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翌日、黒菜はあえて、普通の時間に登校した。伊達がカメラを仕掛けるのを待ったのだ。ほとんどの生徒が登校しており、皆それぞれ談話をしたり、スマホをいじったりしている。黒菜も、それを気にする事なく席に座り、マホーンをいじる。
「さて、監視カメラの位置だ。朝、言った通りにすれば発見できるぞ」ゴエモンが黒菜の頭の上で言った。
「うん……」
黒菜は、マホーンの『捜索』ボタンをタップした。本来は、人を探すためのものだが、機械類を探すことにも使えるのだ。
黒菜は、『捜索する対象』に『伊達が仕掛けたカメラ』と入力した。すると、マップが表示され、教室内に三つあることがわかった。
一つ目は、どうやって仕掛けたのか、黒菜の真上の天井だった。
二つ目は、黒菜の右前の席だ。黒菜の表情を確かめるためだろうか? ちなみに、黒菜は小柄なので、前から三番目より、後ろに行ったことがない。
三つ目は、伊達本人についているようだ。黒菜は本を読む伊達を見つめた。ここからでは、どこにカメラが付いているかわからない。
黒菜はちらりと監視カメラの位置を見た。右前の机の角に、黒いホクロのようなものが付いている。直径は5ミリ程度だろうか?
「おい、あまりカメラの方を見ないほうがいいぞ。カメラに気づくのは普通じゃない」
「あ!」ゴエモンの指摘に、黒菜はゆっくりと視線をマホーンに戻した。
「見るなら、自然にだ。わかるだろう?」
「うん……」黒菜はそう言いながら、どうやって天井のカメラを見るか考えた。
ため息をつきながら、黒菜は腰に手をあてながら上半身をそらした。いかにも勉強のしすぎで、腰を痛めているというような感じである。腰は痛めていなかったが、実際、腰をそらすと、幾分か気持ちが良かった。
黒菜はその過程で、ちらりと天井を見た。
すると、今まではなかった黒い点をそこに見つけた。意識しなければ、ただの汚れにしか見えないであろう点だった。
「そういえばさ、あのカメラって、桜木って子が作ったって言ってたよね?」
「言ってたな」
「すごすぎない?」
「まあ、スマホにカメラ入れられる時代だからな。あのくらいは、最先端の技術として考えられるだろう。何か不安なことでもあるのか?」
「いや、監視されてる時は、マホーン……というか、魔法を使わないほうがいいかなって……」
「そんなことを心配してるのか?」ゴエモンは意外そうな顔をした。
「そんなことって……」
「他人には、普通にスマホを使ってるようにしか見えないし、音声入力も出来る。いざとなりゃ、カメラを破壊できる。なんの心配もないぜ」
「そうかぁ、破壊できるのか。でも……伊達の疑いを回避するのも悪くないよね」
「なるほど」
黒菜は、監視カメラを利用し、自分への疑いを消そうと考えた。
監視されているというのは、伊達に何かあった時、自分は何もしていないということをアピールできる絶好のチャンスだった。
方法は簡単だ。タイマー機能で魔法を使う。口元を隠して、音声入力で魔法を使う。実際、普通にマホーンをいじって魔法をかけても、気づかれないと思ったが、万が一の事を考え、それはやめとこうと思った。
後日、黒菜は、今ここでカメラを破壊しておけば良かったと後悔する。
一時限目、国語。
授業中の伊達は、背筋をピンッとのばし、澄まし顔で教科書を見ていた。教師は、教科書を見ながら教壇の上をを行き来している。
伊達は、教科書の音読を指名された。黒菜はチャンスと思い、伊達の教科書に、音声入力で魔法をかけた。
伊達は立ち上がり、演劇部で鍛えた声量と滑舌、そして、演技力をもって、教科書を音読し始めた。
「丸男は桃子の肩を両手で掴み、壁に押し付けた。桃子は驚きの表情を見せながらも、抵抗しない。その顔には、なにかを期待するような感情が浮かんでいた。それを良しとした丸男は、桃子の肩に手を回し、空いた手で、スカートを捲り上げ、その手を彼女のショーツの中にするりと入れた。『ああ! 丸男!』」
伊達の迫真の演技に生徒と教師が注目した。伊達はなおも続ける。
「秘部に突如訪れた快感を、桃子は体内に留めることができなかった。その快感は声となって、部屋に響いた。『丸尾ぉーー!』『桃子ーーー!』『むぁるうぉーーーー!』『むぉむぉくぉーーーー!!』」
「伊達、なにを読んでるんだ伊達!!」教師が大声をあげた。
伊達はふと我に返った。周りを見回し、再度教科書に目を戻す。教科書は、元に戻っていた。
「え? その、わたくし……」
「伊達、お前、疲れてるんじゃないのか?」教師が心配そうな顔を向ける。無理もない。伊達は、昨日までは優等生だったのだ。
