プロローグ
そこは誰もが辿り着ける場所ではない。
強い意志、決意、覚悟。
死すら厭わぬ心を持ち、三日三晩、休むことなく歩き続ければ、最果てに住む精霊使いに会えるかもしれない。人智を超えた力で、不可能を可能に変えることができる伝説の精霊使いに。
着ていたラズベリー色の服がボロボロになり、革のブーツはヨロヨロになっていた。三つ編みにしていたシルバーモーブの髪はほつれ、足取りは限りなく重い。まさに心身共に限界になった時。
それは見えた。
まるで童話に出てきそうな、森の中の魔法使いの家のようだ。
青い三角屋根に煙突。私の疲労具合とは無関係に、ドーナツ型の煙が、ポコポコと宙へ吸い込まれていく。牧歌的だった。
丸い木のドアをノックすると、ようやく会うことができた。
最果てに住む精霊使いに。
「おや人間が来た。いつぶりだろう。よく来たもんだ。まあ、入んな」
母親……祖母ぐらいの年齢のグレーのローブを着た女性……精霊使いが、私を迎えてくれた。ログハウスのような丸太を重ねた壁。梁がむき出しの天井。部屋の中央にある太い木の幹。この家は、一本の大木を取り囲むように建てられていることを、実感する。
「さあさあ、寛ぐといい」
出された飲み物は、何なのか分からない。でもブラックティーでもなく、フルーツジュースでもない。ティーカップの中の琥珀色の飲み物を眺めると、疲れ切った私の顔が映りこんでいる。転生前よりうんと若返り、十八歳になれたのに。これでは前世と同じで、疲れ切っちゃっているわね。
そんなことを思いながら、カップを口元に運ぶ。
ほんのり甘く爽やかで、飲むと疲れが取れるようだった。
「それでこんなところまでやってきた、お前さんの用件を聞かせてもらおうじゃないか」
こうして私は、こんな場所までやってきた理由を話す。
すべてを聞いた精霊使いは、被っていたローブのフードをおろした。長い銀髪を揺らし、銀色の瞳を私に向ける。
「この世界では、願いを叶えるには、対価が必要だ。そして精霊使いであるあたしはね、金になど興味はない。森の中で暮らしている。金なんぞあっても、使い道はない。宝石? ドレス? 着飾ってどうする? あたしは人嫌いだ。社交なんてしない。着飾るような物は不要だよ」
想定通りの答えだった。だから落ち着いて私は答える。
「偉大なる精霊使いであるマギアノス様。私は物を対価として差し出すつもりはありません。大いなる力を持つあなた様でも見たことがない世界を、お見せすることを約束します。これを対価に、あれを譲ってください」
私の言葉にマギアノスは、目を細める。私が対価として差し出そうとしているものが、その銀色の瞳では、見えるようだ。しばらくその目で私を見た後、彼女は答える。
「なるほど。これは面白い。確かに見たことがない。よかろう、それを対価に、これをあんたにやろう」
「ありがとうございます」
◇
「ユリアナ・オルセン、君は自分がしたことが分かっているのか! 公爵家の令嬢でもあり、僕の婚約者という立場でありながら、なんてことをしているのだ!? 僕の誕生日を祝う、宮殿で行われているこの舞踏会で、君は男爵家の令嬢であるサラミス・ジョーンズに毒を盛った! 公衆の面前でこんなことをするなんて、信じられないぞ!」
私の婚約者であり、この国の第二王子のロッド・ブレッド・ダグラスが、目を吊り上げる。ブラウンの髪に青いその瞳は、かつて優しく私に向けられていたのに。その時の面影は、今はない。
周囲の貴族達の顔は青ざめ、マダムの中には悲鳴をあげる者、令嬢の中には気絶する者もいる。
ロッドの腕の中には、カナリア色のドレスを着たサラミスが抱えられている。ブラウンの前髪の下の目は閉じられ、少し開いた唇からは、赤い筋が見えている。ドレスの胸元の辺りは、薄く赤いシミが、大きく広がっていた。
アイリス色のドレスを着た私の手には、白ワインが入ったグラスがある。そのグラスには、シルバーモーブの髪に、プラム色の瞳の私の顔が、映りこんでいるのが見えた。そして私のドレスの裾のすぐ近くには、中身がわずかに残る、ワイングラスが転がっていた。
サラミスが口をつけた、赤ワインの入っていたグラスだ。
それを見て、ロッドの言葉を反芻する。
私が、毒を盛った……?
そんなことはしていない。
むしろ、毒を盛ろうとしたのは、サラミスの方だと思う。
なぜなら私は、サラミスとロッドに、命を狙われていたからだ……!