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翌日の黒菜は、明らかに精彩を欠いていた。
伊達への嫌がらせは、教科書の文字が読めなくなる、言葉が出にくくなる、橋が持てなくなる、など、昨日の魔法と似たようなものを選んだ。
しかも、伊達を心配した教師は、彼女を指名しなくなったため、伊達は一人、うろたえるだけで、みんなの前で恥をかくことはなかった。特に、橋が持てなくなる魔法などは、マホーンに『橋が持てなくなる』と入力してしまい、橋を持つ機会などあるわけないため、全く効果が現れなかった。
黒菜はそれでも「まあいいか」と、魔法をかけ直さなかった。
昼休みに伊達がトイレに行くときも、何か特別な嫌がらせをしようと、マホーンを取り出すが、何も思いつかず、マホーンをただ見つめ、ため息をつき、昼休みが終わるのを待つのだった。
「黒菜、伊達に同情してるのか?」
「え? そんなことないよ……ちょっとネタ切れしてるだけ」
「別に、前やった魔法をかければいいだけじゃないか。弁当が虫に見えるとか、トイレに襲われるとか。なんなら、う○こに襲われるとかでもいいんじゃないか?」
「いや、それは流石に見たくない……いや、う○こが走るところをだよ?」
黒菜はある程度言い訳をすると、観念したのか、白状した。
「まあ、確かに、昨日の伊達には同情したよ? 親に会えないって、結構辛いし。でも、それといじめは別の話じゃん?」
「そうだな。だったら、伊達に思いっきり嫌がらせをしてやればいいじゃないか!」
「そうなんだけど……」
黒菜は昔、いじめをする人間の心理が書かれた本を読んだことがあった。
人間は、自分に自信がない人ほど、他人を傷つけるものらしい。自分に自信がないから、他人を落とす事によって、自分の位置を高くするのだ。
確かに、自分のことを心底愛している人は、他人を傷つける必要はない。
世の中の暴力、暴言、戦争、自傷、自殺、言ったらきりがないが、人間のマイナス面の行動はほとんどが、いや、すべてと言っていいほど、自分への愛が足りないから起こることなのだ。
伊達の場合、親が自分をかまってくれない事で、自分にかまってもらう価値がないと思い込んでしまっているのかもしれない。
環境にも原因があるのだ。だからといっていじめが許されるわけではない。
(伊達が親に会えないくらいで私をいじめていいなら、私は世界を滅ぼしても許されるほど、苦しんだんだ)
黒菜はそう自分に言い聞かせた。そして、思い出したくもないのに、いじめられた記憶を無理やり脳内再生した。昨日の記憶を、伊達への憎しみで埋めるために。
脳は、いじめの詳細を思い出すことを拒否したが、感情だけは別だった。苦しみ、悲しみ、怒り、言葉では表せないような感情が黒菜を襲った。その感情は黒菜の内臓を燃やし、腐らせ、やがて本当の痛みを感じさせた。小指の爪と指の間に、針を刺された痛みだ。
突如、黒菜の脳に、場面が浮かんだ。場所は旧校舎のトイレ、横井がその体重で、黒菜を床に押さえつけ、那由子が黒菜の小指を、思い切り握りしめている。神崎はそれを笑いながら見ていた。
そして、那由子は、握りしめた黒菜の、指と爪の間に、針を刺し込んだ。
刺されているのは小指だと言うのに、その痛みは全身を引き裂かれるような痛みだった。黒菜は人間のものとは思えない叫び声を上げ、必死にもがいていた。三人はそれを見て、大笑いしている。
那由子は針を抜き、標的を薬指に移した。
黒菜は衝動的に立ち上がり、ゴエモンが呼び止めるのも聞かず、トイレに走った。一部の生徒が驚いていたが、黒菜だということを確認すると、興味なさそうに会話に戻るのだった。
黒菜はトイレに駆け込み、さっき食べたおにぎり(直径一二センチ)を吐き戻した。
