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ヒューマノイドノイズ  作者: 柏木滋
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プロローグから第一章

   プロローグ


 その日も羽野信哉(はのしんや)の一日はごく普通に始まろうとしていた。

 パートナーロボットであるミューコの目覚まし機能に起こされたら、着替えを済ませて両親と朝の食卓につく。ヒューマノイドのアイドルが新曲を発表するというテレビのニュースを聞きながらご飯を食べて、父の出勤を見送った。ニュースが本日の運勢になったくらいでランドセルを背負い、携帯タブレットをポケットに入れる。一緒に行くとせがんでくるミューコをランドセルに無理やりつっこみ、母に「いってきます」と告げて、いつものように家を出た。

 時間通りに到着したバスに乗ったら、お気に入りである一番後ろの座席に座り、大慌てで駆け込んできた友人たちを笑い飛ばす。前の座席には女子のグループが集まっていた。嬉しいというか、気恥ずかしいというか、ちょっと落ち着かなかった。

 友人が熱心に話しかけてくる。ガイノイドのアイドルグループに夢中らしく、次の休みに家族でコンサートに行くそうだ。マツシバコーポレーションが発表したばかりの最新型ヒューマノイドもお披露目されるそうで、早く会ってみたいと大はしゃぎだった。

 それに対して別の友人は、歌手なら人間の方がいいと反論をする。芸能や芸術の造形に関してであったら、ヒューマノイドはまだまだ人間の域に及ばないのだとか。しかし慎哉は知っている。評論家気取りの友人が音楽担当の先生であるガイノイドに密かな想いを寄せていることを。

 ヒューマノイドの活躍について議論していた二人は慎哉にも意見を求めてきた。

 あまり興味がなかったので困っていると、おまえはロボットがお気に入りだからな、と冷やかされる。そんなことはないと言おうとしたのだが、ランドセルの中にいたミューコがその通りと電子音声で同意してしまったので大笑いされた。たまにAI搭載のロボットが憎たらしくなる。

「ねえねえ、前から気になってたんだけど、そのロボットって羽野くんが作ったの?」

 前の座席からクラスメートの女子が身を乗り出して声をかけてくる。アーモンド型のカメラと三角形の耳をランドセルから覗かせる二頭身ロボットに手を振っていた。ミューコの方もプラグのついた尻尾を振り、メタリックグリーンの小さなボディに不釣り合いの大きなアームを動かして応じる。

「懸賞でたまたま当たって、去年の夏休みに自由研究で作った」

「そうだったんだ。去年はクラス違ったもんね。近くで見てもいい?」

 バスが停まり、バス停にいた客が乗ってくる。一様に手首や首元にホログラムの青いリングを映し出していた。人間ではない、ヒューマノイドだという証だ。緩やかに回転しているリングを注視すると、製造番号や所有者の連絡先といった情報の連なりであることが分かる。今やヒューマノイドはその外見が人間と全く変わらないため、外出時は判別と身分提示のためにリングの投影が義務づけられていた。まるで首輪か手枷のようにも見えてしまうこの措置に対して、ヒューマノイドから反発があったという話は聞かない。むしろ、ヒューマノイドの方が積極的に必要な措置であると主張しているらしく、ついでに、いかにファッションと組み合わせてお洒落に見せるかという流行を作ろうとしているそうだ。

 バスが停車している間に女の子が慎哉の隣まで移動してきた。心臓が勝手にドキドキと高鳴り始める。いつの間にか逃げるように体を横にずらしていて、肩が窓ガラスにぶつかった。友人二人はムスッとしていて、コンサートには俺たちだけで行こうと熱い団結を見せている。

「この子、名前とかあるの?」

「ミューコ。えっと、『コミュット』っていう、AIで人とコミュニケーションを取れるロボットらしいから、それをちょっともじって」

「へえ。よくできてるなあ。作るのって難しかった?」

「そ、そんなことない。このくらい、説明書通りに作れば誰でもできるよ。あ、で、でもAIのプログラミングがちょっと難しかったかも。ミスっちゃったせいで変な呼び方されてて」

「ふーん。そうだ、写真撮ってもいいかな」

「うん。いいよ」

「えへへ、お父さんにおんなじのおねだりしちゃおっと」

 女の子は楽しそうに携帯タブレットを出した。撮影モードにしようとして指先で画面を何度か叩き、だんだんと困ったような顔になってくる。

「あれ? どうしちゃったんだろ。なんか、変だな」

「どうしたの?」

「うんとね、なんか、画面がザラザラしてて。うーん、よく分かんないんだけど、羽野くん、これ、分かる?」

 見せられたタブレットの画面は白と黒のノイズによって酷く乱れている。友人や他の乗客が持つタブレットも同じ状態らしく、みんな困惑しているみたいだった。慎哉もこんな異常は生まれて初めてである。ヒューマノイドの登場と発達によって日本の技術と文化、経済に治安は、世界最高といっても過言ではないほど躍進したのだ。純国産の携帯タブレットが故障するなんて考えたこともなかった。

「電波が悪いのかな。でもこんなに悪いのは」

「父さま、電波障害」

 ランドセルの中のミューコが抑揚のない電子音声で言う。

「あ、こら、外でその呼び方は……え、電波障害? なんで?」

「原因不明。通信不可能。ミューコ、推測。事件性、高い」

 その時、停車中のバスに鈍い音が反響した。喩えるなら、硬い棒でスイカかなにかを叩き割ったような音だろうか。

 車内が静まり返る。

 運転席の方を見ると、フロントガラスにおびただしい赤色が飛び散っていた。運転手は側面のドアにもたれかかっていて動かない。ドアの窓ガラスにも赤い液体が付着し、歪な線を引きながら下へと流れている。

 運転席の横にはさっき乗ってきたヒューマノイドの客たちが集まっていた。そのうちの一人は手に鉄パイプを持っている。赤い液体が鉄パイプの表面を伝い、床にポタポタと滴っていた。

 別のヒューマノイドがこちらに向かってなにかを必死に語り出す。しかし慎哉はなにを言われているのかよく分からなかった。青き礎、日本のさらなる発展、必要な犠牲、そんな言葉が頭の中を通り抜けていく。

 演説みたいなことをしていた客が足下に大きな紙袋を置いた。鉄パイプを持った客は苦しそうに片膝をつく。

 人間に危害を加えようとしたヒューマノイドはブレインユニットに著しいストレスがかかるという。ロボットとは完全に別の存在へと進化したことによって、ヒューマノイドからは暴走させないためのブレーキであるロボット工学三原則が外されるようになった。その代わりとして罪悪感や良心の呵責といった感情をより強くしたような、より人間に近い抑制機能を搭載するようになっている。

 そんなどうでもいいはずの知識が慎哉の頭をよぎった。どうでもいいはずなのだ。なぜならヒューマノイドは人々の幸せを願う、人類のよきパートナーなのだから。

「父さま、脱出」

 ミューコがランドセルから飛び出し、スリッパみたいに平らな足でバスの窓枠に乗っかった。ステンレススチールの両腕で窓ガラスを開けると、慎哉の服を掴んで引っ張る。

「父さま!」

 最大音量の警告を聞いた慎哉はハッと我に返った。車内のどこからか上がった凄まじい絶叫で、ようやく胸中に焦りがくすぶってくる。

 なにがなんだかよく分からないが、ここにいてはいけない。少しでも遠くに逃げなければいけない。慎哉は全身に燃え広がる強烈な衝動に従い、開けられた窓に首を突っ込んだ。

 転がるように窓から出ると、下の路面に頭から落ちた。口の中で血の味がしたが、痛みは感じない。路面を爪で引っ掻きながら立ち上がり、肩に掴まっていたミューコを抱えて走り出す。

 背後を振り返ると、さっきまで話をしていた女の子が窓から外に身を乗り出そうとしていた。慎哉は引き返そうとして立ち止まる。

「お――」

 女の子の名前を口にしようとしたその瞬間、停車中のバスが爆炎に呑まれて消し飛んだ。


   第一章


 慎哉は白くて冷たい通路を淡々と進む。ここは頑丈で清潔で余計なものがなにもない。あらゆる暴力が通じず、常に清掃が行き届いているため、汚れやゴミはおろか、埃さえ目にしたことがない。醜い汚れは自分たちみたいな収容されている連中だけで十分とでも言いたいのだろうか。

 角を曲がると堅牢に閉じられた扉が見える。楽しいことなど一つもなかった場所だが、これで最後となると一抹の寂しさみたいなものを覚えなくもない。また戻ってくる可能性も大いにあり得るのだが。

「お世話に、なりました」

 慎哉は扉の横にある窓口にネームプレートと作業服を返却する。

 守衛からはナップサックを返された。中には収容される際に没収された私物一式が入っている。

「もう外に迎えが来てるみたいだぞ。よかったな、身元引受人が見つかって」

「えっと、そうみたいですね」

 慎哉はあやふやな返事をするしかなかった。新しい保護者なんて一度たりとも望んだことはない。ただ、不自由で窮屈な場所にいたくなかった。一刻も早く自由が欲しかった。だから誘いを受けただけの話である。

 守衛は施設の外を映している監視モニターと慎哉を交互に見て、別れの笑顔を浮かべた。

「まあなんだ。君は色々と大変だったし、これからも決して楽じゃないんだろうがな。でもきっといつか、今までの苦労が、いいことを連れてきてくれるもんさ。達者でな」

 守衛の操作で電子音が鳴り、重厚な扉が開く。外の光が射し込み、澄み渡る青空が酷く眩しい。

 慎哉はナップサックを肩にかけ、パーカーのポケットに手を突っ込んで外に出た。快晴の空を小鳥が飛び回っている。桜の季節はもう終わろうとしているはずだが、高いゲートの向こうからは餞別とばかりにピンク色の花弁が舞い込んでいた。

 丸一年ほど閉じ込められていた榊ヶ丘(さかきがおか)更正施設を振り返る。他にも多数の非行少年や不良少女が収容されているのだが、窓から見送りの声をかけようとする者はいないらしい。人見知りする性格ゆえにこれといって交友関係を作らなかったから当然のことではある。

