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7時間目 ユキ先輩、もらっちゃってもいいですよね?

 あれは、入学してから間もない頃のことでした。

 当時、自分も含め一年生のみんなは提出しなきゃいけない書類に追われまくっていたっす。

 当然ながら書類の提出先である事務室には長蛇の列。仕方ないとはいえ、三十分以上の待ち時間は自分たちに相当なストレスを与えていたっす。

「うっわ、一枚書類忘れたわ…」

 自分の前に並んでいた誰かが書類不備に気づいたのは、もう受付の順番まであと数人というところでした。

「マジかよ、どうすんの?」

「いや、こんな大量に書類あるんだし、一枚くらいなくても気づかないだろ。ほら、あの人特に提出書類の枚数チェックとかはしてないし。」

 そいつの視線の先にいたのがユキ先輩でした。

 その時のユキ先輩は確かにそいつの言うとおり、受け取った書類に一枚残らず目は通していましたが、隣の事務の人がやっているみたいに、必要書類の一覧と突き合わせた最終確認はしていないように見えたっす。

「お願いしまーす。」

 結局そいつは、書類を取りに戻ることもないままユキ先輩に書類を渡しました。

「……書類の出し忘れ、ないですか?」

 パラパラと書類を流し見したユキ先輩は静かにそう訊いてきました。

「特にないです。」

 そいつはしらを切ったっす。

「―――そうですか。」

「‼」

 自分はその瞬間、ユキ先輩の目の色が変わったのを見逃さなかったっす。

 ユキ先輩はそいつから受け取った書類を詳しくは見ないまま整えると、無言でそれをクリアファイルに入れました。次に自分の手元にあった書類不備を示す赤いシートを取ると、綺麗にそいつが出し忘れている書類の欄にチェックを入れたっす。

「はい。書類が一枚足りませんので、後日また提出にきてください。」

「えっ…」

 クリアファイルと一緒に赤いシートを突き返されて、そいつは心底驚いた顔をしたっす。

「そんな! ちゃんと全部ありますって!」

「ないものはないです。」

 食い下がるそいつに、ユキ先輩はただそう言うだけでした。

「今の一瞬で分かるわけないじゃないですか! テキトーなこと言わないでくださいよ‼」

「何をもってテキトーだと?」

「だって、そっちの人みたく書類の一覧とか見てないじゃないですか! 本当に何が必要な書類なのか分かってるんですか⁉」

「………」

 ユキ先輩が黙りました。隣に座っていた事務の人もやれやれと呆れていたっす。

 それはてっきり、テキトーな仕事をしているユキ先輩に向けられたものだと、そこにいた誰もが思っていたっす。

 でも。

「―――はぁ。」

 溜め息をついたユキ先輩がゆっくりとそいつを見上げました。

「―――っ‼」

 まさに雷の直撃を受けたような気分でした。

 あの時の目に込められた凄みは、今でも鮮やかに思い出せます。

「ねぇもんはねぇっつってんだよ。嘘だと思うなら、一枚一枚一覧と突き合わせてみろ。」

「なっ…」

 突然口調をがらりと変えたユキ先輩に、そいつは明らかに狼狽えたようでした。

「ったく、本当はこんなことしてる時間ねぇんだけどさ…。納得いかないってんなら、一覧を見ながらよく聞いとけ。」

 次の瞬間、ユキ先輩は澱みなく必要書類のリストを暗唱し始めたんす。しかも全員の提出が必須の書類だけじゃなく、必要に応じて提出が必要な任意書類、任意書類を提出するに当たって必要な証明書諸々まで。

 これにはユキ先輩に食い下がっていた本人だけじゃなくて、その場にいた全員が目ん玉飛び出てました。

 そうなんすよ。ユキ先輩はチェックをテキトーにやってたわけじゃなくて、必要書類を全部暗記してたから、隣の人みたいに一覧を使う必要がなかったんです。だからパッと見ただけですぐに足りない書類が何か分かったんです。

