第12話 突如として起こる異変
「……俺が、譲らないと言ったら?」
玄心の声は決して大きくはなかった。
だが、その一言で茶屋の中は一瞬にして静まり返った。
誰もが信じられないという表情で彼を見つめている。貧民風情が、城代の息子に逆らうだと?
野村将はその言葉を聞いた瞬間、顔の肉が引きつり、次いで真っ赤に染まった。
「譲らないだと?!だったら俺が直々に、お前らを叩き出してやる!!」
左腕を振り払うと、目の前にいた茶屋の主人を壁際へと突き飛ばし、そのまま毛深い腕を伸ばして宗鏡玄心を掴みにかかる。
その時だった。茶屋のカウンターの方角から、突然、食器が砕け散る音が響き渡った。
ガシャーン――
ドンッ!
飛び散る陶片の中で、先ほどまでカウンターに座っていた肥満体の商人が、まるで切り倒された木のように、真っ直ぐ後ろへ倒れ込み、床に叩きつけられた。
次の瞬間、彼の皮膚の下で、青黒い血管がうごめき始める。
まるで無数のミミズが土中を這い回っているかのように。
そして、身体全体が、急激に膨れ上がった。
だぶついていた絹の衣は薄膜のように引き伸ばされ、肋骨が軋む音を立て、四肢は不気味に引き延ばされ、肥大していく。
わずか七、八秒。
高さ三メートル近く、頭が梁に届きそうな巨人が、瓦礫の中から、ゆっくりと立ち上がった。
「……クウ……クウ……クク……!」
低いうなり声を上げながら、首をゆっくりと巡らせる。
白目に覆われた眼球が、やがて、恐怖で凍り付いた数人の客へと向けられた。
次の瞬間、団扇のような巨大な両手が、前触れもなく跳ね上がる!
左右に伸ばされたそのうち、右手の先にいたのは、呆然と立ち尽くす野村賀力だった。
「!!!!」
野村賀力は脚の力が抜け、恐怖に見開いた瞳の中に、急速に迫る青灰色の巨大な手が映り込む。
「どけぇぇぇっ!!」
轟音のような怒号が炸裂した。
ドン――!!
千鈞一髪、野村将が身体を捻り、一歩踏み出して左腕を突き上げる。
巨大な掌を、力任せに弾き逸らした!
足元の木床には細かな亀裂が走り、野村将自身も三歩後退して、ようやく体勢を立て直す。
巨体の怪物は、ゆっくりと頭を垂れ、“餌”を邪魔した小さな存在を見下ろした。
「グオォォォ――!!」
咆哮と共に、再び拳を振り下ろす。
速すぎて、黒い残像しか見えない。
野村将は反射的に両腕を交差させ、胸の前で構えた。
だが、その一撃は、あまりにも速く、そして重かった。
次の瞬間、野村将の身体は砲弾のように吹き飛ばされ、窓を突き破って、茶屋の外へと叩き出された。
それでも怪物は満足しなかったらしい。
左手を握り締め、掴んでいた客の頭を掴んだまま咆哮すると、両腕を振り回して行く手を遮る机や椅子を薙ぎ払い、大股で外へと追いかけていった。
怪物が去った直後、ようやく茶屋の中に、恐慌の叫びが爆発する。
「きゃああああ!!」
「妖魔だ……妖魔が出た!!」
「人が……人が殺された!!怪物だ!!」
人々は泣き叫びながら出口へ殺到し、食器が倒れ、机と椅子がぶつかり合う音が、絶え間なく響き続けた。
「こ、これは……『種魔』だ……!」
田中団吉は顔色を真っ青にし、玄心の袖を掴んで、早口で叫んだ。
「『種魔』?!」
玄心は目を細め、茶屋の外、通りの中央へと視線を向ける。
その瞬間、記憶の奥から関連する情報が浮かび上がった。
種魔。
魔気に侵された人間が変異して生まれる魔物。
魔気に侵食された者は、数日、あるいは数年もの間、発症せずに潜伏する。
普段は常人と何ら変わらず、異変が表に出ることはない。
だが、ひとたび発作が起これば、血肉を貪り食う怪物へと変貌する。
兆候が極めて分かりにくいため、防ぐことはほぼ不可能。
さらにこの魔物は、人を喰らうことで力を増していく。
喰えば喰うほど、より強くなる。
人の世に現れる高位の妖魔の多くも、元を辿れば、種魔から段階的に進化した存在だと言われている。
「団吉、暖心のことは頼んだ。俺は外の様子を見てくる」
