6.転換点
葉一が4回目の受験を失敗した翌月、きっかけは偶然。
葉一が帰ろうと駐車場に向かう時に会館の外で、仙斗がさくらに金らしきものを渡しているのを見かけたことであった。
その時は仙斗が金を返してるのかと思いながら運転して帰った。
だが帰宅後もその光景が頭から離れない。
最後の受験に向かわなければならないのに全く手につかない。
あの時ぺこぺこと頭を下げてたのは、確かにさくらの方だった。
となればさくらが借りたのか。
なぜ仙斗に声をかけたのか。
疑問と推測はグルグルと頭を巡る。
すぐにでも仙斗に電話をかけたいが、覗き見してたように思われるのも憚られる。
勉強が全く手につかず、かといってその話題に触れる事もできない数日を過ごしていると、仙斗が葉一に声をかけてきた。
「そういえば俺まだ葉一から誕生日メシ奢ってもらってないぞ。」
渡りに舟だ。
「え。あ。そうだっけ。何なら今日の帰りに行くか。」
ナイスタイミングと2人は居酒屋へ向かった。
乾杯とお祝いを終え無駄話もひと段落ついた時に葉一は切り出した。
「急にメシ思い出すだなんて今月貧乏してんのか。」
仙斗が口籠る。
「別に貧乏ってわけじゃないけど…。」
葉一が先日の件を言うか言うまいか悩んでいると、仙斗は焼鳥の串をプラプラ振りながら意を決したように話し出した。
「さくらの演劇のチケットを40枚買ったんだ。」
「それっていくらなんだ。」
「10万円。だから今月心もとなくて。」
薮をつつくから蛇が出るのだ。
葉一の呼吸はほんの少し浅く早くなる。
「なんで?」
かろうじてそれだけ言えた。
仙斗はそんな葉一の様子にも気づかず続ける。
「なんか劇団チケットの販売ノルマがあるみたいでさ。負けたくない相手がいるらしくて1枚でもいいから買ってくれないかって言われたんだよ。」
葉一にはそんな声はかかっていない。
葉一の頭には警報が鳴り響く。
『これ以上話を進めるな。』と。
だが止まれるはずもない。
「じゃ1枚でいいじゃん。なんで40枚も買うの。おかしいよ。」
早口で捲し立ててしまう。
「俺、さくらの事が好きなんだ。」
頭の警報が言う。
『それみたことか。』と。
それを振り払うかのように言う。
「前にさくらってケチくさいから嫌だ。とか言ってたじゃん。」
さらに言ってしまう。
「付き合ってるの?」
もはや頭の警報は無音を保つ。飛び降りた人間に警告が無意味なように。
「いいや。」
葉一が息を吹き返す前に仙斗は続ける。
「でも告白はしたよ。」
「フラれたのか。」
「それも違う。」
葉一は混乱の中
「じゃどういうことだよ。」
平静を保てないのか少し声が大きくなる。
対象的に仙斗の態度は清々しいような堂々としたような、まるで覚悟を決めて斬首を待つ罪人のように静かに話し出した。
仙斗がさくらを好きになった過程。
そして全力を尽くして支えてやりたいと思った事。
そして桂樹から言われてる事。
「俺はさくらに好きだと伝えた。そしてさくらは俺に『金で買えない物』をくれた。その時からさくらの道を支えたいと思った。だから今は付き合ってくれとは言わない。ただいつかは金で買えない『さくら自身』が欲しいと思う。それまでは一番近い『ファン1号』のままでそばに居たい。と言ったんだ。」
仙斗はスッキリとした顔で続ける。
「さくらは理解してくれたよ。だからもっと収入が必要なんだ。俺来月でバイトを辞めて叔父の仕事を手伝う。」
さらに続けた。
「さくらも来月バイトを辞める。全力で女優を目指すためだ。」
つまり葉一には転換点があった。
熱を出した日の翌早朝、ほぼ平熱まで下がった時、バイトを行くかどうか悩んだ時だ。
そんな葉一の考えにも気づかず仙斗は自らの決意に酔いしれるように語る。
「だから俺は最後に『金で買えない幸せな家族』が手に入ればいいんだよ。」
その後葉一は何を話したかほとんど覚えていない。
我に返ったのは自室のベッドに寝転がった時だったからだ。
ただ覚えているのは『自分もさくらが好きだと言っていない。』という事実だけだ。
寝静まった四谷家を葉一の想いだけが埋めていく。
もう何もかも手遅れなのか。
逆転の一手はないか。
友達なのにもっと早く教えてくれれば。
付き合ってないなら俺が告白してもいいのではないか。
金貸しの手伝いより将来の弁護士の方がきっと高給取りだ。
どこで間違えた。
どうすれば良かった。
取り留めもなく浮かんでは消える。
『大事な事は太陽の元で考えなければならない。決して夜中に考えてはいけない。』
この禁忌を犯した者に対する罰のように葉一の想いはひたすらに黒く深く沈んでいく。
恋心を前進の糧とした者はそれを失いそうになった時いかにすべきか。
その答えは誰も知らない。
翌月になり仙斗は宣言通りバイトを辞めた。
さくらも明日には辞めるそうで送別会がある。
これまで悶々とすごすだけで何もできなかった葉一に時間がその背中を押す。
「さくら。ちょっといいかな。話があるんだ。」
葉一にはここがもう一つの転換点である事を知るすべはなかった。
人生のターニングポイントは過ぎ去ってしか気づかないもんですねぇ。