1時間目 兄としてのユキ
二月中旬。雪がちらつくほどに冷え込んだ空気に、ほとんどの生徒が机で縮こまって動かなくなる季節だ。
金曜日の放課後にもかかわらず、ほとんどの生徒たちが暖房のきいた室内でだらけている中。
「………」
ユキは一人、そわそわと時計と携帯電話の画面を交互に見つめていた。
そんな時間が十分、十五分と過ぎた頃。
「ユキくーん。」
教室のドアが開き、事務員の男性がひょっこりと顔を出す。
「すぐ行きます。」
待ってましたと言わんばかりの速さで立ち上がったユキは、駆け足で教室を出て彼とともに去って行った。
「………」
それまで無関心を装っていた生徒たちはしばらくユキが消えて行ったドアの方を見つめ、誰からというわけでもなく教室の中央に集まった。
「なあ、あれ何?」
「さあ?」
彼らは額を突き合わせて唸る。
理事長まで登場した去年の大事件から数か月。
日々は何事もなく過ぎ去り、あの事件の余韻もようやく落ち着こうとしていた。
ナギに張りつかれている時以外のユキは、自分からは特定の誰かとはつるまない一匹狼というスタンスを崩さずにいた。
だが決して周囲を疎ましく思っているわけではないようで、誰かが声をかけてくる分には忙しい時を除いては特に拒まず話を聞く。その相手があの事件でどういう立ち位置にいたかなど、特に何も引きずっていないというような平等さで。
初めは邪険にされるかと思っていた面々もユキの態度に拍子抜けし、次第に素直な気持ちでユキを頼るようになった。
そんなユキと話を交わすようになった彼らは、はたとある現実に気づく。
この学校に集まる生徒の性質上、ナギと違って雑草根性でのし上がってきたユキに興味を持つ者は少なかった。
故に、ユキのことについて知っていることが存外になかったのである。
とはいえ、普段が忙しすぎるユキは必要最低限の会話しかしない。クラスメイトと談笑をする機会などほとんどゼロだ。かといって彼の部屋に突撃できる猛者は、今のところナギやトモといったごく少数しか存在しない。
つまり現在、彼らのユキに対する興味関心は急激に上昇中なのである。
「ああ、もしかして…久々のアレかな?」
集まる彼らを遠巻きに眺めていたトモが口を開くと、ちょうど彼と話しているところだったルズたちも何かに思い至ったように手を叩いた。
「あ、そっか。あの落ち着きのなさはそれかもなぁ。」
「何? 何かあるの?」
代表して皆の質問を口にしたのはナギだ。
「ユキって、一年の時はやたらと客が来てたんだよね~。」
「そうそう。月一とか、多いと月二とか。」
トモの言葉をルズが引き継ぐ。
「そんなに?」
皆がざわざわと互いの考えを述べ合う。
「まあ学校が何も言ってないし、あのくそ真面目なユキのこと。女絡みではないことは確かだろうけど…」
そこでにやりと口の端を上げるトモ。
「気になるなら、尾行しちゃう?」
彼がそう言うと、ルズたちも何かを面白がるようにくすくすと笑い合った。
周りの人間はごくりと固唾を飲む。
ユキに見つかった時の説教か。
自分たちの興味か。
どちらを優先して動くのかは、面白いくらいに意見が一致していた。
★
「いない?」
応接室に向かったユキは、ぽかんと口を開ける。
「そうなのよー。中じゃ泣き止みそうにないから、外で雪遊びでもさせてきますねーって。」
そこで待機していた女性が、「外はあんなに寒いのに…」と心配そうに窓辺へと目をやった。
それを聞いたユキが悩ましげに額を押さえる。
「泣き止みそうにないって……昨日電話でも聞いたけど、相当なんだな…。分かりました。ありがとうございます!」
丁寧に頭を下げたユキは、くるりと踵を返して廊下を駆けていく。
「おお、あぶねー…」
階段の影に隠れていた彼らは、ユキに見つからなかったことにほっと胸をなで下ろしていた。
