3話
そんな馬鹿な、ととっさに否定してしまったのは、あまりにも別人になっていたからだった。
十年という時が経っていると頭ではわかっていても、背の高さや体の厚み、輪郭まで何もかもが違いすぎる。まるで別の生き物のようだ。
あの少年は繊細で庇護欲をかきたててくるようなところがあった。
が、このクロードはそのどちらもなく、引き締まった凜々しい立ち姿で、力強く立派な青年の姿をしている。あの胸をしめつけるような優しげな声もどこにもなく、体の内側に響いてくるような低い美声だ。
――しかしよく見れば明るい麦色の髪や、澄んだ新緑色の双眸はあのときの少年と一緒だといえなくもない。
いや、言われてみれば納得できてしまうかもしれない。
あの少年が、これほど大きく、立派になったのだとしたら。
(わ、わああああ……!)
まったく予想外の再会だった。感動とそれ以外のものがまじった複雑な感情で胸がいっぱいになる。
かなうなら、諸手を挙げて歓迎し、懇ろな言葉をかけたい。
だがそうはできないのがひどくもどかしく、心苦しかった。
クロードの目がおずおずとメディを見た。
「もしやあの狼は、あなたの飼っているものだったりするのだろうか?」
「い、いえ!!」
メディはとっさに否定した。
――あの狼が自分であるなどとは決して知られてはならない。関係がないと突っぱねるしかない。
クロードはさして不審を抱いた様子もなく、首肯した。
「そうか。狼は決して人に飼い慣らせないと聞くが……」
そう言って、緑の目がじっとメディに見据えられた。
「……それならば、なぜあの狼はここに私を連れてきたのだろうか。どうも慣れているようであった。あなたは、いつからここにお住まいに?」
――ぎくっ、とメディは身を強ばらせた。
どくどくと鼓動が乱れはじめ、冷や汗が出そうになる。
「ちょ、ちょっと私にはわからないんですけども。あなたが助けられたということなら、その、なにか人間に良さそうな寝床だと思ったんじゃないですかね。狼という生き物は賢いといいますし。私は、前からここに住んでますが、たまに外に出てしばらく留守にすることもありますので……」
メディは早口に弁解した。とっさに口をついた嘘にしては、なんとかそれらしく聞こえる。
そうか、とクロードは納得と疑問とが等分にまじったような声色だった。
「確かに狼は賢いからな」
なぜかそこだけ、しみじみと、妙に力強くうなずいた。
「え、ええと! あなたは、どうしてその、地獄の番犬みたいな狼を探しているんですか?」
やや強引に話の矛先を逸らすと、しかしクロードは訝しくは思わなかったらしく、ああ、と低くよく響く声で言った。
そしてなぜか、少し照れたように目を伏せた。
「……彼女に会いたくて。叶うなら共に暮らしたいと思っているんだ」
――彼女。会いたい。共に暮らす。
メディは目を白黒させた。
(んんんん!?)
わけがわからない。しかし彼女とは。
内心でどぎまぎしながらも必死に平静を装い、なんとか問うた。
「そ、その、狼っておん……雌なんですか? 地獄の番犬みたいに大きいなら、雄なのではないですか?」
「――いや、彼女のあのきらめく瞳、私に優しくすりつけてきた頭や鼻、私を護ろうとしてくれた慈悲深さ、母性……きっと女性だと思う」
青年は力強く断定し、その目に熱がこもる。
メディは怯んだ。――クロードの口調は、まるで人間の女性を語っているかのような。
(も、もしかしてばれて……いやそんなはずは!)
肝が冷えるような思いで、青年をうかがう。
クロードはますます力をこめて続けた。
「私はずっと彼女を忘れられなかった。彼女は強く気高く、温かで……」
メディはむせそうになった。
「慈悲深く、強靭で凜々しく、まさに理想とすべき存在だった。私は彼女にまともに返礼もしないまま、今日このときまで来てしまって」
(お、お礼なんていいです十分です……!!)
