10話
目は驚きに見開かれたまま、青年の口からなかば呆然とした声がこぼれ落ちる。
メディの全身が凍りつく。
だがすくんだのは一瞬で、即座に身を翻して駆けた。
「待ってくれ!!」
切迫した叫びが背に追いすがる。それを振り払うように、黒狼は全力疾走した。
見られた、見られた、知られてしまった――。
ただその思いがうるさいほど頭の中で鳴っていた。それでも、あれほどおそれていたのにいま胸にあるのは恐怖ではなかった。
苦しい。
これでもう、彼とは会えない。
胸の奥深くを穿たれて息ができなくなるようだった。頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、ひたすら駆けた。
(……遠くへ、行かなくちゃ)
誰かに知られたら、もうそこにはいられない。また逃げるしかない。誰も自分を知らない遠く、どこかへ。
いつかこんな日が来るのではと考えることはあった。だがそれはあまりにも唐突に訪れた。
やがて、親しんだ自分の小屋が見えてきた。もうずっと自分の安寧の地であった場所。
体は慣れた道を戻ってきたらしかった。
一瞬怯む。わざわざ自分の寝床になど戻らず、このまますぐに逃げたほうがいいのではないか。
――だが、それでは本当に身一つで逃げ出すことになってしまう。
メディは急いで小屋に飛び込んだ。鋭敏になった嗅覚にどっと親しんだ匂いが満ち、名状しがたい感情で目の奥が痛んだ。
少しずつためていた路銀、それから最低限の衣類だけでも持っていこうと人の姿に戻ろうとする。
しかし変われなかった。
(どうして!? なんで……っ!?)
焦燥が加速する。ますます動揺した。
落ち着け、と自分に何度も言い聞かせる。心が乱れていては変化の魔法は使えない。これまで、息をするようにたやすく使えていた魔法だ。
なのにいま、はじめて扱うもののように混乱していた。何もわからない。思うように変化できない。
冷静にならなければと頭の隅ではわかっていても、うまく魔法が使えない。
(なんで……っ!!)
悲鳴の代わりに獣のうなりがこぼれ、苛立ちが床を引っかかせる。黒い毛から飛び出た長い爪。腕を包む獣の毛。
逃げなければ。
メディは何も持たぬまま身を翻し、小屋を再び飛び出そうとした。
だが、森と人のまじった独特のにおいがとたんに濃密になり、足音と荒い呼吸の音が聞こえる。
血の気がひいたときには、手荒く扉が開かれた。
「メディ殿!!」
切迫した叫びが、増幅されたメディの聴覚をつんざいた。
息を荒げたクロードが立っていた。全力疾走したのか、興奮で目元が赤い。
砂袋に穴があいてこぼれてゆくように、メディの四肢から熱と力が失われていった。
唯一の出入り口を青年の体が塞いでいる。
「メディ、殿……メディ殿なのだろう?」
呼吸を乱しながらクロードは言い、足を踏み出す。
メディは後じさりする。耳が垂れる。
「待ってくれ。逃げないでくれ……」
クロードの声は熱を帯びていた。
言葉を発せない狼の喉が、くぅん、と脆く声をもらす。
逃げたくても、逃げ場所がない。黒狼の身体能力をもってすればクロードを押しのけることなど容易かったが、万一にも彼を傷つけるかもしれないと思うとできなかった。
クロードは無防備に距離を詰め、メディの目の前に来て手を伸ばした。
「エクラ……、」
顔に向かって伸びてきた手に、メディはぎゅっと目を閉じる。
だが次の瞬間、大きな腕に首を抱きしめられた。
「会いたかった。ずっとずっと、君に会いたかったよ」
メディは震えた。熱く、だが胸をしめつけられるようなせつなさがあった。
こんなに大きく、逞しくなった青年の中に、かつて自分が助けた少年が蘇ったような気がした。
(……私も)
会いたかった、と心の中でつぶやいた。たとえ同じ熱量ではなかったにしても、クロードを忘れたことはない。
言葉の代わりに、きゅううん、とかすれて高い声が喉から漏れる。
ぴくぴくと耳が震え、萎れていた尻尾が揺れた。
「ああ、エクラ……エクラ……」
クロードは狼の首を腕で抱いたまま、頭のあたりに顔をうずめた。
(ひゃっ! く、くすぐったい!)
きゅうきゅう、とメディの喉から高い声があがる。クロードの吐息や、鼻先や唇があたってくすぐったい。
幼い頃のクロードはよくこうして自分を抱きしめたが、いまはまたわけが違う。
しかしメディの焦りとは裏腹に、狼の尻尾は嬉しげにぶんぶん揺れてしまうのだった。
(くすぐったい! やめてー!)
「ああこの毛並み……手触り……」
(ひぁ! 撫でないで! 撫で、な……あうう!)
頭や首、背や胴を優しく撫でられ、長い指で毛を梳かれると、ふにゃふにゃと溶けてしまいそうになる。
人の体では感じることのできなかった快さで四肢から力が抜けていく。
(や、やめ……!)
「可愛い……」
(だ、だめ! いやー!)
メディは必死に抵抗を試み、目で訴えたが、クロードはうっとりした様子で手を動かし続ける。
それどころか更に骨抜きにしようとするかのように熱心に撫で回し、あろうことに首筋に顔をうずめて深々と息を吸ったりということを繰り返した。
散々堪能されてしまい、メディはすっかり狼から飼い犬のようなありさまになってしまった。
奔放にもてあそんで狼から力を奪ったあと、クロードはようやく顔を上げた。熱に浮かされて酔っていたような瞳に、ようやく不安の陰が生じた。
「その……、メディ殿? メディ殿、なのだろう? 話を聞かせてくれ。私はあなたに決して危害を加えないし、その、迷惑をかけるようなことは……しないつもりだ」
(さっ、散々、狼を、弄んでおいて何を言いますかね!!)
息も絶え絶えになったメディは、恨みの目を青年に向けた。
が、この姿のままではいいように撫で回されて、恥ずかしくてたまらないことすら訴えられない。
妙にぐったりした気持ちで、メディはいつも通りに心の中で呪文を唱えた。
(《解除》)
そうしてから、つい先ほど、何度もそうしようとしてまったく戻れなかったことを思い出した。
だが今度は違った。
手足を覆う闇色の毛が瞬く間に薄く短くなってゆく。全身から体毛が急速に薄れ、やがて消える。四肢は細く縮まり、突きだしていた鼻や鋭い牙も瞬く間に縮んでゆく。
「エクラ……っ!?」
クロードが焦ったような声をあげた。
ぷるぷる、とメディは頭を振った。そのとき、いつもの、日に焼けた自分の髪が見えた。ほっとしたのは一瞬で、すぐにクロードと目を合わせる。
「あ……」
メディはとっさにそんな声をもらした。
青年の新緑色の瞳が大きく見開かれていた。瞳が大きく見えるせいか、かつてのクロード少年の顔に重なった。
あのときの少年なのだ、といまさら強く確信する。
――が、そのクロードの顔が急激に赤く染まり、酸欠を起こしたように口がぱくぱくと数度開いた。
それから慌てたようにうつむいてしまう。
(あら?)
メディが意表を突かれていると、クロードは顔を背けたまま、剥ぎ取るようにして外套を脱いだ。そのまま、メディに突き出す。
目を丸くしたあと、ようやくメディは気づいた。
変身を解いたあとは、何一つ身にまとっていない。
「わ、きゃ――!!」