「友人に色々あったからな……うん。あと、そういう小説は、家で、一人で読もうな。じゃあ次、鈴木、読め」教師は気まずそうに伊達から目を逸らした。指名された鈴木が起立し、音読を始めた。
教師は、伊達がうっかり、エロ小説と教科書を、間違えているものと勘違いしていた。伊達もそう思ったが、自分が手に持っているものは、どこからどう見ても教科書だ。
鈴木の音読と、生徒たちの失笑が聞こえる中、伊達は黒菜を睨んだ。黒菜は何事もなかったような顔をして、教科書を見ている。伊達は思わず、自分が仕掛けたカメラの位置を確認した。よし、カメラはちゃんとある。伊達は、そう思い、黒菜をにらみながら、席に座った。
次の授業も、その次の授業も、黒菜は伊達に魔法をかけ続けた。
数学の授業では、伊達が黒板に計算式を書こうとする際、モザイクが必要なくらい卑猥な絵を描かせた。(この時も、教師は、伊達が疲れているんだと解釈した)
体育の授業の時には、まず最初に、伊達をジャージではなく、水着に着替えさせた。これは更衣室内だったため、ほかの女子に指摘されただけで、大した恥をかかせられなかった。
しかし、バレーボール中に、友人があげたトスを空中でキャッチし、そのままバスケットのゴールにアリウープ(ボールを空中で取り、着地せずそのままダンクする事)させる事ができた。
ほかの生徒からは「すごいけど、なにやってるの伊達さん!」という声が上がった。
黒菜は「これはイマイチ伊達に恥をかかせられなかったなぁ」と反省した。
英語の授業では、ファ○クしか言えないようにした。しかし、この授業では、伊達は指名されず、ほとんど不発だった。
昼休み、黒菜はカバンから、おにぎり(直径13センチ)を取り出しながら、ため息をついた。
「あーあ、中途半端な魔法だと、伊達が疲れているって解釈になっちゃうね」
「まぁ、仕方ないな。実際、精神的にはかなり参ってると思うぜ。こういう風に、なにをやってもダメになっちまうってのは、ボディブローのように効いてくるからな(受けたことないけど)」
「強烈な魔法をかけても、治せるなら、何か凄いのやってみようかな?」黒菜はおにぎりにかじりついた。
「目に見える怪我はやめといたほうがいいぜ。他の奴らの目があるからな。次の日に全快してたら目立ちすぎる」
「わふぁってるよ」黒菜はおにぎりを咀嚼しながら答えた。そして、マホーンを手に取った。
伊達が一人で弁当を食べているのを見て、黒菜は思い出したのだ。昔、伊達が「わたくし、箸より重いものを持ったことがありませんの」と言い、黒菜に荷物を運ばせた事だ。
「箸より重いものを持てなくしてあげよう」そう言い、伊達に魔法をかけた。
ご飯を箸で掴み、口に運ぼうとしていた伊達は、突如、箸を落とした。つかんでいたご飯の塊は、運良く弁当箱の中に落ち、箸が音を立てながら、机の上をカラカラと転がる。その音に、伊達の前の席の女子はちらりと伊達の方を見た。
伊達はそれを拾い、再度、ご飯を掴んだ。しかし、持ち上がらない。箸でなにかを掴んだ時点で、箸の重量に、持ったものの重量がプラスされる。箸より重いものが持てないのなら、持ち上がるわけはない。
伊達は、両手で箸を掴み、なんとかご飯を持ち上げようとした。両手がプルプルと震えている。それでも持ち上がらなかった。
それを見ていた前の席の女子が、椅子を伊達に向け、言った。
「伊達さん、大丈夫?」
「いえ、大丈夫ですわ。ちょっと疲れているだけだと……」伊達は、ゆっくりと箸を置き、女子に返事をした。
女子は、椅子をさらに伊達の机に近づけ、伊達の箸を取り上げた。そして、ご飯を取り、「はい、あーん」と伊達に箸を向けた。
伊達は、一瞬うろたえたが、恥ずかしそうに笑い、そのご飯を食べた。
「次はなに食べる?」女子は伊達に笑顔を向ける。「伊達さんは疲れてるだけだよ。友達がみんな入院しちゃったんだから、しょうがないと思うよ!」
「あ、ありがとうございます、七花さん。でも、自分で食べられますわ……」女子の苗字は七花だった。少しずんぐりムックリしているが、巨乳で、運動が得意な元気っ子だった。
「えぇーー? 食べさせたいなーー」
「えぇ……?」伊達は少し引いたが、七花の申し出を甘んじて受けることにした。
七花は、楽しそうに伊達の口にエサを運んだ。伊達は恥ずかしがりながらも、七花との会話を楽しみながら、食事をした。たまに、伊達の口の手前まで運んだおかずを、直前で、七花が食べてしまうこともあったが、七花は代わりに自分のおかずを差し出した。
それを見ていた七花の友達が、「私もー」と言いながら、伊達に餌を与えにきた。
