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鯨を飲み干した朝

作者: 村崎羯諦

 鯨を飲み干した朝は、初夏にしては少しだけ肌寒い朝だった。


 海水で濡れたフローリングの床は素足で触れると妙に生暖く、少し粘ついている。流し台で水道水をコップ一杯だけ飲むと、胃の中にいる鯨が驚いて、吼え、その声が僕の内臓と骨を内側から震わせた。昨日の晩は何を食べたんだっけ。一日の初め、僕はいつもそんなことを考えてしまう。昨日の晩に何を食べたかによって、僕の残りの人生に何かしらの影響が及ぶとは到底思えないにもかかわらず。カーテンを開け、窓を開け、外の景色を眺める。海とは無縁なコンクリの建物がお行儀よく建ち並んでいて、僕はどうしようもなく寂しい気持ちになった。誰かの声が聞きたくなって、誰かにこの寂しさを伝えたくなって、僕はベッドの上に転がっていた携帯を手に取り、数ヶ月前からずっと片思いをしている女の子に電話をかける。


「好きだよ」


 おはようの言葉の後に、僕は泣きそうになりながらそう伝えた。


「ありがとう」


 少しだけ眠たそうな声で彼女が答える。


「ごめんね」


 彼女が言葉を続ける。隣の部屋のテレビではニュース番組が流れていて、今日の天気についての説明がかすかに聞こえてくる。北関東は晴れ、北陸も晴れ。だから、今日の冥王星は一日中雨。だけど、これはナンセンスだ。なぜなら、自転周期の異なる地球と冥王星では、一日という単位が違うのだから。僕は電話を持つ手を変えて、もう片方の耳に電話を当てる。彼女が寝返りを打って、鼻から深く息を吐く音が聞こえた。


「ねえ」

「なに?」

 

 天気予報が終わり、CMに移る。聞いたことのない音楽に乗って、知らないタレントのセリフが宙に浮かんで、消えていく。


「誰かから教えてもらったわけでもないのに、どうして人は誰かを好きになってしまうんだろう」


 僕が尋ねる。


「ありがとう」


 彼女が答える。


「ごめんね」


 電話の切れる音。僕は通話の切れた携帯を握りしめたまま、海水で濡れていない部屋の隅っこまで行き、その場にうずくまる。背中に当たる壁はひんやりしていて、指先で床をなぞってみると、積もったホコリが指についた。体温はちょうど華氏100°F。両手を耳に当て、呼吸を整える。僕の身体の中から、胃酸にによって消化されつつある鯨の悲鳴が、聞こえてくる。














































「空は泥の底に沈んで、カタツムリの脳味噌はシンナーにやられてどろどろに溶けてしまっている。それなのにあなたは、口を開けば自分のことばかり。大層なご身分だこと」


 んー、手厳しい言葉! だけど、いくらその言葉が正しくても、僕にできることは何もない。世界はあまりにも複雑だし、僕は自分が考えている以上に無力で、大量生産というラベルがお似合いな存在に過ぎないのだから。一丁前に世界の不条理に胸を締めつけられ、正論をふりかざしたがるのはきっと、繊細さという猫を被った、肥大化した自己愛のせい。


 だから僕は口をつぐみ、効率的な部屋の片付け方とか、そういったことだけを考えるように心がけている。だけど、僕が自分自身の身の丈を知ったところで、ぶくぶくに太った自我はそんなのお構いなしに空腹のサイレンを鳴らす。ウーウーウー。














































 豚が肉屋を支持する。どこかで聞いた言葉。言い得て妙!














































 僕の大学の知り合いに、畑中という男がいた。畑中は僕と同じ学年だったけど、年は三つ上で、それから蝶を好んでよく食べる男だった。大学時代はよく畑中と一緒に、安っぽいファミレスで、安っぽい赤ワインを飲んで、安っぽい酔い方をして夜を更かしていた。電灯が切れかかった新宿の裏路地を千鳥足で歩いていると、畑中がふとその場に立ち止まって、歩道と車道の段差部分にゲロを吐く。赤ワインの濃い朱色に染まった彼の吐瀉物の中には、消化しきれていない食事と一緒に、色鮮やかな蝶が混ざっていた。


