8.加速
前回までのあらすじ
葉一がふられた。
葉一は無言で帰宅し階段を昇る。
いつもの母親の声かけすら無視して部屋に入り椅子に座る。
勉強どころではなく頭を抱えた。
微小なうめき声だけがその口から漏れていく。
言うべきでなかった言葉やするべきでなかった態度が新鮮な黒歴史となり、常時その心を傷つけ出していく。
合格して見返してやるなんてとても思えない。
叫びたくなる衝動を抑えつけるだけが精一杯なのだ。
ふつふつと沸き起こるどうしようもない怒りにも似た感情。
制御できない感情はさくらに対してか自己に対してか。
今葉一にとって最も必要なのは『時間』なのであろう。
だが、母親が心配のあまり階段をあがってくる音が聞こえる。
葉一は、遠回りして家に帰れば、家に帰った段階で平素を装っていれば、外食してきたとでも言えば、その時間を稼げていたであろうに。
母親が部屋をノックする。
「大丈夫?。もうすぐご飯だから降りてらっしゃい。」
ドア越しの母の言葉も頭に巡る『甘えている。』とのさくらの言葉にかき消される。
「今日は要らない。」
母親にしてみれば、無言で帰宅し食事も不要という一人息子を心配するなという方がもとより無理な話だろう。
父親が帰っていればそっとさせていたかもしれないが、不運な事にまだ仕事から帰っていない。
そういう意味では少し過保護なのかも知れない。愛情と保護の境界線はあいまいなものだから。
「また熱出たの?大丈夫?」
心配した母親が無断で部屋に入るのは、大きな愛情なのかそれとも過保護なのか。
相手に対する自分の愛情の度合いを測る方法として、例えば自問自答する手法がある。
『相手のためにどれだけ自分を捨てられるか』というものだ。
お金ならいくら?加えて指?腕?脚?それとも眼球?
多くの『親』は『子』のために言う。『全て』だと。
しかし問題は、『全て』捧げるのだからどうしても『子』の『全て』を関わり把握したくなること。
子の黒歴史に親は自ら積極的に関わるべきではないのだが。
『甘えている。』とのさくらの言葉が頭いっぱいに膨らむ葉一に対応するには、悪手となる。
俺は甘えてるんじゃない甘やかされているんだという葉一の怒りが、入った母親に向く。
「勝手に入ってくんな!」
投げた空の陶器カップは母の額に当たり少し血が出たのが見えた。
決して当てようと思ったんじゃないと口にするより先に母は「ごめんなさい。」とドアを閉めて降りていった。
階下に降り謝りに行かなければならない。
だが行けないうちに父親が帰ってきた。
当然、母親の怪我を見た父親が部屋に来ることになる。
ノックもせずに入ってきた父親はその怒気を露にする。
「母さんに怪我をさせるとはどういうつもりだ。」
後ろから母の声が聞こえる。
「当てようと思ったんじゃないのよね?ビックリさせようとして手元が狂ったのよね。」
今更肯定なんてできない。
過保護に迎合したように思えるから。
「母さんの過保護にうんざりしたんだよ。」
父親は腕を組み仁王立ちしている。
「怪我をさせる理由にならん。」
父親の後ろから「私がノックせずに入ったから。」と葉一をかばう母親の声が、葉一の怒りを理不尽に加速させる。
「うるせえよ。」
例え父親の怒りに油を注ぐ事になろうとも。
「お前がそういう考えなら家には置いてはおけない。今月中に家を出ろ。」
その結果、予想通りの言葉を言われる事になっても。
ぐるぐる回る黒歴史が謝って平穏な日々に戻る事を許さない。
どのみちこの家に居れば、司法試験受験を諦める事もできそうにないのだから。
「今月中と言わず今週中には出てくよ。だからもうほっといてくれ。」
両親が出て行った後、携帯で借家を探す。
出張族用のマンスリーマンションを見つけた。