伊達は、「わたくしは雛鳥じゃありませんのよ?」と言いながらも、笑っていた。
黒菜はこれを見て、機嫌がわるくなった。『自分がいじめられてる時には、誰も助けてくれなかったのに』という思いが、ふつふつと湧いてきたのだ。
「なによみんなして、伊達ばっかり……」
「まあ、あいつは黒菜と違って、人間との関わりを作るのがうまいからな。
「ちくしょう……」黒菜は、伊達をにらみながら、マホーンをいじった。「この魔法をかけられても、調子付いていられるかな?」
ゴエモンは、黒菜のマホーンを覗き込んだ。黒菜は、食べ物が虫に見える魔法を、伊達にかけようとしている。那由子にかけた魔法だ。那由子はこれで発狂したのだ。
黒菜がボタンをタップした瞬間、伊達の顔が引きつった。七花が掴んだウィンナーを凝視している。
伊達の目の前で、ウィンナーがいきなり、どでかいムカデに変わったのだ。伊達はうろたえながら、黒菜の方を睨んだ。黒菜は気づかないふりをした。
「伊達さん、どうしたの?」七花が、不思議そうな顔を伊達に向けている。うねうね動くムカデには目もくれない。
「いえ、なんでもありませんわ……」
伊達はそう言い、鼻で大きく息を吸い、ムカデを一口で食べた。ムカデの足が、ウネウネと動き、口内を這い回る。伊達はそれを噛み砕き、笑顔のまま飲み込んだ。
「うそ、食べた……?」黒菜は怪訝な表情をした。
魔法が不発だったのではないかと思い、伊達の視界をハックした。伊達の視界がマホーンに映る。その映像の中では、たしかに、弁当の中身は虫に変わっていた。幻覚とわかっている黒菜でさえも吐き気がしそうなほど、気味の悪い弁当だ。
しかし、伊達は七花に差し出される餌を、悠然と笑顔のまま、全てたいらげた。七花の弁当のおかずも差し出されたが、それも食べた。全て虫に見えているはずなのにだ。
「ごちそうさまでした。七花さん、助かりましたわ……」と伊達は手を合わせる。
「よかった!」と七花は微笑む。
伊達は七花に挨拶した後、「では、ちょっとお手洗いに……」と言い、教室を出て行った。
黒菜は、伊達を呆然と見ていた。
「え? 魔法かかってたよね?」
「ああ、ちゃんとかかってたぜ。まあ、幻覚だと自覚して、我慢して食ったんだろうな。なかなか根性あるじゃねえか」
「くっそぅ……」黒菜は思わず呟いた。
「食べさせてくれる生徒のことを思ってか、自分の体裁を思ってかはわからんが、あいつ、すごいな……」
「なによ、ゴエモンまで。あいつの味方なの?」
「いや。だからこそ、壊れた時は見ものだぜ? 人間ってのは、我慢強いやつほど、壊れる時は一気に壊れるものだからな」
「五時限目はもっと強い魔法をかけてやる……」
「待て、相手のペースに惑わされるな。黒菜は黒菜の予定通りやればいい。確実にダメージは与えているのは明白だ。あいつはそれを隠すのが上手いだけだ。その時の感情に任せて強い魔法をかけたら、入院しちまうかもしれないぜ?」
「その時は治せばいいじゃん」
「入院したら、全快しても、しばらくは退院できない。つまらないだろ?」
「う……そうか……」黒菜はゴエモンのアドバイスに納得しながらも、怒りは収まっていなかった。
「ほら、伊達の様子を盗み見してみろよ。きっとトイレでゲロゲロだぜ」
「うん……」
黒菜は言われるがまま、伊達をマホーンに移した。伊達は便座に座っている。パンツを下ろしていないので、用を足しているわけではなく、ただ座っているだけのようだ。
伊達は、両手で顔を包み込み、その手が膝にくっつきそうなほど、うつむいていた。肩が震え、時折咳をする。泣いているのだろうか。
「ほらな」俺の行った通りだろ? と言わんばかりにゴエモンは画面の伊達を指差した。
「まあ、それならいいか……」黒菜は伊達の姿をみて、胸に何かモヤモヤしたものが溜まるのを感じた。
「次の授業は保健だったね」黒菜はそう言い、マホーンのメモを開いた。どんな魔法を伊達にかけるか、忘れないようにメモしてあるのだ。「保健の勉強を手伝ってあげる……」黒菜は笑顔を取り戻した。ゴエモンも、それに合わせ、ニヤリと笑った。
伊達は、授業が始まる直前に教室に戻ってきた。戻ってくるなり、教科書と筆記用具をだし、自分の席に姿勢よく座った。いつでも授業を始めてくださいという構えである。
次の授業が始まり、教師が教室に入ってきた。
「きゃああ!」
伊達は教師を見るなり、悲鳴をあげた。
「どうした。伊達?」教師が不思議そうに伊達を見た。
「あ、いや、何故……」伊達はアワアワと口をぱくぱくさせた。
教師は全裸だった。
裸に教科書を持っている、ど変態スタイルだ。しかも保健体育の教科書を持っている。なにを教えようというのか?
