3
次の日、いつも通り目覚めた黒菜は、いつも通りの時間に家を出た。しかし、登校方法はテレポートだった。
いつもなら、登校に30分かかるため、今日は30早く学校に着いた。
「どうした黒菜? 今日は早いな」
「ちょっとやっておきたい事があってね」
黒菜はそう言い、教室にカバンを置き、校庭に歩いて行った(頭にゴエモンが乗っている)。
校庭では、陸上部が朝練をしていた。
時間のない朝に、ハードルや、高跳びの道具は出す気にならないらしく、ほとんどの部員がランニングだった。その中に神崎がいた。
神崎は、トロトロとやる気のないスピードで走っていた。一周走り終えると、近くにいた友達と話し始めるのだった。なかなか練習に戻らない。
黒菜は神崎のいじめ行為を思い出した。
神崎は、横井が殴れば自分も殴り、那由子が虫を弁当に入れれば、虫を集めるのを手伝い、伊達が、黒菜の顔を便器に突っ込め、と言えば、それに従う。いわゆる主体性のない女子だった。ちなみに、成績も見た目も身長も平均だ。
「そんなに人に操られたいなら、操ってあげる……」黒菜はポケットからマホーンを取り出した。
友人と話している神崎を見ながら、マホーンを操作する。ゴエモンは興味深そうにそれを覗き込んでいた。黒菜は一度ゴエモンに微笑みかけ、最後の操作を終えた。
突如、神崎が全力で走り出した。さっきまで話していた友人は、わけがわからず、神崎を見ている。人を操ることのできる『傀儡魔法』で、神崎を操ったのだ。
黒菜はそれを見ながら、ゆうゆうと教室に戻った。教室にはまだ誰もいない。教室の窓際まで行き、校庭を見ると、神崎はまだ走っていた。かなり早い。その口は「止めて! 止めて!」と叫んでいるように見えた。
「おお! 頑張ってるじゃないか!」ゴエモンは神崎の努力を称賛した。
「うん、まさに陸上部だね」黒菜は適当に言った。
黒菜は、体力の限界を超えて走る神崎を、しばらく見ていたが、途中で飽きた。
席に戻り、魔法で家から漫画を取り寄せ、それを読み始めた。生徒がだんだんと登校してきて、ほとんどの席が埋まった。
登校してきた伊達が、神崎がいないことに気づき、黒菜を睨んできた。しかし、黒菜は漫画を呼んでいるので気づかなかった。
先生が教室に入ってくると、黒菜はカバンに漫画をしまい、魔法で家に戻した。先生が出席を取りはじめ、神崎の名を呼んだ時、彼女の魔法を解いてないことに気づき、小声で「教室に戻ってから、傀儡魔法解除」とつぶやいた。
朝の会が終わった頃、廊下から全速力の走行音が近づいてきた。勢いよく扉が開けられ、神崎が飛び込んできた。
教室にいる全員が、神崎に注目した。
先生が教団から振り向き、神崎に言った。「おう、神崎。練習熱心なのはいいが、朝の会には間に合うように……」言葉が止まった。
神崎はすでに意識を失っており、白目を向いていた。走行中に吐いたであろう嘔吐物が、口からダラダラと垂れており、それはジャージにもかかっていて、悪臭を放っていた。ヒューヒューと言う風の音が、けたたましく教室中に鳴り響く。それが神崎の息の音だと黒菜が理解した時、神崎は顔面から倒れ込んだ。
「神崎!」先生が神崎に駆け寄った。女子の悲鳴が黒菜の耳を刺した。
黒菜は、ゾッとした。今までは、死なない程度にしか魔法をかけていなかった。しかし、今回は命に関わりそうだ。昨日盗み見た、いじめっ子の家族の涙が目に浮かんだ。今回は取り返しのつかないことになるかもしれない。
