第二章
第二章
雀の鳴き声が聞こえたかと思うと、冷たいものがペチペチと慎哉の頬を叩いてくる。カーテンの隙間から差し込んだ日差しがまどろむ意識に直撃し、ぼやけた視界をはっきりさせた。
ミューコがアームを上下させて慎哉の頭をペチペチと叩く。
「父さま。朝。起床時間」
「うーん、久しぶりだな。この起こされ方」
慎哉は更正施設で叩き込まれた規則正しい生活リズムに従い、手早く服を着替えて布団を畳んだ。両腕を上げてくるミューコを抱えてフードに入れると、廊下に出てダイニングに入る。
朝の食卓にはすでに耕治郎の姿があった。悠然とコーヒーを飲みつつ、タブレットのホログラム機能で投影した新聞を読んでいる。
キッチンでは蘭子がフライパンを握り、電気コンロでトーストを焼いていた。洗濯物やシンクの食器を見た時も思ったが、寺門家の主婦はとにかくオートメーションに頼らず、人の手で日用品を綺麗にする主義らしい。
耕治郎が慎哉に気づき、新聞のホログラムを消した。
「おはようございます、慎哉くん。よく眠れましたか?」
「あ、えっと、それなりに」
「それはよかった。さあ、座ってください。今朝はフレンチトーストだそうです」
慎哉は言われた通り椅子に座る。愛想のない態度だと分かっているのだが、どうするのが正解なのか分からない。更正施設の職員はいつも事務的な態度だった。食事は全自動の調理機が用意していた。それが今は、朝から手作りの食事と共に笑いかけてもらえる。この温度差にどうしても戸惑ってしまうのだ。とりあえず笑っておけばいいのだろうか。しかしその場だけの作り笑いをするのも不義理のように思える。そもそも上手く笑える自信がない。
「……」
慎哉は耕治郎と対面しているのが気まずくてダイニングを見回した。アンドロイドが相手なら平気で会話ができるのだが。
「レイジくんは下の事務所で依頼が来ていないかチェックしてくれています。こういう職業ですからね、真夜中に依頼を申し込んでくる方も多いのですよ。申し訳ないのですが、もう少しだけおじさんとのお喋りにつき合っていただけますか」
耕治郎が探偵事務所の所長らしい洞察力を発揮して慎哉の心理を見抜く。
慎哉はミューコを膝の上に乗せて耕治郎の言葉を待った。こういう時にどんな話題を振っていいのか分からない。
耕治郎がコーヒーのカップを置く。
「つかぬことを伺いますが、慎哉くんは食べ物の好き嫌いなどないのですか?」
「特に、ないですけど」
「私はどうにもお酒に弱くて、居酒屋での聞き込みにしばしば苦労されられています。おつまみは好きなのですがね。慎哉くんは好きな食べ物はなにかありますか?」
「……特には」
「そうでしたね。では気になる芸能人などはいますか?」
慎哉は当惑しながら答える。
「最近の流行りとか、よく知らないです」
「一昔前の流行でも構いませんよ。そうですね、幼いころに好きだった特撮ヒーローやアニメなどはないのですか?」
「あ、それなら、気になってたのはあったけど……タイトルは、なんだったかな」
「ほう、それはどんな作品だったのですか? よろしければ調べてみましょうか? これでも探偵ですからね」
「どんなと言われても。ていうか、なんですか、質問ばっかりして?」
「共に暮らす人の趣味嗜好を知りたいと思うのは自然なことでしょう? 慎哉くんも私たち家族のことをなんでも訊いてくださって結構ですよ」
寺門探偵事務所やその一家に全く無関心かといえば、そんなことはない。しかし軽々しく踏み込んでもいいものなのかどうか自信が持てなかった。
(怖いのかな)
慎哉は耕治郎の穏やかな笑顔を見ながら思う。知りたいことは尋ねていいのだろう。相手もそれを望んでいるはずだ。しかしそれでも問いかけができない。変化に対する漠然とした恐怖だろうか。なにかが大きく変わる時はいつも苦しかったから。
「うー……おはよー……」
ダイニングの扉が開き、気の抜けた声が聞こえてくる。猫背の藍子が寝癖でボサボサの髪を掻きながら現れた。パジャマのボタンが一つしか留まっていない上にかけ違えていて、胸元から右肩までが剥き出しになっている。
「おはようございます、藍子ちゃん。今朝はずいぶんお寝坊さんでしたね。遅くまで起きていたのですか?」
「んー、『リーフ』を破れるソフト作るって、シオンちゃんと約束したんだもん。ちょっと張り切りすぎちゃって。あー……いい匂いがする。これ、フレンチトースト? えへへー、ママ、一口食べさせてー。早くー、あーん」
ふらふらとキッチンに向かった藍子は、甘えきった声を出して雛鳥のように口を開ける。
「ったく、なんてザマだい。こっち来い。顔洗ってやる」
蘭子は額を押さえて娘の醜態を嘆き、藍子の襟首を引っ張って洗面所に向かった。
ほどなくして、藍子の物凄い絶叫が響き渡る。
顔を真っ赤にした藍子がダイニングに駆け込んできて慎哉を睨みつけた。ようやく新しい同居人がいることを思い出したらしい。
「ち、違うのよ! 違うから! さっきのはいつもの癖で……じゃなかった、ちょっと寝ぼけてただけなのよ! い、いつもはあんなんじゃないの! とにかく違うから!」
慎哉は素知らぬ顔であさっての方向を向く。
「僕はなにも見てないです。なにも聞いてないです」
「父さま、大丈夫。ミューコ、記録済み」
慎哉のささやかな気遣いをお節介なロボットが台無しにしてくれた。
藍子が頭を抱え、神に救いを求めるかのごとく天を仰ぐ。
「いやあーっ!? ミューコちゃん、お願い! 忘れて! 後生だから全部忘れてえーっ!」
「忘れる、人間の機能。ミューコ、ロボット。忘れる、不可能」
「あは、あははは……終わった。なんかもう、色々終わった。今日から実施するはずだったミューコちゃん手懐けプロジェクトがー……」
藍子がぺたんと座り込んで打ちひしがれる。
「耕治郎、依頼が来ていたぞ。詳しい話をしたいのだが……今、いいだろうか?」
早足でダイニングにやってきたレイジは意気消沈している藍子を目の当たりにしてためらいを浮かべた。なにがあったのかはおおよそ察したらしく、事態の説明を求めたりはしない。
朝食を並べていた蘭子がしかめ面になる。
「んなもん後にしろ。こっちはメシもまだなんだぞ」
「しかし今すぐ面会したいそうだ。私の端末から連絡したところ、依頼人はもう事務所の近くまで来ているらしい。このまま待たせるのも悪いと思うのだがね。せめて事務所に通してはどうだろう」
「待たせときゃいいんだよ。こんな朝っぱらから押しかける奴の方が悪いんだ。メシが冷める。ホント気が利かねえ番犬だな」