教師は慌てふためく伊達を心配し、下半身のものをブラブラさせながら伊達に歩み寄った。
伊達は立ち上がり、後ずさりした。椅子が倒れ、ガタンと音がする。その音に驚き、伊達は振り向いた。振り向くと、視界に生徒たちが入る。
生徒たちも全裸だった。
保健体育で生徒全員、全裸! 実習? 実習なの⁈ 伊達は混乱していた。
「大丈夫、伊達さん?」七花が振り返った。
伊達は、その声の方に顔を向けた。七花の、普段は制服に隠されている巨乳があらわになり、彼女の動きに合わせて揺れた。
「うわ、すご……」伊達は思わずつぶやいた。
七花に話しかけられた事により、伊達は、ある程度落ち着いた。他人の目を意識すると、伊達は強いのだ。
冷静になった伊達は、さっき見回した時、違和感だらけの風景の中に、さらに違和感があったことに気づいた。クラスの全員が裸で、肌色に染められたはずの風景に、一瞬、紺色が見えたのだ。
伊達は、それを確かめようと、教室を再度、見回した。違和感の正体を発見した。
黒菜だけが制服を着ていたのだ。
伊達は、この時確信した。黒菜が幻覚の原因だと。
「伊達、大丈夫か?」教師は全裸のまま伊達を心配している。
伊達からすれば「いや、あなたが大丈夫?」と言いたいところだが、幻覚だとわかっている。伊達は深呼吸し、椅子を元に戻した。
「いえ、見間違いをしたようです」と目頭を押さえた。
「そうか、ならいいけどな」
教師は、そういうと、授業を始めた(全裸で)。伊達は椅子に座り、「そういえば」と思い、自分の太ももを見た。その視線を腹側に持ってくると、自分の大事な部分が見えた。自分も裸だったようだ。伊達は、幻覚だとわかっているのに、思わず両手を股間の上に重ねた。
伊達はうつむき、顔を赤らめながら、机以外の場所を見ないようにして、保健体育の授業を(全裸の教師から)受けた。
黒菜は、伊達の様子を満足そうに、横目で見ていた。
放課後、演劇部の部室に行った伊達は、部活をやらず、帰る事を部員に告げた。部員も、伊達が疲れているのだろう、とそれを快く了解した。
夕日が射し込む教室。黒菜は、伊達をマホーンから監視し、伊達が部活をしない事を残念がった。せっかく、語尾に「〜でござる」とつけなくてはいられない魔法をかけてやろうと思っていたのに。
「その魔法なら、学校じゃなくてもかけられるだろう?」ゴエモンが言う。
「学校じゃないと、意味ないじゃん」
黒菜はそう言いながらも「まあいいか」と、その魔法をかけた。
演劇部の部室を出た伊達は、スマホで家に電話をかけ「お迎えを頼むでござる」と言った。相手の執事は、戸惑うことなく「かしこまりました」と一言。
「電話の相手、召使い? 全くうろたえなかったね……」
「ああ、プロなんだろ?」ゴエモンは適当に言った。
黒菜は、伊達に迎えがくるのを見ていた。伊達は執事に「ご苦労様でござる」と言った。執事の反応がないから、あまり面白くないな、と思いながら、自分はテレポートで自宅に帰った。
いつもなら、玄関内にテレポートするはずが、今日は玄関の外にテレポートした。黒菜が不思議に思っていると、ゴエモンが言った。
「玄関にだれかいるんだろう。人の目につくところにはテレポートしないからな」
「だれか?」
黒菜が家の駐車場を確認すると、メタリックブルーのSUV(XV)がとまっていることが分かった。母の車である。
「お母さんだ……」
黒菜の声には、期待と不安がこもっていた。久しぶりに会う母と、話ができるという期待と、なにを話すべきかという不安だ。学校で有ったことといえば、いじめられた事と、魔法で仕返しをした事ぐらいで、なかなか話せる事がない。
なにを話したらいいだろう。そういえば、かなり前だけど、テストで満点を取ったことがある。それを話そうかな……。
黒菜は、自分の気持ちが、少しだけ明るくなっている事を自覚した。ゆっくりと玄関のドアノブに手をのばす。しかし、ドアノブは黒菜から離れていった。
扉が中から開けられのだ。
肩までの長さで、スッキリとまとまった髪型、小さな目立たないイヤリング、細身に黒いキャリアスーツを着た女性が、ドアノブを引いて、黒菜を見ていた。
ゴエモンは、その顔を見て、一目で黒菜の母だという事がわかった。なにせ、黒菜をそのまま大人にしたような顔だったからだ。
「黒菜!」母の目が丸くなる。
「お母さん……」黒菜は母と目があった。
「ああ、ごめんね、黒菜。今ちょっと忙しくて……」
母はそういうと、黒いトートバッグを肩にかけながら、急ぎ足で車に向かった。黒菜は、先ほどの明るい気持ちが、一気にしぼんでいくのを感じた。同時に、少しでも期待した自分をバカだと思った。
母は運転席のドアを開けると、黒菜を振り返った。
「お金まだある?」
「あるよ……」黒菜は腹のあたりで、小さく手を挙げた
「よかった。なくなったら連絡してね!」
母はそう言うと、車のエンジンをかける。排気ガスのにおいが、黒菜の顔をしかめさせた。
黒菜は、無表情で母の車を見送った。車が角を曲がり、見えなくなるまで、そこに突っ立っていた。
「母親の仕事ってなんなんだ?」
「海斗のマネージャー!」黒菜の声には苛立ちが含まれていた。
