4時間目 俺……なんでこんなにもやもやしてるんだろ…
「いいか? 一応、最低限お前のこと信じて任せていくからな?」
何度も念を押し、ユキはルキアとナギの二人を部屋に残してキッチンルームへ向かっていった。
「………」
「………」
結果、部屋に満ちるのは沈黙のみ。
「………」
ルキアは不思議そうな目でナギを見つめている。
そんな視線がなんとなく嫌で、ナギはふい、とルキアから顔を背けてしまった。
(任せていくなんて言われても……どうすればいいのか分からないよ。)
抱えた膝に顔をうずめ、ナギは顔をしかめる。
『こう言っちゃ悪いけど、ナギのこと以上にね。』
トモの言葉がぐさりと胸に突き刺さっていた。
(そうだよね…。ユキ、俺のこと嫌いだったんだもんね…。俺より好きな人、いっぱいいるよね…。)
ああ、分かっていたはずなのに。
嫌いなら嫌いなままでいい。
そう言ってユキに迫ったのは自分なのに。
いつの間にか、それを忘れていた。
いや、忘れてしまおうと現実に蓋をしたのだ。
『ユキは、ナギと友達でいるために理事長を説得したんだよ。』
トモに聞いたあの事件の真相が、本当に嬉しくて。
嫌われていたなんて事実、なかったことにしてしまいたかった。
(俺……なんでこんなにもやもやしてるんだろ…)
昨日、今日と、自分の知らないユキをたくさん見た。
そして、ものすごく嫌な気分になった。
自分のことを見てもらえていない、と。
初めてそう感じた。
それが嫌で嫌でたまらなくて…。
「お兄ちゃん?」
ふと頭に置かれる手。
顔を上げると、ルキアの円らな瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「どこか痛いの?」
心配そうに揺れるユキと同じ空色の瞳。
『お前が大丈夫でも、周りは心配するだろうが。心臓止まるかと思ったんだぞ、こっちは。』
ふと、以前に同じような顔をしていたユキのことを思い出した。
(ユキと……そっくりだなぁ…)
そんなことを思ったら、急にルキアのことを邪魔に思うことができなくなって。
「大丈夫…。」
ナギは普段ユキがそうするように、栗毛色の髪の毛をわしゃわしゃとなでた。
「にぃにのこと、好き…?」
訊ねてみる。
「うん!」
ルキアは満面の笑みでそう答えた。
「にぃにね、とっても優しいの! ご飯とっても美味しいの! あとね、スペースレンジャーみたいにくるんってジャンプできるんだよ! すごいんだよ! でもね、怒るとすんごく怖いの。」
ルキアは頬を上気させて語る。
ルキアにとって、ユキはとても自慢で大好きなお兄ちゃんなんだろうな。
言葉以上に全身で無邪気にそれを表現している。
「……ふふ。分かるー。怒ると怖いよねー。」
ルキアのほんわかした雰囲気に流されて、ナギは一緒になって笑った。
「お兄ちゃんも、にぃにのこと好きなの?」
無邪気な問いが心を抉る。
「…………うん。そうだね。大好きだよ。」
ナギは泣きそうな顔で笑った。
「ほんと、大好きなんだ。」
嫌いじゃやだ。
同じ好きを返してほしい。
大好きだと口にした瞬間、そんな気持ちを自覚した。
こんな気持ち知らない。
ずっと一緒にいたい。
一秒だって離れていたくない。
本当は、いつだって自分だけを見てほしい。
今は色んな人が自分に近寄ってきてくれている。
それはそれで嬉しいけれど。
「やっぱ俺は……ユキがいなきゃやだよ。」
零れていく心が苦しくて、とても切なくて。
ナギはまた膝に顔を伏せて、ぎゅっと両手を握った。
★
(な、仲良くなってやがる……)
キッチンルームから戻ってきたユキは、その光景にしばらく立ち尽くすことになった。
「にぃに! ナギお兄ちゃんすごいよー! にぃにと同じくらい力持ちー‼」