いや、でも、自分だって……死ぬほど追いつめられたのだ。これぐらい……。
「ねぇ、ゴエモン。神崎、死んだりしないよね……」黒菜は青ざめた顔で、無意識に質問をしていた。
「ああ、大丈夫だぜ」ゴエモンはあっけらかんとしている。
「え?」
「黒菜が契約してるのは、人を殺せるプランじゃないだろ? つまりは、どう頑張っても、魔法で人は殺せないのさ。死にそうになったら自動的に力をセーブするようになってる。残念だったな」ゴエモンは高笑いした。
「残念じゃないけど……いや、うん。なるほどね!」
黒菜は少し気分が明るくなった。と同時に、自分の気の小ささに嫌気が差した。ついうっかり、いじめの復讐を後悔しそうになった。この程度で許されるような奴らなら、自分は自殺なんてしようとしなかった。そう思いなおし、伊達を睨みつけた。
伊達は先生に指示され、スマホで救急車を呼んでいた。そして一瞬、黒菜の方を見て、その後、他の生徒の表情を見た。
他の生徒は、何が起こったのか分からず、不思議そうな表情をしていたが、黒菜は少し、罪悪感のある表情だったのだ。伊達は電話をしながら、黒菜に怒りの目を向けた。
神崎が病院に運ばれた後、授業はいつも通り進められた。生徒たちは、何事もなかったようにしている。現実なんてこんなものである。
昼休み、いつも楽しく話していた仲間がいない伊達は、一人寂しく弁当を食べていた。
黒菜は視界の隅にそれを捉え、おにぎりを食っている(直径十五センチ)。
「伊達のやつ、随分大人しくなったな。一言も喋らないぜ」
「そりゃそうでしょ。周りに誰もいないんだから」黒菜はご飯を飲み込んでからゴエモンに答えた。
「お前は誰もいないのに話しているがな」
「ゴエモンがいるじゃん」
「他の人間には見えないって、忘れてないか?」
黒菜はハッとして、周りの生徒を見た。気づかれていない(多分)。黒菜は長らくまともに喋っていなかったため、自分で思っている以上に、声が小さくなっていた。それが幸いしたようだ。
「早く言ってよ。ふつうに喋ってたじゃん!」黒菜は囁き声で言った。
「いやぁ、俺が見えないことは言ってたからな。他人の目を気にしない性格かと思ったんだ。はっはっは!」
「まさか、ゴエモンの声、他人に……」
「聞こえないぜ」
「よかった」黒菜は胸をなでおろした。
そんなことを話していると、伊達が立ち上がって、教室から出て行った。
「伊達が動いたぜ」
「トイレかな? よーし」黒菜はマホーンを取り出した。
黒菜がマホーンを操作すると、画面に伊達の動向が映し出された。スマホのカメラを魔法で強化したのだ。
伊達は予想通り、トイレに向かっている。
「よーし、なら、手伝ってあげよう」
「お、黒菜は優しいな」
「お金持ちには、お迎えが基本だからね」黒菜はそう言いながら、マホーンをタップした。
伊達が廊下を歩いていると、女子トイレの中から悲鳴が聞こえ、伊達はその声に足を止めた。何事かと思いながら、伊達は恐る恐る女子トイレの扉に近づく、あと2メートルというところで、扉が開いた。
扉を開けたのは便器だった。
洋式便器に足と手が生え、立っていた。タンクからは腕が生えている。その手足は、生々しく、中年男性のそれだった。
「え?」伊達は何が起こったか分からず、思考停止した。
便器男は、トイレから足を一歩踏み出すと、伊達に向きを変えた。
伊達は一歩後ずさった。
それに合わせ、便器男も一歩踏み出した。
静寂……。
ダンッ!