「かいと?」
「弟のこと!」
黒菜はゴエモンの質問に答えながら、玄関のドアを開け、中に入った。乱暴にドアをしめ、ゴエモンを挟んでしまった。「ごめん……」黒菜は暗い表情でゴエモンに謝った。
「まあいいさ。弟のマネージャーって事は、弟は芸能活動でもしてるのか?」
「そうだよ。東京でね」黒菜はあまり話したくないのか、言葉を短く切った。
「東京で? こっちに住んでるのに?」
「最初は、東京での仕事は、一年に一度くらいしかなかったんだけど、だんだん増えてきてさ……今じゃ、東京に引っ越した方がいいくらい忙しくなってきたんだ。海斗もあっちの学校に通ってるしね」
「なんで引っ越さないんだ?」
「めんどいんじゃない? それに、いつ海斗が売れなくなるかもわからないし、家を保持しときたいのかもね……」
黒菜は自分の部屋までいくと、大きくため息をつきながら、カバンを下ろした。そして、ゴエモンがいるのにもかかわらず、制服から、上下灰色のスウェットにきがえた。髪留めゴムにつけていた、「死神探偵ドクロ御前』の飾りも外し、大切そうに、机の上に置いた。
そして、台所に行き、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注いだ。
黒菜はそれを手に持ち、壁に付いている、お風呂の追い炊きボタンを押し、オレンジジュースを一気飲みした。口の端から、ジュースが一滴溢れた。
「もしかして、いじめの原因は弟か?」
ジュースを飲み干し、ため息をつく黒菜にゴエモンがたずねた。黒菜は、コップを持ったまま、ゴエモンを見ずに答えた。
「最初はね……」
黒菜はそう言うと、コップを水道でさっと洗い、シンクのそばの水切りかごに入れた。
部屋に戻った黒菜は、ベッドに寝転がり、マホーンをいじり始めた。だが、その指の動きには目的地がない。適当に画面をスワイプしているだけだった。黒菜の表情は、苛立ち、寂しさ、失望、それらを混ぜ合わせた複雑な表情をしていた。
ゴエモンは、その表情の原因は、さっき会った母が原因だという事は分かっていた。しかし、母に、何かしらの魔法をかけたところで、解決できるものとも思えなかった。
黒菜がいじめられ始めた原因は、弟だといっていた。ゴエモンが想像するに、テレビで人気になった役者の姉だと言う事で、目立ってしまった黒菜は、調子付いてると思われ、いじめの標的となったのだろう。それに耐えているうちに、いじめていい人間というカテゴリーに収まったというわけだ。
「じゃあ、魔法で弟の人気を落としてみるか? 弟が暇になれば、母親はこっちに帰ってくるかもしれないぞ?」ゴエモンは無駄と知りながら、提案をした。
「何いってんの? お母さんが家にいてもいなくてもどうでもいいんだよ。私は……」
これである。ゴエモンはなおも続ける。
「じゃあ、弟に嫌がらせするか? いじめの原因は弟なんだろう?」
「悪いのは伊達たちだもん。海斗はムカつくだけ……。それに、今の家の収入源は、ほとんど海斗だし」
たしかにそうだ。黒菜は十代にしては珍しく、よく考える子だと、ゴエモンは思った。
しかし、その理性のせいで苦しんでいる部分もあった。
「黒菜。そんなこと気にしないで、母親が家に帰ってくるように仕向けたらどうだ? あとは、弟の仕事をこっちに増やすとか」
「そんなことしたら、お母さんに迷惑かかるし、弟がまた学校変えなくちゃならないじゃん。それに、わたしは一人でいいの! お陰で魔法使えるようになったし」
「黒菜……」
「それに、伊達に仕返しし終わらなきゃ、わたしは次に行けないの!」
「それなら」……いいか。とゴエモンは納得した。
黒菜は今、伊達への復讐で忙しいようだ。仕事が忙しくて、黒菜の事をかまえない母とおなじだ。
一階から、追い炊き完了の音楽が聞こえた(例の音楽だ)。黒菜は、それを待ってましたと言わんばかりに、起き上がった。
そして、髪留めゴムを外し、適当に机にぶん投げる。その後、壁にかけてあったバスタオルを掴み、風呂に向かった。
当然のように、ゴエモンもついていった。
当然のように、ゴエモンは黒菜にぶっ飛ばされた。(その後、部屋で待った)
普通、風呂というのは、寝る前に入るのが、健康にいいとされている。眠りに落ちやすくなるのだ。しかし黒菜は、帰ってきてすぐに、風呂に入る癖があった。
黒菜にとって、風呂というのは、学校と世間で汚れた精神を洗い流す意味があった。精神が汚れたまま部屋にいると、自分の部屋に、その汚れを持ち込んでしまうような気がしていたのだ。
だから、黒菜は宿題も、食事も、魔法も、出来るだけ、お風呂に入ってから始めるのだった。今回であれば、母と会って、失望した思いを洗い流すのが最優先事項だ。
「さて、伊達は何してるかな?」濡れた髪をバスタオルで拭きながら、黒菜は部屋に入って来た。
「まだ、ござるござる言ってると思うぜ」
「そういえばそうだったね。一生とかないでおこうか?」黒菜は小さく笑い声を上げ、机に座った。そして、マホーンをつかむ。
画面に映った伊達は、机の上で、ノートパソコンと、スマホを交互に操作していた。
