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第11話 あまりにもひどい

 野村将の屈強な身体が戸口にねじ込まれた瞬間、煮売茶屋の中は、まるで潮が引いたかのように静まり返った。


 彼は混み合った店内を一瞥し、空き座がないと見るや、踵を返して立ち去ろうとする。だが、その背後から、ひょいと顔を覗かせた者がいた。


「兄貴、運がいいぜ。ほら、あそこに一つだけ空いてる席がある」

 野村賀力が、店の中央にぽつんと残された一卓を指さす。


 そのまま歩き出そうとした、賀力の視線が、卓の傍に座る宗鏡玄心と、真っ向から交差した。

 昨日大通りで膝をつき、金を差し出して命乞いをした、あの屈辱。思い出しただけで、腹の底から怒りが込み上げる。

 賀力は口元を歪め、冷ややかに笑うと、振り返って声を潜めた。


「兄貴、今朝、除妖回で探してた奴だ。ほら、あそこに座ってる。髪を結ってる、あいつが宗鏡玄心だ」


 野村将はその方向へ目を向け、すぐに気づいた。

 武部鉄心の執務室で見た、あの平然とした顔の若い武士――間違いない。

(あの老いぼれ……俺を謀ったな)

 胸の奥で、怒りが一気に燃え上がる。

 彼は愛想笑いを浮かべて近づいてきた茶屋の主人を乱暴に押しのけ、ずかずかと玄心たちの卓の前へ歩み寄った。


 バンッ!


 団扇ほどもある手のひらが、玄心の目の前の卓を強く叩く。

「お前が宗鏡玄心か?」

 野村将は睨み据え、低く問いかけた。

「昨日、俺の弟が往来で辱めを受け、その上、五十両もの金を巻き上げられたと聞いた。違うか?」


「の、野村……与力様……」

 団吉は相手に気づいた途端、顔から血の気が引いた。声を震わせながら、必死に挨拶をする。

 暖心は何も言わなかったが、卓の下に隠れた小さな手が、かすかに震えている。


「大丈夫だ、兄ちゃんがいる」

 玄心はさりげなく妹の手の甲に触れ、落ち着かせてから、ようやく野村将に向き直った。

「野村与力様のおっしゃるのが、昨日の立ち合いにおいて敗北し、金を差し出して詫びた件であれば、それは、私と御令弟の間の出来事です」


「立ち合い、だと?」

 野村将は眉をひそめた。その話は、賀力から一言も聞かされていない。


「御令弟は昨日、仲間を連れて私の家に押し入り、妹を遊女屋へ売り払おうとしました。私はやむを得ず、生死を賭けた勝負を受けたまで」

 玄心の口調は、驚くほど淡々としている。

「結果、御令弟は私の刀に敗れました。命を取らず、十両のみを受け取ったのは、同僚としての情けです。

 もしなお疑問がおありでしたら、夕餉を済ませてから、改めてお話ししましょう。今は、休みの時間ですから」


 そう言い終えると、玄心は背を向けた。もはや、野村将の方を一瞥すらしない。

 除妖回の与力という立場で、正当な理由もなく衆目の中で手を出せば、重い処分は免れない。

 それに、本気で斬り合うことになれば、“帰一”の境地に至った今の自分が、劣るとも限らない。


 野村将は、玄心を見下ろしながら、拳を強く握り締めた。関節が白く浮き出る。

 島原藩で好き放題に振る舞ってきた彼が、ここまで軽くあしらわれたことが、果たして何度あっただろうか。

 だが、玄心の言葉は筋が通っている。この場で無理に事を荒立てれば、かえって自分が「権力を笠に着た横暴者」と見られかねない。

 何より、弟の人となりを、彼自身が誰よりもよく知っていた。


 野村将は、見物人と化した茶屋の主人に目をやり、ふいに口角を吊り上げた。

「店主。この席は、我が野村家が先に押さえていたはずだが?……忘れたとは言わせんぞ」

「え……? そ、そんな話が……?」

 主人は目を白黒させた。まさか自分が巻き込まれるとは、思ってもいなかったのだ。

「昼頃、城代様のお屋敷から人が来ていたはずだ。あれは父が遣わした者だ」

 野村賀力が、陰気な笑みを浮かべて口を挟む。

「じょ……城代、様……!?」

 主人は膝が笑い、今にも倒れそうになる。

 城代、藩城の守備と警備を一手に担う、最高責任者。庶民にとっては、雲の上の存在だ。

「も、申し訳ございません!城代様のお家のご子息とは存じ上げず……!こ、この席は、確かにご予約のもので……」

 主人は玄心たちに向き直ったが、顔色は青と白を行き来し、言葉が続かない。


「聞いたろ?この席は俺たちのもんだ。さっさとどけ!」

 賀力が卓を叩き、声を荒げる。


 だが玄心は、彼を見もしなかった。静かに、茶屋の主人を見つめる。

「店主。本当に、この席は彼らが予約していたのですか?」

「……え、ええ。私の不手際です。どうか少しお待ちいただければ、席が空き次第」

 主人は腹を括ったようだった。

 権力者を敵に回すより、貧民に我慢させる方が安全だ。


「……そうですか」

 玄心は小さく首を振り、独り言のように呟いた。

 理解はできる。だが、納得はできない。

 譲歩を重ねれば、相手はつけ上がる。

 ならば、壊された食事の時間の代わりに、道理を取り戻すだけだ。


 店内の視線が、一斉にこちらへ集まる。

 隅にいた滅魔回の者たちまでもが、面白がるような目で見ていた。


「玄心……き、今日はやめて、また今度にしないか……」

 団吉が身を縮め、小声で言う。

「お兄ちゃん……別のお店にしよ……」

 暖心も、不安げに顔を上げた。

「何をぶつぶつ言ってやがる!さっさと失せろ!」

 賀力が卓を叩き、怒鳴りつける。


「……もし、どかないと言ったら?」

 玄心の表情は変わらない。

 だが、その言葉は、はっきりと場に落ちた!!

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