床を蹴る音と共に、伊達は走り出していた。無論、便器男とは逆にである。それを猛スピードで追いかける便器男。
「ちょっ、なんなんですのこれ! 一体なんなのぉーー!」伊達は走りながら叫んでいる
廊下を疾走する、伊達と便器。それに注目する生徒たち。生徒たちは伊達の失踪には不思議な顔を向けるだけだが、後から走ってくる便器男には、驚き、道を開けた。なにせ、手足の生えた便器が、中の水を振りまきながら走っているのだ。
黒菜はそれをマホーンで見ていた。「ほら、せっかく便器が迎えに来てくれてるんだから、それにしちゃいなよーー」小声でマホーンの向こうの伊達に語りかける。
教室でニヤニヤしながらスマホを見る黒菜を、他の生徒は、気味悪く思っていた。
しかし、伊達は足が速く、なかなか捕まらない。陸上部の神崎よりも速く、走り方も、いわゆる女の子走りではなく、アスリートの走り方だった。逃げ惑ううちに、校舎内を走り周り、職員室前まで来てしまった。
職員室から、体格のいい男性教師が出てきた。自分に向かって走りこんでくる伊達に、「おい、廊下を走るな〜」と声をあげたが……
「先生! 助けてーーー!」という伊達の叫びに驚き、その後ろを走る便器男にさらに驚いた。
「なんだあいつ⁈」教師はもっともな疑問を口にした。
伊達は教師の後ろに隠れた。実はこの教師、体育教師だ。しかも、柔道でインターハイに出たこともある武闘派だった。この教員が目の前にいたのは幸運だった。
教師は便器男に柔道の構えを向けた。教師には、便器のコスプレをしている変質者にしか見えていないようだ。
走りこんでくる便器の腕を掴み、教師は背負い投げを決めた。その際、便器の中の水が、撒き散らされた。
廊下に叩きつけられた便器男は、粉々に砕け散り、ただの便器に戻った。
その破片をみた教師は、周りを見回し「変質者はどこだ? 逃げ足の速い奴め!」と、一瞬で中の男が逃げたと勘違いした。真実を理解していない。まあしょうがないだろう。
教師は、伊達の方を向き、言った。
「大丈夫か? 怪我は?」教師は、生徒を救ったぜ、どうだい? というドヤ顔をして、歯を光らせている。
「……怪我は……ありませんわ」伊達はビショビショのまま、先生に笑顔を向けた。「助けてくれて、ありがとうございます。先生……」
伊達の頭には、前の人が使って流していなかったのか、トイレットペーパーが乗っていた。
黒菜は教室でいきなり笑い声を上げた。周りの生徒はギョッとなった。黒菜はそれに気づき、咳をして、それからすまし顔に戻した。
「あー面白かった」黒菜はすまし顔を1秒と保てず、にやけた。
「頭の上に乗っていたのが、うんこだったら最高だったのにな」ゴエモンが言った。
「確かにね。ふふふ」
黒菜は作戦通りだと思った。
いじめのリーダーである伊達には、長く苦しんでもらいたい。特に、学校で恥をかいて欲しかった。だから今回は、なるべく怪我をしなさそうな魔法を使って、伊達を困らせたかったのだ。
本当なら、他の三人にも似たようなことをしたかったが、加減が分からず、三人とも病院行きになってしまったのが悔やまれた。
「まあ、他の三人は、退院してから考えるか……」黒菜は独り言を言った。
黒菜は昼休みが終わり、五時限目の途中まではいい気分だった。なぜなら、伊達はまだ教室に返ってきていない。彼女がびしょ濡れの制服を着て、泣いているのを想像すると、黒菜はほくそ笑むのを抑えられなかった。
しかし、五時限目の半分が過ぎた頃、伊達は「遅れて申し訳ありません」と教室に入ってきた。制服は新調されており、髪も綺麗に整えられていた。
黒菜のすまし顔とは、比べ物にならないほど、気品のあるすまし顔を顔面に貼り付け、伊達は自分の席に座った。
「あれ、なんでちゃんと制服着てるの? せめてジャージに着替えるとかじゃないの?」黒菜はゴエモンに聞いた。
「うーん……推測だが、家に電話して制服を持ってきてもらったとかだろう? 髪が綺麗になってるのも、なにか、そういう設備を持って行きてもらったとか?」
「金持ちだからねぇ……」