「おい、大丈夫か?」とゴエモンが心配するが、聞こえていないようだ。
黒菜は、便器に顔を突っ込みながら、フラッシュバックを食らっていた。
那由子に薬指を抑えられた時、トイレに伊達が入ってきた。伊達の手には、ピンク色のポーチが握られている。
「悲鳴が外まで漏れていますわよ」伊達は三人にそう言い、那由子に手を差し出した。「針を渡せ」という意味だ。
伊達は、受け取った針を、水道で洗いながら言う。
「全く、三人とも、女性らしさのカケラもありませんわ。それじゃ、男性の考える単純な拷問です」
「え? じゃあ、どうやって……」横井が言う。
「いじめに女性らしさって……」神崎が誰にも聞こえないようにつぶやく。
「なら、手本を見せてよ伊達さん」那由子が笑顔を向ける。
伊達は針をハンカチで拭き、那由子に返した。那由子はそれを裁縫セット(百均)、にしまいポケットに入れた。
伊達はポーチからカミソリを取り出すと、黒菜に立てと命令した。黒菜がのろのろと立つのを笑顔で待ち、横井に羽交い締めさせ「動いたら、切れますわよ……」と一言。
伊達は黒菜の髪を、根本からしっかり掴み、頭を固定した。そして、目の上にカミソリをあてがった。黒菜は泣きながら、それを受け入れ、ジョリジョリと眉が剃られていく音を聞いていた。
黒菜は便器から顔を上げた。手洗い場に行こうと、トイレのドアを開けた。その足取りは、頭に重りを載せているようにふらふらしている。
「おい、黒菜。大丈夫か?」
「……大丈夫」
黒菜は目の焦点が合っていない。そのまま、手洗い場で、顔を洗い始めた。
顔を洗った黒菜は、やっと正気を取り戻したように、大きく息を吐き、ハンカチで顔をポンポンと拭った。鏡を見ながら、眉のなくなった自分を思い出した。
化粧のために、眉を全剃りする人もいるが、その時の黒菜は化粧道具など持っていなかったため、数日間は眉無しで過ごすことになった。
周りの女子が「アイブロウとか使えばいいのに、バカだよねー」と言っているのを聞き、アイブロウとは何かを調べた。その調べている途中で、つけ眉毛というのを知り、一ヶ月ぐらいそれでしのいだのだ(つけ眉毛はいじめの最中に取られる可能性があったため、学校に複数用意していた)。
もしかしたら、伊達はあの時自分を助けようとしたのだろうか? それとも、自分で言うように、暴力に品がないと思っているのか? 現に、伊達が考えるいじめは、精神をつくようなものが多い。
だからなんなのだろう?
黒菜は、自分が伊達を許す理由を探していることに気づいた。そして、鏡に映る自分を心底憎く思った。
伊達は私をいじめたんだ。事実はそれだけだ。復讐するべきなんだ。黒菜はその言葉を、心の中でなんども繰り返した。そして、勢いよくトイレを抜け出し、早歩きで教室に戻った。
しかし、黒菜はどうしても気の利いた魔法が思いつかなかった。もう、どうでもいいから、伊達の心臓を止めてしまおうかとも考えた。もちろん、そのような命に関わる魔法は使えない。五時限目が始まっても、魔法は思いつかず、黒菜は苛立っていた。
「黒菜。おい黒菜」
ゴエモンが、授業を全く聞かず上の空の黒菜に声をかけた。
「何?」黒菜は授業中だと言うことを思い出し、黒板に目を向けながら、返事をした。
「いじめの復讐に取り憑かれるな。時間はあるんだから、授業をまじめに受けろ。わざわざ、伊達の誕生日までに決着をつけるとか、制限をかけることはない」
「あ、そうだね……」
「それに、復讐が嫌なら辞めてもいいんだぜ?」
「嫌じゃないよ」
「お前はまじめすぎるんだよ。いじめは悪いことだ。悪いことをしたら、罰を受けなくてはいけない。だから自分が罰を与える。そこに囚われているんだよ」