市民会館と家との反対方向に徒歩15分程行った飲み屋街に近い場所。
貯金は100万円近くある。
もともと翌日及び翌々日のシフトは休日であった。
本来ならさくらの送別会だけ出席する予定。
なんなら付き合っていることを報告しようかとも思っていた送別会。
行けるはずもなく気力もでるわけがない。
仙斗にでも相談すれば、「頭グリグリになっちゃってひどい事言ってごめん。とでも言えば許してくれるだろうし、もう一度友達に戻って様子見すればいいじゃん。」とでも答えてくれそうだが。
その仙斗をも裏切ってしまった葉一にはどうすることもできない。
翌朝一番で不動産屋に行った。
マンスリーマンションは割高だが全ての電化製品と家具は初めから揃っている。
わずかな必要物と衣類があればすぐに生活が可能だ。
とはいえいくら借りるのが容易なマンスリーマンションとはいえ、不動産屋では本人確認の他、職場確認がある。
葉一は今日契約するために会社を休んだと誤魔化した。
その上で職場には家を借りることを秘密にしたいとお願いし、知り合いのていでピンチーフの四谷葉一は居るかと職場確認してほしいと要望すると、慣れているのか担当者は快諾した。
席を外した担当者は不動産屋と怪しまれず1分もたたず上手に勤務確認を終え、葉一は肩透かしを食らった気分になっていた。
さくらの残り香のするバイトにはもう行きたくもない。
だが、送別会で自分も辞めたことは知られたくない。
仕事と送別会でさくらと会うのがイヤだとは認められない。
負け犬根性丸出しの葉一を責める者は誰もいない。
ただひたすらに2連休であることにほっと一息つく葉一だった。
夜に荷造りする葉一。
母親が「住む所決まれば…」とか「冷静になったらいつでも…」とか色々声をかけてくる。
さくらの言葉は相変わらず頭の中を巡るが、実際に家を出るとなると謝罪の言葉も口を出る。
もとより単なる八つ当たりに過ぎず、葉一の両親への愛情はそれなりにあるのだから。
「母さん。怪我させてごめん。言い訳になるけど当てるつもりはなかったんだ。ただこのままここでズルズルと生活するのも違うと思うから。」
そんな言葉でも母親にとってはありがたい言葉となる。
親離れの時期なのだと自分に言い聞かせる事もできる。
母親は父親からも過保護を指摘されており、言い争いの種になることもあった。
そんな中、葉一の言葉は充分に救われるもので母親は大人しく階下に降りていった。
翌日の昼にはマンスリーマンションの鍵をもらいUBERでタクシーを予約する。
バイトに行くのに使ってた車は、親の名義であったので乗って出る事はできない。
そんな事を考えながら重いバッグを2つ玄関に並べタクシーを待っていると、やはり母親があれこれ声をかける。
母親は新しい家を見たくて仕方がない。
見れないにしてもせめて住所は知りたい。こっそり見に行きたい。
それをのらりくらりと拒否し「落ち着いたら連絡する。」の一言で済ませ、玄関を出て逃げるようにタクシーに乗り込んだ。
部屋に着いた葉一は職場に電話をかけ、いきなりで申し訳ないがと切り出した上で、家の都合で辞めなければならないと伝えた。
チーフを2人も交代することになるのでせめて葉一だけはと粘られたが、改めてお詫びの挨拶も兼ねて顔を出すとひたすらの謝罪で乗り切った。
JRの駅まで徒歩10分程度。
駅のそばにある携帯ショップに行き、携帯を新規で契約する。
事あるごとに母親から電話がかかるのは簡単に予想できたから。
駅に隣接するダイエーでこまごました買い物をすませ、かまどやで弁当を買って帰った。
ベッドに腰掛け部屋を見渡す。
見慣れたものはなにもない。
こうして葉一は、じくじくと疼きながら膿を出す黒歴史を抱える新生活を始めたのだ。
黒歴史の治療薬ができたらノーベル賞もらえそうですよね。