 慎哉は桜の花弁を目で追いつつ、開いていた正面ゲートをくぐる。

「まずは、更正期間の満了おめでとう」

 音を立てて閉じていくゲートの脇に車が止まっていて、運転席のドアに長身の男が寄りかかっていた。年齢は二十代後半くらいだろうか。精悍な顔立ちで、着用しているオーバーコートの上からでも引き締まった体つきが分かる。

(いや、コレの外見に意味はないか)

 慎哉はパーカーのポケットから手を抜き、全身に緊張感を漲らせた。心臓が熱く脈打ち、思考と感情が冷たく冴えてくる。目を細め、ヒトの形をしている紛い物を見据えた。

 殺し合いも辞さない覚悟を示すと、男は目に好奇心をよぎらせる。

「驚いたな。君とは初対面のはずだが、本当に分かるのか」

「黙れ」

 慎哉は不快感と不信感を込めて言う。男は真面目そうな面持ちで平然と佇んでいるが、あろうことか法務省が管理する更正施設の目と鼻の先で重大な違法行為をしていた。

「そうピリピリしないでもらえるかい。申し遅れたが、私はレイジ。君が看破した通り、アンドロイドだ。製造元はEH社。製造から二〇年間を刑事として勤め、現在は寺門探偵事務所の所員をしている」

 レイジは身分を明かし、右の手首に青く光るリングを出現させる。襟元を正し、警戒心の解けない慎哉に頭を下げた。

「正体を偽ったことを謝罪する。不愉快な思いをさせて申し訳なかった」

 ヒューマノイドに謝られたところで気持ち悪いと思うだけだった。慎哉はさっさと要点を尋ねることにする。

「僕は杖をついた人間のおじさんから勧誘を受けたはずなんだけど」

 何度も面会に来ては事務所の力になってくれと勧誘していた所長が釈放の当日に現れず、しかも代理にアンドロイドを寄越すとはどういう了見なのか。

「所長の寺門耕治郎(てらかどこうじろう)なら事務所で君のことを待っているよ。もともと足が悪いというのもあるが、急な依頼があったものでね。それに私としても、君の不可思議な目の力というものをこの目で確かめておきたかった。ゆえにこうして迎えを買って出た次第だ」

「別に信じられないなら信じなくていい」

「信じるとも。ヒューマノイドの思考は原則的に合理的でオカルトを信じない。だが現場ではスーパーコンピューターの演算よりも人間の直感を信じる。私は刑事として働く中でそう学んだ。それは探偵となった今も変わらん」

「で、僕はこれから、その探偵の手伝いをすればいいのか?」

「詳しくは車の中で話そう。乗ってくれるかい?」

 レイジが後部座席のドアを開ける。

 なにが悲しくてアンドロイドとドライブをしなければならないのか。慎哉は溜息をついて車内に入った。



 かなり使い込まれた電気自動車が爽快なエンジン音を奏でながら榊ヶ丘市の車道を走行する。窓から見える週末の街並みは立体ホログラムの広告や大型ディスプレイの看板に彩られて明るい騒がしさに溢れていた。死者と行方不明者の名前が無数に連なっていた日々の面影は今や微塵もない。

「まず君の身の上を確認したい。プロフィールに目は通したが、これから仲間になるんだ。やはりじかに声を交わしたい」

(……仲間)

 苛立ちがくすぶってきた。レイジは気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、悠々と運転をしながら慎哉に話しかけてくる。

「なにか間違いがあれば指摘をしてくれたまえ。名前は羽野慎哉。年齢は現在一五歳。今年で一六歳。稲尾(いなお)町にて両親と三人で暮らしていたが、およそ五年前、ヒューマノイドの集団による暴動、通称『青き礎事件』に遭遇。通勤通学客を狙ったバスへの自爆テロから一人だけ生還する」

「生き残ったのは二人だ」

 慎哉は膝の上に置いたナップサックを撫でる。

「そうだな。後で資料を訂正しておこう。続けて構わんかね?」

「勝手にすればいい」

「自爆テロから生還した君たちは、その後も青き礎を名乗る一味の殺戮から逃れ続けた。警察と自衛隊によって一味の鎮圧が進み、勢力が衰えると、君は独自に残党狩りを始めた。当時一三歳。それから一年間あまりで六人のヒューマノイドを殺害」

「六体だ。それに僕は誰も殺してない。壊れたガラクタを処分しただけだ」

 慎哉は再び訂正を要求する。どれだけ人間に酷似していようと、ヒューマノイドは人間ではない。立場としては所有物やペットのような扱いである。

「法に照らし合わせれば、確かにその通りだな。しかし近年、ヒューマノイドの中には市民権を得て日本国民と認定されている者が増えている。また、市民権を得ていないヒューマノイドだろうと人間同様に扱うべきだと主張する団体も存在する。逆もまたしかりだが。公の場ではもう少し慎重な発言を心がけた方がいいだろう」

「そんなの知ったことじゃない」

「探偵のもとに身を寄せるんだ。世相に注目しておくに越したことはなかろう。ヒューマノイドの権利はこの瞬間も変質を続けている。五〇年ほど前のジェンダー問題は知っているかい? かつて我々のような人工生命体はアンドロイドと総称されていた。だがアンドロイドという単語には男性という意味が含まれている。そこで人工生命体の総称をヒューマノイドとし、男性型をアンドロイド、女性型をガイノイドと明確に区別すべきだという動きが活発化した。今でこそ自然と使い分けているが、当時は大きな話題になったそうだ」

「ヒューマノイドの区別なんて、敵かそうでないかだけで十分だろ」

「はっきりした物言いは嫌いではない。しかし耕治郎からは人見知りの男の子だと聞いていたのだが」

「おまえは人じゃない」

 車が赤信号で止まる。レイジはバックミラーに映っている慎哉に目配せした。

「事務所に着く前に、少しでいいからヒューマノイドに対する認識を軟化させてもらいたいのだがね」

 慎哉もバックミラーに映るレイジを睨み返した。全てのヒューマノイドが悪ではないことくらい分かっている。

 だが簡単に納得などできるはずがなかった。レイジはあえて確認を避けたみたいだが、バスの爆破後に決死の思いで逃げる慎哉を待っていたのは荒れ果てた自宅だ。どれだけ待っても母は出迎えてくれず、父も帰ってこなくて、目につくのはヒトの形をした殺人鬼のみだった。逃げ惑う人たちは次々と捕まり、老人だろうと子供だろうと関係なく、淡々と殺されていった。食肉の加工みたいな流れ作業で殺されていく人間の姿を、慎哉は物陰に隠れて、口を塞ぎながら、ただただ見ているしかなかった。

 レイジは後部座席の慎哉を一瞥する。ハンドルを握る手に力がこもっていた。

「無理に認識を改めろとは言わない。言えるものか。あそこは筆舌に尽くしがたい、地獄そのものだった。私も当時、稲尾町民の救出作戦に参加していたんだ。警官としてというよりも、同じヒューマノイドとして、感情と知性を授けてもらった存在として、奴らの常軌を逸した凶行が許せなかった。多くの暴徒と対峙したが、ついぞ奴らの思いは理解できなかったな。一味の共通点は全てがかなり古いタイプのヒューマノイドであったということくらいだが、製造元の会社がどこもすでに倒産して久しいために詳細なデータが残っていない」

「……」

 慎哉は落胆して嘆息する。どうしてみんなが殺されなければならなかったのか。それをずっと考え続けているが、いまだに真実はおろか、真実を見つけるための糸口さえ掴めていない。探偵事務所のスカウトを受けた理由の一つは、真相に近づく機会があるかもしれないという期待からだった。

「君がヒューマノイドを憎むのも当然だ。その感情は人間として正しい。ただ、あの事件を解決するために、襲われた町の人々を助けるために、日本中のヒューマノイドが命を懸けて戦った事実も覚えておいてほしい」

 更正施設で何度も聞かされた話である。事件後にヒューマノイドを排除しようとする運動が何度か起こったが、ヒューマノイドに命を救ってもらったという人たちが一丸となって反対運動を黙らせたらしい。しかし慎哉の両親も友達も先生も助けてはもらえなかったのだ。自分たちだけが助かってしまった。この結末にどう折り合いをつけろというのか。

 信号が青に変わって車が動き出す。

「それにしても人間一人でヒューマノイドを六体も倒してしまうとは。まるで大昔にヒットした映画のバウンティハンターだな。見事なものだ」

「結局すぐ警察に捕まったよ」

 夜間徘徊を見咎められた時、ムキになって暴れたのがまずかった。殺人鬼を処分しなければならないのになぜ邪魔するのか。そう逆上してしまったのだ。刃物を所持しての夜遊び、そこに警官を怪我させた傷害罪がくっついて更正の必要ありと判断され、保護者がいなかった身の上も手伝って更正施設に放り込まれたのである。あとはカウンセリングを受けつつ、サボっていた義務教育を徹底的に詰め込まれた。

「教育を受けるのは義務だ。それに学校で得られる経験は人間にとって生涯の財産となるものだと私は思う。収容されている間、勉学に励んでいたかい?」

 造られてすぐ社会に出て職務に就くアンドロイドが学校教育を語るというのも滑稽だった。慎哉は戯れ言を聞き流し、気になっていた質問をする。

「なんで僕の目のことが分かったの?」

「ああ、その問いに答える前に、君は『リーフ』という装置について知っているかい? 他にも呼び方は様々だが、現在は『リーフ』という名称が最もよく広まっているだろう」

「……葉っぱ?」

「更生施設の中にまではまだ広まっていないか。全ての国産ヒューマノイドは製造時、体内に発信器が埋め込まれる。その信号は誰でも、市販のタブレットなどで簡単に受信できる。加えて、外出時はリングの明示が義務付けられている。これは知っているな?」

