ああ、幸せだな
ああ、幸せだな。
幸せすぎて眠くなっちゃう……。
辛いことが何かあった気がするけど、全部もう大丈夫。
全てがふわふわしていて楽しくて、思わず笑顔になった。
このまま、寝ちゃっていいのかな?
いいよね。もう、疲れちゃったもん。
やっとこれで安心して眠ることができる。
明日もいい日でありますように――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
どうしてこうなってしまったんだろう。
肩を震わせてガクガクと笑い転げる彼女の姿を見て、僕は思った。
僕だけが彼女の苦しみに気づいてあげられたはずなのに。僕だけが彼女に手を差し伸べることができたのに。
僕は気づかなかった。気づけなかった。
だから彼女は壊れてしまったんだ。
僕の大好きだった君。
君は小さな時から気が弱くて、そのくせに強がっていたっけ。
どんなに怖くてもどんなに痛くても、君は絶対に泣かなかった。震える手で僕の手をぎゅっと掴んでくるのが可愛くて、僕は大好きだったんだ。
なのにどうしてあの時変に思わなかったのだろう。
……君が苦しそうに笑った姿を初めて見たあの日、何か言えば、きっと君を救えたんだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
誰か、誰かが私を呼んでいる。
ねえねえ、あなたはだあれ?
呼ぼうとするけど声が出ず、喉から掠れた息が漏れるだけ。
おかしいね。なぜかおかしすぎて笑っちゃう。
この世界はいっぱいの希望で満ち溢れてるんだよ。
どうしてそんな悲しそうな顔をするの?
もう辛いことなんて何もないのに、まるで世界の終わりみたいに。
ねえ笑って?
私、今とっても幸せなんだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「もう、どうにもならないんですか」
今にも泣き出しそうになりながら尋ねた僕に、疲れ切った様子の医師は首を振った。
どうやらもうダメらしい。大量の睡眠薬のせいで脳機能が麻痺してしまって戻らないと聞かされた。
僕と過ごしたあの君は、帰って来てくれないんだろうか。
『さようなら。ごめんなさい』
君の遺書にそう綴られていたのをよく覚えている。
君は睡眠薬自殺をしようとして失敗したんだろう。そうして生きる屍となってしまった。
君は今も僕の近くにいる。
楽しそうな顔で。幸せそうな顔で笑っているんだ。
「あはぁ、は、はははっ」
無邪気な子供みたいな顔。
僕は昔を思い出しながら、君の頭をそっと撫でる。
辛かったんだね。苦しかったんだね。僕が守れなくて、ごめんね。
僕は耐え切れず、君の笑顔を見ながら泣いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
今、私はとっても楽しい。
でもね、一つだけ不思議なことがあるの。
どうして私がこんなにも幸せな気分なのか。
考えてみたけどわからない。思い出せないのかも知れない。
ああ楽しい。目の前がぐるぐる回っている。
その向こうで色々な声がして、みんなが悲しそうに私を呼ぶの。
私は元気だよ。だから、みんなも笑顔でいて。
そのために私は、私は――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
僕は絶望に沈んでいた。
もう二度と君を取り戻すことができないとわかって、悲しくて悔しくて仕方なかった。
君を追い詰めた奴らはみんなとっちめてやった。
君の両親は、君の前で謝っていたよ。気づいてやれなくてごめんねって。
それでも君はただ笑っているだけだ。
その日、君が薬を飲んだ日。
苦しそうな笑顔で「さよなら」と手を振った君と今の君が重なって、僕の胸は苦しくなる。
きっと君は疲れすぎていただけなんだ。
希望を見失っていたのなら、僕に相談してほしかった。それなら僕は、全力で君に手を貸してあげられたのに。
どうして、頼ってくれなかったんだよ……。
いじめられたくらい、僕にならなんとでもできた。
勉強だったら僕が肩代わりしてあげられる。僕は馬鹿だけど、君のために頑張ったさ。
僕は君をこんなにも愛してるんだ。
怒ってなんていない。君が笑ってくれるなら、僕はそれで充分だから。
だから……戻って来て……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「もう無理です」
誰かの声がした。
「まだ。まだよ!」
別の人が叫んでいる。
「すまなかった……」
どうして謝るの? 私はもう大丈夫だよ。