「で? 何か反論は?」

「………」

 今度はそいつが黙る番でした。

 仕方ないっすよね。

 何せ、ユキ先輩の暗唱には何一つとしてミスはなかったんですから。

「つーか、お前さ。さっき自分で書類一枚忘れたって言ってただろうが。聞こえてねぇとでも思ってんのか?」

「‼」

 ユキ先輩の指摘に、そいつはぎくりと肩を震わせてました。自分もびっくりしたっすよ。ずっと書類のチェックしてたはずなのに、いつの間にそんな声を拾ってたんですかね。

「長い待ち時間で疲れてんのは分かるよ? でもな、疲れてんなら自覚してくれないかな? お前みたいな奴が言うくだらない無茶に対応してる時間が、無駄に待ち時間増やしてるんだって。後ろを見てみたらどうだ?」

 そいつがそろそろと後ろを見ると、すでに他のみんなの目はそいつを責めるような色に染まり切っていたところでした。

「いい加減にしろ。周りの迷惑を考えることもできねぇのか、お前は。」

 それがユキ先輩のとどめでした。


 ★


「……みんなを一瞬で黙らせた冷徹な目。こっちが見下ろしているはずなのに、なぜか見下ろされているかのような威圧感。めちゃくちゃ痺れました。本当に完璧でした。」

 胸の前で両手を組み、空を見上げて回顧に思いを馳せるエヴィン。

「あの目に一目惚れして以来、自分はちょくちょくユキ先輩目当てに事務室へと通っていました。一年や二年のみならず、三年の先輩にも容赦なく揺らがない態度は素晴らしかったです。夏休み前なんて、ごった返す事務室の全員を鮮やかな説教で捻じ伏せてましたよね! 本当に周りをよく見ていて、ユキ先輩を恐れて他の事務員にケチつけようとした生徒をさりげなくあしらう技術も素敵でして。それにそれに! ユキ先輩の魅力は目や口だけじゃないんですよ。同級生に対して怒った時に綺麗に決まるパンチや蹴りの美しさったらもう…」

 エヴィンのユキ語りが止まらない。

(どうしよう…。心当たりがありすぎてやべぇ‼)