「まさか戻ってくるとは…」
「つーか、お前押しすぎ! 見つかったらどうすんだよ!」
「お前が最前列を我が物顔で陣取ってるからだろ⁉」
「おーい、そこで喧嘩してっと見失うよーん?」
「ハッ!」
トモの指摘に皆が一斉に顔を上げ、ぞろぞろとユキを追いかけていく。
「くくく…」
噛み殺すことができなかった笑い声を漏らすトモ。
すると。
「トモ、悪い顔してんなぁ。」
彼と同じように高みの見物を楽しんでいるルズたちが苦笑する。
「いやいや、ルズたちも同罪っしょ。」
「おれたちはトモに乗っただけー。」
「十分アウトだって。さ、おれらも行こうー♪」
何を企んでいるのやら。
トモたちは他の生徒たちとは違い、ゆっくりとした歩みで彼らの後を追った。
一方のユキは一度教室に戻ってコートとマフラーを引っ掴み、急ぎ足で昇降口へと向かっていった。そして外に出ると、きょろきょろと誰かを探しながら雪で足場の悪い道を器用に走っていく。
「あいつ、マジで化け物かよ…」
「なんでこんなつるっつるな所走れんだ…?」
ユキを尾行する彼らは必死だ。それでも彼らは周囲から変な目を向けられつつ、どうにかユキの姿を見失わないように学校の敷地内を行ったり来たりする。
「あ、いた!」
ユキが声を弾ませる頃には、ほとんどの人間が肩で息をしていた。
「おーい!」
手を降りながら彼が向かう先には……
「え…子供?」
一人が呟く。
真っ白に染まった中庭には、小さな雪だるまを作って遊ぶ幼い子供が一人。その子はユキの声を聞いて、りんご色に染まった顔を上げる。
そしてユキの姿を見るや否や、彼と同じ空色の両目にめいいっぱいの涙を浮かべた。
「~~~~~‼」
「あー、はいはい。おいで!」
解読できない何かを叫びながら走ってくる子供を迎えるように両手を開き、ユキはその小さな体をひょいと抱き上げた。
「~~! ~~~‼」
「もう、どうしたんだよ急に。いい子に留守番できるようになってじゃんかー。」
首を締め上げる勢いで抱きついてくる子供をあやしながら、ユキは困ったように笑う。
「えっ…⁉」
あのユキが簡単に笑顔を見せたこと。
それを目撃した全員がこれまでの疲れを忘れて驚愕する。
だが、彼らの驚きはまだ終わらない。
「ルーちゃん⁉」
鈴のように軽やかで優しい声。その声の主は校舎の影から慌てて走ってきて、子供を抱くユキを見ると安心したように笑った。
「急に泣き声が聞こえたからどうしたのかと思ったら、ユキが来てくれたとこだったのねぇ。」
(ええええぇぇぇぇぇっ⁉)
全員が心の中で大絶叫をあげる。
「え、何あれめっちゃ美人!」
「いやいや、あれはどっちかっていうと可愛い系じゃね⁉」
ユキたちの元に駆け寄る女性にどよめく彼ら。
ユキが抱く子供と同じ、ふんわりと風にたなびく栗毛色で巻き毛のショートカット。それはくりっとした茜色の両目が特徴的な丸めの顔にとても似合っていて、可愛らしくおっとりとした印象を皆に与えていた。
「あらユキ、結構外にいた? ほっぺた真っ赤になってる。」
「ああ、二人探してあちこち走り回ったから。」
「ふふふ。肌の白さは二人とも一緒ねー。うりゃ。」
「わっ! あっつ⁉」
缶コーヒーを頬に当てられたユキが素っ頓狂な声をあげる。
「今買ってきたのよー。温かいでしょ?」
「だから温かいっていうか熱いって。もう、すぐそうやって悪戯するー。」
非常に仲睦まじそうに話して穏やかに笑い合う二人。
「え、ってか、何あれ⁉」
「分かんね…」
十数メートル先で繰り広げられる異世界に、彼らはただただ目をこするしかない。
「えー…あんだよ、ユキの奴あんな可愛い子と……」
「ってか、どんな関係?」
「彼女?」
「………っ」
ふと聞こえてきた単語に、ナギがぴくりと反応する。そんなナギにはお構いなしで周囲は自由気ままに盛り上がる。