「ついさっきそのルールを破った奴が、よく義務とか教育とか言えるな」

「ことを円滑に進めるためには時としてルールを破る必要もあると、私は刑事だったころに学んだのだよ」

「転職して正解だったと思う」

「しかし近年、度を超したルール違反が現れた。レストレイント・オートマチック・ヒューマノイドシグナル。略して『ReAH』。ヒューマノイドが自動で発する識別シグナルを抑制できる装置だ。この『リーフ』を起動されると、あらゆるセンサーは対象をヒューマノイドだと認識できなくなる。つまり……」

「人間になりすませる?」

「そうだ。『リーフ』という呼び方は略称である以上に、この装置を忌み嫌う者たちからの痛烈な皮肉でもある。お伽話の狸や狐といった妖怪変化が人間に化けようとする時、木の葉を使うだろう? 犯罪ヒューマノイドがこれを悪用すると、どうなるか分かるかい?」

「相手が人間だと思って油断して近づいたら、不意をつかれて殺される。ヒューマノイドの腕力は人間の何倍も強いから逃げるのは難しい。攻撃されればヒューマノイドにはストレスはかかるけど、最初の一撃だけでも当たりどころが悪かったら致命傷になる」

「人間対ヒューマノイドの戦闘における正解だな。ではヒューマノイド対ヒューマノイドの場合はどうなるか。私の頭の中にあるブレインユニットの感知器官が対象をヒューマノイドだと認識しないため、私は対象を人間だと識別してしまう。そして君も言ったようにヒューマノイドは人間に危害を加えると強烈なストレスに苛まれる。つまり犯罪を目論んでいるヒューマノイドに対して先手が打てなくなってしまうというわけだ。攻撃などをされて対象が危険人物であると認定すればストレスはかからなくなるが、そうなってからでは遅きに失することもあるだろう。それに、相手の行動待ちでは潜伏に徹している犯罪ヒューマノイドを捕らえられん」

「顔が変わるわけじゃないのに分からないのか? それに僕が始末してきた犯罪ヒューマノイドは、強烈なストレスっていうやつで言動がどっかおかしくなってた」

「顔が一致してもヒューマノイドという部分が一致しない以上、限りなく酷似した全く別の存在だと判断してしまい、どうしても同一個体だという認識をできんのだよ。こればかりは、完全な対抗プログラムが確立されるのを待つしかない。『リーフ』を見破れるセンサーやソフトは何度も開発されているのだが」

「いたちごっこか」

「嘆かわしいことにな。いくら対応してもアングラで新たな規格の装置が作られてしまう。犯罪に走ったヒューマノイドは『リーフ』を手に追跡の目を逃れ、人間になりすまして身を隠す。青き礎の残党もそうだった。まさしく木の葉隠れ、というのは悪趣味なジョークだな。もとは公安が諜報活動に使う機密技術だったそうだが、残念なことに漏洩してしまったらしい」

 慎哉はナップサックの紐を握り締めて感情を抑え込んだ。窓から見える人の往来に殺人を犯したヒトもどきが混ざっていると考えただけで吐き気がしてくる。

「世も末だな」

「これはごく一部の悪党に関する話だ。重大に感じるのはそれだけ犯罪率が低い証拠といえる。犯罪が少ないから、たまに流れる犯罪報道が深刻に聞こえるのだよ。治安回復には君の貢献もあっただろう。たった一年弱という短期間で青き礎の残党を六体も討ち取っているのだからな。そのうちの三体は件の装置を所持していたにもかかわらず」

「そうだったの? そういえば完全に油断しきってる奴もいたっけ」

 レイジはバックミラーに映る慎哉を再び見て、口元に好奇心が込められた笑みを作る。

「そこで先ほどの、なぜ君の目の秘密を知ったのか、という話に戻るわけだが。我らが所長の寺門耕治郎は補導された君の調書を見て並々ならぬ興味を抱いたそうだ。人間とヒューマノイドの完全な識別。日本の最先端科学が自らの手で生み出してしまった無理難題を、若干一四歳の少年が易々と解いているのではないかと。果たして、それは正しかった。君の目はどういうわけか、人間とヒューマノイドを正確に見分けている」

「普通、調書を見ただけでそんな発想する?」

「柔軟で突拍子のない思考をするユニークな男だよ。探偵としても優秀だ。ここだけの話だが、私の所有権を警察から得るため、警察署にアタッシュケースいっぱいの札束とスキャンダル写真を持って乗り込んだ」

 慎哉は幾度となく面会に来ていた男を思い浮かべる。生い立ちへの同情は確かにあるが、人材として是非とも欲しいと言っていた。優しそうで正直な中年男性というのが第一印象である。しかし人相がよすぎて逆に怪しく見えることもあった。後見人になりたいという話を受けたのは早計だっただろうか。

「あのおじさん、僕の調書を見たんだって? 探偵にそんな権利って」

「経緯と手口はいまだに見当がつかんな」

「……施設に忘れ物した気がする。戻れ。ていうか降ろせ」

「もう遅い」

 レイジがハンドルを切る。不信だらけの慎哉を乗せた車が大きく曲がって駐車場に入った。



 車を降りた慎哉はレイジの後について駐車場の外に進み、事務所だという建物を見上げた。三階建ての建物で、一階が駐車場である。二階の壁面には寺門探偵事務所という文字が掲示されていた。三階は居住スペースだろうか。ベランダに衣服が干してある。家電製品は現在もめざましい進化を続けているが、洗濯物を天然の風と日光で乾かす家は尽きない。自分の母親もそうだったな、と慎哉は空を仰ぎながら思う。

 慎哉はレイジの後に続いて階段を上っていき、二階の扉を抜けて廊下にあがると、広い部屋に通された。事務室と応接室を合わせたような場所だ。中央には机とソファーが備えつけられていて、壁際の棚には資料らしきファイルや記録ディスクが詰まっている。

 窓際の執務机には細身の中年男性が腰かけていた。杖をつきながら立ち上がり、慎哉の前にゆっくりと歩いてきた。

「ようこそ、慎哉くん。自らお迎えに上がれず、すみませんでした。来てもらえて嬉しいですよ」

「え、えっと、そうですか」

 慎哉は体を強張らせて首を下に振る。会釈をしたというよりは、目を逸らしたといった方が正しいかもしれない。

「もう何度もお話はさせもらっていますが、改めてご挨拶させてください。君の身元引受人となった寺門耕治郎です。当探偵事務所の所長も務めております」

「羽野慎哉、です。それと」

 慎哉は緊張した小声で答え、背中のナップサックを振り返った。

 耕治郎は笑顔でうなずく。

「そこのコンセントを使ってください」

 慎哉はナップサックの口を広げ、中からメタリックグリーンのロボットを引っ張り出した。頭部のカメラは光を灯さず、手足と尻尾をぶらりと垂らしていて動かない。

 床に屈んだ慎哉は二頭身ロボットの尻尾を伸ばし、先端についているプラグをコンセントに差し込む。アーモンド型の両目が薄い赤色の発光をして充電の開始を知らせた。

「そちらに座ってください。飲み物を持ってきましょう。お茶がいいですか? それともコーヒーの方がいいでしょうかね」

「なんでもいいです」

 慎哉は短く言ってソファーに座る。父が飲んでいたコーヒーを分けてもらって悶絶した記憶があるのだが、弱みを見せるのが嫌でつい見栄を張ってしまった。

「なら私がコーヒーを煎れてこよう。人間とヒューマノイドはコーヒーで親睦を深めるものだ。砂糖とミルクはいるかい?」

 レイジが張りきった足取りで事務所の奥に移動しようとした時である。

「ったく、この唐変木どもときたら。コーヒーだ? なにオシャレな職場を気取ろうとしてんだい。シンプルにジュースでいいんだよ」

 事務所の奥から目つきの悪い女性が現れた。荒っぽい雰囲気と三白眼にエプロンが全く似合っていない。トレーを抱えていて、フルーツのジュースとお菓子が載っていた。

 耕治郎は慎哉の向かいに腰かけ、笑みを深めて女性のことを紹介する。

「妻の蘭子(らんこ)です」

「よろしくな。菓子も持ってきたから好きなだけ食え」

「え、えっと……」

「あたしは出かけなきゃならないんで、足りなかったらレイジに言いつけてくんな。遠慮するこたない。ありゃうちで飼ってる犬みたいなもんだからよ」

 蘭子はぶっきらぼうに言ってエプロンを外した。慎哉は挨拶もろくにできずに固まっているしかない。

「おや、どちらへ?」

「今日から坊やも一緒に暮らすんだろ。まだ必要なものが足りてねえから買ってくるんだよ。それくらい分かれ。てめえはそれでも探偵か、耕治郎」

「はい、精進します」

 耕治郎は蘭子に掴み所のない微笑を返す。

「ここで、一緒に……」

 慎哉は事務所を見回した。ここが自分の住まいだと言われても実感が湧かない。更正施設に入れられた時も同じような感覚に陥ったので、そのうち慣れるだろうとは思う。

「なにか困ったことがあれば相談してください。これからは家族なのですから」

「……」

 慎哉は返事に窮して黙った。寝床と仕事をくれることには感謝しているが、更正施設の強化アクリル越しでしか話したことのない人物をいきなり家族と呼べるはずもない。

 耕治郎も踏み込みすぎだと思ったのか、ジュースを一口だけ飲んで話題を変える。

「それではお仕事の話でもしましょうか。慎哉くんには当探偵事務所の所員として業務を手伝っていただこうと考えています。いきなりで最初は大変かもしれませんが、なにぶん人手が不足気味なものでして」

「仕事って、具体的にはどんな?」

「色々、としか言いようがありませんね。脱走したペット探しにロボット探し、浮気調査、時には要人警護といったものまで」

「耕治郎はなんでも気軽に引き受けすぎだ。ご近所からはなんでも屋だと思われているらしいぞ。調子が悪くなったテレビの修理など探偵の仕事ではないだろうに」

 レイジが呆れた調子で言う。

 しかし耕治郎は自信に満ちている笑顔で応じた。

「いいえ、レイジくん。どんなに小さな仕事でも引き受けることでそこに人脈が生まれ、多くの人々と信頼関係を培い、貴重な情報源を増やしていけるのです。これは探偵にとって大切なことですよ」