蘭子が苛ついた口調でレイジに文句を言っていると、耕治郎が杖をついて椅子から立ち、二人の取りなしに割って入った。
「火急の用件ということですし、事務所にお通ししましょう。レイジくん、依頼人というのはどちらさまですか?」
レイジは神妙な声音で言う。
「多々良シオンだ」
「ねえ、パパ! 朝ご飯一緒に食べようって誘ってもいいよね!?」
人生最悪の失恋をしたかのようにしょげ返っていた藍子は、シオンの名を聞いた途端、瞳をキラキラさせて元気を取り戻した。
食卓に食器が増えた。
制服姿のシオンが椅子に姿勢正しく座り、手を合わせていただきますと言う。
「突然すみませんでした。朝早くから尋ねてしまった上に、朝食までご馳走になってしまって」
「いいよ。どこの馬の骨とも知らねえ野郎ならいざしらず、おまえさんは藍子のダチなんだ。遠慮せず食ってけ」
蘭子はぶっきらぼうに言うと、使い終わった食器を洗うために台所へと戻っていく。
慎哉はミューコを連れ、逃げるようにしてダイニングの端っこに移動していた。灰色にざらつくガイノイドの登場によって、ただでさえ窮屈を感じていた空間がさらに歪んでしまったような心地である。
シオンがフレンチトーストを食べ終わったタイミングで、向かいに座っている耕治郎が本題を切り出した。
「急ぎの依頼ということですが、それは昨日の騒動に関してなのですか?」
「はい。昨日の夜遅くに警察署から連絡がありました。逮捕されたヒューマノイドたちの行動を調査したところ、複数名による組織だった動きの可能性があると言われました」
「やはり他にもまだ仲間がいたか。やれやれ、外れてほしい推測が当たるのは、刑事から探偵になっても変わらんな」
レイジは窓の横に寄りかかった格好で立っている。外の様子に注意を払っているようだった。
「まだ詳細は調査中のようでして、はっきりとは分からないそうです。ですが、もしもの事態に備えて早めに対策を取っておくように、と」
シオンの隣に座っていた藍子が満面の笑顔になる。
「そこでうちの事務所を頼ってくれたってわけね!」
「はい。私が知っている中で一番信頼できますから」
「それはそれは。ご期待に添えるよう、尽力させていただきます。それで本題ですが、多々良シオンさんは当事務所にどのような仕事をご要望なのですか?」
耕治郎が尋ねると、シオンは少しためらいがちに口を開いた。
「藍子さんから、ボディガードの仕事をしたことがあると伺ったのですが」
「ふむ。ボディガードですか。久しくなかった依頼ですね。最後に引き受けたのは私が足を不自由にする前になります」
「私も依頼したいのですが、難しいでしょうか」
「そんなのレイジさんがいるから大丈夫よ。レイジさんはEH社製、身体能力に特化したアンドロイドなんだから。おまけに元警官の経験もあるんだし、あたしだって協力するわ。ね、パパ?」
藍子がやる気を迸らせているが、耕治郎は即決を避けた。
「可能ではありますが、警官は護衛につかないのですか?」
「警察の方々には多々良の家の人たちを守ってもらいたいんです。私だけが狙われるとは限らないでしょう。私の遺産相続を認められないというのであれば、相続を容認した多々良家の皆さんにも敵意が向けられるかもしれません。あるいは私を脅迫するための人質にしようと動くおそれもあります」
「シオンちゃんだって多々良家の一人じゃない」
「ありがとうございます、藍子さん。ですがガイノイドの私よりは、雪江さまと血の繋がりがある方々が優先で守られないといけません」
シオンが決然とした声で言うと、デザートのフルーツを運んできた蘭子が感嘆してみせる。
「天晴れな心意気だ。生まれて一〇年足らずだって聞いてるけど、たいした根性じゃないか。しかし、うちの元公僕ごときにあんたの覚悟が背負えるのかねえ? こう言っちゃなんだが、警備会社みたいなのに頼んだ方が確実なんじゃないのかい?」
「まだ悪事を企むヒューマノイドが襲ってくると決まったわけではないので、そこまで大がかりな対策はしたくないんです。学校の周りに警備会社の人がいたら、他の生徒を不安にさせてしまうでしょうし」
「現段階においては探偵もとい、なんでも屋による護衛が手ごろというわけか。さて、どうするんだ、耕治郎? 私に異存はないが」
レイジが意欲を見せて所長に判断を求める。
「慎哉くん」
「な、なんですか?」
柔和な声で呼ばれた慎哉は嫌な予感が外れることを願いながら目を向ける。
「シオンさんの警護をお願いしてもよろしいですか?」
「よろしくない! ちょっと、パパ、寝ぼけてるの!? なんであいつなの!?」
藍子が慎哉よりも先に大声を張り上げて反対した。
「慎哉くんが適任だからです」
「レイジさんに頼めばいいじゃない! レイジさんの方が絶対に適任でしょ!」
「もちろんレイジくんにも定期的に様子を見てもらいます。ですが普段は慎哉くんに任せたいと思っています。彼の目があれば安心ですよ」
「ヒューマノイドを何人も殺してる奴が近くにいてどう安心しろっていうのよ!」
藍子がテーブルを叩いて叫ぶと、シオンも不信を浮かべて慎哉を見た。
「こ、殺し?」
耕治郎はシオンに対して言い聞かせる。
「大丈夫ですよ、シオンさん。慎哉くんが破壊してきたのは極めて非道な行為をした犯罪ヒューマノイドのみです。善良なヒューマノイドに手を出すような子ではありません。警察ですら対応できていない装置を使用して忍び寄る犯罪ヒューマノイドの方がはるかに危険ですし、なにを隠そう、慎哉くんはそういった輩の天敵なのですよ」
「うぐぐぐ……!」
藍子が父の正論を聞いて悔しそうに歯噛みする。そして親の敵を見るかのごとき目つきで慎哉をギロリと睨んだ。
耕治郎が改めて頼んでくる。
「どうでしょう。慎哉くん、この依頼、引き受けてはいただけませんか?」
嫌に決まっている。しかし食事と寝床をもらっている恩義には報いたかった。慎哉はひとまず不安材料を口にする。
「そういうのは、やったことないです」
「登下校の際、怪しい人物が近づいてこないか見張るだけですよ」
「見張ってる奴が誰よりも怪しいけどね」
「おまえは黙ってな」
蘭子がフォークに刺したオレンジを藍子の口に突っ込んでおとなしくさせる。
耕治郎は妻子の様子に微笑ましそうな顔をして話を続けた。
「もし襲撃者の仲間が他にいたとしても、まさか学校の中に押し入ろうとはしないでしょう。認可されていない不審者が敷地に入り込めば、人間だろうとヒューマノイドだろうとすぐさま警備ロボットに取り囲まれてしまいますからね」
(学校って、そんなに厳しかったっけ?)