ナギに肩車をされてご機嫌なルキアは、それはもう楽しそうな声をあげている。
「そ、そっかぁ……よかったな、はは…」
ユキは苦笑いをする。
(これ、誰が片づけるんだよ…)
ナギがルキアを構ってくれたことには純粋に礼を述べよう。
だが、それと引き換えに散らかりに散らかりまくったこの部屋をどうしてくれようか。
(まあ…ガキ二人を放置すりゃこうなるか……)
散らかし心置きなく遊ぶのが子供の仕事。
ここは一つ、自分が大人になるしかない。
「ほら、飯にするぞ。ここはもう足の踏み場もないから、キッチンに来い。」
「はぁーい。」
ナギとルキアは二人揃って元気な返事をする。
そして、キッチンルームへと足を踏み入れた彼らは……
「わああっ‼」
これまた二人揃って目を輝かせた。
「にぃに! これ、くぅちゃんだ!」
ルキアがオムライスを指差してぴょんぴょんと跳び跳ねる。
ユキは自慢げに笑った。
「おお、よく分かったな。ルキアをびっくりさせようと思って、兄ちゃん練習したんだぞー?」
「すごい! すごいすごーい!」
「ユキ! ほんとにすごい! ご馳走だよ、これ⁉」
「はいはい。お前まで一緒になってはしゃぐな。」
ルキアの隣に膝をついて子供のような反応をするナギに、ユキは笑顔に苦いものを混ぜる。
まあ、ここまで二人が喜ぶなら手間をかけた甲斐もある。色々と試行錯誤してよかった。
「ほら、落ち着けったら。」
未だに大興奮中の二人の頭に手を置き、ユキはそれぞれの頭をぐるぐると回す。
「しょうがねぇな、二人とも。」
喜んでもらえたことが純粋に嬉しいのもあって、自然と頬がほころんだ。
「………っ!」
それを見たナギが目を真ん丸にする。
「ん? どうした?」
優しい笑みで問いかけるユキ。
すると。
「いや…なんでも、ない。」
ナギはそろそろと顔を料理の方へと戻し…
「―――へへ。」
嬉しそうに笑った。
何があったのだろう。
少し気にはなったユキだったが、ナギの表情から悪いことではないことだけは分かったので、特に詳しく訊くことはしないことにした。
それからしばらく、三人で賑やかな食卓を囲んだ。ルキアはナギのことが相当気に入ったらしく、食事をしながら今日の出来事をずっとナギに語っていた。
これはちょうどいいと、食器の片づけをしている間に二人で風呂に入るように指示したら、まるで兄弟のような睦まじさで部屋に戻っていった。
まあその弊害として、風呂上がりの浴室は見事に泡だらけになっていたのだが。
悲惨な状態となった浴室を掃除しながら自分もシャワーを浴び、髪を乾かして部屋に戻った頃には…。
「寝ちゃったか…。」
ベッドの真ん中ですやすやと眠るルキアの頭を優しくなでてやる。
「まあ、今日は一日中遊んではしゃいで忙しかったもんな。疲れたよなぁ。」
穏やかに微笑んでいたユキは、ふと息を吐くとその笑顔を引っ込めて隣に目をやった。
「………なんのつもりだ。」
そこではナギが右腕にしがみついている。
「離せ。」
「………」
「離せって!」
「………」
「こらっ!」
腕を力強く振るも、ナギは意地でも腕を離さない。
「ナギ!」
「やだ。」
ようやく何かしゃべったと思ったらこいつは。
ルキアを起こさないよう、ユキとナギは小声で言い合う。
「やだってなんだよ!」
「だって、ルキアもう寝たじゃん! 次は俺の番!」
「はあっ⁉ 意味分からん! 今日のお前、なんか変だぞ⁉」
「だって!」
ナギはぎゅっとユキの腕を握る手に力を込める。
「だってユキ……全然俺のこと見てくれないから…」
「…………は……ええ?」
ナギがおかしい理由を察し、ユキは目を真ん丸にする。
「え、まさかお前……オレがルキアを構ってるのが嫌だった、わけ…?」
「………」
無言で視線を逸らすナギ。
まさか図星?
