2時間目 はじめてのヤキモチ
インターホンを鳴らすも、返ってくるのは無言のみ。
「あれ、いない…?」
トモは首を捻る。
土曜日の朝九時。こんな朝早くに来たのに、幼子がセットのユキが部屋にいないなんて。
「まさか寝てるわけでもないだろうしな……わっ」
唐突に体を押されたトモが思いきりよろける。
そしてトモは、隣の光景に目を剥くことになった。
トモを突き飛ばしたナギが、狂ったようにインターホンを連打したのである。
「おおっ…ナ、ナギ! 迷惑だから! ストップ‼」
トモは慌ててナギをインターホンから引き剥がし、そっとドアに耳をくっつけた。
やはり室内からは微かな物音一つもしない。
「うん、これはやっぱいないよ。出かけてるみたいだね。」
トモはドアから身を離す。
「というわけで、ここは諦めよう……おおぅ…」
後ろを振り向いたトモは、そこでパンパンに頬を膨らませているナギの顔に当惑顔を浮かべるしかなかった。
「……のに…」
ナギがぶつぶつと何かを言っている。
「俺が遊ぼうって言っても、部屋から出てきてくれないのに…」
「ああ、えっと…」
トモは思わず頬を掻いて視線を逸らした。
どうしよう。これは、どう説明すればナギが納得するだろう。
そのことについてのみ言及するなら、別にナギだから断り続けられているわけではないのだ。
平日はバイトを優先しているユキにとって、休日は思う存分勉強ができる貴重な時間。普段は音楽を聴きながら勉強に没頭していることが多いので、まともに玄関に出てきてもらえるだけでもいい方。誘いに乗せられたとしたら、それは半年分の運を使い果たしたかな、と思えるくらいの奇跡なのである。
「ま、まあ……あんな小さい子がずっと部屋の中にいるってのも無理な話だし、仕方なく遊びに連れてったんじゃないかなぁ?」
「遊びに…」
しまった。地雷を踏んだ。
余計に顔を赤くするナギに、トモは冷や汗を浮かべる。
悩みに悩んで……結局、本音で語ることにした。
「ナギ。今、どんな気持ち?」
これ以上刺激しないよう、そっと訊ねてみるトモ。
「分かんない。」
ナギは小さく答える。
「分かんないけど…すごくもやもやしてる。」
(うわぁ、立派なヤキモチだよね、これ。)
空笑いをしつつ、トモは記憶を遡る。
正直なところ、ユキがナギにとっての特別であるように、ナギもユキにとっては特別なんじゃないかと思う。
数多くいる友人の中で、ユキがあそこまで感情的に接するのはナギだけだからだ。
成長してきた自分たちは、自ずとそれぞれが持った価値観を察して行動する。それ故に、距離感を大事にするユキと友人たちの間には一定の距離がある。
別にそれは、決して上部だけの付き合いをしているというわけではない。
踏み込まれたくないところには踏み込まず、余計なお節介は焼かない。
つまりはそういうこと。だからユキといるのは心地いいし、変な遠慮をしなくていいから気が楽なのだ。
だがこれまで極端に人付き合いというものを知らずに生きてきたナギは、まるで子供のように興味だけで突っ走る。ユキが他との間に引いた一線など、ナギにはきっと見えてもいないはずだ。
そんなナギに翻弄された結果、ユキは他より少し近い場所にナギを受け入れているように思う。
そしてナギがそれを敏感に感じ取っているのなら、ユキの一番は自分なんだと思ってもおかしくはない。
でもそれは、あくまでも〝学校〟という狭い世界の中だけでの話であって……
「ナギ。ナギのためにも言っておくよ。」
トモは肩を落とし、口を開いた。
「知ってはいると思うけど、ユキは家族のためにこの学校に入ったんだよ。」
「うん。」
「ナギにはちょっとピンとこないかもしれないけど、この学校に入って通い続けるって、相当努力しないときついなんだ。遊ぶとか、そういうことを全部犠牲にしなきゃいけないくらい。」
「そう、なんだ…」
「うん、そうなの。でね、それだけ自分のことを犠牲にできるくらい、ユキはお母さんやルキア君のことが大事なわけ。こう言っちゃ悪いけど、ナギのこと以上にね。」
「………」
「こればっかはいじけても仕方ないよ。ちゃんと事実として受け止めないと。さすがに家族には勝てないって。」
「………」
ナギは何も答えない。余計に頬を大きく膨らませてしまうだけだ。
(あーらら、こりゃ相当お熱だこと…。)
トモは眉間を押さえた。
ごめん、ユキ。さすがに、ここまでナギの気持ちがユキ一色になるとは思っていませんでした。
ユキにナギをけしかけたのは自分だったと自覚している手前、トモは複雑にならざるを得なかった。
(えええ、どうしよう…。このまま好きが止まらなくなったら、その内ユキのこと襲うんじゃないかな、この子。)
ナギは自分と同じで感情で突っ走るタイプだ。今自分の脳裏に浮かんだもしもが現実になりそうで怖い。
ここはどうにか自分がナギのブレーキをかけなければ。ユキ本人にブレーキをかけさせるのは色々と申し訳ないというか、そこまで行ったらあまりにも可哀想というか。本気でユキの胃に穴が開きそうだ。
「―――トモ。」
トモがぐるぐると考え込んでいると、ふいにナギがトモの服を引っ張った。
「ユキの居場所、どうにかして割り出せない?」
「えっ…?」
まさかの発言に、トモは頬をひきつらせた。
そりゃ、やろうと思えばできなくはないと思うけど。
反射的にそう言いそうになって、トモは慌ててその言葉を飲み込んだ。
「な、なんで…?」
おそるおそる訊ねる。
「受け止めなきゃだめなんでしょ? じゃあとことん見たい。俺が知らないユキのこと。」
なるほど、そうきたか。さすがは科学者。探求心のレベルが最上級を振り切っていらっしゃる。
「それで…仮に、とことんユキのこと知ったとして、どうするの? ちゃんと受け止められる?」
「それは…分からないけど。」
怖い怖い怖い怖い!