「彼女って、マジか…?」
「じゃああの子は…」
「か、隠し子的な……?」
「そんなまさか。」
「でも、ユキが忙しいのって家族がどうとかこうとか言ってなかったか?」
「………」
話が進むほどに渋くなるナギの表情。
ついに痺れを切らした彼は、すっと校舎影から出ていった。
「え、ナギ…?」
一人が気づいた時には、時既に遅く―――
★
「で? 誰が誰の隠し子だって?」
「……すみません。」
ユキに据わった目つきで見下ろされ、ユキを尾行してきた面々は冷たい地面に正座をして頭を下げた。
「隠し子って、普通に考えておかしいだろ? 何? オレ実はサバ読んでたりするわけ?」
「だからごめんって…」
「大体、気になるならオレに直接訊けばいいだろうが。なんでわざわざ寒い思いしてこんなことするかな?」
「それはなんか……今さら感というか…」
「ってかお前ら、なんでみんなして正座してんの?」
「これはもう、条件反射といいますか……」
「はあー?」
ユキは心底不可解そうだ。
「あらあら…。ユキったら、いつの間にこんなにお友達増えたの?」
ナギとともにユキの隣に並んだ彼女が、ほんわかとした笑みで彼らを見やる。その笑顔を真正面から見た何人かが、照れたように頬を赤らめた。
「まあ、これについては色々と訳があって…」
ユキの告げた〝色々〟という単語に、彼らは総じてぴくりと肩を震わせた。一同のそんな反応に溜め息をつき、ユキはまた違う方向に目を向ける。
「おい、トモ! ルズ! お前らは絶対分かってただろ? なんで教えてやらねぇんだよ!」
「いや…面白くて……」
「あっははは! もう限界! なんだよ隠し子ってぇ~‼」
笑いをこらえて震えるトモの隣で、ルズたちが面白おかしそうに腹を抱えて爆笑している。
「まったくもう、お前ら遊ばれてんぞ? ほら、とりあえず立て。いつまで冷たい思いしてるつもりだ?」
ユキが片手で立つように指示すると、皆は素直にそれに応じる。
そこには、もはや揺るぎようのない上下関係が完成されていた。
ユキは立ち上がった全員を見つめ、次に隣の女性へと手を差し出した。
「母さんと弟のルキアだよ。」
「どうも。うちのユキがお世話になってます。」
ユキの紹介に女性―――サヤがにっこりと笑みを深める。
「ええええぇぇぇぇぇっ⁉」
今度は声を大にして全員が叫んだ。
「うっそ⁉ お母さん⁉ お姉さんじゃなくて⁉」
「あら嬉しい。」
にこやかなサヤに、ユキは少々複雑そうである。
「やっぱ母さんに会った奴の反応はぶれねぇなー。」
「心の若さが滲み出てるのかしらぁ?」
「ははは、そうかも。」
「ええ、マジかよ…」
一同は信じられない気持ちでサヤとユキを交互に見比べた。そして自分の母親の顔を思い浮かべたのか、それぞれがなんともいえない顔をする。
「ってか……その、あんま似てない、ね…?」
誰かがそんなことを呟く。
確かにサヤとルキアは髪の色や巻き毛といった特徴が一致していて、いかにも親子という感じがする。
しかし、ユキの髪は透き通るような白銀色の細いストレート。ルキアの目がユキと同じ空色なので血が繋がっているのは確かなのだろうが、サヤとユキが並んでも親子だとはいまいちピンとこなかった。
「あー……オレ、父さん似なんだよ。」
「ほんとそっくりよー? 見る?」
サヤはコートの懐に手を忍ばせると、そこからロケットを取り出した。彼女がそれを開いて手の上に乗せると、興味丸出しの全員が砂糖に群がるアリのようにそこに集まる。
「うっわ!」
全員がそれ以上の言葉を失った。
サヤのロケットの中には、今はもうこの世にいないというユキの父親の写真があった。
そこに写る男性は、確かにユキと全く同じ色彩の髪と目の色をしていたのだ。
だが。
(顔つきが! 顔つきが似てない!)