黒菜は黙って聞いていた。黒板を指差す教師の言葉は全く頭に入ってこない。ゴエモンは続ける。
「いじめの復讐は義務じゃない。復讐によって、お前が苦しむならやらなくていいんだ。魔法で旅行に行くのも楽しいぜ。空も飛べるしな」
「でも、仕返ししなきゃ、気が済まないもん……」黒菜は消え入るような声で言った。
「お前はなんだかんだ言って優しいからな。相手の家族が悲しむのを見ていられないんだもんな。
いいか? 魔法はお前のためにあるんだ。お前が苦しむためにあるんじゃない。どうしても伊達に復讐したいなら、自分が伊達をどうできたら、幸せになれるか、しっかり考えろ」
「どうしたら……幸せになれるか?」黒菜は無意識のまま呟いた。
「お前がだぞ?」ゴエモンが補足した。
「とりあえず今日は……やめとこうかな……」黒菜は窓の外を見た。青空を鳥が飛んでいた。「飛べるって言ったよね?」
放課後、黒菜は伊達の事を忘れ、一つの事に集中した。
空を飛んで家に帰るという事である。
放課後、黒菜は荷物を自宅に転送し、屋上に向かった(鍵は魔法で開けた)。全て事前に考えておいた行動のため、迷いはなかった。
屋上に来ると、誰もいないことを確認するため、あたりを見回した。誰もいない。それを象徴するかのように、一つの机が、金網にぴったりくっつけられている。黒菜が自殺する時に、足場にした席だった。
「うわ……まだここにあったんだ……」
「あれから、誰もここに来ていないって事だな」
黒菜はため息を一つつき、その席を塔屋の中に戻した。そして、魔法を使い、塔屋の鍵を閉めた。再度、屋上に戻り、ポケットからマホーンを取り出した。
「よーし、飛ぶぞー」
「空を飛ぶ魔法は、ダウンロードしなきゃ使えないぜ」
「わかった」
黒菜が『飛行魔法』をダウンロードし、それをタップすると、『飛行中の姿のカスタマイズ』という項目が出現した。
「ん? なにこれ?」
「ああ、これはだな、飛んでる姿を人に見られないようにする魔法も、セットで使えるって事だ。黒菜がそのままの姿で空飛んでたら、ニュースになっちまうだろ? 有名人になりたきゃ話しは別だが」
「なるほどね。へぇー……透明にもなれるんだ」黒菜は、カスタマイズの種類を、色々見て楽しんだ。
「スタンダードなのは、その透明になるやつと、鳥の姿、あと、UFOもおすすめだ。翌日に、何も知らない奴らが騒ぐ姿は滑稽だぜ」とゴエモンは笑う。
「あ、なにこれ、コスプレもあるじゃん!」
「ああ、ド○ゴンボールのコスプレで飛んだりできるぜ。顔はそのままだから気をつけろ」
「面白いねぇ……」黒菜はそう言いながら、変身のバリエーションを見ていった。「スカイフィッシュとかもあるんだ……」黒菜は笑っている。
黒菜は、項目を見るだけでも楽しかった。実際に変身できるのだから、当然だろう。ほとんどのバリエーションを見たあと、黒菜は「よし!」と言った。なにに変身するか決めたようだ。
「私、ドクロ御前に変身しよ!」
「ああ、あの漫画のキャラクターの?」
「そう、ちょうど顔も隠せるしね!」
黒菜は、自分が大好きな漫画のキャラクターにコスプレする事に決めた。というより、一度変身してみて、クオリティが高かったら、そのまま飛んで行こうという算段だ。自分に似合わないと判断したら、透明人間になろうと思っていた。
黒菜がマホーンをタップすると、足元が光り出した。その光は、黒菜の足先から、体を這うように上がっていき、光が体を包み込んだ。やがて全身が包み込まれると、そのシルエットが変わり、光が弾けると、黒菜の姿は変わっていた。
黒い和装束。袖、襟など、服の至るところに紫色の装飾がなされており、黒い手袋に、黒いブーツ。顔には、目だけを隠す、ドクロを模した仮面。髪型はポニーテールで、結び目には、ドクロをかたどった髪飾り。