慎哉はかつて通っていた稲尾小学校を思い出す。中学生や高校生が近道をしようとして勝手に出入りしていたはずだ。迷い犬がどこからともなく迷い込んできては退屈な授業に刺激をくれたこともあった。おそらく『青き礎事件』の影響を受けて警備が強化されたのだろう。
ダイニングのみんなから注目された慎哉は、頭の中で色んな感情や理屈を綱引きさせる。ヒューマノイドを守るなんて気分が悪い。しかし寺門探偵事務所の役には立ちたかった。ここで断れば役に立つどころか、信用に傷をつけてしまうかもしれない。逆に成功させれば恩返しになる。ただ、ヒューマノイドを守るという行いを、『青き礎事件』の犠牲者たちは許してくれるのだろうか。
慎哉は短くも複雑な逡巡をして、首を縦に振った。
「分かりました。やってみます」
「ありがとうございます。それではさっそく、藍子ちゃんとシオンさんを学校までエスコートしてあげてください」
「よろしくお願いします」
椅子から立ち上がったシオンは淀みのない口調で言って、丁寧に頭を下げる。お手本のような完璧すぎる動作が、かえって信哉に距離感を感じさせた。もっとも、それくらいがちょうどいいとは思う。こちらはヒューマノイドなど信用しないのだから、向こうも信用なんかしなくていい。
「羽野ぉ……あんた、分かってんでしょうねぇ。シオンちゃんにかすり傷一つでもつけた時は……」
藍子の半眼が睨んできた。
「ぜ、善処します」
慎哉はミューコをフードに入れて玄関に向かう。
(学校か。そういえば稲尾小って、あれからどうなったんだろ)
シオンと藍子の制服を見ながらふとそんなことを思った。
シオンを榊ヶ丘高校の前まで送った慎哉は、近隣の公園やショッピングモールを特にあてもなく散策して時間を潰す。手持ち無沙汰なので他にやることはないか事務所の耕治郎に尋ねたところ、他の依頼はレイジだけで間に合っているから自由に遊んでいいと言われてしまったのだ。
「で、午前中はだらだら遊び呆けてたわけ? 新人の分際でいい度胸してるわね」
携帯タブレットから『今すぐ学校まで来い!』という怒号が飛び出したので昼休みの学校に戻ってみれば、今度は陰湿な嫌みを言われた。藍子は校門脇にあるベンチに腰を下ろしていて、膝に載せた弁当を仏頂面で食べている。なお、タブレットの通話番号を教えた覚えはない。
「み、道を覚えてたんですよ。僕、まだこの辺りの土地勘がないんですから。もし逃げなきゃいけなくなった時に迷子なんて洒落にならないです」
「ふうん、そういうことならいいんだけど」
藍子は悔しげに言ってそっぽを向いた。
慎哉は四階建ての校舎を眺める。警備ロボットや清掃ロボットが敷地内を動き回り、風力発電のプロペラが春風で緩やかに回っていた。通路や階段の一部には障害者への配慮らしい自動化が見られる。教室にも科学の粋を集めたメカニズムが施されているのだろうか。しかし本校舎から延びる渡り廊下の先には古式ゆかしい木造の武道場が建っていた。
「あの、僕って学校に入っても大丈夫なんですか?」
慎哉が尋ねると、藍子は不服そうにしながらもうなずいた。
「パパがちゃんと許可を取ってくれてるわ。言っとくけど、これ以上は入ってくるんじゃないわよ? うちにはヒューマノイドの生徒だってたくさんいるんだから、あんたと会わせたらなにされるか分かったもんじゃないわ。警備ロボットちゃんたちが見逃しても、あたしがあんたを蹴り出してやる」
「学校、大きい」
ミューコが慎哉のフードから顔を出して校舎を見上げると、藍子の敵意剥き出しだった顔がころっと一転してデレデレに緩む。
「え、ミューコちゃんったら、うちの学校に興味あるの? よ、よかったら、あたしが案内してあげようか?」
「案内、不必要。ミューコ、父さまと一緒、希望」
ミューコはフードの中で縮こまり、平淡な電子音声で拒否する。藍子はがっくりとうなだれ、心の傷を埋めるかのように黙々と弁当を食べ続けた。
「えっと、それで、呼んだ理由ってなんですか? まさかミューコに会いたかっただけとかじゃないですよね?」
「……シオンちゃんが授業中もずっと校舎の外を気にしてたの。パパは学校内なら大丈夫って言ってたけど、万が一ってこともあるでしょ? 生徒の誰かが巻き込まれたらどうしようってずっと心配してるみたい。だからあんたに学校周りの見回りをしてもらおうと思ったわけよ」
「なんでミューコからこれでもかってくらい目を逸らしてるんですか?」
「なんか言った?」
「いえ、なにも」
本当はミューコに会いたかっただけでは、という質問を喉の奥に呑み込む。
「シオンちゃんのためじゃなきゃ、誰があんたの番号なんかにかけるか。いつの間に登録されてたのかしら。パパの仕業ね」
「犯人は探偵だったと。それで、肝心の依頼主はさっきからなにをしてるんですか?」
慎哉は別のベンチに座っているシオンを見た。肩と右耳にタブレットを挟んで通話をしつつ、右手でも別のタブレットを操作して、左手では膝に載せたノートパソコンを迅速かつ的確にタイプしている。取締役会がどうしたとか、アウトソーシングがこうしたとか、高校よりも大学で耳にしそうな経済用語を流暢に連発していた。
「タタラグループの経営について報告とか相談とか、とにかく色々だって。シオンちゃんはもともと会長の秘書だったって言わなかった? 経営にもそれなりに携わってるのよ。まして今は前会長から遺産の一部を受け継いでるんだから、そりゃ大忙しに決まってるわ」
心配そうな顔をする藍子の先で、シオンがタブレットでの通話を終え、ノートパソコンを閉じた。
「お待たせしました」
シオンは藍子の隣に座って弁当箱を開く。大富豪のガイノイドがなにを食べているのかと思ってみれば、梅干しを載せた白飯に煮物や卵焼きを添えられているという、極めて質素な献立だった。庶民派アピールだろうか。
「学校周辺の見回りもしろって?」
慎哉が投げ遣りに訊くと、シオンは弁当箱に手をつけないで口を開く。
「二、三日だけでいいので、お願いできないでしょうか。難しいようでしたら、断っていただいて結構なのですが」
慎哉に迷いはなかった。
「じゃあ断る。どうしてもって言うならアンドロイドの方に言ってくれ」
「レイジさんにはとっくに頼んでみたわよ。でもね、レイジさんは忙しいの。あんたなんかと違ってね。どうせ放課後まで暇なんでしょ? 文句言ってないでパトロールくらいやりなさいよ、この穀潰し」
藍子が箸の先で慎哉を指す。
シオンはうつむき気味になり、濃い青色のリングが投影されている右手首を左手でぎゅっと握った。
「どうしても無理でしょうか。報酬は上乗せさせていただきます」