黒菜はムカついていた。せっかく上手いこと汚してやったのに、伊達は数時間でいつも通りになってしまったのだ。黒菜はその苛立ちを、次の作戦にぶつけると決めた。
一方、伊達は内心穏やかではなかった。全く表情には出さないが、便器に追いかけられた恐怖と、自分にかけられた小便臭い液体の匂いは、伊達の心に取り付いて離れなかった。伊達は、対策を考えたが、なかなか思いつかない。今日、家に帰っても思いつかなかったら、“あの人物”を頼ろう。そう思った。
放課後、黒菜は伊達に対してイラついていたものの、魔法を使えるという万能感に、調子付いてもいた。のろのろと帰る準備をするふりをしながら、伊達が部活に行くのを横目で見送った。
「やっぱり、一人だといじめはできないんだね……ペッ!」黒菜は唾を吐き捨てるような仕草をした。
「いじめをする奴なんてそういうもんさ。ペッ!」ゴエモンは唾を吐き捨てた。
「ちょっとぉ、唾こっちに飛ばさないでよぉ……」
「なんだよ、お前の代わりに吐いてやったのに」
「いや、やりたいとは思ったけど、実際にやられると、キモいんだよ」
「安心しろ、俺の唾はお前にしか見えない」
「かんけいないよ!」
伊達が向かった場所は推測できた。演劇部の部室だろう。黒菜は、伊達の現在位置を、マップで確認しながら、彼女を尾行した。
伊達が部室に入ると、黒菜は早歩きで手前のトイレの個室に入った。
「お前、結局放課後はトイレに入るのか?」
「いいじゃん。いじめが発生するのがトイレなら、仕返しをするのもトイレで」ただの言い訳だった。
黒菜はマホーンに伊達を映した。
演劇部は空き教室の一つをあてがわれており、それは音楽室のとなりにあった。教室の半分は、演劇で使う道具の他に、行事で使うためのパイプ椅子や、音声機材などで埋められていて、演劇部が練習に使用できるのは、教室の半分程度だった。
部員たちは、黒板の前で演技をする。それに三脚で立てられたカメラを向け、自分たちの演技を撮影している。その後ろに、出番を待っている部員たちが立っていた。
部員が全員揃うと、部員たちは立ち上がり、演技の練習に入った。まだ教師は来ていない。
演劇部の部員たちは、ロデオとジュリエッタという劇を練習しているらしい。
「おお、ロデオ! 私はどうしてロデオなの!」伊達は台本を片手に、声をはりあげた。
「知らんわ」黒菜は思わず突っ込んだ。演技は続く。
「あなたをずっと乗せていたいのに、本能が振り落としてしまう。ああ、私はひどい暴れ馬!」
「ひどいのは脚本だろ」今度はゴエモンが突っ込んだ。
「誰が書いたんだろうね。下ネタに聞こえるのは私の心が汚れているから?」
「そうだろうな」ゴエモンは間髪入れずに答えた。
マホーンに映る伊達の演技は、意外にも上手で、(セリフはひどいが)舞台女優のようだった。黒菜はそれを見て、さらに伊達を嫌いになるのであった。嫉妬に近い感情もあるだろう。
さらに、ほかの部員たちが、演技を終えた伊達を、拍手で褒め称えるのであった。黒菜はほかの部員も嫌いになった。
「こんにちはー、やってますねー」部室に教師が入ってきた。穏やかそうな女性の教師だった。
部員たちは教師の周りに集まり、一斉に頭を下げ、挨拶をした。
「先生! 今回の劇は凄いことになりそうです。伊達さんの演技が凄いし、脚本もいいし! 絶対再生数100万超えますよ!」
「動画サイトにあげるの?」黒菜は思わず声を上げた。
「ふふふ、脚本は私の代表作といっても過言ではない、執筆に一年を要した力作だからね!」教師が鼻を高くする。
「脚本書いたのお前かよ!」今度はゴエモンが言った。
「大好きなジョッキーを、恥ずかしさのあまり振り落としてしまう牝馬の恋。ラストの恋の成就。完璧なストーリーですわ!」伊達が大げさな身振りを加えて、教師に媚びている。
「主人公、馬なんだ」
「いやらしい意味じゃなかったな……」
「まあね」
「がっかりすんなよ」ゴエモンは黒菜を慰めようと、頭を撫でた。
「してないよ!」黒菜はゴエモンの手を払いのけた。
「ってか、ラストに恋の成就って言ってたね。馬と人が?」