『ドクロ御前』はちょうどよく、仮面をつけている設定だった。和服なので、スタイルも隠せるし、身分を隠して飛ぶのには、最適なコスプレである。
「どう、ゴエモン? 私ってわかる?」黒菜はその場で一回転した。
「わからんぜ。マホーンで自分の姿を確認できるから、見てみろ」
黒菜がマホーンを覗き込むと、今の自分の姿が、3D投影されていた。3D投影された自分をタッチすると、自分があらゆる方向にくるくると回転した。下からも見えそうだ。
「なにこれ、クオリティ高っ!」
「そりゃそうだ。お前のイメージと、作品の設定をバランスよく配合しているからな」
「うーん、ちょっと、ドクロ御前よりチビに見えるけど、しょうがないか……」
「チビに見えるじゃなくて、チビなんだよ。ドクロ御前は一六八センチあるんだろ? お前は何ミリだっけ?」黒菜は一四八〇ミリだ。
「身長は変えられないの?」
「身長まで変える魔法は別料金だ。そこまでしたいか?」
「いや、いいや。それより早く飛びたい」自殺という意味ではない。
「じゃあ、イメージしてみろ」
「自分が飛んでるイメージ?」
「ああ、飯食ってるイメージでは、空は飛べないぜ」
黒菜はイメージしようとした。しかし、はっきりとイメージする前に、体は屋上から三〇センチほど浮かんでいた。
「あれ、もう浮かんでるよ!」黒菜は自分の足をみて、地面の感触がない事を確認するかのように、足先を動かした。
「お前の脳が自覚する前に、魔法は命令を受けとるからな。慣れれば、考えなくても自由自在に飛べるようになるぜ」
黒菜は地面に降り、浮かぶ事を繰り返した。自分のイメージと、実際の動きを確かめているようだ。
「ふんふん。こんな感じか……」
「うまいうまい」ゴエモンは拍手している。ポンポンと音がなった。
そこでいきなり、塔屋のドアが開き、教師が屋上に現れた。便器男を背負い投げしたあの教師だ。
「屋上で金網を登っている生徒がいるという通報があったんだが……君かな?」教師は戒めるような声を出しながら、歩み寄ってきた。右手に持った屋上の鍵を、ジャラジャラと鳴らしている。
黒菜とゴエモンは顔を見合わせた。
黒菜が自殺を試みた時とは違い、今はまだ空が明るかった。人通りもそれなりにある。通行人に発見されたのだろう。金網を登ったというのは見間違いだと思った。
「その格好はなんだ? うちの生徒か?」
なおも近づいてくる教師に、黒菜は笑顔を向けた。そして言った。
「行くよ、ゴエモン」
「え? ゴエ……?」教師は首を傾げた。
黒菜はそう言い、体を勢いよく沈み込ませ、思いっきりジャンプ! その勢いは衰えることなく加速し、雲の中に消えた。ゴエモンはそれについていった。
教師は黒菜のジャンプを見上げ、呆然と口を開けた。しばらく経つと、右手に持った鍵が音を立てて落ちた。教師はその音で正気を取り戻し、やっと口を閉じた。黒菜が飛んで行った空を見ながらしゃがみ、地面に落ちた鍵を手で探った。
「陸上部に入ればいいのに……」教師はつぶやいた。
学校が小さくなっていき、周辺の街並みが黒菜の視界に収まった。世界で一番リアルな地図だ。黒菜はそれを見下ろし、手を前に出した。
「すごい、街が私の手の中に収まっちゃう。握り潰せそう!」黒菜は手を前に出し、手を開いたり閉じたりした。
「どうだ。味気の無いテレポートとはまた違うだろ?」
「すっごい!」黒菜は感動のあまり語彙力が低下していた。
黒菜は一気に上昇し、雲の上まできた。空中で静止し、全方位を見回す。
空は青黒くなり、雲でできた地平線が目の前にに広がる。太陽を遮るものは何もなく、その輝きを、黒菜は独り占めした気分になった。
「これ、宇宙まで行けるのかな?」
「いいや、大気圏内までだ。それ以上は別料金な上に、未成年は禁止。そして、ちょっと難しい契約書をかく必要がある」
