愚か者め。)
以前から狂った男だとは思っていたが、ここまでとはな。
それぞれが、異なる思惑を胸に抱く中、
宗鏡玄心は静かに微笑んだ。
そして、淡々と、そう言い放つ。
「……ほう?」
「この程度の妖魔に、
なぜ俺が、その鋒を避けねばならない?」
玄心はゆっくりと、手にした打刀を持ち上げた。
まるで、風の衣をそっと払いのけるかのように。
刃先が立ち上がるにつれ、細身の刀身には肉眼でもはっきりと分かる旋風が、幾重にも纏わりつく。
次の瞬間。
一閃。
剣技――!
逆巻!!
金属の冷光を帯びた気刃が、刀身から一直線に放たれた。
地面に三指幅の斬痕を刻みながら、そのまま正面の種魔を貫く。
ブン。
シュッ。
気刃は、一瞬の閃光を残し、消え失せた。
種魔の、小山のような巨体に細く、長い血線が、ゆっくりと浮かび上がる。
三回の呼吸の後、血線を境に、巨体は轟音とともに、上下二つに分かれた。
切断面は、まるで磨き上げた鏡のように、あまりにも滑らかだった。
静寂。
街は完全な沈黙に包まれる。
誰一人、言葉を失い、その場から動けずにいた。




