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沈没都市の扉

鉄錆の匂いが、肺の奥にまで沁み込んでくる。

降下用カプセルは、まるで棺桶のように狭く、外の闇は底知れず濃い。潜水灯が吐き出す光は数メートル先で掻き消され、やがてその光すらも呑み込む暗黒に変わっていった。

ジーノ・カッザーロは、指先でチップを弄んでいた。癖だ。緊張が増すほどに、彼は小さな硬貨状のものを手の中で回し、弾き、弄ぶ。それはタバコの代わりであり、祈りの代儀式でもあった。

「ブラックマリーナ・カジノへようこそ」

カプセル内のスピーカーが低く唸り、女の声が響いた。無機質なようで、どこか艶を帯びている。

機械が人の声を模倣しているのか、人間が魂を売り払って機械に縛られているのか、判別がつかない声色だった。

カプセルが着床したとき、わずかな衝撃でジーノの背骨に冷たい震えが走った。重厚なハッチが開き、腐蝕した鉄の階段が眼前に現れる。彼は迷うことなく足を踏み出した。

ここに来た時点で、地上への帰路はすでに断たれている。それを承知で、彼はこの海底へ身を投じたのだ。

第一のホールに入った瞬間、ジーノは思わず息を呑んだ。

そこには地上のどんなカジノよりも華美で、どんな墓所よりも冷たい光景が広がっていた。

赤と黒の絨毯が果てなく続く。壁面には水槽が埋め込まれ、深海魚たちが光を帯びて漂っている。透明な瞳を持たぬ魚は、すべての来訪者を見透かすかのように不気味に口を開け閉めしていた。

天井から垂れるシャンデリアは無数の気泡でできており、泡の中には小さなランプが埋め込まれている。それは呼吸の代償のように脆く、はかなく光っては弾け、再び現れる。

「ここが……ブラックマリーナか」

ジーノは低く呟いた。

噂には聞いていた。伝説と恐怖が交錯する幻のカジノ。勝者には望むものを与え、敗者には死さえ許さない沈黙を与える、と。

そのとき、声がかかった。

「お前も呼ばれた口か?」

振り返ると、そこにいたのは潜水スーツを纏った女だった。スーツは所々擦り切れており、長い潜航の歴史を物語っていた。肩から下げた酸素タンクには無数の傷。彼女の黒髪は塩水で濡れ、重く肩に貼りついている。

「名は?」とジーノが問う。

「リオナ・セルヴァーティ。……元は潜水士だった。今は、ただの借金奴隷さ」

リオナの声はかすれていた。潜水病を幾度も乗り越えた者特有の、肺の奥に砂利を詰めたような声音だ。だが瞳は澄んでいた。青白い光の下、まるで深海そのものを宿したかのように。

ジーノは小さく笑った。「潜水士と博打打ち。ろくな取り合わせじゃないな」

「ここに来た時点で、みんな同じだろ。命を賭けるって一点では」

リオナの言葉に、ジーノは返さなかった。ただ指先でチップを弄び、カジノの奥へと歩みを進めた。

ブラックマリーナ・カジノの内部は、迷宮そのものだった。

回廊には無数の扉が並び、そこからは笑い声や悲鳴が入り混じった音が漏れ出す。

ある部屋ではルーレット、別の部屋ではポーカー、さらに別の部屋ではダイス。だがそのどれもが、地上の遊戯とは根本的に違っていた。

賭けるのは金ではない。

ここでは、酸素、記憶、肉体、そして命そのものがチップなのだ。

リオナは低声で囁いた。「見ろ……あのテーブル。負けた奴、マスクを外されてる」

ジーノが目をやると、赤いテーブルに倒れ込む男がいた。顔から酸素マスクを剥ぎ取られ、魚のように口を開け閉めしている。酸素の供給は切られたらしい。数分後には脳に酸素が届かず、屍になるだろう。

ディーラーは淡々とカードを配り続ける。そこに倫理も躊躇もなかった。

ジーノは吐息を漏らした。

「噂以上だな。狂ってる」

「だからこそ、勝てば得られるものも桁違いだって話だ」リオナが言った。

その目には恐怖と同時に、淡い希望が宿っている。彼女がここに来たのは借金を返すためだけではない。何かもっと切実な理由――たとえば、過去に失った仲間を取り戻すためか。ジーノはそう直感した。

だが詮索するつもりはなかった。人はみな、ここに来る理由を抱えている。語る必要も、知る必要もない。ただ、テーブルの上で勝ち残ればいい。それがこの地獄の唯一の掟だ。

やがて二人は中央ホールへと導かれた。

そこには巨大なテーブルが一つ。黒曜石のように艶やかで、触れれば凍りつくように冷たい。

周囲に並ぶ椅子には、すでに数人の来訪者が腰掛けていた。軍服の男、マルチェッロ・ヴァレンティーニ、顔に刺青を刻んだ娼婦、カテリーナ・ロッシ、やせ細った神父、ドナート・ビアンキ、無表情の子供、ルチアーノ・グレコ。どれも人間でありながら、人間を逸脱した存在感を漂わせていた。

「プレイヤー、全員揃いました」

艶やかな声が再び響いた。振り返ると、そこにはディーラーが立っていた。

透き通るような白い肌、青い瞳。だがその美貌はどこか人工的で、人形めいた冷たさを帯びている。背中には黒いリボンのようなケーブルが無数に接続され、壁の装置と直結していた。

「私はディーラー、ネーレイデ。このテーブルを支配する存在です。

 あなた方は今宵、最初の試練、深海ポーカーに挑むことになります」

その声は甘美でありながら、底冷えするような響きを持っていた。

ジーノはチップを弄ぶ手を止め、リオナを横目で見た。

リオナは酸素マスクを直し、わずかに頷く。彼女の表情は硬いが、その奥には戦う者の決意が宿っていた。

「さあ、カードを切りましょう」ネーレイデが微笑む。

「ここはブラックマリーナ。賭けるのは金ではなく、あなたの命です」

テーブルにカードが配られる音が、深海の鼓動のように響き渡った。

こうして、死の遊戯が幕を開けた。

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