夢想に浸る
「何の価値も無かった私の人生」(https://ncode.syosetu.com/n8882kc/)の裏エピソード。ビアンカの息子、テオフィル視点です。
彼女と初めて出会ったのは、とある社交倶楽部だった。
その頃の俺――テオフィル・リューデルは家を継いだばかりで、貴族としてはひよっこだった。だから人脈を増やすべく、あちこちの社交倶楽部へ出入りしていたのだ。
「あの、お仕事中ですので……」
「仕事は何時に終わるんだ?その後にお茶でも」
ヘンリエッテの顔は見知っていた。何人かいる受付嬢の中でも、特に美人だと噂になっていたから。
取り立てて彼女に興味があったわけではないが、しつこく言い寄られ困っている女性を見過ごすことはできない。
「やめろ。嫌がっているじゃないか」
「ああ?何だ、リューデル子爵家の若当主か。部外者は引っ込んでろ」
「ここは紳士が社交を楽しむ場所だ。それ以上下種な真似をするようなら、アードラー侯爵に報告を入れるぞ」
アードラー侯爵はこの倶楽部の主要メンバーであり、数ある邸宅のうちの一つを倶楽部に提供している人だ。侯爵に睨まれたら出禁になるだけでは済まないだろう。
舌打ちをして男が去っていった後、震えているヘンリエッテへ「大丈夫かい?」と声を掛けた。
「はい……。あの、ありがとうございました」
「紳士として当然のことをしたまでだ。いつもあの男に絡まれてるのか?もし困ったことがあるなら、相談に乗ろう」
美しい彼女を口説こうとする男は多かった。本気で彼女を愛しているのならまだ許せる。しかしほとんどは妻や婚約者のいる者ばかりだ。
貴族ならば浮気くらい容認するべきかもしれないが……俺は、ああいう軽薄な輩が大嫌いだ。亡くなった父親を思い出すから。
俺の父、リューデル前子爵はロクでもない男だった。浮気を繰り返して何度も母ビアンカを泣かせた。その上、執務は母と執事に押しつけて放蕩三昧だったらしい。そんな中でリューデル家を支え、俺を育ててくれたのは母だ。
それから俺は、度々ヘンリエッテから相談を受けるようになった。彼女は気が弱く、相手に強く出られると断れない。それを良いことに付きまとう男たちを何度撃退したか覚えていないくらいだ。
「この仕事は辞めた方がいいんじゃないか?言いにくいが、向いてないと思う」
「私に出来る仕事はこのくらいしか無くて……」
ヘンリエッテの実家であるドナート男爵家は事業に失敗し借金を抱え、爵位を返上して平民となったそうだ。両親はもちろん、彼女や弟も働いて借金を返しているらしい。
「侍女やメイドの仕事はどうだ?知り合いに当たってみてもいい」
「私なんかにそこまで心を砕いて下さるなんて……。テオフィル様のようなお優しい方は初めてです。貴方の奥様となられる方は、お幸せでしょうね」
頬を染め大きな瞳を潤ませる彼女に、胸がそわそわする。最初は純粋な道義心だった。しかし今は……彼女と一緒にいたいから、頼って欲しいから手を差し伸べている。
俺にとって最高の女性とは、母のようにしっかりと自分を持っている人だと思っていたのに。今の俺は目の前の華奢で弱々しい女性がとても愛おしくて、彼女を守りたいと心の底から思っている。
「ヘンリエッテ。結婚してくれ」
「でも……今の私は平民です。子爵家には嫁げません」
「俺が何とかする。君を一生、守りたいんだ。」
「テオフィル様……嬉しい……」