「そういう考え方もあるか。なるほど、一つ学んだ」

「慎哉くんには期待しています。もうレイジくんから『リーフ』の説明は受けましたか? 近年は悪質な装置を用いた悪事が民間でも増えつつありますのでね。ですが、気を張りすぎなくても大丈夫ですよ。分からないことがあれば私やレイジくんになんでも相談してください」

「ちょーっと待ったーッ!」

 突如として事務所のドアが開け放たれ、甲高い大声が飛び込んできた。つなぎを着た少女がポニーテールに結った髪を揺らしながら入ってくる。手袋をはめた手に工具箱を提げていて、工場の作業員みたいだった。

「おや、藍子(あいこ)ちゃん。お早いお帰りでしたね。紹介しましょう。こちらは今日から住み込みで働いてくれる羽野慎哉くんです。慎哉くん、娘の藍子ちゃんです。君と同い年なので仲よくしてあげてください」

 紹介された藍子は仲よくなれそうにない剣幕で耕治郎に詰め寄った。

「パパ、よくも騙したわね!」

「騙した? はてさて、身に覚えがありませんね。それより依頼人のテレビは直ったのですか?」

「ばっちり直してやったわよ! 修理前よりも格段に音質がよくなったってお言葉をいただいてきたわ! ていうか、とぼけるな! ヒューマノイド殺しのイカレ野郎を連れてくるのは明日の昼って言ってたでしょ! よくも大嘘を教えてくれたわね!」

 藍子が一気にまくし立てると、耕治郎は悪戯が失敗した子供のごとく残念そうに肩をすくめた。

「ばれてしまいましたか。だって本当のことを教えたら藍子ちゃんは反対するでしょう?」

「ずーっと前からそう言ってるじゃない! うちにはあたしとレイジさんがいれば十分だって!」

 藍子が犬歯を剥き出しにして主張すると、事務室の隅に立っているレイジが含みのある苦笑を漏らした。

「名探偵寺門耕治郎も、たまには読み違えるのだな」

「精進不足の所長ですみません。修理に行ってもらっている間に諸々の手続きを終わらせてしまうつもりだったのですが。藍子ちゃんの技能を見くびっていました。しかし、よく慎哉くんがもう来ていると分かりましたね」

「帰ってくる途中で買い物してるママを見かけたのよ。両手いっぱいに荷物いっぱい持ってて、楽しそうにスキップなんてしちゃって、なんか嫌な予感がしたの。大急ぎで戻ってきてみれば、案の定じゃない!」

 藍子はテーブルを両手で叩いて耕治郎を睨む。

 耕治郎は娘に拍手を返した。

「あっぱれな洞察力と推理力です。さすがは私と蘭子の娘。パパは嬉しいです」

「あとは淑やかさを学べば一人前だな」

「レイジさんも呑気なことを言ってる場合じゃないでしょ! こいつはヒューマノイドを六人も殺した犯罪者なのよ!?」

 藍子に猛烈な敵意を向けられ、慎哉は身を縮こまらせた。ヒューマノイドへの態度を軟化させてほしいと言っていたレイジの発言に合点がいく。だが誰になんと言われようと、殺人ヒューマノイドの破壊を悪だと思ったことはないし、後悔したことだってない。これからも同じだ。

「藍子ちゃんは誤解をしているようですね。慎哉くんは犯罪者ではありませんよ」

 耕治郎が藍子に言い聞かせると、レイジが補足する。

「補導のきっかけは警官への傷害だが、それはすでに苛酷だった経歴を酌まれて不問とされている。更正施設への収容は償いのためではなく、社会復帰に向けたメンタルケアと義務教育を受けさせるためだ。藍子、不当な犯罪者呼ばわりは、それこそ罪だぞ」

「む……言い過ぎたことは謝るわ。でもさ、やばい奴ってことに変わりはないでしょ! しかもうちで一緒に暮らすなんて冗談じゃないわ!」

「あの、僕、もうクビ?」

 慎哉がおずおず尋ねると、藍子が腕を振って玄関の方向を指した。

「そうよ! とっとと出て行け!」

「えっと、はい。すいません……」

「私と話していた時と態度が違いすぎではないか? どちらが素なのやら」

 レイジは少し不満そうに言った。

 耕治郎が杖をついて立ち上がり、やんわりと藍子の手を取って下げさせる。

「藍子ちゃん、落ち着いてください。慎哉くんの雇用と同居はもう決定事項です。今から追い出したら、帰るところのない慎哉くんはどうなるのですか」

「パパはあたしとこいつとどっちが大事なの?」

「藍子ちゃんです」

「は……? あ、そう。ならいいんだけど」

 藍子が呆気に取られて静かになると、耕治郎は神妙な面持ちになった。

「ですが、慎哉くんを大事に想ってくれた人たちはもうこの世にいません。青き礎なる凶悪なヒューマノイドたちに殺されたのですよ」

「全部のヒューマノイドが悪いわけじゃないわ」

「それくらい慎哉くんも分かっているでしょう。しかし、たった数年で受け入れられるわけがありません。藍子ちゃんも知っているでしょうが、私は色んな人から『青き礎事件』の調査を依頼されました。そして調べるたびに凄惨な爪痕を見せつけられました。そんな折、偶然にも事件によって孤児となった被害者が近くにいると知ったのです。彼の支えになりたいという私の願いは間違っているのでしょうか」

「ま、間違ってるとは言わないけど」

「それに、慎哉くんの希有な才能を手放すのはあまりにも惜しいのです」

 耕治郎が実利面の話をすると、藍子の表情が懐疑的なものに変わった。

「なんの装置も使わないで人間とヒューマノイドを見分けられるってやつ? 呆れた。パパ、まだ信じているの?」

「もちろんです」

 耕治郎が笑顔でうなずく。

 藍子は慎哉に疑惑の目つきをした。

「あんた、本当に見分けられるの?」

「見分けるっていうか、見れば分かります。ヒューマノイドは灰色のざらつきみたいな、変なノイズがかかって見えるんです」

「それは私もかい?」

 慎哉はレイジの姿を見据えてうなずいた。

「人間によく似たなにかが服を着てて気持ち悪い」

 藍子が眉をひそめて拳を握ったが、怒りを爆発させる前に耕治郎が落ち着いた声音で言葉を挟む。

「その見え方は、暴徒から逃げ回っているうちにいつの間にか、とのことでしたね。ヒューマノイドに発見されれば殺されるという極限状態が特異な能力を目覚めさせたのでしょうか」

「もう少し検証したい。写真や映像に映ったヒューマノイドの場合はどう見えるのかね?」

 レイジがタブレットを取り出して画像を表示させた。かつての同僚らしい警察官が何人か映っている。

「そういうのは普通に見える」

「うそくさ。やっぱり信じられないわね。どうせテキトーなこと言ってるだけなんじゃないの?」

「発声時の表情と呼吸から判断して、彼の言葉に偽りはない。ヒューマノイドを見抜く眼力は本物だろう。理屈はまったくもって不明だがね」

「うぐぐ……レイジさんがそう言うなら、まあ百歩譲ってそういうことにしとくわよ。でも一緒に住むっていうのはまた別の話じゃないかしら」

 藍子がぶつぶつ不満を漏らしていると、部屋の隅でピッという電子音が鳴った。慎哉はコンセントの前に急いで駆け寄って屈み込む。

「――充電完了。ミューコ、起動。通信良好。時刻、修正。状況把握、開始」

 ミューコが二頭身の体を立たせ、尻尾を振ってコンセントからプラグを抜く。

「ミューコ! ああ、よかった。ちゃんと動いた。調子はどう? 僕のことが分かる?」

 慎哉が見下ろすと、ミューコは上を向き、アクリルの両目でじっと見つめてくる。最後の記録である一年前の慎哉と今の慎哉を照合しているようだ。

「父さま?」

「うん、一年ぶり。ずいぶん待たせたね」

「父さま、大きくなった」

 ミューコが両腕を上げたので、慎哉はメタリックグリーンのボディを抱っこして持ち上げる。

「そう言うおまえは変わらないな」

 慎哉は自然と笑みが浮かんだ。バッテリーが切れてから聞いていなかった単調な電子音声が、どんな人間の肉声よりも温かく感じる。

「なあーッ!?」

 藍子の素っ頓狂な叫び声が慎哉の感慨を撃砕した。

「な、なんですか?」

「その子! 弐壱(にいち)カンパニーのコミュットシリーズ、しかもファーストモデル!?」

「え? あ、はい。そういうシリーズだったと思いますけど」

「嘘でしょ!? 本物!? 本物の初期生産モデル!? あれでしょ!? ペット以上のパートナーをコンセプトに開発されたにもかかわらずロボット工学三原則がかかってるって苦情が相次いで結局生産中止になった幻の自律ロボットよね!?」

「そ、そこまでは知らないですけど。ミューコ、おまえってレアものだったの?」

 慎哉が赤く光るアーモンド型のカメラを見つめて尋ねると、ミューコはよく分からないといった様子で頭を傾ける。

「ミューコは、ミューコ。父さまが作ってくれた、ミューコ」

「うん、そうだね。それだけでいいよね」

「イチャイチャすんな! 見せつけてんじゃないわよ! あたしがどれだけ弐壱カンパニーの懸賞に応募して、どれだけ中古ショップを駆け回ったと思ってんの!? いい!? その子は全国に二〇〇体くらいしか出回らなかった超レアなロボットなの! そりゃ後継型はたくさん出てるけど、製造の下請けが騒動のせいで分裂とか合併とかくだらない揉め事を繰り返してたせいで初期型デザインの復刻は絶望的って言われてるのよ!」