メディはだらだらと冷や汗をかいた。甚だしく美化され、何か大いに誤解されてしまっている。
自分は、クロードのいうほど素晴らしい狼では断じてないのだ。
いたたまれなさに逃げ出したくなっていると、クロードがおずおずとこちらを見た。
「……そういうわけで私は彼女を探しているのだが、あなたはこの森で彼女を見かけなかっただろうか? 黒く大きな、美しい毛並みの雌狼を」
「み、見てないです! 全然、見てないです!」
――なんせ彼の目の前にいる人間がそうなのだから。
メディは目を泳がせた。
「その、あなたはその狼を飼いたいんですか? でも、狼は飼い慣らせない……とか聞きますし、人と離れて自然に暮らさせたほうがいいかと……」
「飼うなどと! 私は彼女と一緒に暮らしたいだけだ!!」
勢いよく反論され、メディは怯んだ。その様子を見てか、クロード青年がはっとしたように目を伏せた。
「その……、もう一度会いたいんだ。彼女をずっと忘れられなくて……」
はにかんだような口調。青年の目元がほのかに赤くなる。
(う……!)
メディは思わず胸がきゅんと締め付けられるのを感じた。
――ずっと忘れられなかった。
そんなふうに言われれば平静ではいられない。自分も、しばしばあの日のことを思い出していたのだ。
うっかり喉元まで、私も、という言葉がこみあげた。再会できて嬉しい、立派になった、と彼に言いたかった。
――が。
(ま、待て待て待て……クロード少年は、狼の正体を知らない、わけであるから……)
つまり“ただの狼”なわけだが、クロード青年はまるで貴婦人に憧れる若き騎士のような様子である。それはなにかおかしい気もする。
少し頭の冷えたメディとは裏腹に、クロードは思い出の中の狼を見ているのか、虚空に視線を遊ばせて言った。
「彼女のあの、すばらしい毛並み……いまでも忘れられない。天国のような手触りで……」
うっとりと語る声。
メディはまたもぎくりとした。
――クロード少年が、この毛並みを気に入っていたことをいま思い出した。
『ふわふわで温かい……なんて気持ちがいいんだろう。ずっと触っていたいよ』
ぎゅっと首に抱きつき、顔をうずめられたことを思い出す。その状態になると、クロード少年はしばらく動かなかったのだ。
甘えん坊でかわいいなあ、なんて思っていたのだが――。
成長したクロード青年は、恍惚とした表情で言った。
「もう一度、もう一度だけでいい、あの美しい毛並みにこの手を触れさせられたら……!」
(か、体目当てっ!?)
メディは露骨にたじろいだ。
――正直、毛並みは自慢ではある。褒められるのは嬉しい。が、こんな形で他人を魅了してしまうとは。しかもあのときの少年だ。
メディがうろたえていることに気づいたのか、クロードははっとしたように現実に意識を戻し、咳払いをした。
それでも、鋭利な頬のあたりがほんのり赤い。
「とにかく、私はしばらくこのあたりを捜したいと思っている。それで、その、図々しい頼みではあるが、狼を捜すのに協力していただけないだろうか。むろん、私にできる範囲で謝礼なども……」
「捜すって……、まさかこの森の中で寝泊まりするつもりですか!?」
メディは焦って思わず言い返した。この森の中には、頻繁ではないが魔物が出る。
いや、とクロードは短く否定した。
「森の外にある村に泊めてもらうことにする」
真面目な調子で言った。
メディはやや安堵したが、それだとだいぶ往復で時間をとられるだろう、とも思った。この森を知らないからであろう、かなりの無謀だ。
だが、そのほうがいいのだろうか。捜索の時間を短縮させられる。クロード青年も疲弊するだろう。疲れて、早く捜索を切り上げてくれるかもしれない。
(……いやな奴ね、私)
頭では自分に都合の良い方向へ向かっているとわかっても、メディはじわりと罪悪感に襲われた。
クロードの捜索は無駄になるとわかっていながら、止めもしない。
「では、もし狼の姿を見かけたり、声を聞いたりしたらぜひ教えてくれ。一日に一度は、ここに立ち寄らせてほしい」
メディはやや怯み、かといって言葉を濁すことしかできず、重くうなずいた。
クロードは踵を返す。とっさにその背に声をかけようとして、メディは口を閉ざした。
去って行く青年の背中には、必ず見つけるという固い意志と気力とが漲っているように見えた。
――彼の探し求めるものは見つかるはずがないのだ。
それがわかっていながら青年を止められない。うまく説明する方法がわからないからだ。
真実を言うわけにはいかない。
彼だけにではない。それが誰であっても、言うわけにはいかなかった。