涙を流して喜ぶヘンリエッテを抱きしめた。俺は父とは違う。この女性一人を生涯愛する。父の浮気に悩まされてきた母なら、きっと俺の選択を認めてくれるだろう。
「テオフィル、私は反対よ」
予想に反して母は強硬に反対した。しかも言い争いを繰り返すうち、ヘンリエッテが父の愛人だったなどと言い出す始末だ。息子の妻となる相手へ嫉妬したにしても、言っていいことと悪いことがあるだろう。
何度も話し合ったが平行線だった。俺は今までずっと良い息子だったと思う。母のいう事には何でも従ってきた。だけど今回ばかりは、ヘンリエッテの為に折れるわけにはいかない。
ついに母は出て行くとまで言い出した。そう言えば俺が折れると思っているのだろう。そう考えて放置していたら、母は本当に離籍届けを出してしまった。
当てつけにしても程がある、と腹が立つ。母のことは放っておいて、俺はヘンリエッテを妻に迎えた。
母は実家にいるらしい。出戻りの中年女に押しかけられた祖父母や叔父夫婦もいい迷惑だろう。どうせそのうち、戻りたいと言ってくるに違いない。俺とヘンリエッテに誠心誠意謝るなら、許してやろう。そして三人で仲良く暮らすのだ。
「何だ、この貧相な食事は?」
結婚して数か月、出される食事のレベルが段々落ちていることに気付いてはいた。だがその日の夕食は特に酷かった。固いパンに野菜のスープと、クズ肉のステーキが二、三切れ。
呼び出した料理長によれば、食材が切れかかっているとのこと。必要な食材のリストは毎月初めに当主夫人へ提出することになっている。先月までは母が対応したものが届いていたが、今月は全く届かない。料理長はヘンリエッテに何度も訴えたが対応して貰えない為、残り物を使うしかなかったとのこと。
「どういうことだ。仕入れの指示は当主夫人の役目だろう!」
「怒鳴らなくたっていいじゃない。私、良く分からないんだもの……」
しくしくと泣き出す妻に慌てて「怒鳴って悪かった。これから覚えてくれればいい」と謝り彼女の頭を撫で続けると、ようやく泣き止んでくれた。
しかしその後も妻は何もしなかった。やることと言えば日がな一日お茶を飲んだり本を読んでいるだけ。
俺が怒ると泣き出してしまう。仕方ないので、家の管理も俺がやることにした。執務に加えて家政までやらねばならなくなり、睡眠時間は削られていく一方だ。
何かがおかしい……。そう感じ始めていたが、俺はその不安を必死に頭から排除していた。
「妻を見なかったでしょうか?」
その日はバッヘム伯爵家の夜会に夫婦で出席していた。知り合いに挨拶をしているうちに、妻の姿が見えなくなってしまったのだ。あそこにいるよ、と指さされた方には……見知らぬ紳士に腰を抱かれて歩いていく妻の姿があった。
「ヘンリエッテ!何をしているんだ」
「あら、旦那様」
「君の夫かい?それじゃあ、俺は失礼するよ」
そそくさと立ち去っていく男を尻目に俺は「あの男は誰だ!?」とヘンリエッテを問い詰めた。
「えーと、イグナーツ様だったかしら?あちらでお話ししようと誘われたの」
「君は結婚しているんだぞ。他の男に誘われてホイホイついていくなんて」
「ここは社交の場でしょう?話し掛けられたから、お応えしただけよ。何が悪いの?」
不思議そうに首を傾げる妻を、酷く不気味に感じる。何だ、これは。この女は本当に、あの弱弱しく嫋やかなヘンリエッテなのか?