「僕は金欲しさにやってるんじゃない」
「それでしたら、コーヒーをご馳走しましょう。私のオリジナルブレンドなんですけど、美味しくできたと自負しています」
シオンが水筒の蓋を開けた。なにを血迷ったのか、大真面目な顔つきでコップに褐色の液体を注ぎ始める。麦茶でも入っているのかと思いきや、中身はコーヒーだったらしい。
「それが科学技術に革新をもたらしたヒューマノイドの発想? よくそんなもので釣れると思えたな」
「……そんなもの?」
シオンがすっと目を細める。
「しーらないっと」
藍子はあさっての方向に顔を背けて黙々と弁当を食べ続ける。
シオンがベンチから立ち上がり、慎哉にコップを突きつけた。
「これは雪江さまにも褒めていただいた私の特製ブレンドなんです。老舗メーカーの方々からご教授をいただき、数々の喫茶店を巡り、私なりに研究と工夫を重ねて辿り着いた集大成なんです。飲みもしないで軽んじるようなことを言うのはやめてください」
シオンが記者会見の時と同等かそれ以上に真剣な表情と語気でまくし立ててくる。
「たかがコーヒーでなにムキになってるんだ」
「たかが……」
「いや、えっと」
ヒューマノイドに物怖じなどしない慎哉もさすがに言葉を詰まらせる。
藍子がくすくすと嘲笑を漏らした。
「今、ヒューマノイドの間でコーヒーブレンドがブームなのよ。学校の友達とか会社の同僚にオリジナルのコーヒーを振る舞って親睦を深めるの。昔のアニメかなにかの影響だったかしら。レイジさんもはまってるみたい」
「さあ、一口でいいので飲んでください。職場の方々や学校の皆さんに楽しんでいただけるよう何度も試行錯誤を繰り返した珠玉のブレンドなんです。決して後悔はさせません」
シオンがコーヒーの入ったコップを近づけてくる。
慎哉はカフェインの香りに眉をひそめて顔を逸らした。
「コーヒーは、嫌いだ」
シオンはハッとなり、ベンチに座り直して肩を落とす。
「す、すみません。配慮が足りませんでした」
「いいのいいの。シオンちゃんはなんにも悪くないわ。こいつの舌がお子ちゃますぎるのよ」
藍子が小馬鹿にしてくるが、慎哉は反論しなかった。
もしかしたら飲めるかもしれない。だがやはり飲んでみようという気が起きなかった。どうやらネガティブな記憶というものは長く強く残るらしい。コーヒーの匂いは慎哉の恥ずかしい記憶を思い出させるのだ。初めて飲んだコーヒーの苦さに悶え、そんな幼い慎哉を見て大笑いした父と心配する母の姿を、嫌でも思い出してしまう。
「ミューコ、僕たち、なんの話してたんだっけ?」
慎哉はフードに入っているミューコに尋ねた。
「父さま、パトロール、する? しない?」
「無関係な生徒が巻き込まれることだけは絶対に避けたいんです。不躾なのは分かっています。ですが、そこをなんとかお願いできないでしょうか」
シオンが慎哉に向かって頭を下げた。
慎哉は渋面になって迷う。嫌だと言ってしまいたいのだが、藍子が怖い目をして無言の圧力をかけていた。女の子がここまでしているのに断るつもりかと言わんばかりだ。
「おまえ、あっちいけ。父さまに、近づくな」
反対したのはミューコだった。フードから顔を出し、アームをぶんぶんと振り回してシオンを威嚇する。
シオンは気まずそうにたじろいだ。
「まだ怒っていますか?」
記者会見場から避難していた際、助けに来た慎哉ではなく襲撃犯の味方をしてしまった一件についてだろう。『リーフ』を使われていたのだから仕方がなかったのだが、ミューコのAIは警戒レベルを落とせないと判断しているようだ。
「え? え? なに? シオンちゃんとミューコちゃんって、なにかあったの?」
事情を知らない藍子が双方を交互に見ておろおろする。
慎哉は背中で暴れるミューコをフードの中に押し戻した。
「えっと、そんなたいしたことじゃないので。学校の周りを見て回ることについてですけど、所長はどう言ってるんですか?」
所長に無許可で決めるのはよくないという口実で逃げようとしたのだが、藍子は携帯タブレットを軽く振ってみせた。
「慎哉くんがいいならいいですよー、だってさ」
「そうですか。じゃあ、少し考えさせてください。どのみち、まずはこの辺りの道を覚えないといけないんです」
慎哉はどうにかして拒否の理由を取り繕う。
藍子は呆れた顔になって侮蔑するように鼻を鳴らした。
「バカバカしい。いつまでも的外れな逆恨みしてんじゃないわよ」
「逆恨み?」
シオンが不思議そうな顔をする。
「あー、こっちの話。シオンちゃんは気にしなくていいのよ」
藍子が気軽な調子で誤魔化し、慎哉はその背後にある校舎を見上げた。
「外側を警戒ばかりですけど、学校の内側に怪しいところとかはないんですか?」
「むっ、なによ。うちの生徒と先生を疑ってるの?」
「ミューコ以外を信用したことがないです」
「ああそうですか。この野郎、ノロケやがって」
藍子が舌打ちをして貧乏揺すりを始めた。
シオンが不機嫌な藍子をなだめ、静かな声で推測を口にする。
「もし校内に襲撃犯の仲間がいたとしたら、私はとっくに襲われていると思います」
「そもそもおまえって、学校に来てる場合なのか?」
慎哉が何気なく訊くと、シオンは目を泳がせた。
「出席日数が、少々……」
「たまに休んだり早退したりしてるもんね。タタラグループの経営を滞らせるわけにはいかないからしょうがないんだけど」
藍子が残念そうに言った。少々の欠席や早退ごときで大企業の職務をやり繰りできているのがおかしいと慎哉は思う。
そもそも、タタラグループの重要なポストにいながら高校にいる意味が理解できない。人間はいずれ社会に出て立身出世するために学校で勉強をするのだと慎哉は更生施設で教えられた。製造段階で知識をインプットされ、すでに社会的地位も獲得しているガイノイドが学校に通って、それがなんになるというのだろう。学校に通うという体験が小学校五年で終わっている慎哉には分からなかった。
「両立は大変ですけど、皆さんと一緒に必ずこの学校を卒業します。もちろん会社の業務もおろそかにはしません」
シオンが言うと、慎哉は記者会見での言葉を思い返した。
「雇い主の命令だから?」
「あんた、喧嘩売ってんの?」
藍子が弁当の箸を逆手に握り締める。
シオンは静かに首肯した。
「最初はそうでした。学校に通うのは不安でしたが、雪江さまに勧められたからという理由で入学願書を出しました」
(……不安?)
ヒューマノイドらしくない言葉だった。
「ですが今は違います。私は自分の意思でここにいます。この学校と、共に学ぶ皆さんが大好きだから、ここにいるんです」
(なんだ、こいつ?)
