自分で判断すべき事、勝手な判断をしてはいけない事
この物語は、もしも
「科学的な要望より先に政治的な理由で日本が有人宇宙飛行船を運用」
というシチュエーションでのシミュレーション小説です。
2022年頃の各国をモデルにし、組織名もそのままだが、
個人や計画そのものにモデルはあっても、実在のものではない、
あくまでも架空の物語として読んで下さい。
前総理の訓練は断続的に行われている。
同行する宇宙飛行士及び、選ばれないかもしれないがSPも同時に訓練をする。
何故なら、荷物に徹して貰う前総理と、荷物を安全に運ぶ随員は、セットで訓練しないと意味が無いからだ。
これも計画書の作成を面倒臭くさせた理由であった。
さて訓練に当たり、普段は言わないような事を前総理に告げる。
「海で溺れたとします。
ライフセイバーが駆け付けました。
この時、暴れたりライフセイバーにしがみついたりしたら、二次被害が発生します。
この場合の正解は、動かずに為すがままにされる事です。
今回の宇宙飛行において、同じ事が言えます。
最低限の事は教えますが、それでも一番は随員の指示に従って荷物に徹する事です。
訓練時間を長く取れない総理には、それが一番安全と言えます」
正確には前総理なのだが、一々そう呼ぶのも面倒であり「総理」と呼ぶ秋山。
総理は荷物として振舞え、その言に既に訓練計画書を読んでいるSPや飛行士は頷く。
ちょっと不満そうなのが前総理だ。
「だが、随員の方が怪我をして私が無事という事もあるだろう?
その場合は私がイニシアチブを取った方が良いのではないか?」
それは当然だ。
3人もしくは4人乗りとして、荷物として安全に運ばれていた前総理が無事で、他が危機的状況という事も有り得るのだ。
「その時はご自身で判断し、ご自身で動いて貰います。
それを最低限の事と言います。
最低限、ご自身の生命はご自身でお守り下さい」
秋山がそう説明した。
だが、なおも納得していない。
「私が他の者を救助する必要があるだろう?
ならば、私も随員同様の訓練を受けなければならないのではないか?」
秋山は首を横に振る。
「総理は、ご自身の命のみをお考え下さい。
年齢の事もあります。
お伺いしますが、総理は大の大人を抱えてパラシュート降下する腕力と技量はお有りですか?」
今度は前総理が首を横に振る。
「そうでしょう。
我々は以前宇宙に行って貰った老教授にも同じ事を言いました。
本来ならば互助が重要ですが、貴方の場合は二次遭難の危険性があるので、自分だけで逃げて下さい、と」
「私はその先生より若いと思うのですが」
「無重力で数日を過ごすという事をお忘れなく。
短時間ですが、それでも筋力の衰えはカルシウムの流出による骨粗しょう症を起こす可能性があります。
六十代を超えたなら、若い人よりもその危険性を認識して欲しいものです」
これには前総理も黙らざるを得ない。
そんな短時間で起こるか? と言われたら確実にそうだとは言えない。
しかし老人が宇宙に行く事自体ほとんど例が無いのだ。
往復の旅程を含めて5日程の滞在予定だが、それだけの時間があれば身体に異変が起こっても不思議はないだろう、まして筋力も骨密度も衰えた世代であるならば。
訓練内容を納得して貰い、ようやく訓練開始。
まずは船外脱出や空気漏れを想定した、船外着の着用からである。
前総理は、ここで何となく秋山たちの言っている事が分かった。
まずは自力で着用する。
この服は、着易さを考えて作られてはいない。
気密性を高めているし、多少のデブリにも耐えうる強度を持っている。
この服の上下を着用し、手袋と靴を装着し、最後にヘルメットをかぶる。
これを短時間の内に行う。
着慣れないと、もたもたしてしまい、空気漏れの場合は窒息するであろう時間まで掛かってしまう。
これでも宇宙服は大分着易くなった。
以前はワンピースであり、着ぐるみを着用するようにして中に入り込んだ。
上下セパレートになっているだけで、大分着用し易い。
これが手伝って貰えると、大分時間短縮となる。
その際、指示に従って「手袋持っていて下さい」「生命維持装置付けるので後ろ向いて下さい」と動くと、お互いにスピーディーになる。
この辺は指示に従った上で、相互支援となるだろう。
着用後は
「空気が漏れていないか、二酸化炭素が籠って苦しくなって来ないか、それは自分で確認して自分で行動して下さい。
自分の事が分かるのは、自分だけなのですから」
と言って、自分の生命維持装置の機能チェックを教える。
2系統の酸素ボンベや、内部の空気の排出する弁の開放などを行って貰う。
片方の酸素ボンベが壊れた場合、しかも自動で切り替わらなかった場合、自力でもう片方から酸素を送るようにする。
酸素が供給されている状態で、二酸化炭素の濃度が上がり続けた場合、服内の空気を宇宙に逃がす。
酸素は供給され続けているので、急激な減圧にはならず、その圧によって濁った空気を外に押し出す。
開けっ放しだと、酸素があっという間に無くなるので、数秒以内で弁は閉鎖される。
だが、これでもまだ二酸化炭素中毒の症状が残っているかもしれない。
その場合、自分で判断してもう一回開ける。
こうした船外着の扱い方を教えた上で、今度は訓練用の部屋を使って脱出訓練だ。
前総理はハッチの開放に挑戦する。
結構な力が必要だ。
それに先立ち、邪魔な椅子なんかを外す必要もあった。
最低限の訓練なので、出来るまでやって貰う。
その上で、若く力があってすぐにハッチ開放が出来る者の指示に従い、開いたらすぐに脱出する方が、他の飛行士の迷惑にもならないと知れる。
前総理は、頭では分かっていた事を、訓練で実際に体験してみてようやく実感した。
訓練不十分のものが出しゃばると、邪魔でしかなく、他の人にも迷惑をかけてしまう。
正しくプロの指示に従うのも、立派な行動であるのだ。
今回の訓練はここまで。
前総理は秋山に
「いやはや、始まったばかりなのに恐れ入ったよ。
宇宙飛行士たちはこの訓練をクリアしているんだよね。
大したものだ」
と語り掛けた。
実際に宇宙船を操縦しないミッションスペシャリストでも、所定時間内に船外着を着用し、さっさとハッチを開けて船外に飛び出す訓練を修了している。
この際に手際が悪過ぎて資格無しと判断される者だっているのだ。
(総理もそう思って辞退してくれれば楽なのに……)
だが前総理は秋山の密かな思いとはまるで逆であった。
「これは、中々やりがいがあるねえ。
私ももっと体力とかつけないといかんなあ」
諦める気はさらさら無かった。




