第10話 滅魔廻
江戸の世。
島原藩は、今で言う長崎の地にあった。
金秋の頃になると、潮の匂いを含んだ海風が町に吹き込み、そこにかすかな冷えが混じりはじめる。
一年のうちでも、海の幸が最も旨味を増す季節だ。
もっとも、網は粗く、舟も沖へは出られない。
町人にとって、海魚は相変わらず憧れの贅沢品である。
だが、今日の宗鏡玄心は、そんなことを考えてはいなかった。
彼の頭にあるのはただ一つ。
田中と、暖心に、腹の底から安心できる飯を食わせてやること。
店の中央より、窓際の席のほうが落ち着く。
広さはないが、外の気配がある。
半分だけ支えられた木窓の向こうには、暮れかけた空と、遠山の曖昧な稜線。
夕風が入り込み、屋内にこもった煙と油の匂いを、やさしく押し流していく。
こんな場所で食事をしていると、先ほど主人の態度に覚えた小さな不快感さえ、風にさらわれていく気がした。
暖心は玄心の隣に腰を下ろし、小さな手を膝の上で行儀よく重ねている。
その視線だけが、そっと隣の卓へ、客が抱えている陶碗へと流れていた。
田中は無言で手を擦り合わせ、喉仏が小さく上下する。
玄心はそれを横目に、かすかに笑い、壁へと目を向けた。
そこには細長い竹札がずらりと掛けられ、墨書きの品書きが並んでいる。
油煙に燻され、文字が霞んでいるものも少なくない。
ホウボウ。
アジ。
牡蠣。
最も値が張り、最も旨いとされる、秋鯖。
回遊魚であるそれは、北の海で十分に餌を食らい、秋に南下する頃には、身にたっぷりと脂を蓄える。
炭火で焼いても、刺身でも、あるいは天ぷらでも。
きちんと調理されれば、一口で海の旨味が口いっぱいに広がる。
前世から、一度は食ってみたいと思っていた魚だ。
「親方。まずは秋鯖を六尾……炭火焼きで頼む」
「それと、旬の野菜を二皿。清酒があれば......」
言い切る前だった。
茶屋の外で、空気を裂くような荒い声が響く。
「おい!俺たちに、でかい卓を用意しろ!」
暖簾がばさり、と音を立てて捲れた。
緋色の和服を纏った若い武士が四人、列をなして店内へ踏み入る。
先頭の男は、薄い唇に削いだような顎、刃のように鋭い眉峰。
半眼で店内を一瞥したその視線には、ひやりとした光が宿っていた。
「あっ!角川様っ!これはこれは失礼を!どうぞ、どうぞ中へ!」
茶屋の主人は顔色を変え、玄心たちを放り出すようにして駆け寄り、深々と頭を下げる。
先ほどまでの対応とは、まるで別人のようだ。
「角川様にお越しいただけるとは......小店、まことに光栄に存じます......」
「いいから黙れ。角川の兄貴は除魔帰りで腹ぺこなんだ。さっさと席を用意しろ」
四人のうち、体格のいい武士が一歩前に出て、主人を怒鳴りつける。
どうやら、先ほど暖簾の外で声を荒げていたのも、この男らしい。
一方、“角川”と呼ばれた若武士は、腰を折る主人には目もくれず、静かに店内を見渡していた。
その視線が、隅の卓に座る玄心たち三人に止まった瞬間、わずかに眉をひそめ、口元に冷たい笑みを刻む。
「......あそこだ」
角川は、ひとつ指を立てて示した。
狙いは、まさしく玄心たちの席だった。
「角川様......あの席は、すでにお客様が......中央のお席のほうが、広うございますが......」
主人は一瞬ためらい、小声で進言する。
貧相な身なりの三人を見下してはいるが、客に無理やり席を譲らせるなど、あまりに無作法だ。
店主として、それだけは避けたい。
だが、相手は“滅魔回”の与力。
しかも父親は町奉行配下の役人であり、この食町は、まさにその管轄下にある。
機嫌を損ね、父親の耳にでも入れば、この茶屋など、あっという間に立ち行かなくなる。
「......ほう?」
角川は半身だけ振り返った。
「俺の頼みは、もう通らなくなったというわけか?」
「い、いえっ! そのような意味では」
「構わん。ならば......店を替えるまでだ。もっとも......父の方に、どう伝わるかは知らんがな」
そう言って踵を返し、仲間に出る合図をしようとした、その瞬間、主人は反射的に、角川の袖を掴んでいた。
「お、お待ちくださいっ!」
「そ、その......あちらのお客様なら......きっとご理解いただけるかと......」
言い終えるや否や、主人は足早に玄心たちのもとへ向かう。
長年の商いで培った勘が告げていた。
角川と、あの三人の間には、すでに何かある。
だが、それは自分の知ったことではない。
今はただ、席替えを成立させることが最優先だ。
貧民にとって、“滅魔廻”の同心に席を譲ることは、むしろ名誉なこと、なのだろう。
そんな都合のいい理屈を胸に、主人は頭を下げた。
「三名様、恐れ入りますが......中央のお席へお移りいただけませんでしょうか。あちらの方が、ゆったりしておりますので......」
「この席は、こちらが先に使っている。ほかに良い席があるなら、あちらが使えばいいだろう」
玄心は静かに言い返した。
「い、いえ......実はその席、先ほどのお客様にご予約いただいておりまして......厨房が立て込んでおりまして、失念しておりました」
嘘だな!
玄心は眉をひそめる。
身体強化のおかげで、先ほどのやり取りはすべて耳に入っていた。
角川が、明らかに自分たちを狙っている。
理由は分からない。
初対面のはずだ。
だが、それ以上に腹立たしかったのは、店主が、その理不尽を、平然と受け入れたことだ。
「そうか......では、あちらが......」
言いかけた玄心の言葉を、横から遮ったのは田中団吉だった。
「......替わろう。今すぐだ」
田中は暖心を抱き上げ、玄心に目配せすると、素早く立ち上がって席を離れた。
その行動に戸惑いながらも、玄心は言葉を飲み込み、無言で後に続く。
主人は安堵の息をつき、すぐさま角川たちを呼び寄せた。
店内はすでに満席。
通路は一人が横向きで通れるほどしかない。
玄心たちは壁際で待つしかなかった。
その隙をつき、玄心は声を潜める。
「......さっきの四人、何者だ?なぜ席を譲った?」
「知らないのか?!“滅魔廻”の連中だ」田中は赤い和服の背をちらりと見やる。
「滅魔廻......除妖廻と似たようなものか?」
「妖を斬るのは同じだが、やり方が違う」
田中はさらに声を落とす。
「向こうは“術法”の才がある者しか入れないらしい。氷を吐いたり、火を噴いたりする連中だ」
「術法?刀は使わないのか?」
「だからこそ、俺たちを見下している。妖を殺すのは、純粋な火力勝負だってな」
「......俺に術の才があれば、とっくに向こうへ行っていた」
「なるほどな......」
玄心は、自分の黒い除妖回の装束を見下ろし、ようやく腑に落ちた。
私怨ではない。
部署同士の、根深い対立、それだけの話だ。
とはいえ、力がものを言う世だ。
強い者が、声を持つ。
だが、自分の《帰一》の剣が、どこまで通じるか。
それは、やってみなければ分からない。
そう考えていた、そのとき。
角川たちが席に着いた。
玄心たちも動こうとした、暖簾が、再び大きく揺れた。
ずしり、と重い足音。
店の入口に立った影は、半分以上を闇で塞ぐほど、巨躯だった。
除妖廻の与力。
野村将。