誰もが思ったことだった。
ユキよりも長く髪を伸ばした写真の中の彼は、とても穏やかな表情でカメラに微笑みかけている。母親であるサヤもおっとりとした雰囲気だし、弟のルキアも両親の雰囲気を十二分に譲り受けた感じだった。
遺伝子的な要素を考えると、ユキだって本来はそういう系の顔つきになるはずだ。
つまりユキのこのキツめな顔つきや雰囲気は、彼自身の経験や性格によるものが大きいわけで…。
「ユキ……お前、苦労してんだな、ほんとに…」
誰かがしみじみと言うと、他の生徒たちもうんうんと頷いた。
「余計なお世話だよ。締め上げるぞ。んで、お前らはいい加減笑うのやめろって!」
「む、無理…っ」
「マジで…そろそろ笑い死にそう…っ」
ユキのことを一つ知っては大袈裟なほどに驚く皆が、すでに事情を知っていたトモたちには面白く見えて仕方がないらしい。
ユキは溜め息をついてそれを流し、ふと腕の中に目を落とした。
「それにしても……全然泣き止まないなぁ…」
「ふえぇ…」
そこでは未だにルキアがぐずっている。かれこれ十五分くらいは経ったと思うのだが、何をやってもまるで効果なしだ。
「母さん、なんか心当たりある?」
「そうねぇ…」
ユキとサヤは二人で困ったように眉を下げた。
「完全に油断してたなぁ。最近はこういうこと全然なかったし、ついこの間も家に帰ったばっかなのに…。」
「そうなのよ……ああ、思い出したわ!」
ぽん、とサヤが両手を叩いた。
「この前ユキが帰ってきた時、せっかくの誕生日なんだからって、夕飯外で済ませちゃったじゃない?」
「ああ、そうだったね。」
「ええ!」
ここで、今の今まで大人しかったナギがここで口を挟んだ。
「ユキ……誕生日だったの?」
「え? ああ、一月二十九日がちょうど…って、何怒ってんだよ。」
言葉の途中でナギが膨れっ面をしていることに気づいたユキが眉をひそめる。
ナギはその顔のままユキに詰め寄った。
「なんで教えてくれなかったのー⁉」
「なんでって…教える必要あるか?」
「あるよ! 俺だってお祝いしたかったー!」
「あー、はいはい。今はそれは置いといてくれ。」
ナギの体をぐいっと脇に避けて、ユキはまたサヤと向き合った。
「で、外食したのがまずかったの? あの時はルキアも喜んでたと思うけど。」
「えっと、ええ…そう、なんだけどね……」
ユキにあしらわれて不服そうなナギを気にしつつ、サヤがぎこちなく言葉を続けた。
「どうやら後になって、ユキのご飯が食べられなかったのが不満になってきちゃったみたいで…。今度お兄ちゃんが帰ってきたら一緒にご飯作ろうねって言った時は、一旦は頷いてくれたんだけど…。」
「あー…いつもはオレが飯作るもんなぁ。まさかそれがトリガーになるとは…」
「ほんと、どうしましょう。これじゃあ帰るに帰れないわねぇ…。」
ほう、と息を吐くサヤ。
すると。
「……や…」
ルキアの体がぴくりと跳ねた。
次の瞬間。
「やだあぁぁぁぁっ‼」
突然ルキアが金切り声で叫んだ。
耳元で大音量を吹き込まれたユキが思わず顔を背け、他の皆も反射的に耳を塞ぐ。
「にぃにといる。……にぃにと一緒にいる! 帰らない! やあだぁー…うえぇぇぇん……」
死んでも離すもんか。
ユキのコートをしわくちゃに掴むルキアの手がそれを如実に語っている。
「………」
ルキアの背中をあやすように叩くユキの目がすっと細くなる。
それは彼が何か打開策がないか思考を巡らせている顔だ。
「…たまには頼んでみるのも手、か。」
ふいにそう呟いたユキは、コートのポケットから携帯電話を取り出した。皆が見守る中、携帯電話を操作したユキはそれを耳元に当てる。
「……あ、理事長? お疲れ様です。一分で終わるんで聞いてください。」