「待っていて。僕が必ず――」
毎日私の横にいてくれたあの子がいなくなった。
寂しい。誰だかわからないけど、悲しいな。
他の人はたまに来てくれる。でもあの子だけは、どうしても来てくれない。
私は笑うのをやめた。
ここはふわふわで幸せ。でもあの男の子がいた方が私はもっと幸せな気持ちになる。
でも私は贅沢を言っちゃダメなんだ。
だって私はみんなの邪魔者。邪魔者は消えないと、博が幸せになれない。
博って誰だろう?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼女が倒れてから五年が経った。
精神を病み、笑うことしかできなくなった君はついに笑うことをやめたと聞いた。
食事も一人ではできない。歩くことも喋ることもせず、ただただ生かされているだけ。
そんな君を僕は見る勇気がなくて、お見舞いにはもう何年も行っていない。君が死んだとの知らせが届くんじゃないかと怖くて、延々と悪夢にうなされる。
それでも君のことを毎日想い続け、僕は必死に頑張り奔走した。
君を取り戻す方法を発見したのは僕が大学院生の時だった。
快挙だった。君のように壊れてしまった人を救う薬を開発したんだ。世間に激震を走らせ、色々な人が僕の薬に期待する。大量の金が集まったので、完成にはそう時間がかからなかった。
……臨床試験の一人目は君だ。
当然さ。これは君のために作った、君のためのものだから。
僕は久々に君の病室へ足を踏み入れる。
綺麗な花が添えられた部屋の真ん中、ベッドの上で眠っていた君が目を覚まし、僕をじっと見た。
君は今何を考えているんだろう?
恐る恐る見つめ返す僕。何を怖がっているんだと自分を叱責し、ベッドの前へ向かった。
「あー、あー」
君が言葉にならない声を上げる。
嬉しそうな笑顔を浮かべて、無邪気に笑った。まるで僕がここへ来たことを喜ぶかのように。
勘違いだってわかっている。それでも僕は堪えることができなくて、数粒涙を流してしまった。
情けないな、僕は。
そのままゆっくり薬瓶の蓋を開けようとした。
これを飲ませるだけで全てが終わる。それだというのに僕の手は震えて、言うことを聞いてくれなかった。
だって君は望んでこうなったんだ。
僕は戻って来てほしい。でも君がもし、それを嫌がるのだとしたら、僕が今からしようとしていることは間違っているんだろう。
君はきっとそのままがいいに違いないんだ。この薬を作ったのは僕のわがままでしかないんだから。
どこまでも勝手な自分に嫌気がさす。
それでも震える手で瓶の蓋を開けた僕は、ためらいながら、そっと君の口へそれを運んでいく。
もしも嫌がられたとしたら、それまでだ。
そんなことを言い訳がましく考える。けれど君は僕から顔を背けずに、こちらをまっすぐ見つめていた。
……大好きだ。
あの時は守れなくてごめん。でもこれからは何があっても君を守るから。
だから――許して。
僕は薬瓶を傾け、琥珀色の液体を流し入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――――全てを思い出した。
そうか。そういうことだったんだね。
霞んでいた視界がすぅっとクリアになって、彼の顔が見えた。
あなたは私をずっと心配してくれていたの?
私がいたら、迷惑でしょ? 迷惑だったでしょ?
なのにどうして心配なんて。
お母さんもお父さんも、他のみんなも。
私のことなんてどうでも良くて、私なんていない方が幸せだって、言っていたのに。
私はあなたの前に戻ってもいいの?
心の中でそう問いかける私に、あなたは愛おしそうな視線を向けてくれる。
それが確かな答えだとわかって、私はとっても、とっても嬉しくなった。
このふわふわな世界から抜け出すのは怖いけど……もしもあなたが、私の手を取ってくれるのなら。
甘い夢の中から飛び出しても、いいかな。
「…………いま」
小さく掠れた声が出た。
あなたの顔にパァッと光が差す。
ああ、あなたは昔から、ちっとも変わっていないんだね。
「おかえり、有紗」
抱きしめられながら、私は、「うん」とだけ答えた。
それ以上の言葉は何もいらなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼女を胸に抱き、僕は震える。
嬉しくて泣きそうになりながら、君の温もりを全身で感じた。
「おかえり、有紗」
彼女の頬へ口づけを落とす。
その驚いた顔、何年振りに見ただろう。そしてはにかむような君の微笑みも。
――ああ、幸せだな。
僕は心からそう思った。
ご読了、ありがとうございました。