「あーん、まあいいや!」
黒菜はそう言うと、一気に加速し、雲海の上を飛んだ。心地よい風が黒菜の髪をなびかせ、雲が後方に勢いよく滑っていく。黒菜はどんどんスピードを上げ、雲の中に飛び込んだ。
地上を見下ろすと、自分の住んでる町がまるごと見渡せた。視界に収まりきらない、大きな地図だ。
その地図を見て、自分が飛んでいる方向を認識した。今は北に飛んでいる。
「ねえゴエモン! 飛ぶのって制限時間あるの?」
「今の契約ならないぜ。スピードもマッハ5まで出る!」ゴエモンが風の音に負けじと大声を出す。「ここから沖縄なら、最高速度を出せば、往復で30分かかるかかからないかだ!」
「沖縄? しかも往復30分?」
「急げばな!」
「行ってみよう!」
黒菜は南に方向を変え、加速した。高度を徐々に下げる。すると、さっきまでおとなしかったビルや街並みが、恐ろしく早く後方に吹っ飛んでいった。黒菜は改めて、ものすごいスピードが出ていることを自覚した。
線路に沿って飛行を続ける。その線路の進行方向には新幹線だ。
「あ、新幹線だ」黒菜がそう行っている間に、黒菜は新幹線を追い越していた。はるか後方の新幹線に視線を向けながら「速! もう新幹線が点に!」と驚いた。
目の前にトンネルが迫った。黒菜は悪い企みを思い付き、ニヤリと笑った。スピードを落とし、新幹線が追いつくのを待った。
黒菜は新幹線とともにトンネルへ入った。新幹線に速度を合わせながら、中を確認していく。すると、席を向かい合わせ、楽しそうに話している若い男女四人組を発見した。
おあつらえむきに、彼らは自撮りをしようとしているようだ。通路側の男が、思い切り腕を伸ばし、スマホを通路側に出している。画面を見ながら、四人全員が入るように調整し……
「ハイチーズ!」カシャ
その瞬間、黒菜は新幹線の窓に、勢いよく張り付いた。バンッと音がなり、四人が振り返る。ドクロの仮面をかぶった少女が、外にいるのだ。四人は悲鳴をあげた。スマホを持っていた男は、スマホを落とした。
トンネルを抜けた瞬間、光にかき消されるように黒菜は消えた。若者たちは、のけぞりながら、窓の外を見ていた。
黒菜は大笑いしながら、空へ舞い上がった。くるくるときりもみ回転しながら笑う黒菜は、心の底から楽しそうだった。ゴエモンはそれを見て、満足そうに笑っている。
「写ったかな?」
「ああ、写ったと思うぜ。あいつら、ツイッターとかにあげるかねぇ?」
「ふふふ、見てみたーい。そうだ、ツイッターで見る確率を上げるために、もっといたずらしようか?」
「お気に召すまま」
黒菜はその後、とりあえず高い建物を標的にした。東京タワーの展望台の窓に張り付いて、人を驚かしたり、ビルの窓拭き清掃を手伝ったり、飛行機の窓から中をのぞいたりした(また驚かせた)。
黒菜は一時間ほど飛び回っていた。東京の街並みを目にしたら、沖縄にいこうとしていたことなんて、すっかり忘れてしまったのだ。
せっかく東京に来たのだからと、黒菜は、地元には無いドーナツ屋へ行き、ドーナツを二、三個買った。
買ったドーナツを持ち歩いていると、ドクロ御前ファンの人に話しかけられた。黒菜は、自分がドクロ御前の格好をしていることをここで思い出し、一緒に写真をとった。
人気の無い路地裏に行くと、ドーナツを大事そうに抱え、また飛び上がり、スカイツリーに向かった。高いところで町を見下ろしながらドーナツを食べようという魂胆だ。ビルがどんどん自分の視界を下がっていくのを見るのは爽快だった。
「あ、スカイツリーの上に人がいるね……」スカイツリーを見下ろしながら、黒菜は言った。
「ああ、スカイツリーは普通にてっぺんに行ける作りらしいな」
「じゃあ、東京タワーにしよう」