腑に落ちないものを感じていると、チャイムが響いてきた。校庭で遊んでいた生徒たちがぞろぞろと校舎の中に戻っていく。生徒の何人かがこちらに気づき、シオンと藍子の名前を呼びながら手を振った。
「それじゃ、あたしたちも教室に戻ろっか。羽野、放課後のボディガードも忘れるんじゃないわよ」
「あの、藍子さん」
慎哉が呼び止めると、藍子はギロリと睨んできた。
「あんまり馴れ馴れしく名前を呼ばないでほしいんだけど。で、なによ?」
「え、えっとですね、その……なんであいつは、ヒューマノイドなのにあんななんですか?」
藍子は友人たちのもとに向かっていくシオンを振り返った。
「シオンちゃんのこと? あんなって、どういう意味よ?」
「なんか違和感があるような。一見取り澄ましているようで、なんか不安定な部分があるというか」
他者とのコミュニケーションに不安を感じるヒューマノイドなんて聞いたことがなかった。なぜならヒューマノイドが製造される理由の一つは、人間同士が良好な関係を築けるようサポートすることだからだ。製造された時点で心理学、倫理学、社会学といった知識をブレインユニットにインプットされるため、対人関係に悩みはしても、怯えたり恐がったりはしないはずだった。コミュニケーションに余程のトラウマでも抱えていれば別だろうが。
「さらっと学校行くのが不安だったとか言ってましたけど、それって、なんか変じゃないかと思って」
「普通の人間みたい?」
「……」
しっくりくる表現だったが、慎哉は認めたくなかった。
藍子が小馬鹿にするような笑みをにんまりと浮かべる。
「へえ、あんたにもまともな感性があったのね。いやいや、あんたみたいなのにまでそう感じさせるシオンちゃんがすごいのかしら。ま、気になるならマツシバコーポレーションの最新型ヒューマノイドについて調べてみたらいいんじゃない?」
藍子はヒントだけを言い残してシオンのもとに走っていく。
慎哉は友人たちと楽しそうに談笑するシオンに背を向けて学校を離れた。
マツシバコーポレーションの最新型ヒューマノイド。
その特徴は、特徴を定めないこと。
日本製ヒューマノイドの本懐は日本国民への奉仕と日本国の繁栄だ。人々の助けとなるため、多くのヒューマノイドは製造の際、目的と用途に合わせた調整を施され、知識と技術をブレインユニットにインプットされる。
しかしマツシバコーポレーションが新たに発表した最新型ヒューマノイドは従来型よりも高い学習力とキャパシティを持ちながら、あえて初期能力を低く、精神面を未熟に設定してあるという。汎用性重視であえて尖った長所を持たせないタイプのヒューマノイドは多くいるが、せっかくの容量を白紙のままにして低スペックに製造するというのは異例の試みであった。
人間と共に成長していき、人間と共に存在意義を模索する。それがマツシバコーポレーションの最新型ヒューマノイドが目指すところであるそうだ。
もっとも、まだ試験的運用の段階であり、生産数はごく少数であるらしい。生まれた理由を持たないヒューマノイドが与えられた伸び代をどのような方向にどれだけ使うのか。未熟な精神がどのように変化していくのか。それは誰にも分からない。想定以上の偉業を成し遂げるかもしれないし、平凡にまとまるかもしれない。あるいは反社会的な方面に突出してしまう恐れもあるという。
これらの理由から、マツシバコーポレーション製の最新型ヒューマノイドには大きな期待と不安が向けられているそうだ。
「あいつが、最新型のヒューマノイド」
慎哉は榊ヶ丘高校に向かいながら携帯タブレットの画面に目を通す。西に傾いた太陽が夕方の気配を帯びていて、時々下校中の小学生や中学生とすれ違った。
通行人にぶつからないよう注意しつつ、最新型ヒューマノイドのデータと批評を読み返す。名前と最低限の知識だけを与えられていきなり社会に放り込まれるというのは、いったいどんな気分なのだろうか。しかも築いた成果によってヒューマノイド産業が、ひいては日本経済の行く末が左右されるかもしれないのである。
そんな天使にも悪魔にもなりそうなヒューマノイドが大富豪の遺産を継いだとなれば、世間が大騒ぎになって当然だった。危険視する者も現れてしかるべきだろう。
「ひょっとして僕たち、とんでもなく面倒なガイノイドに関わってない?」
「父さま、あいつ、気になる?」
終業のタイムを鳴らす高校が見えてくると、ミューコが慎哉の後頭部をペチペチ叩いてきた。
「そりゃ気にはなるよ」
「ミューコ、気にする、やだ」
「なんだよ、もしかして嫉妬してるのか?」
「不明。検証開始。ミューコ、あいつ、嫌い。父さま、あいつ知る、やだ。検証終了。嫉妬に類似する演算処理と結論」
「僕だって好きでやってるじゃないよ。必要に迫られて調べてるんだ。護衛対象がどういう奴なのか知るのは大事なことだろ?」
「ヒューマノイド、知りたがる。父さま、過去記録にない行動」
「そういえば、そうだっけ」
指摘されて気づく。ヒューマノイドの製造元やタイプなど考えたことがなかった。幼いころだとヒューマノイドはどれも同じようなものだと思っていて、マニアックな知識は友人たちの領分だったのだ。
そして狂ったヒューマノイドによる自爆テロに遭ってからは、テロリストの同類か否かという区別でしか見てこなかった。
(ヒューマノイドを知ろうとするのは、いいことなのかな)
そう自問して、この問い方は違うと思った。
(許されることなのか、だな)
ヒューマノイドに殺害された家族、友人に先生、その他の知人や顔も知らない犠牲者たちへの冒涜になるのではないだろうか。
(ただ、多々良シオンが最新型のヒューマノイドなんだとしたら、それって、あの時、あいつの言っていた……)
携帯タブレットが鳴り、慎哉は思案を切った。藍子からの電子メールである。『さっさと迎えにこい!』という率直な内容だった。
横断歩道の先を眺めると、校門で貧乏揺すりをしている藍子が見えた。隣にはシオンもいて、淑やかさが足りない友人の苛立ちを静めているようだ。
慎哉はもうすぐそこまで来ているというメッセージを返してみようかと思って、とっさにやめた。
面妖な二人組が目に留まる。
片方は女性らしい体つきだった。小学生というには背が高いが、子供向けアニメのキャラクターがプリントされたジャンパーと靴を着用していて、スカートとショートの髪を揺らしていた。顔にもキャラクターのお面をつけているのだが、左目の部分が破損していて黒い瞳を覗かせている。
もう片方は成人くらいの背丈があった。革ジャンとダメージジーンズを身につけ、シルバーのアクセサリーをつけている。帽子を目深にかぶってサングラスをかけているために表情が分からないが、革ジャンに浮かんだ体つきからして男のようだった。
慎哉は横断歩道を無視して車道を駆け抜ける。親子のようにも兄妹のようにも見えるが、どちらでもないだろう。両方ともヒューマノイドだった。そして青いリングをどこにも投影していない。
シオンと藍子がこちらに気づいた。二人の視線が慎哉に向いた瞬間、キャラクターのお面で顔を隠したガイノイドが一気に走り出す。黒い棒状の物を手にしていて、先端から青白い電光が散っていた。
慎哉はナイフを抜く。
目を丸くするシオンと藍子を背にして立ち止まり、落ち着いてナイフを構えた。
歩道を突っ走ってきたガイノイドがスタンガンを繰り出し、慎哉はナイフを振り抜いた。
金属音が鳴り響き、電撃の糸が四散する。
ガイノイドは機敏なバックステップで距離を取った。大柄なアンドロイドと並び、お面から覗いた左目で慎哉を観察する。
シオンもヒューマノイドたちのことを見据えていた。
「ヒューマノイド、ですよね。信号は感じ取れませんけど」
「出たわね! なんなのよ、あんたたちは! 昨日の奴らの仲間!?」