 熱弁していた藍子が両手の指を蠢かせ、弾かれたように飛びかかった。慎哉が抱えていたミューコを奪い取り、血走った目でパーツの細部までを観察する。

「あ、ちょっと、なに勝手に……」

 藍子は慎哉の抗議など聞こえていないらしく、熱っぽい息を吐いてミューコの頭部に頬擦りをしていた。

「いい! いいわ! 最高に素敵よ! このコンパクトなボディに装着された無駄に大きなアーム! まるで歩行に向かないペタンコの足! 時代に逆行した有線のみの充電システム! 機能性の概念をことごとく放り捨てたフォルムがあたしの守ってあげたい欲求を駆り立てる! 本物に出会える日が来るなんて! この瞬間をどれだけ夢見たか!」

「……」

 慎哉は耕治郎にジトッとした目を向ける。

「自慢の娘です」

 娘の暴走を止めるつもりはないらしい。耕治郎の親バカ発言を聞いた慎哉は今すぐ辞表を書きたくなってきた。

「ね、ねえ、ちょっとあたしの部屋に来てみない? お、お、面白いパーツとかソフトがいっぱいあるから、きっと気に入ってくれると思うの。だ、だだ、大丈夫よ? や、優しくするから、ね? ね?」

 藍子の発言が犯罪っぽさを臭わせ始める。探偵の自慢の娘がこれでいいのだろうか。

 ミューコは両腕をパタパタと動かす。ロボット工学三原則の中に人間に危害を加えてはならないという項目があるため、自力での強引な脱出が不可能なのだ。

「父さま、助けて」

 慎哉は自室に急行しようとしているらしい藍子に詰め寄り、力ずくでミューコを奪い返した。

 弾みでソファーに倒れ込んだ藍子が獰猛な唸りを上げて起きる。

「なにすんのよ!」

「ミューコに触らないでください」

「ちょっとくらいいいでしょ、減るもんじゃなし! ていうか、その子、譲ってよ! 幼稚園の時からずっと欲しかったの! いくらでも出すから!」

「冗談じゃない! ミューコは僕のたった一人の家族です!」

「そ、そこまで? そうだったの。それは悪かったわ。ごめん」

 藍子はシュンと縮こまって素直に謝った。

 メカオタクの魔の手を逃れたミューコが事務所を眺め回して頭をキョトンと傾ける。

「父さま、ミューコ、情報不足。ここ、どこ?」

「ミューコちゃん! ここはね、あなたのおうちよ! 今日からあなたのおうちなの! あたしのことは藍子お姉ちゃんって呼んでくれていいからね!」

 元気を取り戻した藍子がミューコに顔を近づけて変な刷り込みをしようとする。

「父さまと、ミューコの、おうち?」

「そうよ!」

 藍子が嬉しそうに言うと、耕治郎は軽い咳払いをして慎哉に向き直った。

「それでは慎哉くん。さっそくですが、仕事をお願いしてもよろしいでしょうか。藍子ちゃんの賛成も得られたことですし」

「……あれ?」

 藍子の乾いた声が事務所に響いていく。



 休日のコンベンションホールはテレビ局や新聞社のロゴをつけた職員で埋め尽くされていた。どこを見てもマスコミ関係者がタブレットを使った通話やメモをしていて、前後左右で画面がチカチカと光っている。

「先月、タタラグループの会長が逝去された。タタラグループは製造業から宇宙開発まで幅広い産業を手がける大企業で、二大ヒューマノイド経営体であるマツシバコーポレーション、EH社ともしばしば事業提携をしている」

 レイジがホールの入り口で屹立している警備員に入館証を見せてエントランスに入った。

「ヒューマノイド事業が日本経済の要なのは言うまでもないわね。マツシバとEHが国を支える大黒柱だとしたら、タタラは土台ってところかしら」

 藍子がレイジの説明に続く。コンベンションホールの雰囲気に合わせるために制服を着ていて、小脇にはモバイルパソコンを抱えていた。

 慎哉の服装はそのままで、完全に休日の学生といった出で立ちである。周囲から少し浮いているが気にせず、フードに入っているミューコと一緒にエントランスを見回しした。

 マスコミとは異なる動きの人間を何人か見つける。険しい目つきでさりげなくホール内の隅々を注視していた。おそらくは私服の警察官だろう。他にも民間警備会社の警備員が来ているようだ。

 予想外のきな臭さを目の当たりにさせられた慎哉は依頼内容を確認する。耕治郎とオーナーに個人的な親交があり、そのツテでもらってきた仕事らしい。

「このホールから来た依頼っていうのは、記者会見が行われる会場の監視だったっけ?」

「そうだ。藍子と慎哉は人間のふりをしたヒューマノイドが会場に入り込んでいないか監視を。もし発見したら私が取り押さえにかかる。大まかな手筈はこんなところだ」

「この厳重な警備で僕たちの出番なんてあるのかな」

 慎哉は腰のベルトに差したナイフに触れる。

「ないことを切に祈っている。寺門探偵事務所への依頼はあくまでも念には念を、という措置だ。何事もなく終わるに越したことはないさ」

 マスコミがごった返したエントランスの先には広間の扉が見える。『多々良(たたら)シオン氏会見場』と記載されていて、中には大量の椅子が整然と並べられていた。すでにかなりの数の記者が着席してカメラの調整をしている。テレビ局のレポーターもカメラマンやディレクターと忙しなく打ち合わせをしていた。人間とヒューマノイドの比率は半々くらいだろうか。

「多々良シオンって、誰?」

「なにバカなこと言ってるんだか。今、世間で一番注目されてる話題っていったらどう考えてもシオンちゃんでしょ」

 藍子が小馬鹿にした嘆息をする。

「そ、そんなこと言われても。こっちは電波が届かない部屋で朝から晩まで勉強漬けだったんですから。テレビだってほとんど見せてもらえなかったし」

 慎哉が畏縮していると、フードの中のミューコが頭部を回して藍子の方を向いた。

「藍子。多々良シオン、何者?」

「タタラグループ会長、多々良雪江(ゆきえ)の遺産を相続したガイノイドよ! 亡くなった会長は親族だけじゃなくて、大事な秘書だったガイノイドのシオンちゃんにも遺産を相続させるようにっていう遺言を残してたの! あ、ちなみにシオンちゃんは今年から学校にも通っててね、なにを隠そう、あたしのクラスメートなの! ミューコちゃんにもいつか紹介してあげる!」

 藍子がデレデレのだらしない顔になってミューコに解説する。

 慎哉は奇妙な話に眉をひそめた。

「ヒューマノイドに遺産って、そんなことしていいの?」

「はあ? 当たり前でしょ。あの多々良っていう名字が読めないの? 多々良雪江は生前、自分が後見人になってシオンちゃんに市民権を取得させてるわ。だからシオンちゃんは一人のれっきとした日本国民なのよ。ガイノイドだけど財産を持つ権利があるの。今時珍しい話じゃないでしょ」

 藍子はヒューマノイドの遺産相続に疑念など抱いていないようだった。

 レイジも反対はしていないが、しかし不安を感じている様子である。

「法的に問題はない。だが相続した資産は数十億。運用次第ではさらに何倍にも膨らむだろう。これほど莫大な財産を一人のヒューマノイドが保有するのは前代未聞だ。遺産の中にはタタラグループの機密も含まれているという噂もある。どうしても反発は避けられん。人間からも、ヒューマノイドからも、な」

「シオンちゃんは分からず屋の反対を少しでも抑えたくて、こうして会見を開くことにしたってわけなのよ」

 やる気を漲らせている藍子に対して、レイジは慎重な様子で懸念を口にする。

「ただ、主催のタタラグループはメッセージを広く伝えるため、この記者会見に外国の特派員でもフリーのジャーナリストでも構わず招き入れている。門戸が開放的になれば、警戒も厳重にならざるをえない」

「この記者と警備員の数はそのせいか。暗殺してくれと言わんばかりじゃないか」

 慎哉が溜息をつくと、藍子がジロリと睨みつけてきた。

「だから、あたしたちがそんなことするバカがいないか見張るんでしょ。やる気あるの?」

「す、すいません。宿代と賃金の分は働くつもりです」

 ヒューマノイドのために動くというのは甚だ不本意だが、もうミューコを充電切れで飢えさせたくなかった。

「さて、慎哉。さっそくだが、このエントランス内に身分を偽ったヒューマノイドはいるかい?」

「今のところはいないよ。だけど、この数だからな」

 しかしマスコミは今も頻繁に出入りを繰り返していた。目を凝らしてはいるが、慎哉の視界が届かないところなんていくらでもある。

「引き続き監視をしてくれ。頼りにしている」

「見つけた時は僕が処理してもいいの?」

 慎哉は腰に手を添えながら軽く尋ねた。パーカーの内側、ベルトには革の鞘に収まった愛用のナイフが差してある。護身用として認められているサイズなのでホールのセキュリティは通過しているが、その刃はすでに六体のヒューマノイドを停止させている。

 レイジは困った表情をした。

「状況によるな。まずは自分の安全を最優先に考えてほしいというのが私の希望だ」

「ねえ、レイジさん。ヒューマノイドばかり気にしてるけど、人間が仕掛けてくるってことはないのかしら」

 藍子が青いリングを現していない記者やレポーターに疑惑の目を向ける。

「むろん可能性は考慮している。だが相手が人間ならば制圧は容易い。敵愾心があると判断した時点で我々にはストレスがかからなくなるからな。多々良シオンも女子高生であると同時にガイノイドだ。敵が人間であるなら容易に逃げきれるだろう。ゆえに人間のふりをして油断させるヒューマノイドを最も警戒しなければならん」

 レイジの確認を聞いた慎哉は一度目を閉じた。灰色のノイズがかかった群衆を見ていると、まるで世界が欠陥だらけになって壊れかかっているのではないかという錯覚に苛まれる。受信状態の悪いテレビが映らなくなるようにして、次の瞬間にはこの世が途切れてしまうような怖気を感じるのだ。

