3.山吹さくら
前回までのあらすじ
仙斗が惚れた。
さくらは想定以上に上手くいった仙斗の誕生日祝いにご機嫌で会館を出た。
だが家に向かう一歩一歩が現実に引き戻していく。
だいぶ遅くなってしまった。
明日は朝一で劇団に顔を出さなきゃいけないし、今晩のご飯は市民会館でもらったポテチとチョコレートで済まそう。様々な考えが浮かんでいく。
お菓子で済ますと翌朝起きてすぐお腹が減るけど用意する時間も買うお金もない。
ああ早くシャワー浴びて肌ケアをしないと。
ゆっくりお風呂に浸かりたいなぁ。
そんな事ばかり考えていると時々泣きそうになる。
18歳で家を出てからもう5年経つが、現状は芳しくない。
所属の劇団は小さいが家や職場との距離的にそこしか無かった。
さくらの入団前には移籍してしまっていたが一応そこそこ有名な俳優を輩出した事もある。
もちろん優しい先輩もいる。
だがさくらは知っている。台本の漢字が読めなかったさくらは高卒だからとバカにされていることを。
さくらが通っていた高校はごく普通の高校だったが、漢字が演劇の役に立つとは思えず力を入れて学ばなかったことが裏目に出た。
先輩方は演劇論を楽しげに語りあっていてもさくらはその輪には入れなかった。
音響職としてのさくらは劇団では評価されているし、一番歳が若いのもあって劇団内ではたまに役もあった。
しかし感情表現を伴う役は一度も無かった。ということは夢見る裏方への監督のご褒美なのか。
家で漢字ドリルをしながら、突如襲いくる言いようもない怒りに包まれて、ドリルを壁に投げつけた事は数え切れない。
その度にのろのろと立ち上がり、何もかも投げ出したい激情を抑え込んで自分にはもうこれしかないのだからと机に座り直した。
そんな時は気分転換に台本を持ち、主演の役をやって妄想に耽るのがささやかな楽しみ。
さらに市民会館の舞台で主演の台詞を言いながら歩く。
さくらの体型は中肉中背であり、自他共に認めるまさに『普通』だ。
市民会館大ホールのピンスポットライトと舞台との距離は50m以上離れており、舞台の上で動く者はすぐ新人スポット係の練習の標的となる。
仙斗から、道具係に当てられると暑くて眩しくて仕事にならんとクレームがついてからは、さくらの音響チェックでうろうろと歩く姿は格好の練習的となった。
そんな中、音響チェックが終わってからも主演の台詞を喋りながら舞台を歩き回るさくらは、新人から練習に協力してもらってると感謝されていた。
スポットライトを浴びながら歩くさくらにとっては単に都合の良いストレス発散策だったが。
人よりスポットを浴びた事が自信にも繋がった。
けれど数々のオーディションを受けても端役程度しか取れたことがなかった。
ならばと発声及び声楽の先生の紹介もあってシティオペラにも所属した。
少しでも有利な点を増やしたいからだ。だがそこでも輪に入ることはできなかった。
いくら半分趣味団体といえど声楽出身者が多いシティオペラでは、声域が広くカラオケが上手い程度で通用する世界ではない。
多くのメンバーが子どもの頃からピアノやヴァイオリンを嗜んでおり、そうでなくても吹奏楽を長年していた。
乳幼児時代から音楽に囲まれ絶対音感なんてあって当然といった中で、さくらがここでも孤立感を感じるようになったのはやむを得なかったろう。
「これどうしよう。」
帰宅して服を脱ぎながら机の上に置いてあるチケットを見て手が止まる。
1ヶ月後の劇団公演チケット。さくらの割り当ては10枚だが、まだ1枚も売れていない。
1枚2,500円のところ劇団員は2,000円で買う。売れば売るほど本人の利益も上がるといった寸法だ。
だが、そんなに都合の良い話はなく、事実上の自腹強制。それでも一番若いからとその他の団員に比べ半分以下にしてもらっていては文句のつけようがない。
昔好きな女優のインタビューを読んだ。
そこには役柄作りに大事な事として、自分の心の湖を鏡のように凪に保つ。そこに役を落とし込み波紋を心身に刻むのだ。とあった。
それに感動して以後それを真似るようにしている。
「毎日さざなみだらけで凪なんて感じられるわけないじゃない。」
独りごちながら洗面器に湯を溜める。
シャワーの音に紛らわせて、洗面器に溜めた湯に顔をつっこみながら叫んだ。
「なぎーーー!」
さくらの悲鳴にも似た叫びは文字のごとく泡のように消えた。
翌朝劇団で新人の顔合わせがあった。
「黒木百合です。19歳です。よろしくお願いします。」
細身で童顔寄りだが中学生にも大人にも見える。身長はさくらより少し高いくらいか。肌艶は血色良くセミロングのストレートヘアには天使の輪が輝いている。まさに清純派といった感じだが、服にはお金がかかってるような印象を受けた。
団長が紹介を続ける。
「彼女は元地下アイドルユニットに属してて知名度もあったんだけど解散しちゃってね。もとより俳優業を目指してたのもあって入団希望があったんだ。」
えらく団長のテンションが高い。