本気で怒ったナギの追い詰め方を知っている手前、彼の言う“分からない”が怖すぎる。
「いい、ナギ! いくらユキのお母さんやルキア君が羨ましいからって、ひどいことしちゃだめだからね⁉ それは本気でユキに嫌われることだからね⁉ マジで一切振り向いてくれなくなるよ⁉」
トモは何度もナギの肩を揺さぶった。
「ユキのことがかなーり好きなのは分かった! ユキが好きなら、ユキが嫌がることだけはしないこと! 分かった⁉ ユキが泣くところ、見たくないでしょ⁉」
必死に言い聞かせると…
「うん。分かった。」
ナギはこくりと頷いた。
よし。最低限のブレーキはかけた。
トモはほっと息をつく。
「……で、ユキの居場所調べてくれないの?」
ナギが可愛らしく小首を傾げて訊いてくる。
そうですね。
それとこれとは別問題ですね。
「それは…さすがにユキに悪いから……」
そろりと顔を横に向けるトモ。
「つまり、できなくはないんだ?」
ナギはずばりと核心を突く。
「トモ…だめ?」
「へっ…⁉」
ナギにぐいっと迫られ、トモは素っ頓狂な声をあげた。
なんですか、この状況。
今までこんな風に迫ってきたことなんてなかったじゃないですか!
「お願いしても、だめ?」
「う、うん……今回は、ちょっと…」
苦し紛れに頷くトモ。
我慢だ。
我慢だ、自分!
ナギの犬と自負してきただけあって、ナギのお願いを聞いてあげたくてたまらない自分がいる。
だが、自分にとってはナギと同じくらいユキのことも大切なわけで。
ふるふるとトモが首を振っていると。
「トモ、お願い。」
ナギがそっとトモの両手を握った。
「こんな時に頼れるの、トモしかいないんだもん。」
目の端に光るものを浮かべて眉を下げる顔がいじらしいったらもう―――
「ナッ……」
トモは唇を震わせる。
次の瞬間。
「ナギのためなら喜んでーっ‼」
興奮混じりに宣言した彼は、携帯電話を取り出してそれを忙しなく操作し始めた。
「ふふ、ありがと。」
にっこりと小悪魔的な微笑みを浮かべるナギ。
彼が目覚めなくてもいい何かに目覚め始めていると、そう思うには十分な光景であった。
★
(オレ、浮いてるよなぁ…)
ユキは複雑な気持ちを噛み殺す。
「にぃにー‼」
呼ばれて顔を上げれば、滑り台の上から大きく手を振ってくるルキアが。
「ははは…」
手を振り返してやれば、ルキアはとても嬉しそうに笑みを深めて滑り台を滑っていく。
ここは、高校から電車とバスで三十分ほどの距離にあるショッピングモール。その中にある子供向けの遊具施設だ。
外は雪だらけで寒いし、ルキアもこういう場所にはあまり来たことがないだろうと思って連れてきたはいいのだが、ルキアには申し訳ないことに非常に居心地がよろしくない。
こういう施設だから仕方ないのだが、周りは母親たちでいっぱい。男子高校生である自分は浮きに浮きまくっている。ちらちらと向けられる彼女たちの視線が気まずくて仕方ないのだ。
さすがにこの状況でルキアと共に施設の中に入る勇気はなかったので、一緒に入りたがるルキアを言いくるめて、自分は柵の外から傍観するに徹している。
仕方ない。可愛い弟があそこまで楽しんでいるのだから、ちょっとくらいの居心地の悪さは我慢しよう。
それに、生き生きと遊ぶルキアを見ているとこちらも癒される。
「……ん?」
ルキアの様子を眺めていたユキはふと眉を寄せる。
次の瞬間に彼はその場から駆け出し、施設の入り口へと向かった。
「すみません、入場券一つ。お釣りは後で取りに来ます。」
受付の女性にお金だけを渡し、散々入るのを躊躇っていた施設の中へ。
そして、遊具で遊ぶ子供たちの合間を器用にすり抜けて。
「よっと。」
子供たちの中をハイハイで進んでいた赤ん坊を軽々と掬い上げた。
「どうした? 危ないぞ? どっから来たんだ?」
ずっと不安そうにきょろきょろとしていた赤ん坊を腕に抱き、ユキは優しくそう訊ねる。
「ふぇ……」
人の温もりに安心したのか、抱き上げた赤ん坊は両目に涙を浮かべてしまった。
「よしよし、怖かったな。」
ユキは慣れた手つきで赤ん坊をあやしながら、親を探すために保護者スペースへと向かう。
さすがはルキアで経験値を積んでいるだけのことはある。あっという間に赤ん坊が泣き止んで、無邪気な仕草でユキの顔に手を伸ばした。
「お、泣き止んだな?」
子供の顔を覗き込んだユキは穏やかな微笑を浮かべる。
一部始終を見ていた女性全員が落ちた瞬間だった。