ずっと追いやっていた不安が頭から離れず、眠れなくなった。ただでさえ睡眠時間が短いのにこれでは身体が参ってしまう。俺は長く勤めている使用人に、父の愛人について聞いてみることにした。
「私は存じません。大旦那様は、愛人を家へ連れてくることはありませんでしたから……。フランツさんなら何か知っていたかもしれませんが」
フランツは以前我が家に勤めていた執事だ。有能だったと聞くが、ある日突然辞めてしまった。その理由を聞いても母は口を閉ざしていた覚えがある。
「お久しぶりです。テオフィル坊ちゃん……いえ、今はリューデル子爵ですね」
今は男爵家へ執事として勤めているというフランツを訪ねてみると、彼は懐かしそうに目を細めて俺を出迎えた。挨拶もそこそこにヘンリエッテを知っているかと聞いた俺へ返ってきた答えは「ええ、あの女のことはよく存じておりますよ。私が解雇されたのも彼女が原因ですから」だった。
ヘンリエッテは本当に父の愛人だった。まだ未成年の彼女を囲う父を、フランツは何度も諫めたらしい。それを厭った父が彼を解雇した。母はせめてもと再就職先にこの男爵家を紹介したそうだ。
「旦那様と別れた後、実家へ戻ったと聞きましたが。あの女性がどうかなさいましたか?」
「いや、その……」
「その後、貴族が出入りする酒場や社交倶楽部に勤めてはトラブルを起こしていたようです。失礼ながら、あのような女性とは関わるべきではないと存じます」
母が正しかった。俺は、騙されていたんだ。
挨拶もそこそこに男爵家を後にした俺は、すぐに妻へ離縁状を叩きつけた。「どうして?一生守るって言ってくれたじゃない!」と泣きわめく彼女を追い出し、すったもんだの後にようやく離縁が成った頃には、半年近くが過ぎていた。
リューデル子爵は股の緩い女に騙されたバカな男。そんな噂はあっという間に社交界に広まった。しかも我が家の財政は傾いている。ヘンリエッテの無駄遣いもあるが、あの悪妻の対応で執務がおろそかになっていたせいだ。
頭を抱えた俺が頼る相手は――母しかいなかった。今は祖父の商会を手伝っておりなかなか羽振りがいいらしい。母は優秀で心優しい女性だ。息子が困っていると知れば、きっと手を差し伸べてくれる。
「だめよ。私には商会の仕事があるもの。新しい妻を迎えればいいでしょう?」
こんなぼろぼろの状態で、新しい妻が来るわけが無いだろう。しかも息子よりも商会の方を優先するのか?と内心憤る。だがここで母を怒鳴りつけるのは得策じゃない。
本当に困っているんだ、と母へ懇願した。我が家を立て直してから商会へ戻ればいい、と下手に出たつもりだった。それなのに返ってきた答えは否だった。
「貴方はもう、一人前の大人でしょう。私に頼るべきではないわ」
「そんなに金儲けが大事なのか?自分の血を分けた息子が困っているというのに!」
「私はね、もう貴方たち親子に愛想が尽きたの。あれだけエックハルトのようになるなと言い聞かせたのに……結局、どこまでいっても親子なのね」
「俺は父上みたいに浮気したり、執務を他人に押し付けたりしていない!」
「でも結局、同じ女性に引っ掛かったでしょう。それに理由は違えど、彼女にかまけて執務をおろそかにしたことに変わりはないわ」
どれだけ頼んでも母は折れなかった。ついには警備員に放り出され、俺はとぼとぼと家路についた。
それから数年後、俺は再婚した。妻のロスヴィータはアルント子爵家の令嬢で、夫の浮気相手に子供ができたために離縁されてしまった曰く付きの女性だ。
彼女には悪いが、浮気された理由は分かる。ずんぐりした身体つきに大きい鼻、細い目の彼女はどう取り繕っても美人ではない。流行のドレスを着てもパッとしないどころか、ドレスだけが浮いているようで夜会に同伴するのも恥ずかしい。
「旦那様、私を愛してくださる必要はないですよ。出戻りを引き取って頂けただけでも有難いと思っております」
ロスヴィータはそう言っていつも朗らかに笑う。彼女は精力的に家政や社交をこなし、執務も手伝ってくれる。おかげでどん底だったリューデル子爵家は徐々に立ち直りつつある。明るく優しい彼女は使用人からも人気だ。
妻には本当に感謝している。大切な家族だ。……なのにどうしても、女性としては愛せない。申し訳ないとは思う。女性として扱うのが、夫としての礼儀だと分かっているのに。
ヘンリエッテのように美しく、ロスヴィータのように献身的な妻と愛らしい息子に囲まれる生活……俺は今日も、そんな夢想に浸る。胸を吹き抜ける、空虚な風と共に。
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