黒菜はそう言うと、身を翻し、東京タワーに向かった。空は暗くなり始めていた。
東京タワーの先端は、以外に狭かったが、黒菜が座ることは出来た。四角い足場が手すりで囲まれており、その中心に、理解不能な筒状の機械が取り付けられていた。黒菜はその機械を背もたれにし、手すりの下から足を出した。
膝の上にドーナツの箱を置き、それを開けると、嬉しそうに笑った。
「いい香りー」
「甘ったるい香りだぜ」ゴエモンは黒菜の頭の上に乗っている。
黒菜は手袋を脱ぎ、仮面も取った。それを脇に置き、ドーナツを取り出した。砂糖でコーティングされただけの、シンプルなふわふわのドーナツだ。
ドーナツの香りを嗅ぎながら、黒菜は東京タワーからの眺めを堪能した。
都会のゴチャゴチャした街並みも、高いところから見れば、一枚の絵だ。そんな一枚の絵を眺めながら黒菜はドーナツをかじった。
砂糖と生地が口の中でとろけ、交わりあった。
「うわ、美味しい……」
「この風景を見ながらだと、格別だろう?」ゴエモンが黒菜の頭の上で仁王立ちをし、遠くを見ている。
「この風景の中に、何十万人も人がいるなんて想像しきれないね」黒菜はドーナツを咀嚼しながら言った。
「そんなもんさ、人間なんて自分の周りの事しか認識できないからな」
ゴエモンは黒菜の食べかけのドーナツに手を伸ばした。本当に伸びた。いつもは五センチしかないゴエモンの腕が、二十センチくらいに伸びた。黒菜が持っていたドーナツは一口分だけむしり取られた。しかし、黒菜は文句を言わない。
薄暗くなった東京の町に、ポツポツと明かりがつき始め、町が闇に染まった頃には、見えるのは明かりだけになった。
黒菜はゆっくりとドーナツを味わいながら、その光景を見ていた。小さな光が一直線に並んでいる。道路が渋滞しているのだ。
「イラついてるだろうなぁ……」黒菜はクククと笑う。
「あの渋滞か? だろうなぁ……」
黒菜はドーナツを食べ終わると、その箱を綺麗に折りたたみ、手袋と、仮面をつけ直した。そして、立ち上がり、大きく体をのけぞり、息を吸った。
「うおぉぉぉぉーー! バカヤローーーー‼︎」黒菜は叫んだ。その声はゴエモンだけに届いた。
「誰に言ってんだ?」
「いや、なんとなく……伊達とか? 自分とか?」
「自分?」
「いや、なんか……楽しかったからさ……ほら、魔法がなくても、スカイツリーのてっぺんには行けたわけじゃん? 学校なんて行ってないで、スカイツリーのてっぺんに行ってりゃよかったと思ったんだ。
「いじめられてる時にか?」
「そ、そんな感じ……。うまく言えないけど……」
「ははは、言葉にできなくてもいいさ。言葉より体験だ」ゴエモンは軽く流した。しかし、今の黒菜には、それが心地よかった。
「よーし、ゴエモン! 帰ろう」
「テレポートは?」
「使わない。飛んで帰る!」
黒菜は「ドーナツの箱を家のゴミ箱に転送」と叫んだ。するとドーナツの箱は消えた。それを確認した黒菜は飛び上がった。
上昇するにつれ、東京は地上の星と化していった。黒菜はそれを見下ろしながら、言った。
「私、いじめの決着つけるよ」
「ん? どうした?」
「だって、伊達への復讐より楽しい事たくさんありそうなんだもん。もう伊達に構ってる時間がもったいないよ!」
「ははは、そうだな!」ゴエモンは黒菜に聞こえるように大声で笑った。黒菜もそれにつられ、ゴエモンに笑顔をむけた。
黒菜は自宅へ向かいながら、伊達への復讐より、これからどう魔法を使って遊ぶかを、ゴエモンと話し合った。自分が味わったことのない体験が、しかも楽しい体験が、この世にまだまだあることを知った黒菜は、まるで生まれ変わったかのように感じていた。
自宅に着いた時には、それなりに心が落ち着き、黒菜は自分が疲れている事に気付いた。コスプレの魔法を解き、制服姿に戻った黒菜は、背伸びをした後、鍵を取り出そうと、カバンの中を見ようとした。