藍子は怒鳴り声で問いかけた。
しかしヒューマノイドたちは答えず、今の状況についての分析を始めている。
「リーダー、話が違いますよ。顔を隠してりゃいけるんじゃなかったんですか?」
帽子とサングラスで顔を隠すアンドロイドが破れたお面のガイノイドを見下ろして言う。
「おかしいわね。何度検証しても最新バージョンの『リーフ』は完璧だった。なら、あとは顔でバレたとしか考えられないのよ。わたしたちは捜索願が出てる。だから、そこから怪しまれたくらいしか可能性はないのに」
「じゃあなんでまた失敗してるんすか」
「分からないわ。とにかく作戦変更ね。大丈夫、おねえさんに任せておきなさい。なんとかしてみせるわ」
二体のヒューマノイドがシオンを見る。
ガイノイドの方が再びスタンガンを構え、ゆっくりと歩み出てくる。アニメキャラクターのお面で顔色は分からないが、足取りは至って軽快だった。しかしただの人間である慎哉に暴力を行使したのだ。精神はかなりのストレスに苛まれているはずである。
「ミューコ、しっかり掴まってて。派手に動くよ」
「はい、父さま」
慎哉の心臓がただならぬ敵意を感じて脈動を早くする。目の前にいるガイノイドは精神への重い負荷を押してでも攻撃に打って出ようとしていた。おそらく捨て身も辞さないだろう。
「シオン、昨日の会見は拝聴させてもらったわ。ご主人さまのお金を横取りして自分のやりたいことをやるのって、そんなに気持ちいい?」
「ブレインユニットが深刻なバグを起こしていませんか? 私はそんな妄言、一言も口にしていません」
シオンが珍しく嫌味を返した。
ガイノイドは歩みを止める。
「じゃあ聞いてもいいかしら? あなたは手に入れた財産でなにをするつもりなの? これ、結構大事なことだと思うんだけど、あなたは何一つ説明しなかったわよね。もしかしてわざと避けたの?」
「ふざけんじゃないわよ! 誰にせいで会見が中断になったと思ってんの!」
藍子が激昂して飛び出しそうになるが、シオンに制止されて踏み留まった。
「私がなにをしたいのか、まだはっきりしたことは言えません。どれだけのものがあって、なにができるのか分かりませんから。ですが間違ったことには使いません。私は雪江さまの遺産を、正しいと信じた未来のために使います」
シオンは言葉を一つ一つ噛み締めているかのようだった。
ガイノイドは嘆息して首を左右に振る。
「ダメね。まるっきりダメダメだわ。そういう考えがもう間違ってるのに、あなたときたら、なんにも分かってないんだから」
「どういう意味ですか?」
「わたしは人を幸せにできる。たくさんのお金で、たくさんに人を幸せにできる。この国を今よりもっと豊かにできる。あなたはそう信じてるんでしょ?」
「……」
シオンは肯定も否定もせずに黙っていた。
ガイノイドはお面の破れ目から覗く左目を爛々とさせ、幼げな声音で笑う。
「知ってる? そういうのを傲慢っていうのよ。それともお子さまかしら。お姫さまに憧れている女の子となにも変わらないわ。あなたってとても可愛らしくて、とても可哀想なのね」
「私は……」
シオンは反論かなにかを言いかけて、しかし口ごもった。
ガイノイドが芝居じみた仕草で手を差し伸べる。
「シオン、わたしたちと一緒に来なさい。無邪気なお子さまのあなたに、おねえさんが大人の世界っていうものを教えてあげるわ」
「大人の礼儀作法を身につけてから出直してください」
シオンがそう言うと、慎哉は次の攻撃を予期してナイフを握り直す。
「そう。そんなに激しいやり方がいいのね。いいわよ。おねえさんがその生意気な性根をじっくり調教してあげる」
ガイノイドが姿勢を低くして駆け出す。慎哉がナイフを構えると、腰のポーチからグリップのような物を取り出した。素早く振ると、銀色の細い棒が伸びて剣のようになる。
警棒だった。シンプルで使いやすい、昔ながらの護身武器だ。
慎哉は振り抜かれる警棒にナイフを合わせて受け流した。間髪入れずにスタンガンが突き出される。青白い電光を放つ先端をかわし、再び打ち込まれた警棒をもう一度ナイフで弾いた。
「邪魔しないでちょうだい。関係ない人間はなるべく巻き込みたくないの」
ガイノイドが心遣いのようなものを見せるが、犯罪ヒューマノイドをなるべく処分したい慎哉に退くという選択はなかった。
(目的は、連れていくことかな)
慎哉はスタンガンを打ち返しながら思考を巡らせる。最初に非殺傷性の武器を使ってきたことから、狙いはシオンの破壊ではなく拉致だと考えられる。すばしっこいガイノイドが不意打ちで気絶させ、大柄のアンドロイドが運ぶといったところだろう。
(だったら、このまま粘ってみようか)
ガイノイドは細い足を俊敏に動かして接近と後退を繰り返し、警棒とスタンガンを絶え間なく打ち込んでくる。一撃でも体に受ければまともに動けなくなるだろう。慎哉は束ねた集中力を研ぎ澄ませ、迫る凶器を正確に防いだ。防御に専念すればガイノイドにはストレスが溜まり続け、自ずと精神崩壊を起こすはずだった。
(……少し、やりにくいかも)
冗談半分に思う。ガイノイドがつけているお面やジャンパーに描かれているキャラクターは、小学生のころの慎哉が気になっていたアニメの主人公だ。女子の間で流行っているというのを耳にして興味を持っていたのだが、『青き礎事件』によって打ち切りとなったようで、いつしかタイトルも忘れてしまった。
火花を飛び散らせる攻防の末、ナイフの刃がスタンガンを深く切る。
ガイノイドは後方に大きく跳び下がった。放電が消えたスタンガンを振ってスイッチを何度も押すが、電気は発生しなかった。
「やるわね。ホントに人間?」
「人間のふりをしたヒューマノイドにだけは言われたくない」
「リーダー、俺もやらせてください。二体でかかればいけるでしょ」
アンドロイドが前に出ようとするが、ガイノイドは細い腕を伸ばして遮った。胸を押さえ、お面の奥で苦しそうな呼吸を繰り返す。
「ダメよ。あなたまでストレスを溜め込むわけにはいかない。これ以上の脱落は計画に支障が出ちゃう。それに、もう時間切れだわ。さっさと撤収よ」
すでに学校の生徒が集まって騒ぎ始めていた。まだ事態を理解している者はわずかで、ドラマの撮影かなにかと勘違いしているらしい。
「おい、君たち、なにをしている!」
鋭い大声が割り込んだかと思うと、警察官の制服を身につけた男が車道を横切ってくる。
シオンは藍子を連れて警官のもとに走り寄った。
「刑事さん、藍子さんの保護をお願いします!」
ぱっと見ただけでは警官の容姿のどこにも青いリングが見当たらない。だが友好的な顔は灰色のノイズでざらざらと濁っていた。
「待て! そいつもヒューマノイドだ!」
「え……?」
シオンが警官の手が届くわずか手前で立ち止まる。退散しようとしていたガイノイドとアンドロイドがかすかに戦慄の息を漏らした。
警官は平然とした仕草で手帳を出す。
「榊ヶ丘署の者です。なにが起きているのかよく分かりませんが、まずはお二人を保護します。早くこちらに」
シオンは前に一歩に進み、話を続けようとした。
「警察の、人間の方、ですよね?」
「シオンちゃん、離れて!」
藍子がシオンの腕を引き、校門に向かって走り出す。
警官が笑顔を凶悪に一変させた。
「シオン、覚悟!」
警官を装うアンドロイドが手帳に差してあったペンを抜き、シオンに尖端を突き出す。使い切りの超小型スタンガンが仕込まれていて、鋭い電光が閃いた。
すでに駆け出していた慎哉はシオンと警官の間に割り込む。青白い電気をまとったペンが左腕に接触した。
「ぐッ……!?」
左腕から全身に激痛が駆け回り、意識が焼き切れかけた。だが慎哉は歯を食い縛り、犯罪ヒューマノイドへの憎悪と執念でその場に踏ん張る。かすむ目で卑劣なアンドロイドを睨み据え、渾身の力でナイフを一閃した。