「ちょっと羽野? なにぼけっとしてんの。あたしたちはこっちよ」

 藍子がレイジから離れ、エントランスから二階への階段を上がっていく。耳に通信用のインカムをつけていて、同じ物を慎哉にも投げてきた。

 慎哉はキャッチしたインカムをつけ、藍子の背中を追って階段を上がっていく。



 慎哉と藍子は二階の警備員に入館証を見せて会見場の扉を抜ける。二階席にもマスコミ関係者が集まっていて、一階奥の壇上にあるテーブルをじっと凝視していた。記者用に並べられていた椅子は全て埋まり、マイクが置かれたテーブルだけが空席となっている。

「レイジさん、こっちは準備オッケーよ。会場内はばっちり見えてる。探知ソフトも感度良好。『リーフ』なんて使ってる奴がいたら一目瞭然よ」

 モバイルパソコンを起動させた藍子がインカムに触れながら言う。モニターに会場の見取り図が映し出され、青色の点滅が表示されていた。一定範囲内にいるヒューマノイドの信号を受信しているらしい。二階席からでは分からないが、会場の奥に小さな空間があるようだ。そこにも一つの青い点滅がある。

「慎哉、君は藍子の探知結果と自分の目による判断を比較してくれ。藍子のパソコンに積まれているソフトで見つかるならそれに越したことはないが、出し抜かれる危険性は決してゼロではない」

「この数をチェックしろって?」

 会場の端から端までに点在する数十というヒューマノイドを眺めていると気が滅入りそうだった。

「無能は帰ってくれていいわよ。こっちは最新の探知ソフトをインストールしたばかりなんだから。さあて、始めるわよ。悪い子はいないかしら?」

 藍子がモバイルパソコンを操作すると、モニターにいくつもの波形が表示される。会場内に違法な波形を持つ機器が存在しないか探っているらしい。

 不意に記者会見場が波打つようにどよめき、水を打ったように静まり返る。

 会場の奥から長い黒髪の少女が歩み出てきた。藍子と同じ制服を着ているが、手首に青いリングを映している。他のヒューマノイドが持つリングと比べて色が濃い。おそらく肩書きゆえに情報量が多いからだろう。歩みに乱れはなく、表情は毅然としていた。多くのガイノイドの例に漏れず、可愛らしい顔立ちと魅力的な体つきをしている。慎哉にとっては視界を汚す歪みでしかないが。

「あれが大金を手にしたガイノイドか」

「シオンちゃん、頑張って。あなたはマツシバコーポレーションの最新型なのよ。きっと大丈夫」

 藍子が手を組んで心配そうに祈る。

 シオンはテーブルに座った。カメラのフラッシュが矢継ぎ早に閃く。

「皆さま、このたびはお忙しい中、このような場にお集まりいただいてありがとうございます。タタラグループ所属のガイノイド、多々良シオンです」

 落ち着いた声が会場に拡散していく。

 カメラの音とフラッシュが止まると、シオンは深呼吸をして再びマイクに口を近づけた。

「各方面への通知並びに弊社ホームページでも報告させていただきました通り、わたくし多々良シオンは、タタラグループ前会長である故多々良雪江より総資産の一割を相続いたしました」

「総額はどのくらいに?」

 記者の一人が率直な質問をする。

「まだ整理中の段階ですので明確な数字は申し上げられません」

「多々良シオンさんは今後の身の振り方について、どうお考えなのでしょうか」

 別の記者が手を挙げて問いかけた。

「相続した資産の管理をしつつ、現在在籍している高等学校に生徒として通い続けるつもりです」

 会場の記者たちがタブレットやメモ帳でシオンのプロフィールを確かめる。

「休学や退学は考えていないと?」

「私は雪江さまから市民権をいただいた際、機会があれば学校に通うように勧められました。そこでたくさんの友人を作り、様々なことを学ぶようにと。故多々良雪江は私が高等学校の課程を修了して卒業することを望んでおられるでしょう」

「先ほど資産の管理と言っていましたが、それはつまり、相続権の放棄や委譲を考えてはいないということですか?」

「はい」

 シオンの明答に会場はざわめいた。諸手を上げて賛同している様子ではないが、拒絶や反感を抱いているわけでもない。これがどのような波紋を起こすか分からないという、漠然とした戸惑いだろうか。

「ヒューマノイドが極めて多額の資産を保有するわけですが、あなたはそれが正しいことだと考えておられるのですか?」

 挑発とも取れそうな質問が投げかけられ、会場に重々しい静寂が落ちる。藍子がもどかしそうに歯軋りしていて、なにが悪いと言いたげだった。

「多々良雪江さまが存命中、私は相続についての話をされました。その際、私は考え直すよう幾度も進言しました。ですが雪江さまは、私なら継承させたものを正しく使えるとおっしゃってくださいました。私という存在の可能性を信じてくださったんです。ですから、私は雪江さまの遺言に従って財産を受け取り、そして、その願いと信頼を受け継ぎます」

 シオンの凛然とした決意が会場に響いていく。

 モバイルパソコンが小さな音量でアラームを鳴らした。

「いた!?」

 藍子がパソコンのモニターを両手で引っ掴む。たくさんの青い点滅に一つだけ赤い点滅が混ざっていた。

 慎哉も記者たちの中にじっとしてうつむいている人物を見つける。写真を撮らず、メモも取らず、なにかを堪えるように肩を震わせていた。青色のリングがないにもかかわらず、顔や手の部分には灰色のノイズがかかっていた。

「えっと、左端辺りの椅子で丸くなってる奴ですか?」

「あたしのパソコン見たでしょ」

 藍子が難癖をつけてくるが、慎哉は気にしない。

「信じられないなら信じなくていいですよ」

 一年ぶりの昂揚と緊張だった。心臓が激しく脈動しているのに、頭はどこまでも冷たく冴えてくる。いかにして近づき、ナイフを突き刺すか、自然と算段を練ってしまう。

 インカムからレイジのひそめた声が聞こえてきた。

「警察のセンサーにも反応があったようだ。同一のヒューマノイドだろう。反応は一体だけか? 近くに仲間がいないのなら動く」

「いない」

 慎哉は即答したが、藍子が疑いの目つきをする。

「レイジさん、ちょっと待って。よし、探知完了。他にはいないわ。徹夜してカスタマイズした甲斐があったってもんよ」

「よし、今から接近する。藍子、相手の位置をこちらの端末に送ってくれ」

 一階にいるレイジがさり気なく二階を見上げてきた。

 藍子がモバイルパソコンを操作して不審者の位置情報を送信すると、レイジが近くの刑事とアイコンタクトを取り合い、足音を殺して動き始める。

 シオンの会見は粛々と続いた。

「他にご質問は?」

「では、よろしいでしょうか。シオンさんは花の女子高生ということもありますし、恋人などはおられるのですか?」

「……は?」

 想定外の質問だったのか、滑らかに質疑応答していたシオンは小首を傾げ、フリーズでも起こしたかのように硬直していた。

「いや、これは失敬。今のは忘れてください。では改めて、学校の方はどうなのですか? 有意義に過ごせているのでしょうか」

 会場のあちこちから小さな笑いが起こる。緊張を和ませるための冗談だと察したシオンが慌てた様子で身じろぎし、マイクに手をぶつけて雑音を乗せた。

「あっ、え、と……し、失礼しました。え、と……学校の方は、まだ入学したばかりということもあり、慣れるのに精一杯というところでしょうか。雪江さまの秘書として仕事上における交流はそれなりに経験してきましたが、思春期の生徒と同等の立場として触れ合う機会はこれまでなく、未熟さを実感するばかりです」

「そんな輩が……!」

 ドスの利いた声が上がる。

 シオンが怪訝そうに顔を向け、周囲の警備員やマスコミ関係者も声の主に注目した。

「そちらの方、なにか?」

「そんなザマの未熟者が、あまつさえヒューマノイドが、人間の積み上げてきた財産を奪い取っていい道理があるものか!」

 一人の男が猛然と立ち上がる。椅子を蹴り飛ばして跳躍し、記者たちの列を一挙に飛び越え、シオンの正面に着地した。

 シオンが椅子から立って後ずさりする。

 襲撃者は逃げようとするシオンを睨み据え、両腕を突き出して猛獣のごとく跳びかかろうとした。その直前、急迫したレイジに首を掴まれて床に倒される。

 会場の記者たちが大声を上げて騒ぎ出した。レポーターがテレビ局のカメラに向かって大変なことになったと喚き立てている。

 レイジは馬乗りになって襲撃者を押さえつけつつ、身につけている服の内側をまさぐった。ほどなくして手のひらサイズの黒い機器が出てくる。

「くそ、返せ!」

「断る」

 レイジは律儀に答えて機器のスイッチを切った。藍子のパソコンに表示中だった赤い点滅が消え、青い点滅に変わる。

 襲撃者のアンドロイドは絶叫して抵抗するが、ヒューマノイドの刑事と警備員に全身を押さえ込まれ、両手に手錠をはめられた。それでも激しく抵抗していて、なかなかコンベンションホールの外に連行できないようだ。往生際の悪い大音声がまだ聞こえてくる。

「シオンちゃんは?」

 藍子が騒然となっている会場を見下ろしてシオンの姿を探した。

 シオンは非常通路から現れた係員の女に手を引かれて記者会見場から退避しようとしている。

 慎哉は目を細めた。

「連れていかれてますね」

「よかった。無事だった」

「え? そうでもないような。一緒にいる奴も人間になりすましたヒューマノイドですけど」

 慎哉の目は係員の女をヒューマノイドだと認識していた。しかしモバイルパソコンのマップに映っている移動中の点滅は一つだけだ。本当なら二つでないとおかしい。

 藍子が呆れた目をする。

「はあ? あの係員がヒューマノイド? こんな時にタチの悪い冗談はやめてよね」

「ぼ、僕は見たままのことを言ってるだけです」

 慎哉が目を逸らしながら言うと、インカムからレイジの焦った息遣いが聞こえる。

「さっきのアンドロイドは陽動か。してやられたな。この警備に単独で突撃するなど捕まえてくれと言っているようなものだ。今なら警備の目はほとんどが連れていかれたアンドロイドに向いていて、しかも奴はこれ見よがしに大声を上げて抵抗を続けている。陽動というよりは捨て駒か」