「あ、カバン家の中だった」飛ぶ前に転送した荷物である。
「じゃあ魔法であけようぜ」
黒菜は魔法で家の鍵を開けると(音声入力)、真っ暗な家の中に入った。
誰もいない家を見て、黒菜は母親のことを思い出し、少し気分が落ち込んだが、今日の、夢のようなひと時を帳消しにするほどではなかった。なにせ、会おうと思えば、いつでも会える事に気付いたのだから。
黒菜は、伊達への復讐に決着をつけたら、母の仕事場に乱入することも、視野に入れる事にした。
風呂に入り、パジャマに着替えた黒菜は、いつもとは違う試みをした。
今までは、伊達を観察していたのだが、今回の復讐には、伊達の両親を利用したかった。いじめをする人間というのは、家庭環境に問題がある場合が多いと本で読んだ。伊達の家庭環境は、いいとは言えない。つまり、両親にも責任を取ってもらう必要があると判断したのだ。
黒菜はベッドに寝転がりながら、伊達の両親をマホーンで検索した。すると、マップが表示され、伊達の両親の居場所にピンが刺さった。伊達の両親はオーストラリアにいるらしい。
黒菜は伊達の両親の遠隔撮影をした。マホーンに伊達の父親の姿が映し出される。
伊達の父親(以下、伊達父)は、ホテルで仕事中のようだった。ホテルの部屋は、スイートとはいかないまでも、かなり広く、黒を基調にした落ち着いたデザインだった。書斎とベッドルームが分かれていて、ガラス張りの窓から、街並みを見下ろせた。
伊達父は書斎でノートパソコンを睨んでいる。そこに、伊達の母親(以下、伊達母)がやってきて、缶コーラを伊達父の睨むパソコンのとなりに置いた。
「この二人が伊達の両親かぁ……」黒菜は起き上がり、マホーンを覗きながら、机に座った。
ゴエモンはベッドにひじまくらで寝ながら「ベッドシーンになったら呼んでくれ」と言った。
「呼ぶか! って言うかそんなシーンになったら見るのやめるから!」黒菜はそう言いながらも、少しだけそのシーンを想像してしまい、気分が悪くなった。
伊達父は、白髪混じりの髪をオールバックにしており、口ひげを蓄えている。中肉中背で、いかにも紳士という見た目だ。身長は一八〇近くある。
伊達母は、金髪のハーフっぽい女性だった。髪は肩まで伸ばしており、その髪はヨレヨレのクセがついていた。日頃から、髪を縛っていることが分かる。こちらも、身長が一七〇近く、女性にしては長身だった。
「伊達の身長は、両親からの遺伝なんだぁ……」黒菜はなんとなしにつぶやいた。
「金髪は母親からの遺伝っぽいな。染めてるのかと思ってたぜ」
いつの間にかとなりにいたゴエモンに、黒菜は少し驚き、二度見した。しかし、すぐマホーンに視線を戻した。
「せめて、スーツは脱いだら?」伊達母が言う。自分はホテルのバスローブに着替えており、手には缶コーラを持っている。
「そうだな、裸で仕事をするのも面白そうだ」伊達父はそう言いながらジャケットを脱いだ。
「どんなに急いでも、麻紀の誕生日には間に合わないでしょ? 息抜きをしなさい……」伊達母はコーラを飲み、ゲップをした。「こんな風に」
伊達父はそれを聞くと、笑みを浮かべ、ノートパソコンを閉じた。そして、伊達母が置いたコーラを手に取り、プシュッと音を立て、開けた。そして、コーラを一口飲むと、遠慮がちに下手なゲップをした。
「出来るだけ早く日本に帰りたくて……麻紀の誕生日に帰れないことが、ここ数年続いてるから」
「早く仕事をすれば、その分仕事が増えるだけでしょ? 消化を早くする分、お腹が減るのと同じよ。いつもそれで帰れなくなるんだから、急ぐのは無駄」
「そうは言ってもね……今回のトラブルに対処できたのは、前倒しで処理してたからなんだよ?」