「しかもだね、次回公演のチケットを80枚も捌いてもらったんだ。」
感嘆の声に包まれる中、百合は笑いながら答えた。
「SNSで転身の報告を兼ねて公演告知したら、たまたま何人かのファンの方がまとめて買って頂けるって事でお祝いみたいなもんですよ。」
毎回資金集めで四苦八苦な団長がご機嫌になるのも分かる。
「それだけ君のファンのお客さんが来られるなら、少し脚本変えて台詞ある役作ろうか。」
誰も何も言わない。入団後いきなり一番チケットを売って貢献した者に何を言う事が出来ようか。
80枚だと4万円の収入。そしてさくらは2万円の自腹。
「そんな…申し訳ないですけど嬉しいです。」
晴れやかに笑う百合の姿にさくらは湖面のさざなみが大きくなったのを感じた。
1週間後再び百合と会った時には百合は完璧に台本を覚えていた。
しかもその台本には百合に新しく村長補佐なる役割がつけられており台詞もあった。
さくらは村人E。台詞は「そーだそーだ」が2回。他の村人は兼役で他の役もあるのに。
解散して先輩の小田真希と黒木百合と3人で帰る事になった。
真希が百合をベタ褒める。
「百合ちゃんすごいねぇ。細かいとこまで完璧じゃない。」
百合は優しい笑顔を浮かべている。
「ありがとうございます。でもこれに100%全力を尽くせるので当然ですよ。」
「それでも大したものよ。私なんて30近づいたせいか台詞覚えるのも大変で。」
「真希さんは旦那さんのご飯も作らなきゃいけないですし色々忙しいですから。それに高校演劇部の楽しさが忘れられず所属しちゃった『なんちゃって趣味団員』だって仰ってたじゃないですか。」
「まーね」と言うや立ち止まる。
疑問に思い真希を見ると「あ!帰りに晩御飯の材料買うの忘れてた。じゃまたねー。」と返事も聞かず小走りに交差点を曲がって帰って行った。
急な静寂の中、さくらのさざなみが要らない一言を喋らせる。
「私も生活あるから全力なんて無理だし、いいとこのお嬢さんってホントうらやましいわ。」
さくらのわずかな棘に勘づいたのかどうか
百合は今その存在に気づいたようにさくらを見る。優しい笑顔のままだ。
「んー…私思うんです。劇団の世界で上に上がりたいと思ったら全力は当然でしょ。この世界片手間でやれるほど甘いものじゃないですし。地下アイドルやってた時もあったんですけど、バイトで忙しいからとダンス覚えきれない娘とか皆んなの足を引っ張るんですよ。」
さくらはたじろぎながらも言い返す。
「でもその子も生活もあるんだから仕方ないんじゃないかな。」
百合の笑顔は変わらないが状況を考えると貼り付けた笑顔に違いない。
しかしその感じは一切伝わらない。本当に19歳なのか。
「プロの世界「だけ」で考えると他の子は皆100%以上出してるのにその子は50%しか力を入れてないんです。上に合わせるか下に合わせるかは、プロの世界か趣味の世界かを考えると簡単に答えが出るでしょ。結局その子には辞めてもらった結果、私達のユニットは完璧なダンスが評価され人気も爆増しました。後で聞いた話ですが、その子は辞めてから全く別の趣味のダンスチームに入ったらしいです。そこだと頭一つ抜けてたみたいでそれなりに楽しくやってたそうですよ。」
さらに和かに続ける。
「聞いた話ですがうちの劇団に元いた俳優さんも、より高みを目指すために別の劇団に鞍替えしたらしいです。真希さんは趣味の人ですが、それまでの積み重ねた年数分しっかり表現できてますし、私はまだそこには届いていないと思います。だから追いつき追い抜くよう100%以上で頑張るんです。」
二歩前にステップを踏んでくるりとターンを決める。
軸ブレなど全く無い。バレエをやってたと言われれば信じてしまうほどに。
そして世の中の黒いところなんて全く知らないといったおどけた笑顔で言う。
「自分では『ユリパーセント』って名付けてるんですけどねー。」
さくらも薄々は理解していた。『環境』も才能のうちだと。人はそれを親ガチャと言う。
それすらプロの世界ではどうでもいい。ただひたすらに身体の重りを引き剥がし、後押しするオプションを増やし、登り続ける。目の前の娘はいつその覚悟を身につけたのだろうか。
「じゃあ私こっちなんで。」
そしてとびきりの笑顔で付け足した。
「さくらさんが何%で進んでるかは知りませんけど、それでプロの女優になるだなんて、すごい才能を秘めてるんですねぇ。一般のお嬢様ってホント羨ましいわ。」
走り去っていく百合の後ろ姿を眺めながらその恐ろしさを感じていた。
百合は確実にさくらの棘に気がついた。
その上で一片たりとも心情を出さずに笑顔を崩さず、確実に最も効果的な方法でさくらを攻撃した。
そして完璧な勝利を得た。
正論は時に誹謗中傷とは比べ物にならないくらい人を傷つける。
どうしようもない敗北感の中、さくらは今夜は浴槽に湯を溜めることにした。
そして潜った湯の中でどれだけ叫んでも救われないのも分かっていた。
百合怖い・・・