ノートパソコンに映っているのは、今日伊達が仕掛けた、監視カメラの映像のようだ。ウインドウが三つ表示されており、真上からと、右前から黒菜が映されている。もう一つは、伊達の視点だ。
「人を盗撮するなんて、ひどいやつだぜ!」ゴエモンが、自分たちを棚に上げて言った。
「そうだそうだ!」黒菜も、ゴエモンの冗談を理解しながら、同調した。
伊達が仕掛けたカメラは、カメラ自体には一切ボタンが付いていない。じゃあどうやって操作するのかというと、スマホのアプリで操作するのだ。
電源の入り切り。撮影開始、停止。データの送信、削除。全て、アカウントを登録したスマホで操作する。
この事を全く知らない黒菜たちだが、まあ、何か最先端技術でも使って、カメラとノートパソコンが繋がってるんだろうと、本能的に理解した。これが、今の若い人なのだ。
伊達は、画面を睨んでいる。自分に何かあった時、黒菜が何をしているか。そればかりを見ている。しかし、伊達の観察眼では、不自然な行動を発見できなかった。
無理もない。マホーンの操作は、音声でも出来るし、タイマーも使える。さらに、堂々と操作していても、スマホを使っているようにしか見えないのだ。
伊達はため息をつき、パソコンを閉じた。
「監視カメラでバレるほど、魔法は甘くない!」ゴエモンは、キラリと歯を光らせた。
「まあ、バレたとしてもさ、何かできるんでしょ? 記憶消すとか?」黒菜が聞いた。
「いや、できないぜ」
「え? じゃあもしバレたら?」
「簡単だ。魔装を使う許可が下りる人間なら、そいつにも魔装の契約を進める。それか記憶を消す」
「記憶消せんじゃん!」
「記憶を消すのは、俺たち『魔法装備推進委員会』がやるんだ。黒菜個人じゃ、記憶消去の魔法は使えん」
「なんだか、バレたらめんどくさそうだね」
「面倒くさいのは、魔装推進委員会であって、俺たちじゃない。安心しろ」安心しろ。ゴエモンはそればっかりだ。
伊達に動きがあった。電話が来たのだ。黒菜は嫌な予感がした。そう、桜木だ。
伊達は、座る姿勢を整え、電話に出た。
「こんばんわ、桜木さんござる」
『おはよう。こっちは寝起きだヨゥ!』桜木は元気そうだ。『撮影できた?』
「もちろんできたでござる。確認してみたのだけれど、黒沢さん……全く怪しい動きはしていないでござる」
『ヘェ〜……なんでござる?』
「犯人は黒沢さんだってことは確実でござるが」
「え?」黒菜は驚いた。カメラを利用し、自分に対する疑いを解こうと考えたのに、なぜか自分が犯人だと確信されている。
『黒沢が犯人だっていう理由は?』桜木の声は、いやに明るい。しかし、ござる口調には突っ込まなかった。興味がある事にしか目が向かないタイプなのだろうか?
「実は、クラス全員が裸に見えた時があったでござる……」
『いいなぁ〜』桜木が言った。
「その中で、黒沢さんだけが、服を着てたでござる……」
『あははははは! なにそれ、間抜けだなぁ!』
黒菜はおでこを両手に預け「やっちゃったぁーー」とため息をついた。
「ははは、ドンマイ」ゴエモンが黒菜の頭をポンっと叩く。
『でさぁ、そのさ……裸になってる生徒たちって、どうだった?』
「ござる?」
『ほら、隠れ巨乳の子とか、ち○このでかいやつとか居なかった?』黒菜には全く関係ない話である。
「いえ、そんな……慌てていましたので、じっくりは見れなかったでござる」
『えー! 私だったら喜んで凝視するけどなー!』
伊達は、七花の胸が、思ってたより大きかった事を黙っていた。
「なあ黒菜。おかしいと思わないか?」
「なにを?」黒菜はゴエモンを見た。
「この桜木ってやつ、伊達の言う事を、真っ向から信じてる」
そういえば、と思い、黒菜は画面に視線を戻した。桜木の情報を少しでも手に入れようとしているかのようだ。
「普通なら、そんな事あるはずないじゃんっって言うよね?」
「ああ、そうだ。この桜木ってやつ、伊達にかけた魔法を、一瞬で事実だと受け入れている」
「イかれてるのかな? それとも……魔装少女?」
「イかれてるのは確実だろうが……桜木という名は、魔装推進委員会の契約者名には無い」前にも言ったよな? とゴエモンは心の中で言った。
「じゃあ、魔法を知っているわけじゃ無いんだね?」
「ああ、そうだ」
黒菜は、ゴエモンの言葉に幾分か安心した。しかし、次の瞬間、その安心を嘲笑うようなセリフが、桜木の口から出た。
『まるで魔法みたいだね!』
黒菜とゴエモンは凍りついた。
桜木の声は、子供のように、純粋な興味を含んでいると同時に、なにか、狂気を思わせる部分も含んでいた。
「魔法でござるか?」
『そうそう、進化しすぎた科学は、魔法と区別つかないって言葉わかる?』
「聞いたことはあるでござる……」
『違うんだよ! 私が思うに、科学は魔法なんだよ! 魔法は科学なんだよ! 二つは同じもの!』桜木は、魔法と科学を区別しようとする事に対して、『違う』といったようだ。
「なにが言いたいんでござる?」
『その黒沢ってやつは、私が知らない技術を使ってる可能性があるよ! 解析するのがめっちゃ楽しみ! 解析すれば、また、私が使える魔法が増える! 早く見たい! 映像おくってよ!』