「麻紀のための前倒しでしょ?」
伊達父は言葉が出なかった。なにかを考え込みながら、コーラを口に含み、ため息をついた。
「その……休みたいのは山々なんだけどさ、みんながみんな、僕を頼ってくるから……」
「いるから頼るのよ? いなけりゃ自分でなんとかするわ。部下を信じてあげなさいよ」
伊達父は「うーん」と唸りながら、考え込んでいる。
「今回はもう、先方に行くって言っちゃったから、しょうがないとして、その後の仕事はちゃんと予定を考えてね。麻紀のために……」
「ああ、そうだな……」伊達父はうなづきながらコーラを一口飲んだ。そして、思い出したように言った。「そうだ、飛行機は?」
「明日、一三時に出発よ」
「ここを?」伊達父は冗談めいた顔を見せた。
「空港を」伊達母は笑顔で返した。
伊達の両親のやり取りを見ていた黒菜は、死んだ目をしていた。
「なにこの人達、台本でも読んでるの? ドラマ見てるみたいなんだけど……」黒菜はため息をつきながら、白目をむいた。
「自然とこう言う会話になるんだろ? いやぁ、夫婦っていいねぇ」
「普通の夫婦は、こうは行かないと思うよ」
黒菜がそう言うと、ゴエモンがマホーンの画面に食いついた。
「お、伊達父が伊達母の伊達乳を……」
黒菜は遠隔撮影を切った。
「なんだよ、良いとこだったのに……」
「見ていいところじゃないの!」黒菜はゴエモンに鉄槌をくれた。ゴエモンはポンと弾んだ。
黒菜はベッドに背中から飛び込んだ。ベッドのバネが黒菜の体を揺らす。揺れが収まるのを待ち、黒菜は話し始めた。
「うーん。どうやって決着をつけようかなぁ。明日、飛行機に乗るみたいだから、飛行機を墜落させようかな?」
「伊達は心配するだろうな」ゴエモンもベッドに乗ってきた。
「なんかな……それだけじゃスッキリしないんだよね。なんかいい方法ないかな?」
「うーん。精神的に追い詰めるなら、かなりいい方法があるぜ」
「なに?」黒菜は上半身を起こし、ゴエモンを見た。
「お前の過去の記憶を、映像化するんだよ」
「私の過去の記憶? なんで?」
「伊達がお前をいじめている映像を、動画サイトにアップしたらどうなる? 進学、就職に影響が出るのはもちろん、親の会社にも影響が出るだろうな……もちろん悪い方に」
「へぇ……」黒菜は口の端を歪めた。
「なんか自分にもダメージありそうだけど、気になるなぁ……。やり方教えてよ」
黒菜は、明日が土曜日で、休みということもあり、夜中まで復讐のことを考え続けた。空を飛んだ興奮が冷めていなかった、と言う理由もあるだろう。かなり遅くまで眠くならなかった。
黒菜は決着のつけ方を思いつかないまま、「もういいや、明日考える」と言い『死神探偵ドクロ御前』の漫画を読み始めた。読みながら、黒菜はだんだん眠くなっていき、漫画に指を挟んだまま眠りに落ちた。
翌日、というより、その日の朝。黒菜は夢の中で啓示を受けた。目覚めた時、自分の旨を枕にしていたゴエモンを、頭からゴミ箱に突っ込むと、早速枕元のマホーンを取り上げた。
ゴエモンは、ゴミ箱の中から顔を抜いた。黒菜がベッドに座り、一心不乱にマホーンをいじっているのが見えた。
「お、どうした黒菜。いつもなら朝はトイレに直行だろう?」ゴエモンは肩をすくめ、はははと笑う。
「ゴエモン。私って、どんな魔法使っても人を殺すことはできないんだよね? しかも、魔法で傷つけた場合は、直せるんでしょ?」黒菜はゴエモンのからかいなど聞こえていないようだった。
「ああ、そうだ。命に関わる魔法になると、緊急防衛魔法が発動するからな。だから、中途半端に危険な魔法より、はじめっから殺す気満々の魔法の方が、被害が少ないってこともあるんだぜ?」
黒菜はそれを聞いてニッコリと笑った。
「よーし、やってやるぞぉ」