玄心は腰を落とし、暖心の小さな頬を指で軽くつまんだ。
「いい子にして待ってるんだ。兄ちゃん、すぐ戻るから」
「えっ……!? ま、まだ外に行くつもりなのか?!」
団吉は驚愕し、信じられないという表情で玄心を見つめる。
「相手は『種魔』だぞ!こんなレベルの妖魔、俺たちがどうこうできる相手じゃない!それに、今は野村将や、あの滅魔回の連中もいるだろ!出るなら、どう考えても俺たちの出番じゃない!」
「大丈夫。遠くから様子を見るだけだよ」
玄心はそう言って、穏やかに微笑んだ。
「お兄ちゃん……」
暖心は不安そうに声をかけ、引き留めようとする。
「暖心、兄ちゃんを信じて」
「……うん。わかった。ここで待ってるね」
二人に言い含めると、玄心は人混みを避けるようにして進み、そのまま茶屋の外、通りへと出た。
夕陽が空の端に掛かり、
通りの両脇の店はすでにもぬけの殻。
道の奥には、騒ぎを聞きつけて集まった町民たちが数人立っていたが、恐れて近寄ることはできず、遠巻きに様子をうかがっているだけだった。
玄心が予想していなかったのは、通りには、先ほど吹き飛ばされた野村将だけでなく、以前目にした滅魔回の四人も、すでに揃っていたことだ。
先頭に立っているのは、角川と名乗っていたあの少年。
種魔が急速に距離を詰める中、五人の表情は一様に引き締まり、それぞれ武器を取り出して身構える。
最初に動いたのは、太刀を構える野村将ではなかった。
攻撃の口火を切ったのは、滅魔回の四人だ。
先頭の角川は冷たい眼差しで前を睨み、手を上げて印を結ぶ。
口の中で呪文のような言葉を唱え始めた。
残る三人は散開し、それぞれが位置を取りながら指印を変化させる。
空気中には、いつの間にか氷晶と火花が生まれ、集まり始めていた。
種魔の小山のような巨体が、十メートルを切った瞬間――
角川は印を解き、掌を前方へと強く突き出す。
同時に、背後の三人も同じ動作を取った。
次の瞬間、彼らの前方の虚空から、拳ほどの大きさの氷錐と火球が無数に放たれる。
それらは一直線に種魔へと突き刺さり、直後、激しい爆発を引き起こした。
ドン! ドン! ドン!
煙と炎が晴れた時、種魔の巨体はその場に立ち止まっていた。
まるでサイの皮膚のような硬い表皮には、血肉をえぐられた無数の穴が穿たれ、辺りには焼けた肉の焦げ臭い匂いが漂っている。
そして、先ほどまで動かなかった野村将は、
いつの間にか種魔の背後へと回り込んでいた。
高々と掲げられた太刀。
相手が反応するより早く――
一閃。
一見、飾り気のない一刀。
だがそれは、「神玄無反流」における三種の剣技の要義を融合させた、野村将自身の到達点とも言える一撃だった。
刃を振り下ろした瞬間、彼の脳裏には、悟りの境地に触れたかのような感覚すら走る。
ズバッ!
太刀は、種魔の右後肋骨の隙間へと、正確に叩き込まれた。
「急所に入った……!」
野村将の目が輝く。
柄から伝わる感触が告げていた。
肋骨を避け、刃はすでに肺葉へと達している。
あと少し、力を込めれば。
この種魔は、確実に真っ二つになる。
周囲で見守っていた町民たちも、滅魔回の術と野村将の鋭い太刀筋を目の当たりにし、次第に恐怖を収め、中には小さく歓声を上げる者すら現れた。
その時、茶屋に身を潜めていた野村賀力が、我慢できずに飛び出してくる。
拳を握りしめ、町民たちに向かって声高に叫んだ。
「見ただろう! あれが俺の兄貴――野村将だ!史上最年少の除妖回与力で、今日お前たちを救った英雄だ!!」
そう言い放つと、宗鏡玄心に向けて、誇示するように冷笑を投げつける。
誰もが安堵し、これで決着がついた。
そう思った、その瞬間。玄心だけが、静かに眉をひそめていた。
なぜなら、種魔の身体に刻まれた傷が、目に見える速度で塞がり始めていたからだ。
そして、胸元へ深く食い込んだはずの太刀もまた、まるで何かに阻まれるかのように――
徐々に、確実に、その動きを止められていたのだった……。