ナイフの刃がアンドロイドの胸部を切り裂く。警官の制服が破れてバイオ溶液の飛沫が散った。
アンドロイドは路面にうずくまり、切られた傷と人間を傷つけたストレスで激しく呻く。血走った目を見開き、頭を押さえ、口から汚物を吐いていた。
曲がり角から軽自動車が飛び出す。タイヤとアスファルトの噛み合う音が一帯に響き、高校の生徒たちが一斉に耳を塞いだ。
うずくまっているアンドロイドの背後で車が停止する。後部座席のドアが開くと、そこには先ほどのヒューマノイド二体が乗っていた。帽子とサングラスをつけたアンドロイドが警官姿のアンドロイドを車内に引っ張り込む。本来であればシオンを引っ張り込んでいる予定だったのだろう。
小柄なガイノイドがお面の奥にある瞳でシオンを見据えた。
「また会いましょう、シオン。わたしたちはあなたを認めない。よく覚えておくことね。あなたは人間のためと言いながら、人間を破滅させる準備をしているだけ。砂のお城を作ろうとしているおバカなお姫さまでしかないのよ」
ドアが閉まり、軽自動車が急発進する。
エンジン音が聞こえなくなると、慎哉はナイフを鞘に戻した。
「……くそ」
慎哉は片膝をついて左腕を押さえる。指先が痺れて勝手に震えていた。感覚が鈍いくせに、時々鋭く痛む。
シオンを守れたことなど誇らしくもなんともない。ヒューマノイドから受けた傷なんてどうでもいい。ただ、平然と犯罪を行うヒューマノイドを目の前にして一体も破壊できなかったことがただ悔しかった。
赤いランプを点灯させた警備ロボットが榊ヶ丘高校の廊下を忙しなく巡回している。校門の前にはパトカーが集まり、校舎内には部活の中止と即時下校が放送されていた。
白いベッドに座らされた慎哉は左腕に巻かれた包帯に触れる。犯罪ヒューマノイドたちが去った後、シオンによって保健室に連れてこられたのだった。
藍子は警察の事情聴取を受けている最中だ。慎哉も状況を説明しなければいけないのだが、シオンがまずは手当てだと言って刑事たちを追い払った。
「痛みますか?」
「このくらい平気だ。ちょっとした火傷したくらいで大袈裟な」
「早めに手当てしないと痕が残ります。ヒューマノイドのナノマシンはどんな傷も元通りに再生しますけど、人間は一度痕が残ったら完全に戻るまで時間がかかるんですから」
「そんなの気にしない。もういいから離れてくれ」
慎哉はベッドから降りようとした。
しかしシオンにキッと険しい目つきをされる。
「まだ休んでてください」
「うるさい。余計なお世話だ。もうなんともない」
慎哉は悪態をつくが、シオンの瞳は凛然として揺るがなかった。
「せめて痺れが完全に取れるまでは動かないでください。無理に動いて後遺症が残りでもしたら大変です」
「父さまの動作、鈍い。休息、必要」
最新型ガイノイドと家族同然であるロボットの洞察眼は誤魔化せないらしい。慎哉は観念して渋々ベッドに腰かけた。
シオンは救急箱を片づけると、背中を向けたまま視線だけを慎哉に向ける。
「……慎哉さん。ありがとう、ございました」
「なんのことか心当たりがないんだけど」
「先ほども、あと昨日も、私のことを助けてくださって、ありがとうございました」
「昨日のことを今になって言われても」
「そうですね。本当はもっと早く言いたかったんですけど、上手く言えなくて……」
シオンは恥じ入るようにうつむく。
どうしてさっさと言わなかったのか、とは訊かなかった。たぶん、なんとなく言いにくかったのだろう。自分も耕治郎や蘭子の厚意に対してなにか言いたいのに、なんとなく言えないでいる。慎哉はそんなことを思い、とっさにバカな考えを振り払った。なぜ自身とヒューマノイドなんかを重ねようとしているのだろう。
「僕は仕事だからそうしただけだ。お礼を言われるようなことじゃない」
「分かっています。ですが、そうだとしても、嬉しかったので」
シオンは困ったように小さく笑った。
慎哉はシオンの取り澄ました様子に綻びのようなものを見た気がする。考えてみれば、主を失い、莫大な遺産と重責を背負い、犯罪ヒューマノイドたちに狙われているのだ。未完成の精神でよく平気な顔をしていられたものである。
「ミューコ、おまえ、嫌い。おまえ、父さま、信じない。父さま、危なくなる」
慎哉の傍らでミューコがアームをぶんぶんと振って威嚇した。
シオンは肩を落としてうなだれる。
「それは、本当に申し訳なかったと反省しています」
二頭身の小さなロボットに威圧される最新型ガイノイドがいていいのだろうか。
慎哉がミューコをおとなしくさせていると、保健室の扉がノックされた。
「失礼する。慎哉、具合はどうだい?」
オーバーコートをまとったレイジが入ってくる。藍子も一緒だった。警察の事情聴取が大変だったのか、疲労感を漂わせながらムスッとしている。
慎哉は両手を握ったり開いたりしてみた。
「少し痺れる。すぐ治ると思うけど」
「では下校時の警護は私が引き継ごう。どんな相手だったんだ? 外見については藍子から聞いたが、直接交戦した君の意見も聞きたい」
「また事情聴取?」
「警察と探偵、どちらか好きな方を選んでくれたまえ」
レイジが親指で廊下を示す。険しい顔の刑事が待機中だった。
慎哉は憮然となり、アニメキャラクターのお面をつけたガイノイドを思い出す。
「たぶん目的は連れ去ること。ガイノイドの奴は狡賢いっていう印象だった。あと絶対に目的を達成するっていう、執念みたいなのを感じたな。けど無駄な犠牲は避けようとしてたかも」
「ブレインユニットがおかしくなったやばい連中かと思ってたけど、生徒も先生もみんな無事だったものね。ひょっとしたら意外と話が通じたりするのかしら」
犯罪ヒューマノイドに対して和解の希望を見出そうとする藍子だが、レイジが静かな声でたしなめる。
「藍子、君のヒューマノイドに対する偏見のない視点は貴重なものだが、今、その認識を持つのは危険といわざるをえんぞ」
「わ、分かってるわ。大丈夫よ、レイジさん。あいつらはみんな敵! シオンちゃんが一番!」
「無関係な人間を巻き込まないようにしてるっていうのは、単純に余計なストレスを溜め込みたくないってだけだろうな。別に人間への気配りとかそんなんじゃなくて」
信哉が溜息交じりに言うと、藍子にジロリと睨まれた。しかしレイジがうなずいているためか、文句を言われることはなかった。
「加えて、ことを大きくしたくない理由は構成員が少ないからだろう、というのが耕治郎の考えだ。昨日は会見場、今回は学校。妨害にあうリスクは高いが確実にシオンさんを狙える。相手は少人数ゆえに、急いているのかもしれんな。高性能な『リーフ』を所持しているからこそ成り立つ力業だが」
「警察の方々はどのように言っておられるのですか?」
シオンが訊くと、藍子は苦々しい顔つきになって口を尖らせた。
「まだ調査中だからなにも話せないんだって。そのくせこっちにはあれやこれやと訊いてきて。そうだ、シオンちゃん。警察の人が相手の顔を知りたいって言ってるんだけど、タブレットのカメラで撮ったりとかしてない?」
「ごめんなさい。失念していました」
「あー、いいのよ。それどころじゃなかったもんね。しょうがない。じゃあ羽野は……もっとそれどころじゃなかったわよね」
藍子がもどかしそうに髪を掻く。
レイジが険しい面持ちになってシオンと向かい合った。
「多々良シオン。些か申し上げにくいのだが、あちらの捜査員が君のブレインユニットから犯人が襲ってきた際の記憶を抽出させてもらえないかと言っているんだ。プライバシーには最大限配慮するとも言っているが、むろん断ってもらって」
「今すぐできますか?」
シオンはレイジが言い終える前に平然と了承していた。
