5.四谷葉一
時間は少し遡る。
「葉一さん大丈夫?」
リビングに降りてきた葉一に母親が問いかける。
「もう熱も下がったし大丈夫だよ。」
ソファで新聞を読んでいた父親も気にしている。
「もうすぐ本試験が始まるんだろ。バイトなんか行ってないで出来るだけ養生していないと。」
葉一はほんの少しだけ苦い表情を見せる。
模試ではB判定であり、あと一息頑張らなければならないのは分かっている。
だが人に言われるとやる気が減るのも事実。
葉一は返事ともつかない曖昧な声を出し、冷蔵庫のお茶のペットボトルを取ると、部屋に向かい階段に足をかける。
「もうすぐ晩ご飯よ。」
母親の呼びかけに「できるまで勉強する。」といつもの返答を繰り返す。
部屋に戻った葉一はベッドに寝転がり携帯を開く。
今朝早くに上司と爽太に熱で休むと連絡した。
今日は中ホールで司会をピンスポットで押さえるだけだし爽太に任せれば問題ないだろう。
さくらも葉一が休んでるのは分かってると思うが心配するようなメッセージはない。
もっとも今までさくらから病欠を心配したメールは届いた事はないのだが。
がっかりしながら仙斗に熱が引いた連絡を入れる。
さくらからの連絡があれば勉強に向かうテンションも上がるだろうに。
だがさくらに熱が引いた連絡を入れるのも筋違いだ。
葉一は携帯を放り投げ、上がらないテンションのまま寝転がって天井を眺める。
司法試験を突破するには主に2つの方法がある。
一つは法科大学院に進み卒業する。
もう一つは予備試験に合格する。
このどちらかをクリアすると本試験に進む。
本試験は年1回であり、5回のチャンスが与えられる。
大学2回生で予備試験に合格した時は余裕だと思った。
3回生となり本試験を受けた時にその困難さを思い知った。
不合格となったテンションでは就職活動に入る事もできず、一年頑張ればと考えているうちに4回生になった。
大学レベルの授業では司法試験受験生はほぼA判定を取れる。
そういったことも知らず影響していた。
2回の不合格となった時、両親は費用は出してやるから法科大学院に進学して、充分実力を付け足した上で再度5回のチャンスを手に入れればどうかと提案してきた。
だが葉一は予備試験を合格したプライドからか、それを受け入れられなかった。
あと3年あれば何とかなると自分に言い聞かせながら。
さらに親に甘えている状態が卑怯のように感じた葉一は、今のバイトを見つけなるべく自分でやりくりしている。
実家住みで家に1円の金も入れていないが、まさに規模も収入も一般家庭の平均である四谷家であり、大学の学費もかからなくなった一人っ子のその程度の負担は何の問題も無かった。
この夏が4回目の受験となる。
さくらに好意を持っていた葉一は、司法試験に受かり告白する妄想に耽っていた。
だが毎年繰り返す受験は不合格を重ねる度、停滞感と焦燥感もまた重なる事となり、少しずつ葉一の精神を削っていく。
一生受からないのではないかという不安感はいついかなる時何をしていても、大小の違いはあれ決して身体から離れることはない。
現実的に5回目の受験が失敗に終わると本試験受験資格を失い、再び法科大学院か予備試験かの2択に逆戻りする。停滞どころではない。
では受からなかったとしたらスッパリさくらを諦められるのか。
結局のところ恋愛弱者が前に進むための言い訳に過ぎず、諦めるための手段も分からない。
いつまでも現状維持が続くのは当然の帰結である。
時の歩みを司る神は進歩をやめた者に容赦はしない。
すべからく世の中は下りのエスカレーターを駆け登るようなものなのだから。
好意がありながらも合格するまでと告白せず、全力を尽くして受からない事を恐れ「もう少しで合格する受験生」という儚い地位を守るがごとくバイトを続け、恋を諦める事ができずに受験をする葉一の姿は、結局保険と逃避の積み重ねに過ぎない。
外部から絶望的な傷をつけられて強制的に気づかされる前に、葉一自らがその事に気づくとしたなら如何なるきっかけが必要だったのであろうか。
「子どもだったんですよ。何もかもが。」
葉一がバーカウンターでそう語るには、まだまだ年月が必要であった。