夢でも一歩
読みにくかったり、表現が分かりにくいところがあったりすると思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
グラウンドに来てから、すでにどれくらい時間が経っただろう。
夕焼けの空は変わらずオレンジ色のままで、太陽はずっと同じ位置。
(……不思議な感じだ)
時間は止まっているのに、時間は経過している。
そんな『不思議』としか言えない、『今』を存分に満喫する。
「ねえ、尚人」
美香が、ぽつりと声をかけてくる。
彼女はいつの間にか、服装が制服から体操服に変わっていた。
それに、左手にグローブを嵌まっていて、右手には野球ボールを持っている。
「……キャッチボール、しようよ」
その言葉に、俺の体が一瞬固まった。
そして、無意識に自分の右肩を触っていた。
今は痛くない……けど
「……無理だ」
「どうして?」
「投げられない」
思わず素っ気なく言ってしまった。
でも、美香は怒るでもなく、ただ静かに立っていた。
そして、ゆっくりと近づいて、俺の正面に立つ。
「でも、今は夢だよ」
「……」
「尚人が投げたいって思ったら、きっと投げられる」
言い切るでも、押しつけるでもなく、
それはまるで、ふわっと風に乗るような声だった。
俺はしばらく、手のひらを見つめていた。
あのとき壊れた肩。
届かなかったボール。
もう二度と戻れないと思っていた感覚。
だけど、夢の中の今――右肩は、何も訴えてこなかった。
「……やってみる価値はあるのか?」
「やってみようよ。きっと尚人なら、大丈夫だよ」
俺はゆっくりと立ち上がり、体を回して肩を動かしてみる。
痛みは……ない。
けれど、怖さは残っていた。
投げようと腕を振ったとき、あの鈍い痛みが襲ってくるんじゃないか、思いっきり投げても思った通りのところにいかない、スピードは遅いしキレもないクソボールしか投げられないんじゃないか――そんな記憶の残像に、体が無意識に身構える。
美香は数歩後ろに下がって、俺との間にちょうどいい距離を取って、しゃがむ。
彼女なりにの気遣いが言葉にしなくてもわかる。
「プレイボール!」
そう言って、にこっと笑ってグローブを構える。
……なんだよ、それ。
思わず苦笑いしながら、ボールを手に取った。
右手の感触。
しっかりと重みがある。
夢の中なのに、現実よりもずっと、現実味を感じる。
一歩踏み出し、肩を振る。
(……痛くない)
もう一歩、踏み込んでみる。
フォームを思い出しながら、体をひねって、ボールを振り抜く。
――ボールは、まっすぐに、スピードこそ少し遅いが、美香のミットに吸い込まれていった。
「ナイスボール!」
パシン、と気持ちのいい音と、美香の声。
その瞬間、何かがこみ上げてきた。
嬉しい。
懐かしい。
でも、ちょっとだけ、切ない。
俺は一瞬だけ空を見上げて、深く息を吐いた。
「……投げられた、な」
「だから言ったでしょ? 夢なんだから何でもできるって」
美香はそう言って笑う。
その笑顔は、まるでキャッチボールのボールみたいに真っ直ぐで、夕日のように眩しかった。
その笑顔に溶かされるように、俺の胸の奥にあった何かがじわっと広がっていく。
もう一度、投げてみたくなる。
そう思えるくらいには、今の俺はきっと前を向けている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでいただけると幸いです。
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