黒菜は、桜木の話には計画性が無く、その場の勢いで話しているように思えた。もしかしたら、本当は 馬鹿なんじゃないかと思えてしまうほど、桜木はテンションを上げていた。
「ああ、そうでした。忘れていたでござる……映像はスマホの中に入っているでござる。電話が終わったら送信するでござる」
『うん、じゃあ早く送ってね!』桜木はそういうと、すぐに電話を切った。
「えぇ……」伊達はスマホを見つめ、呆然とした。「全く桜木さんは……ござる」
伊達はため息をつきながら、スマホを操作した。もちろん、映像を桜木に送るためである。
「ゴエモン。映像を送信させたくないんだけど」黒菜は、画面から目を離せないでいる。
「ん? 送ったところで何もできないと思うが……」
「万が一のためだって!」黒菜は真剣な顔でゴエモンに迫った。
「わかった。でも、送信できなくしたら、桜木が異常に気付いて、伊達に聞いてしまうはずだ。送信するデータを破壊することをお勧めするぜ」
「わかった。どうやるの?」
黒菜はゴエモンに言われるがまま、マホーンを操作した。
機械を操るをタップ。操る機械に「伊達のスマホ」と入力。その時点で、伊達はスマホの操作権を失った。伊達は、全く反応しないスマホに不思議そうな顔を向けた。
伊達が監視カメラの動画を送ると、その動画は、再生さえできない壊れたデータになるようにした。
これで桜木は、映像を手に入れることはできないし、映像のデータが壊れているのは、伊達の不手際だと思うだろう。
黒菜がその作業を終えると、伊達はスマホの操作権を取り戻した。「手が乾いてるからでござるか?」と言いながら、寒い時にするような、両手に息を当てる仕草をし、それからスマホに触った。伊達は、このお陰で、スマホが操作できるようになったと勘違いした。
「データ送ったでござる。おやすみなさいっと……ござる」伊達は桜木にラインを送り、机にスマホを置き、風呂に入る準備を進めた。
一方、黒菜は、伊達のござる口調が、彼女にダメージを与えていないことをつまらなく思い、ござる口調を解除してしまった。
伊達がポニーテールをほどき、髪留めゴムを机に置いたところで、またスマホが鳴り出した。発信者を見た伊達は、一気に表情を明るくした。父親からの着信だ。
黒菜は、桜木への対処が完了したので、伊達の親子関係はどうでもよかったが、惰性で見る事にした。
「はい、麻紀です。お父様?」
「麻紀……どうだ? 元気にしてるか?」父親の声は、前と比べて格段に暗かった。
「もちろんですわ……何かあったんですの?」
父の声色が、伊達に嫌な予感をさせた。伊達の表情が曇る。
「いやぁ、麻紀……悪いんだが……」
伊達の嫌な予感が的中したようだ。伊達の表情が一気に硬くなる。父の言葉に心の準備をしているのだ。
『仕事にトラブルがあってな……。お父さんとお母さん……一週間(短く見積もって)、韓国に行かなきゃならなくなったんだ』
伊達が、ひゅっと息を吸うのがわかった。そして、息を止め、唾を飲み込んだ。
黒菜はそれを、なんとなしに眺めていた。
「仕事でトラブル……?」
『ああ……』父親の声は、罪悪感に染まっている。
「わたくしの誕生日には、帰れないと言う事ですわね?」
『ごめんな……』
伊達の部屋に、大音量で静寂が流れた。その音は、黒菜の部屋にまで届いた。
しばらくすると、伊達は、カラカラの雑巾を限界まで絞り、やっと最後の一滴を出すように声を出した。
「仕事なら、仕方ありませんわよね?」
伊達のその言葉は、自分に言い聞かせるための言葉にも思えた。
『すまない……。埋め合わせはするから』
「(前もそう言って、何ヶ月も会えませんでしたわ!)はい……待ってますわ……」
その後も、伊達とその父は、いくらか会話したが、伊達は上の空で、相槌を打つだけだった。
黒菜は、今日の自分を思い出していた。
母親に会えたのに、1分すら会話ができなかった自分だ。少し違うのは、伊達は会話ができているが、会うことができていないと言うことだ。
マホーンを見つめる黒菜は、息をするのを忘れたかのように、伊達を見つめていた。
伊達の電話が終わると、黒菜はマホーンを置き、ゴエモンを見た。
「伊達、本当は寂しいくせに、我慢しすぎだよね。もっとわがまま言えばいいのに」黒菜は、ハハハと笑う。乾いた笑いだ。
「お前もな」
「ちょ、それどう言うこと?」
「そのまんまの意味だぜ!」ゴエモンはニヤリと笑う。
「別にわたし我慢してないし。ちゃんと伊達に復讐してるし、お母さんからは小遣い多めにもらってるし……」
「我慢が当たり前すぎて、してる事に気づけなくなってるんじゃないか?」
「えー……そんな事……」
黒菜がそこまで言うと、マホーンの映像が騒がしくなっている事に気付いた。マホーンからガタガタと雑音が聞こえる。黒菜は、マホーンに視線を戻した。
カメラは伊達を自動追尾している。
伊達は制服から私服に着替え、その上にコートを着ていた。キャリーケースを乱暴に引っ張り、豪華な廊下を早歩きで進んでいる。
「高田(執事の名)! 飛行機を手配して!」伊達は目の前にいた執事に叫んだ。
「どうしました? お嬢様?」花瓶の水をかえていた執事は、その手を止め、伊達に礼儀正しく体を向けた。