 ナギの後ろでユキは顔を覆った。

 エヴィンの口から語られることが漏れなく事実だから困る。彼のように逐一誰にどんな対応をしたかまでは覚えていないが、確かにそんな風に馬鹿どもをあしらった記憶はある。

「あーあ…ユキ、これは自業自得じゃない?」

 ナギですらこう言ってくる始末だ。

「自業自得だなんて、そんな! こんな素晴らしいことを悪いことみたく言わないでいただけないっすか⁉」

 エヴィンはぐっと拳を握り締める。

「本当にユキ先輩は素敵なお方です! 神様、仏様、ユキ様っすよ!」

「そこまで言わないでくれねぇかな⁉」

「何を言うんですか⁉ 理事長までが先輩に屈してるのに⁉」

「それは曲解だああぁぁぁっ‼」

 たまらず叫ぶユキ。

 一体、他学年には去年の事件がどういう風に伝わっているのだ。あの人が自分みたいな半人前に屈するわけがないだろうが。

「あのな! 確かに理事長と手を組みはしたよ⁉ したはしたけど、オレその分痛い目見てるからな⁉ 理事長のおもちゃになって終わっただけだからな⁉」

「またまたぁ。ユキ先輩ったら、謙虚なんですからもう~。ああ、自分がユキ先輩と同級生だったらなぁ…期末試験でめっためたのぎったぎたにしてもらえたのに。」

 エヴィンはユキの言葉など聞かず、一人で悦って顔を赤くしている。

「あああ、もう! ナギ! お前からもこの勘違い野郎に何か言え! オレが言ったんじゃ、ねじ曲がった方向にしか話が通じねぇ!」

「ええ…何か言えって…」

「……って、だめだよ! 馬鹿に馬鹿の説得しろっつったって無理だよーっ‼」

「ユキ、とりあえず落ち着こう…?」

 困っているナギには構わず、ユキは一人で本格的に頭を抱える。

 こんなぶっ飛んだ変態が待っていると知っていれば、事情説明要員としてトモでも連れてきたのに。

 ナギ以上に話が通じないなんて、もう何をどうすればいいのやら。

「ユキ先輩!」

「うわぁ⁉」

 名前を呼ばれ、ユキは慌ててナギを盾にし直す。

「さあ、自分の愛は伝わりました…?」

「伝わってない! 伝えてほしくない! 理解したくねえぇぇっ‼」

 ユキは全力で頭を振ってエヴィンを否定するが…。

「ああ、いいっすね! その心底引いた顔!」

 エヴィンはただ興奮するだけ。

「―――っ」

 ユキは身震いする。

 まるで彼の興奮度合いに反比例するかのように、自分の体温が奪われていくよう。

「お前ふざけんなよ! これじゃただの嫌がらせじゃねぇか! そういうのは、そういう趣味の奴とよろしくやってろ‼」

「何言ってるんすか! ユキ先輩じゃないと意味がないっすよ! 大丈夫! ユキ先輩なら目覚めるのも早いっす!」

「そんな断言はいらねぇんだよ! オレを引き返せない深みに引き込むのはやめろ‼」

 こんなことになるなら、ムカつくのを我慢していた方が何倍もよかった。

 後悔したところで、今ある現実は変わりようもなく…。

 とにもかくにも、自分に残された手段はたった一つ。

「オ、オレにはそういう趣味ないからーっ‼」

 ユキは一思いに叫ぶと、その場から脱兎のごとく逃げ出した。

「あ、ユキ‼」

 ナギがユキを追いかけようと足を踏み出す。

「ああ、ナギ先輩。」

 そんなナギを止めたのはエヴィンだった。

「何?」

 ナギが振り返ると、エヴィンは柔らかい笑顔でそこに立っていた。

「ナギ先輩って、ユキ先輩とは友達です?」

「え…う、うん。そうだけど。」

「そうですか。」

 エヴィンはナギの答えを聞くと、にっこりと笑みを深めた。

 そして。



「―――なら、ユキ先輩、自分がもらっちゃってもいいですよね?」



 そんなことをナギに訊ねた。

「―――」

 何も言えず、ナギはその場に立ち尽くす。

 エヴィンは特にそれ以上は言葉を重ねることなく、棒立ちになるナギの横をすっと通り過ぎていった。

「ユキせんぱ~い、待ってくださいよ~。」

 後ろに遠のいていくエヴィンの声。

「………」

 ナギは茫然と目を見開く。

 今、何を言われたのだろう…。

 何度も何度もエヴィンの言葉が脳裏に響く。

「―――‼」

 次の瞬間、両手を握り締めたナギは踵を返した。

 超特急で二人を追いかけ、あっという間にエヴィンを抜き去ってユキの腕を引く。

「おわっ⁉」

 ちょうど校舎裏から昇降口に面した大通りへ出ようとしていたユキの体を思いきり引っ張って、もう一度校舎の影へと彼を引きずり込むナギ。

 ユキのネクタイを引いて彼の顔を自分に近づけたナギは―――間髪入れず自分の唇を彼のそれに重ねた。

「~~~~~~~っ⁉」

「わぁお…」

 一瞬の内にパニック状態に叩き落されて石のように固まるユキと、二人のキスシーンを見せつけられて目をしばたたかせるエヴィン。

「な、な……な…」

 見る見るうちに顔を赤くするユキの首に手を回し、ナギはエヴィンを睨むとユキを抱き締める腕に力を込めた。

 それを見たエヴィンがナギの宣戦布告を察して顔をしかめる。

 試合開始のゴングが鳴った瞬間だった。

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