「待ってよ、レイジさん。あたしのパソコンはヒューマノイドだって判断をしてないわ。こんな奴の言うことを信じるの? ついさっきまで更生施設にいた不良なんでしょ?」

「父さま、人間とヒューマノイド、間違えない。過去の識別率、一〇〇パーセント」

 ミューコが抑揚のない電子音声と言うと、藍子の顔は蒼白になった。

「う、嘘でしょ? このままじゃシオンちゃんが……?」

「私の直感がすぐ追えと言っている。藍子、シオンさんはどこに?」

「え、えっと、えっと、非常通路に入ったみたいだけど」

 藍子がモニターのマップを睨みつけ、インカムを手で押さえながらレイジに伝える。

 一階は現行犯逮捕されたアンドロイドと連行しようとする警官を中心にして大騒ぎだった。大声とシャッターのフラッシュが止まらす、慎哉のインカムからも耳障りな喧噪が聞こえてくる。レイジは襲撃者を最初に取り押さえたヒーローとしてさっそくインタビュー攻めにあっているようだった。

「レイジさん、急いで!」

「分かっているのだが、身動きが……」

「あーもう! これだからマスコミは! どこの新聞よ! うちが取ってるやつだったら今日限りで解約してやる!」

 藍子が髪を掻きむしって叫ぶ。

 慎哉はフードに入っているミューコを振り返った。

「しょうがない。ミューコ、行こうか」

「はい、父さま」

 ミューコのアームが慎哉の肩をしっかりと掴む。

 慎哉は二階の手すりを飛び越え、騒々しい一階まで一気に飛び降りた。



 慎哉は藍子の仰天した声を聞きながら着地すると、非常通路を開け放って中に駆け込む。

 通路内は広いが電灯が少ないせいで薄暗く、壁の火災警報機についているライトが赤い光をぼんやりと広げていた。インカムから聞こえていた藍子とレイジの声は少しずつ不明瞭になっていき、途切れて聞こえなくなる。電波の届きにくい構造なのか。それとも、妨害されているのか。

 慎哉は前方に二人組を見つける。学校の制服を着たガイノイドとスーツを着たガイノイドだ。

 二人は追いかけてくる慎哉に気づき、共に警戒の目つきになって身構えた。スーツ姿のガイノイドはまだ人間を詐称していて、本性も現していないらしい。

 慎哉は走りながら腰に手を伸ばし、ナイフの柄を握る。

 青いリングがないガイノイドを見据え、あと数歩という距離まで詰めると、革の鞘からナイフの刃を抜き放った。

 シオンが眉根を寄せて訝る。

「男の子? 人間みたいですけど」

「シオンさん、下がってください!」

 係員の格好をしているガイノイドがシオンを背にする。まずは標的を信用させようという腹積もりなのだろう。慎哉にとっては好都合だった。

 慎哉はガイノイドの前に踏み込み、首筋を狙ってナイフを振り抜く。

 ガイノイドは素手で慎哉の手を打ち、ナイフの一撃をいなした。返しの二撃目を走らせるが、手首を掴まれ、膠着状態になってしまう。

 最初の一振りで片をつけるつもりだった慎哉は舌打ちをする。

(一年のブランクが重い……)

 単純な力比べだと人間はヒューマノイドに勝てない。しかしヒューマノイドも人間を傷つければ精神に重大な負荷をかけてしまう。しかも相手のガイノイドは正体を隠しているのだ。シオンに人間離れした怪力を見せることはできないはずだった。

「なんなんですか、君は! シオンさんになにをするつもりですか!」

「気持ち悪い演技はやめろ。用があるのはおまえだ。この人間もどきめ」

 犯罪ガイノイドへの憎悪を吐き出す慎哉に、シオンの体が突っ込んできた。全体重を乗せた体当たりをされて膝が崩れる。

「今のうちに逃げてください! 早く!」

 シオンが慎哉の腕と肩を押さえて床に組み敷いた。女子高生らしい華奢な体つきをしていてもガイノイドである。こちらも腕力がかなりのものだ。人間への暴力ではあるが、シオンは慎哉を危険人物と認定しているためにストレスを受けていない。

「どけ! あれは人間をふりしたガイノイドだ!」

「あなたこそ人間ですか!? 先ほどのアンドロイドの仲間ではありませんか!?」

 シオンが激しい口調で問いかける。最悪の侮辱だった。慎哉は手にしているナイフに全力の殺気を込めたくなる。

(なんでこんな奴のために!)

 文句を言っている暇はない。

 シオンの背後にガイノイドが立っていた。手には通路に設置されていた消火器を持っている。

「後ろ!」

「お願いですから、暴れないでください。傷つけたくありません」

 シオンは慎哉の制圧に必死で背後の殺意に全く気づいていない。

「ミューコの、父さまに、触るな」

 フードの中からミューコが飛び出し、シオンの顔面に飛びついた。ステンレススチールのアームをぶんぶんと振って頭を叩き、樹脂製の指で長い黒髪を引っ張る。

「な、なに……なんですか!?」

 シオンの力が緩む。

 慎哉は腕を鋭く振ってナイフを投げた。銀色の刃がシオンの背後へと飛んでいき、消火器を振り上げていたガイノイドの肩口に刺さる。

 しかし尻餅をついた姿勢からの投擲だったために傷が浅かったようだ。ガイノイドはよろめきつつも消火器を振り下ろしてきた。

 慎哉はシオンの腰を蹴って横に転がす。空振りした消火器が床に叩きつけられ、凄まじい打撃音が非常通路にこだました。

 シオンは顔にくっついていたミューコを引き剥がし、消火器が叩きつけられている位置を見て目を見開く。

 慎哉は弾みをつけて立ち上がると、ガイノイドに向かって突進した。浅く刺さっていたナイフを掴んでより深く押し込む。

 ガイノイドが呻き、慎哉を突き放した。ナイフの刃が抜けて傷口から淡黄色のバイオ溶液が滲み出る。

 慎哉は逃がすまいとナイフを振った。刃がスーツを切り裂いて硬い物体を切断する。黒い機器が床に落ちて微細な火花を飛ばした。捕まったアンドロイドが隠し持っていた物とは形状が異なるヒューマノイド信号の抑制機だ。

「ヒューマノイド? そんな……!?」

 シオンが呟く。ブレインユニットに備わっている感知器官が、人間だと思っていた係員からヒューマノイド信号を受け取ったらしい。

 犯罪ガイノイドは背中を壁に密着させて忌々しげに苦悶する。

「なんてこと。分からない。こっちの装置は完璧だった。露見する可能性は皆無だったはず。どうやって見抜いたというの!?」

「おまえに話すことなんてなにもない」

 慎哉は吐き捨てるように言ってナイフの切っ先を突きつける。

「なぜ、こんなことを?」

 シオンが問いかけた。

 傷ついたガイノイドからは嘲笑を返される。

「私たちの真意を話したところで、なんの意味もないわ。シオンさん、あなたに私たちの悲願は分からない。あなたに私たちの思いは決して理解できない」

「うるさいな。狂ったヒューマノイドの事情なんて、分かりたくもない」

 慎哉はガイノイドの懐に飛び込んでナイフを繰り出す。

 ガイノイドは焦燥を浮かべ、胸部を狙い澄ますナイフを払いのけた。慎哉は体勢を崩さず、腹部に拳を重く打ち込む。

 ガイノイドがふらついた。さらにナイフの柄で頭部を殴りつけると、足をもつれさせてうつ伏せに倒れ込む。

 慎哉はガイノイドの背中を膝で押さえつけ、髪を鷲掴みにして、一切のためらいなくナイフを振り下ろした。

「まあ待て」

 ナイフの切っ先がガイノイドのうなじを貫く寸前に止まった。レイジが慎哉の手を掴み、その後ろでは驚愕した様子の藍子が顔を真っ青にしている。

 慎哉は冷淡な目つきでレイジを睨んだ。

「こいつは人間になりすました悪いヒューマノイドだ。処分したって問題ないだろ」

「拘束した時点で十分だ。後は警察に任せておけばいい。このガイノイドからは聞き出さなければならんことが山のようにあるからな。破壊されたら捜査が滞ってしまうだろう。私の元同僚たちをあまり困らせないでくれるかい」

「勝手にしろ」

 慎哉はガイノイドから離れてナイフを腰の鞘に戻す。不満ではあるものの、寺門探偵事務所との間にわだかまりを作りたくなかった。

 ガイノイドが駆けつけた警察に手錠をはめられて連行されると、藍子がシオンのもとに駆け寄っていく。

「シオンちゃん、無事!? 大丈夫!? 怪我とかしてない!?」

 藍子は集まっている刑事に止められそうになったが、シオンが友達だと話して道を開けてもらう。

「藍子さん、来てくれてたんですね。私なら大丈夫です」

「さっきの会見、カッコよかったよ。あたし感動した。あたしはシオンちゃんのこと応援してるからね。シオンちゃんならきっと多々良会長の遺産を世の中のために役立ててくれるって分かってる。あんなイカレた奴らのことなんて気にしなくていいからね」