「⁉」
電話の相手はまさかの大物。
「理事長と電話一本で繋がる仲とか…」
全員が固唾を飲む。さすがにこれには、ずっと笑っていたトモたちも冷静にならざるを得なかった。
「ええ、ええ……はい。……ああもう、分かりましたよ。写真送りゃいいんでしょ。はい……はいはい。」
まるで親戚とでも話しているかのようなユキの口調。
理事長本人に関係を暴露されたということもあって、ユキ自身もある程度割り切ってしまったらしい。
だからといってこんなシーンを堂々と見せられると、周りとしてはやはり心臓に悪いわけで。
「………」
ユキが電話を切るまで、無駄に緊張を強いられる皆だった。
「泊めてオッケーだって。今日と明日、ルキアこっちで預かるよ。日曜日の昼くらいに迎えに来て。」
あっさりと理事長の許可を取ってきたユキはサヤにそう告げた。
「あら、いいの?」
「いいって。母さんもたまには一人でのんびりしなよ。」
「……そう? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。」
サヤは嬉そうに笑った。
「ちょうど明日シフト変わってほしいって子がいたのよ。せっかくだから稼いでくるわ。」
あ、ちゃんと親子だ。
サヤの言葉を聞き、似ていない見た目の二人に強い血脈を感じた一同であった。
★
「おい……あれ、誰だよ?」
窓からキッチンルームを覗いた者は、一人残らず同じ感想を漏らした。
「にぃにー、ルーくんもやるー。」
「待て待て! 火はだめ! もうちょっとしたらお手伝いできるから、いい子で待てるか?」
「うん!」
「よし、偉い。」
満面の笑顔で頷くルキアに、ユキは同じような笑顔でルキアの頭を優しくなでた。
ルキアはここに泊まってもいいと分かるや否や、ものすごいスピードで機嫌を直した。それに安堵したユキとサヤは互いに笑い合い、ユキはサヤを駅まで送りつつ買い出しに行くと言って、そのまま家族三人で学校を出ていった。
ユキにめちゃくちゃ可愛い母と弟がいる。
そして家族と接している時のユキは全くの別人である。
ユキがいない間にその話は光の速さで学校中を飛び交い、戻ってきた彼がルキアとキッチンルームに入って料理を始めてからは、噂を聞きつけた人々が代わる代わる覗きに来てはその変貌ぶりに絶句していた。
「何そんなにびっくりしてんの? ユキは普通に笑うし、結構面倒見いいよ?」
「そうそう。ってか、みんなどんだけ今までユキに興味なかったのさ。あんな面白い奴もそうそういないのに。」
自分たちはずっと前からユキの魅力を知っていたと。
トモやルズは、それはもう自慢げだ。
「う、うるせーな! 知ってるなら、わざわざ見に来る必要ないだろ⁉ なんでここにいるんだよ!」
気まずげな一人がトモたちに食ってかかる。
すると彼らは互いに見つめ合って含み笑いをする。
「そりゃあ、ねえ?」
「機嫌がいい時のユキに張りついてると、色々と美味しいといいますか。」
「?」
事情を知らない面々は揃って首を捻る。
「むーっ!」
少し離れた所から、とても不満そうな声が聞こえたのはその時だ。
「ナギ、落ち着け!」
「むーっ‼」
数人がかりで押さえつけられたナギがじたばたと暴れる。
「だめだって! お前、絶対にあの中に入ってくだろ⁉」
「なんでだめなのー?」
「馬鹿。あの空間を邪魔するのはさすがに悪いだろうが!」
「それに、あんな面白いもの見られる機会なんて、そうそうないだろ⁉」
「そっちが本音じゃーん。」
「ナギ……こんなにもみんなに馴染んで…」
周囲とくだらないやり取りと交わすナギの姿に、トモが感極まったように口元を押さえた。