「オーストラリア(両親がいる国)に行くわ! 飛行機をチャーターして!」
「お嬢様、飛行機のチャーターは、ご主人様(父親)の許可が必要です」執事は冷静にゆっくりと話す。
「なら、空港まで送りなさい!」
「申し訳ありません、お嬢様。福島空港はこの時間帯ではもう、便がありません」
「なら、間に合う便を探して!」
「いえ、今からでは、間に合う便は存在しないかと……」
「なら、チャーターしなさい! 私のカードを使って!」
「お嬢様……今から緊急チャーターをしたとしても、飛行機に乗れるのは、翌日以降になります。ここは一度、冷静になってください」
伊達は、ハッと息を飲み、執事を睨みつけた。
「なら、タクシーで行きます……」
伊達はそう言うと、執事から目をそらした。スマホでタクシー会社の電話番号を調べながら、八つ当たりのように足をふみ鳴らし、早歩きで玄関へ向かった。
伊達がタクシー会社に電話をかけようとした瞬間、執事が後ろから声をかけた。
「お嬢様! 私が送ります!」執事は走りながら、運転手用の帽子を被った。
伊達は、キャリーケースを持とうとした執事に「自分で持ちます」と言った。その後、玄関前に運ばれてきたリムジンの後部座席に座ると、頬杖をつき、窓の外を不機嫌そうに見つめ続けた。
「一番近い空港は、福島空港です。よろしいですか?」
「行って」伊達は窓の外を見たまま答えた。
今は、午後九時だ。空港に便がないことなど、伊達にもわかっていた。
伊達の鼓動は、リムジンを急かすように早く鳴っている。夜の街並みが窓に映っても、その鼓動が、伊達の視界を真っ暗に染めた。
静寂すぎるのもどうかと思ったのか、執事はラジオを流し始めた。ラジオは、スローペースで優しい曲を流している。八〇年代の曲だろうか?
その曲は、伊達の心をゆっくりと慰めていった。胸を打つ鼓動を、いつしか感じなくなり、窓の外の風景が目に入るようになってきた。木々の隙間から、星空のような街並みが見える。と同時に、窓に映る、ひどい顔をした自分も目に入った。
伊達は、外を見るのをやめ、自分の足元に視線を落とした。小さくため息をつく。
「福島空港に着きましたよ」
伊達はその声に顔を上げた。窓の外を見ると、たしかに空港はそこにある。リムジンは路上に停まっていた。車は全く通っていない。街灯が虚しく道路を照らしていた。
「閉館時間を過ぎていますね……」執事が閉鎖された入り口を見ながら言った。
伊達はゆっくりとリムジンを降り、空港を眺めた。ひんやりとした空気が伊達の体を包む。
平らに広がったコンクリートの地面の上で、飛行機たちが眠っている。伊達はそれをぼんやりと眺めた。「今日は、起きそうにないですわね」伊達は呟いた。
伊達はすっかり冷静になっていた。自分のために、飛び立ってくれる飛行機がいない事、親に会わせてくれる乗り物がない事をこの目で確認すると、少しだけ踏ん切りがついたのだろう。
「ありがとう……こんな夜更けに……」伊達は空港を見ながら、執事に言った。
「いえ、実は私も、リムジンで遠出をしてみたいと思っていたのです。夢が叶いました」執事は帽子を取り、笑顔で言った。
伊達はそれを聞くと、執事に顔を向けた。
「ありがとう……高田……」
高田は、伊達の悲しそうな笑顔に頭を下げ、再度帽子を被った。
「ほかに行きたいところはありますか?」
「いえ、帰りましょう……」伊達はそういうと、リムジンに戻った。
リムジンはUターンし、元来た道を戻っていった。
黒菜はここまで目を離せなかった。あの伊達が、冷静さを失い、感情を爆発させて、家を飛び出したのだ。
「執事がいなかったらやばかったんじゃないか?」ゴエモンが言った。
「うん……」黒菜はまだマホーンから目を離さない。
「ああ、そうだ。いっとくが、伊達の両親の仕事を手伝う魔法とかは使えないぜ。金を稼ぐとか、その手伝いをする魔法は、未成年は禁止だ」
「いや、わかってるよ。っていうか、なんで私が伊達の両親を手伝わなきゃいけないの?」黒菜はやっとゴエモンの方を見た。
「助けたそうな顔してたろ?」
「してない!」
「ならいいけどな……」
「もう寝る! 明日は金曜! 休みに入る前に、伊達を思う存分痛めつけなきゃダメなんだから、しっかり寝て英気を養う!」
「伊達の誕生日を邪魔しないのか?」伊達の誕生日は日曜だ。
「だって、親が来るのを邪魔しようと思ってたのに、元から来なくなったじゃん」
黒菜はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「ま、いいぜ。こうなると、どこで決着をつけるかが問題だな。いつまでもいじめの仕返しに縛られていたら、お前が不幸になっちまう。作戦はあるのか?」
黒菜はゴエモンの言葉にハッとした。たしかに、伊達との決着をつけないと、自分はいつまでも、いじめられた過去に縛られていることになってしまう。5年後も10年後も伊達に嫌がらせをし続けるのは、人間として嫌だった。
「考えるよ……。でもとりあえず、明日はいつも通りやる……」
「了解だ」ゴエモンはサムズアップをした。しかし、指がないので、手の先が、ちょっと上を向いただけだった。