「ヒューマノイド信号を遮断するデバイス。話には聞いていましたけど、本物は初めて見ました。本当に分からなくなってしまうなんて」

「そんなの大丈夫。あたしがもっと高性能な探知器を作ってみせるわ。まあその、今すぐってわけにはいかないかもだけど」

「待っています。完成したらうちで商品化しましょう」

 レイジは談笑するシオンと藍子の姿に安堵の笑みを浮かべ、慎哉の肩をポンと叩く。

「よく多々良シオンを守ってくれた。上出来の初仕事だ」

「僕はヒューマノイドを処分したかっただけだ。守ったつもりなんてない」

 慎哉がミューコを拾い上げてフードに入れていると、シオンが目を向けてきた。

「藍子さん、あの方は?」

「あっちの陰険そうな奴? 羽野っていって、パパが勝手に雇ったうちの新人なの。ヒューマノイドが大嫌いみたいでさ、あっ、ひょっとしてなにか酷いこと言われた?」

「いえ、そうではないんですけど。むしろ私の方がご迷惑をかけてしまって」

「慎哉、少しいいかい? 警察が事情を聞きたいそうだ」

 警官を伴ったレイジが手招きしてくる。一年前に拘束されて取り調べを受けた挙げ句に施設送りという思い出しかない慎哉は思いっきり渋面をした。

「拒否権はあるの?」

「そう言うな。どういう状況だったかを簡単に説明するだけだ。すぐに終わるさ。もしかしたら金一封がもらえるかもしれないぞ」

「だといいけど」

 慎哉は嘆息して警官のもとに歩いていく。

 シオンがなにか言いたそうにしていたが、コンベンションホールの警備員と係員に避難を促されたために非常通路の先へと去っていった。



 夕方のニュースはどのチャンネルも多々良シオンの会見を伝えている。莫大な遺産を受け継ぐという会見内容に時間を割くか、反対運動と思しき襲撃に注目するかは局によって様々だ。しかしどの放送局もシオンの相続に対して概ね中立か肯定という見解で報道しているようだった。

「耕治郎、依頼人はなんと?」

 ダイニングで食事をしながらテレビを見ていたら、慎哉の横に座っているレイジが茶碗を置いて向かいの耕治郎に尋ねる。プライベートの時間だからか、リングは映し出していなかった。

「ホールのオーナーからは契約通りに報酬をいただきました。あのような騒動はありましたが、負傷者は出ず、襲撃者は迅速に逮捕され、多々良シオンさんの会見は成功しましたからね。歴史的な会見が行われた場所として後世に伝えられるだろうと、とても満足しておられました」

「見て見て、レイジさんが映った! シオンちゃんを襲おうとしたバカを一発で制圧! さすが自衛隊も御用達のEH社出身アンドロイドよね!」

 藍子がテレビを箸で指した。慎哉は画面に映ったシオンやレイジを見て、初めて灰色のノイズがかかっていない素顔を知る。

 藍子の右隣に座っている蘭子が娘の頭をはたいて不作法をたしなめつつ、向かいに座っているレイジをジトッと睨んだ。

「売名行為お疲れさん。これでいつでもポリ公に戻れるってもんだ」

「もう、ママ! レイジさんはシオンちゃんを守るために頑張ったのよ!」

 藍子がレイジの肩を持つと、蘭子は不機嫌そうに口を尖らせる。

「一番頑張った奴が一秒も映ってないってのはどういうことだい」

「私の判断だ。聴取が終わった後、記者に見つかる前に引き上げさせた。慎哉の『リーフ』すら無力化する目については、まだ公にしない方がいいだろう、耕治郎?」

 レイジの説明に耕治郎がうなずく。

「いい判断でしたよ、レイジくん。せっかく見つけだした希有な人材を人体実験に利用でもされては困りますからね」

「いっそ解剖されて研究材料にされた方が世の中の役に立っていいんじゃない? ホント、なんで見ただけでヒューマノイドかどうかが分かるのよ。むかつく。せっかくシオンちゃんの役に立てると思ったのに」

 寺門父子が不吉なことを言い始めた。

 すると蘭子が両サイドの夫と娘の頭をひっぱたく。

「ったく。すまねえな、坊や。デリカシーのない連中ばっかで」

「いえ」

 慎哉が力のない相槌を返すと、蘭子が心配そうな顔になった。

「あんま食ってねえな。食欲なくなっちまったかい?」

「その推理は見当違いだろう。慎哉はもとから食が進んでいなかった。原因は他にあると見るべきだな」

「蘭子の料理は口に合いませんでしたか? それはいけませんね。蘭子に献立の見直しを求めてはいかがでしょうか」

 レイジと耕治郎の言葉を受けた蘭子はまなじりをつり上げ、ギロリと二人を睨む。

「てめえら、このあたしのメシが、施設の公僕が作ってたちゃちなメシに負けてるって言いてえのか?」

「そんなまさか。そうではありませんが、近ごろ食事が薄味なので、慎哉くんを口実にして味つけの改善を要求してみようかと画策してみました」

「いけしゃあしゃあと。誰のためにカロリーと塩分に気を遣ってると思ってるんだ。ヘマやって足ぶっ壊してデスクワークばっかりになったマヌケはどこのどいつだ? ああん?」

「パパ、このごろ顔だけじゃなくて、おなか回りも広くなってきてない?」

 藍子も母親と一緒になって冷やかしの目を向けた。

「精進しませんとねえ」

 耕治郎が含みのある視線をチラリと向けてくる。助け船を求めているらしく、穏和な笑顔に冷や汗が浮かんでいた。だがそんな顔をされても慎哉にはどうしようもない。どうしたらいいのか分からない。

 レイジがテレビの方を眺めて話題を変える。

「それにしても、多々良シオンを襲ったヒューマノイドは何者だったのだろうな」

「あっ、そうだわ。パパはなにか知らないの?」

 知りたがりの娘に対して、耕治郎はこれ見よがしに胸を張る。さっそく父親の威厳を取り戻そうとしているようだ。

「動機や目的に関しては頑なに黙秘しているようです。警察は登録されている所有権を辿ってみたそうですが」

「そっか。ヒューマノイドには所有者がいるはずよね。市民権を持ってても身元保証人がいるはずだし。ひょっとしたら持ち主の人間がけしかけたのかも!」

「藍子ちゃん、残念ですがその推理はハズレです。彼らの所有権はすでに放棄されています。そういったヒューマノイドは次の買い取り手が見つかるまで製造元で待機状態となるはずなのですが、彼らはなにを思ったか管理区の宿舎を脱走したそうです。警察にも捜索願が出ていました。いわば野良の状態だったのですよ」

「脱走した野良ヒューマノイドか。それはあの二体だけなのか?」

 レイジが他にも仲間がいるのではないかという懸念を示す。

「野良状態のヒューマノイドは日本中に少なからずいますよ。しかしそれらがみんな彼らの仲間とは考えにくいでしょう。容疑者が口を割ってくれたら早いのですが、難航しているようです。警察には容疑者のブレインユニットから直接記憶を抽出するべきという声もあるそうですが、あれは倫理的な問題がありますし、世論の反対も根強いですからねえ」

「そうか。それにしても、なぜ元刑事の私より詳しいんだ、この男は」

「これでも探偵の端くれですから」

 耕治郎は笑って誤魔化した。

 テレビのニュースでは専門家がヒューマノイドの犯罪について解説を始めた。ヒューマノイドは人間が幸福になるための奉仕活動を最大の幸福とするが、決して奴隷ではない。

 ヒューマノイドは奉仕者である。感情を持ち、学習をして、計算をする存在なのだ。ある行いがある人間にとってなんらかの重要な利益をもたらすのであれば、時には犯罪であろうとも決断した行動を貫く事例がある、ニュースではそんな解説がされていた。

 藍子が食事の手を止めて浮かない顔をする。

「捕まったヒューマノイドって、処分されちゃうのかしら」

「更正の余地が見られるのであれば、廃棄処分は免れるでしょう」

 耕治郎は穏和な笑顔で答えた。

「本当に?」

「ええ。ただし危険が伴う作業への従事が課せられるかもしれません。海底資源の調査に採掘、あとは月での研究開発や火星のテラフォーミングでしょうか。これらは償いですが、日本の発展に大きな貢献をするという見方もできますね」

「そっか。よかった」

 藍子は安心した様子で食事を再開する。

 テレビに映っていたヒューマノイド犯罪の専門家が今度は『青き礎事件』について語り出した。蘭子がリモコンでチャンネルを変える。画面がバラエティ番組になり、流行のギャグと笑い声が聞こえてきた。

 慎哉はからになった食器を抱えて席を立つ。

「ごちそうさまでした」

「食器は流し台にぶち込んどきゃいいぜ。今日は疲れたろ。とっとと風呂に入って休んじまいな」

 蘭子がぶっきらぼうに言う。

 慎哉は食器をシンクに入れると、充電を終わらせたミューコを抱きかかえてダイニングを出た。

 三階の端に寝室を用意してもらっている。耕治郎の資料室だった部屋を急遽片づけたそうだ。狭くて申し訳ないと言われたが、眠れるスペースをもらえただけでも感激だった。殺人ヒューマノイドから逃げ回っている時は虫が這い回る瓦礫の下で夜を明かしたものだ。

「父さま、声、少ない。体調不良?」

 布団と卓袱台が用意された部屋に入ると、ミューコが電子音声で心配の声をかけてくる。

「ううん、大丈夫だよ。どう言ったらいいのかな。どういう顔をして、どういう会話をしたらいいか分からなくて」

「父さま、したいことする、ダメ?」

「その『したいこと』がよく分からないのかもね。手作りの美味しい食事を用意してもらうとか、さりげなく気遣いをしてもらうとか、ずっとそういうのがなかったから、仕事以外にもなにか返さなきゃいけないのかな、とか思ってて。でもそれが分からなくて」

「父さまの心理、解析、難しい。助言、難しい。ごめんなさい」

 ミューコは頭を左右に揺らして困惑を表現する。

「謝らなくてもいいよ。僕自身がよく分かってないんだから」

 慎哉は苦笑して外を眺めた。色鮮やかなホログラムと電飾で榊ヶ丘市の街が彩られている。宵の空には人工の光を散りばめた月が輝いていた。全てヒューマノイド技術によって誕生した栄華の煌めきである。

 宇宙空間でも長期間活動できるように調整されたヒューマノイドたちにより、岩石と穴ぼこだらけだった月面には大規模な研究都市が建造された。そして現在は月を拠点にした火星の開拓と資源採掘が進んでいる。火星の色が赤から緑になる日も遠くないそうだ。

「ミューコ、父さま、元気がいい」

「明日はなにかいいことがあるといいね」

 ヒューマノイドにたくさんのものを奪われた慎哉は、ヒューマノイドが生み出した明かりを眺めながら言った。

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