ユキがこれまで秘匿していた底力の本領を発揮させてからというもの、周囲のナギに対する態度は徐々に変わりつつあった。
何せ彼の能力にあやかるという手段は、ユキが発案した成績ノルマ引き上げ制度によって封じられてしまったのだ。
必然的に、人々は話が噛み合わないナギよりも、物分かりがよく心地よい距離感を保ってくれるユキに流れた。
とはいえ、そんなユキの隣にはほとんどナギがいる。それに初めは戸惑っていた周囲も、ナギを特別扱いしないユキの態度に影響を受け、最近ではこうしてナギに遠慮しない場面がよく見られるようになった。
孤高の天才からごく普通の同級生へ。
ユキはとても自然に、そして無意識で、ナギの立場をがらりと変えてしまったのである。
「トモ…ちょくちょく思うけど、お前はオカンかよ。」
「オカンじゃない! 犬!」
「うっわ…。堂々とそう言えるお前、ある意味尊敬するわ。」
笑顔で言い切るトモに、突っ込んだルズは遠い顔をする。
その時、突然キッチンルームのドアが開いた。
「見世物じゃねぇよ。」
トレーに二人分のカレーライスを乗せたユキが、周囲を見渡して「馬鹿なのか?」とでも言いたげに眉を寄せる。
先ほどまでの笑顔はどこへ消えたのか。
そう思うと同時に、条件反射で体をすくませる一同。
「ルキア、挨拶できるか?」
ユキはそれ以上の突っ込みはせず、自分のズボンを握るルキアに目をやった。
「こんばんは。ルキアです。五歳です。」
ルキアは可愛らしくぺこりと頭を下げて、自分の年を表すように片手をパーの形に開いた。
「これがユキの弟…」
夕方とは違って愛くるしい笑顔で挨拶をするルキアに、誰もが軽く頬を赤くして息を飲んだ。
「似てなくて悪かったな。ルキア、行くぞ。」
「はぁーい。」
ルキアがいるからか、説教がいつもの半分以下だ。
あっさりとしすぎたユキの態度に、皆が目を丸くしながら彼らを見送る。
「ああ、そうだ。」
ユキがふと立ち止まって振り返った。
「カレー、多めに作ってあるから食いたきゃ食えば?」
「うっひょー!」
「待ってましたー!」
それを聞いて一目散にキッチンルームに駆けていったのはトモとルズだ。
「あ、美味しいって、そういう……」
茫然とする周りは気にせず、ユキはルキアとともに廊下を進む。
「待ってよ、ユキ‼」
「ああ、しまった!」
皆が我に返った時には、いつの間にか拘束を抜け出していたナギがユキを追いかけていった後。
「うわぁ、ナギやめろー‼」
「今お前が行ったら、ユキが般若になるだろ!」
「弟の前でくらい、優しい兄ちゃんでいさせてやれーっ‼」
慌てふためいた彼らは、必死にナギを追いかけたのだが。
「あー、はいはい。お前の相手はまた今度な。」
ユキは追いついてきたナギの頭をぽんぽんと叩き、すぐに彼に背を向けて去っていってしまったのである。
「………」
恐るべし弟効果。
一切怒りはせず綺麗にナギをあしらっていったユキに、ナギ本人どころか彼を追いかけた生徒たち、果てにはキッチンルームから様子を窺っていたトモたちまでもが言葉を失った。
さすがは家族のためにと惜しみない努力をしてきただけのことはある。ユキの中に、家族以上に優先するものはないらしい。
「ナギ……固まってどうしたの?」
いつまでも動かないナギを気にしたトモが、きっちりと自分のカレーライスをキープした状態でナギの顔を覗き込む。
そして。
「ひえっ…」
驚いた彼の手からスプーンが落ちた。
「むうううううっ」
そこにあったのは、フグもびっくりの見事な膨れっ面。
(ユキ! 飼い犬の嫉妬に気づけーっ‼)
全員の心の叫びなど届くはずもない。
その時には、ユキの姿などとっくのとうに消えてしまっていたのだから。