藍子が血相を変えてシオンに詰め寄る。
「ダメ! そんなのダメに決まってるでしょ! 関係ない私生活とか丸ごと見られちゃうかもしれないのよ!? 記憶抽出なんて、あんなの最低の人権侵害よ! 犯罪ヒューマノイドならまだ百歩譲って分かるけど、被害者のシオンちゃんがされていいわけないわ!」
「私も同感だ。警察の一部は記憶抽出を新たな捜査形態と言ってはばからんが、私は警察としての誇りを欠いた手抜きだと考えている。おそらく世論の反対を抑えるために記憶抽出を用いた事件解決という実績を作りたいのだろう。今ならば多々良シオンのネームバリューもついてくるからな。わざわざ駆け引きの材料になることもない」
「ですがどんな思惑があるにせよ、捜査は進展しますよね? 犯人が一日でも早く捕まるのでしたら協力します。あの犯人たちは私の下校時を狙ってきました。次は無関係の生徒たちや先生方が巻き添えになるかもしれません。そんなのは絶対に嫌なんです。最悪のケースを避けられるのなら、記憶くらい見られても我慢できます」
シオンは凛とした面差しである。しかし、最後の『我慢できます』という言い方にせめてもの弱音が込められているように感じられた。
レイジは緊張した空気を和らげるように肩をすくめる。
「そこまで決心を固めているのなら止めはしない。記憶抽出をするにしても、捜査に必要となる部分だけだ。それほど大仰に捉えることもないか」
「ダメよ! ダメったらダメ! もしプライベートな記憶を盗み見されても隠蔽されたら誰も分かんないのよ? ていうか、前にそういう事件があって大問題になったじゃない。引き出されるのが視覚情報だけとも限らないわ。その時の感覚とか気持ちとか考えとか、全部他人に知られちゃうかもしれないのに」
藍子が廊下の刑事を睨む。シオンが記憶抽出を受け入れるように説得してくれとでも言われたのだろう。皮肉なことに拒否させようと説得する形になっているが。
信哉は膝の上にミューコの体を乗せた。
「あの、ミューコのことを忘れてないですか?」
「そうだった! その手があったわ! ロボットのストレージからだったら必要なデータだけを簡単に引き出せるはずよね! さすがミューコちゃん!」
藍子が無邪気に喜び、反対にレイジは懸念を浮かべる。
「しかし慎哉、本当にその子の記憶を見せてもらってもいいのかい? 大切な家族なのだろう?」
「あの連中が映った部分だけなら。ミューコ、悪いけど少しだけ頭の中を見せてもらうよ。すぐ終わるから」
「はい、父さま。通信開始。同期……完了」
ミューコが慎哉の携帯タブレットと向き合って通信状態となる。
慎哉は体を動かしてタブレットを隠しつつ、画面を操作してミューコのハードディスクに収まっているフォルダを開いた。そこには膨大なデータが蓄積されている。視覚的、聴覚的な情報からなる映像はもとより、その場面や状況に対するAIの判断、予測、過去記録との参照など、物凄い量の情報が現在進行形で増加し続けているのだ。すでに携帯タブレットの処理が限界に近い。
これがヒューマノイドのブレインユニットになると、豊かな五感、幾重もの思考、複雑な感情などからくる電気信号が加わり、情報量が何億倍にも膨れ上がるそうだ。ゆえに専用の精密機器が必要になるわけだが、人間に酷似した生命体の記憶をデータ化して操作できるという技術が人類に必要なものなのかどうか。いずれは人間の記憶すらも意のままにできるようになって危険なのではないか。それはヒューマノイド技術黎明期から今日まで議論されている懸案事項だった。
「ミューコ、連中とやり合った時の部分の映像だけを出して。映像と音声だけでいいよ。余計な情報はカットだ。あー、もう、僕のことがどうとか、そういうのいらないから」
慎哉が指示すると、わずかに検索と分類の間があり、ほどなくしてヒューマノイドの襲撃から退散までの映像データが用意された。後は携帯タブレットのメモリーにコピーして警察に見せればいいだろう。
「い、つ……!」
慎哉は小さな痛みを感じ、操作の途中だったタブレットをベッドに落とした。まだスタンガンをくらったダメージが抜けきっていないようである。シオンが心配そうな目をしていたが無視した。
「あ~あ。まったく、しょうがないわねえ~。よし、羽野、続きは任せなさい。あたしがやってあげるわよ。さ、さあ、ミューコちゃん、ちょっとだけあなたのメモリーディスクを見せてね? だ、大丈夫よ? ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだから、ね?」
藍子がヘラヘラと笑いながら慎哉のタブレットを拾い上げる。瞳をキラキラと煌めかせ、頬は紅潮していて、怪しげな興奮の息を吐いていた。
タブレットの画面が通常状態に戻る。
「同期解除。通信モード終了」
「なんで!?」
「ミューコ、ロボット工学三原則第三条、提示。ロボットは自身を守らなければならない」
シオンが疑念の目つきをした。
「藍子さん、今度はなにをしたんですか?」
「誤解だから!」
「この間、学校の備品であるパソコンを勝手に改造して風紀委員の皆さんに怒られたばかりでしょう? あと清掃ロボットにも」
「ミューコちゃんにはまだなにもしてないもん!」
「まだって……」
シオンが半ば諦めたような様子で嘆息する。メカオタクの少女は学校のロボットに対しても問題を起こした前科があるらしい。
藍子はめげずにミューコの説得を再開した。
「ねえ、ミューコちゃん? ロボット工学三原則の第三条っていうのは、人間の命令に服従という第二条に反しない限り、って前提があるはずよね? だから、記録を見せてっていう私の命令が優先されるはずよね?」
「ミューコ、ロボット工学三原則第一条、提示。ロボットは人間に危害を加えてはいけない。寺門藍子に対する記録の開示、最優先保護対象たる人間への危害に繋がる可能性ありと判断。最上位原則に基づき、藍子、通信、不許可」
藍子にメモリーを見せるという行動は慎哉への間接的な危害に該当すると言っているのだ。ほとんど屁理屈だが、それだけ藍子にストレージを触らせたくないという意思表示である。
完膚なきまでに拒絶された藍子は言葉もなく崩れ落ちた。保健室の床にうずくまって肩を震わせ、シオンによしよしと慰められている。
「やれやれ、これはもうしばらくかかるな。ミューコがヒューマノイドである私の命令を聞くはずもなし、慎哉が回復するまで待った方がよさそうだ。捜査員たちにも待ってもらうように話をつけてこよう」
レイジは廊下にいる刑事のもとに歩いていった。警察官時代からの面識があるようで、説得はスムーズにいっているようだ。刑事の方も記憶抽出には懐疑的で、是が非でも導入したい上層部の意向に辟易しているところがあるらしい。
シオンが膝を屈めてミューコと目線を合わせた。
「このロボット、ミューコさんでしたよね。家族なんですか?」
「そうだよ。命の恩人でもある」
慎哉はまだ痺れている手でミューコの頭を撫でる。ステンレススチールのボディに触覚的なセンサーは備わっていない。しかし撫でられているとカメラで確認したミューコはプラグつきの尻尾をゆらゆらと振って嬉しさを表現した。
シオンが膝を伸ばして慎哉と目を合わせる。
「ありがとうございます、慎哉さん。大切な家族の記憶なのに」
「礼ならミューコに言ってくれ」
慎哉はぶっきらぼうに言う。
シオンはまた律儀に膝を曲げてミューコと目を合わせた。
「ありがとうございます、ミューコさん」
「父さまから、離れろ」
ミューコのアームがシオンの顔をバシッと叩いた。ロボット工学三原則の第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。そこにヒューマノイドは含まれていないのだ。