「シジミチョウ……セセリチョウ……ジャコウアゲハ……」


 畑中は赤い吐瀉物に塗れた蝶を一つ一つ指差し、その名前を教えてくれる。蝶の大半は胃液でどろどろに溶けて原型がなくなっていたけれど、形と色がきちんと残っている蝶も少なからずいて、中には生きたままの蝶もいた。その中の一匹がゆっくりと羽を上下させ、吐瀉物で濡れた体を重そうに持ち上げ、飛び立つ。ワインの酸味が効いた匂いをふりまきながら、その赤く染まった蝶は新宿の夜空へと消えていく。


「これは?」


 吐瀉物に混じっていた大きな茶色い塊を指差し、僕が尋ねる。


「それは……」


 酔いの回った脳味噌を必死に回転させ、畑中が答える。


「それは多分、さっき食ったパスタに入っていたポルチーニだ」














































 地球は時速1700kmの速度で自転を続け、僕たちの残りの人生は、加速するスピードで消化されていく。その現象に名前をつけるのであれば、それは多分、猫耳ハイスピード。


 猫耳ハイスピード!!














































 結城さんは高校二年生の時のクラスメイトで、両腕の毛穴から細かい木片が生えてくるという体質の女の子だった。誰もいない教室で、僕はよく彼女が自分の腕に生えた木片を一つずつ丁寧に毟り取る様子を見せてもらっていた。片方の手の爪先で腕の内側に生えた木片を一つずつむしり取り、手のひらに載せていく。やがて、手のひらいっぱいに木片がたまると、結城さんはそれを口元に持っていき、積み上がった木片の山にふっと息を吹きかける。舞い上がった木片はたんぽぽの綿毛へと姿を変え、そして最後はタバコの煙となって、教室の天井へと昇っていった。


「タバコ、吸ったことあるの?」


 薄めたガムシロップのような匂いを嗅ぎながら僕が尋ねると、結城さんは吸ってるよと答えた。彼氏が大学生で、よく彼の家で一緒に吸ってるんだと教えてくれた。


「真人くんはな、うちのことめっちゃ可愛いって言ってくれるし、めっちゃ愛してるって言ってくれんねん。でもな、うちは知っとる。真人くんは他に何人も別の人と付き合っとって、結局はうちもその一人なんやってこと。もちろん嫌やし、許せへんし、真人くんと会う前はいっつも別れよう別れようって思っとる。でもな、二人で一緒にいるとき、真人くんはすっごくうちに優しくしてくれんねん。腕から生えてくる木片もきもいって思わんと、可愛いねって言ってくれる。下心から言っとるだけかもしれんし、うちのことも都合のいい女だとしか思っとらんのかもしれんけど、それでもやっぱり嬉しいねん。真人くん以外に、家族も誰もそんなこと言ってくれんから。嘘でもおべっかでもいいから可愛いって、その言葉を言って欲しくて言って欲しくて、やっぱり別れられへんねん」


 木片が毟り取られた手首に浮かぶいく筋もの細い線。結城さんが教室の外へと視線を移す。僕も彼女と同じ方向を見る。校舎の外に広がる中心街の高いビルの隙間から、藍色に似た夕暮れ時の空の色が見える。そんな風景を見ながら、結城さんは消え入りそうな声でつぶやいた。


「消えてしまいたい」


 死んでしまいたい、ではなく、消えてしまいたい、と結城さんは言った。なんというかもう、わかりみが深すぎて辛い。














































 昼過ぎにトイレに行くと、尿にうっすらと油が混じっていた。不安になって知り合いの医大生に聞いてみると、彼は「それは鯨油だよ」と教えてくれた。朝に飲み干した鯨は消化され、僕の身体に吸収され、油だけ尿に混じって外へと出ていく。不条理に満ちた世界の中の、数少ない条理の一つ。


 ベッドの上に転がって、汗の匂いが染み付いた枕に顔を埋める。顔を横に向けると、床に溜まったままの海水が部屋の照明を反射して、一瞬だけきらりと瞬いた。濡れた床の効率的な掃除について、僕は思いを巡らせる。自分のことより、こういったことを考えるほうがきっと人間らしいんだと僕は思う。自分のことばかり考えている人間はきっと、自分自身がその長い思考時間に見合うだけの価値があると思っているのだろう。もちろん僕も含めて。


 僕は一人でしりとりを始める。鯨。ラッパ。パーカッション。ンで終わったから僕の負け。途方もなく虚しくて笑えてくる。


 寝返りを打つと、目の前にはベージュの壁。人の声が無性に聞きたくなる。もう出てくれないかも。でも、ひょっとしたら出てくれるかも。僕はそんな諦めと期待を寄せて、携帯を握り、彼女に電話をかけた。














































 お終いだよ!!

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