ぱちくりと瞼を叩き、次にユキはがっくりと肩を落とした。
「お前なぁ…さすがに、そこまでガキだとは思わなかったんだけど?」
「だって…だってぇ!」
ナギが頬を膨らませる。
「ユキ、俺の前であんなに笑ったことないじゃん。今日だってさ、ルキアの前だけじゃなくて、女の人に囲まれてにこにことさー!」
「は…ちょっと待て! お前、やっぱついてきてたのか⁉」
ユキは目を剥く。
食事の時、ルキアとやたら話が合いすぎていておかしいと思ってはいたのだ。自分が料理をしている間にすでに、一度二人でその話をしていたんだろうと思うことにしていたのに、嫌な予感ほど的中してくれる。
「それは今はどうでもいいのー!」
「どうでもよくねぇ‼」
ユキは抗議の意味も込めてまた腕を振るが、ナギはやはりこちらの腕を離そうとしない。
「何なんだよ、お前! 平日は散々お前に構ってやってるじゃんかよ! 家族が来た時くらい、家族を優先して何が悪い⁉」
「分かってるよ! トモにもそう言われた!」
「じゃあ少しくらい―――」
「分かってるけど…」
途端に揺れるナギの声。
ユキは思わず腕を止めた。
「分かってるけど、もやもやするんだもん。俺の知らないユキがいるの……なんか、やだ…。」
「………」
そうは言われましても…。
それが素直な感想だった。
ナギは何を無茶なことを言っているのだ。
自分が生きてきた十七年に対して、ナギと話すようになった時間はたったの五ヶ月。ナギが知らない自分の時間が何倍あると思っているのだ。
ユキは、真っ赤な顔でふてくされて床を見ているナギを見つめる。
ほんと、なんていう顔をしているんだか。
(世界的な天才が、たかだか五歳児にヤキモチとか……)
しみじみ脳内でまとめてみると、ものすごく滑稽な話じゃないか。
でもまあ、目の前にある現実は変わらないわけだし…。
ユキは諦めて腕から力を抜いた。
「―――で? 結局、お前はオレにどうしてほしいわけ?」
「……え?」
自分で次は俺の番だとか言ったくせに、ナギはきょとんとしている。
ユキは眉をひそめた。
「え? なんか注文があったんじゃないのか? 言っとくけど、オレはエスパーってわけじゃないからお前の要望とか分からねぇぞ?」
ナギが今回のことについてヤキモチを焼いていることは分かった。だがこれについての解決策なんて、さすがの自分にも分からない。
「………」
ナギはじっとユキを見つめる。
「……あの、これなんの時間?」
無言の時間に耐えかねたユキが訊ねる。
すると。
「ユキ、動かないでね?」
ナギがユキの肩に手を置いた。
「え、なんで―――んんっ⁉」
次の瞬間、ユキは石のように固まる。
唇に触れる柔らかい感触。
(ルキア起きてないよなっ⁉)
とっさに気にしたのはベッドの上。
大丈夫。ルキアは爆睡中だ。
(……って、大丈夫じゃねぇよ‼)
ユキは首に回されたナギの腕を必死に引き剥がしにかかった。
「馬鹿! やめんか!」
「動かないでって言った。」
「さすがにこれは……んっ⁉」
ナギは離れるどころか、抗議するために口を開いたユキの口腔内に舌を差し入れてくる。
「んっ…くっ……」
器用に舌を絡め取られ、ユキは苦しげに息を詰まらせる。
まずい。
このままではナギに流されてしまう。
流されないためには―――
(くそっ…)
ユキはナギの頭をぐっと引き寄せ、自分から積極的にナギの舌に自分の舌を絡めた。
「んっ!」
ナギが驚いたように体を震わせる。
そうだ。これでいい。
一瞬で主導権を奪い取ったユキは、ナギの体から力が抜けるタイミングを見計らって唇を離した。
「おま…いい加減、に……しろよ…」
状況を考えてくれ。こんな場面をルキアに見られたら、色んな意味で気まずいではないか。情操教育にもよろしくない。
いや、ルキアがいなかったところでふざけるなという話だが。
「ユキ…」
頬を染めるナギは、荒くなった呼吸の合間にユキに訊ねる。
「ねぇ、こういうこと、俺以外ともする?」
「馬鹿なのか⁉ するわけねぇだろ‼」
反射的に言い返し、ユキはすぐにハッとして顔を赤くした。
「ちがっ……そう意味じゃなくてだなっ…」
なんだ今の発言は。
まるで、ナギのことを特別だと言ったみたいじゃないか。
「いい。」
ナギはぎゅっとユキに抱きついた。
「別に今は、ユキが俺のこと好きじゃなくてもいい。でも今は、ユキのそんな顔を見られるの、俺だけだよね…?」
「そ、れは…」
ユキは大いに返答に困る。
事実そうなのだが、ここは素直にそうだと認めていいものか。下手に認めるとナギがまた大暴走しそうだが、否定すればまるで自分が軽い人間だと言っているようじゃないか。
(否定も肯定もできないって、どういうことだよーっ⁉)
ナギに抱きつかれたまま、ユキはぐるぐると目を回していた。