「ラストで馬が人間になるとかじゃないか? でも、馬と人が恋に落ちてもいいと思うぜ。……ぬいぐるみと人が、恋に落ちてもいいのと同じようにな!」ゴエモンは黒菜の目を見つめた。黒菜はそれを冷めた目で見た後、「いや……無いから」と一言。
つまりは、伊達は主人公の馬役なのだ。
「ヒヒィィーーーンブルルルゥ! どうです? 先生」伊達が馬の鳴き声の真似をした。すごく似ている。
「素晴らしいわ。伊達麻紀さん! 本当に馬のよう!」教師は拍手をする。
「(名前と苗字をつなげて呼ばないでください先生)乗馬を習っていたので、このくらいは朝飯前ですわ!」
「乗馬関係ないだろ!」黒菜のツッコミだ。
「しかし、意外だな。伊達は馬の役なんて『私のプライドがゆるしませんわ!』とか言って拒否する性格だと思ってたぜ」
黒菜もその意見には賛成だった。お高く止まりながらも、阿保みたいな役に全力を尽くす。それが伊達に人望が集まる理由かもしれない。黒菜はやはり、生まれ変わるなら伊達になりたいと思ってしまった。まあ、これから味わう地獄を思えば、それも和らぐだろうと考え、黒菜は個室から出た。
黒菜はマホーンに映る伊達をにらみながら、手洗い場の前に立った。
「伊達さん凄い! もう一回やって!」ほかの部員達が、伊達に馬の真似をせがんだ。
「ふふ、では……」伊達は快く応じた。
黒菜は蛇口を掴み、水を出し始めた。シンクに水が勢いよく流れる。
「これでもくらえ!」黒菜はそう言い、マホーンのボタンをタップした。
伊達は馬の真似をしようと、息を大きく吸い込んだ。
「ヒヒィィーーーンうへぇぇぇぇ⁈」伊達の声がうわずった。
伊達は腹部を抑え、体をちぢませた。
「ウヘェ? どうしたの伊達さん。お腹でも痛いの?」
「なんでもないですわ……ああ!」伊達は腹を抑え、驚愕の表情を浮かべた。
黒菜の目の前の蛇口は、水を出すことをやめていた。いや、未だに出しているのだ。伊達の膀胱に!
「転送魔法! 伊達の膀胱に水道の水を転送した! さあ、部員の前で漏らせ!」黒菜は高らかに宣言した。もちろん聞いているのはゴエモンだけである。
「その前に、膀胱破裂しないか?」
「死にゃしないんでしょ?」
「そうだけどな……」
膀胱に冷たい水を流し込まれた伊達は、激痛に顔を歪ませて……いなかった。すっくと背を伸ばし、「ちょっとお手洗いに……」と澄まし顔で部室を出て行くのであった。しかし、その顔には汗が滲んでいる。
「おお、耐えきったぞ!」
「ふん、部員の前で放水は避けたようだけど……」黒菜は用具置き場から、清掃中の看板を取り出し、トイレの入り口に置いた。
演劇部の部室から一番近いトイレは、今、黒菜がいるこのトイレだ。伊達が真っ先にここに来ると予想し、黒菜はこの看板を立てた。
伊達は余裕の表情で部室から出ると、一気に加速し、トイレにぶっ飛んできた。そして、トイレに立てかけてある看板を見ると、息を呑み絶望した。影からそれを見ていた黒菜は、音を立てないように笑った。
しかし、ここで諦める伊達ではない、伊達という名前は伊達じゃないのだ。
伊達は一瞬で踵を返し、次に近いトイレにぶっっとんだ。あまりのスピードに、砂もないのに、砂埃が舞い上がっている。黒菜はそれを見ると、さらに蛇口の勢いを強めるのだった。
「さあ、さっさと漏らせーーー!」黒菜はめいいっぱい蛇口をひねった。
しかし、マホーンに映る伊達は漏らさない。顔は苦悶に歪んでいるが、その目は希望を捨ててはいなかった。
「蛇口の勢いを筋力で止めてやがる! こいつの尿道括約筋は化け物か!」ゴエモンは大げさに戦慄してみせた。
「ふん、ならば……これでどうだーーーー!」黒菜はさらにとなりの蛇口、そのとなりの蛇口もひねり、そこにあるすべての蛇口を全開にした。
すべての蛇口は水を出しているようには見えない。しかし確実に、伊達の膀胱へ放水していた。
「あああああああああああ!!!!!」伊達の咆哮がマホーンから響く。
叫びながら走る伊達の前に、教師が出現した。教師は、伊達を視界にとらえた。
「ご機嫌麗しゅう」伊達はにっこりと教師に挨拶した。その歩みは、膀胱が爆発寸前(物理)とは思えないほど優雅だった。
「おう、ご、ご機嫌うるわシュー」教師はなれない挨拶に戸惑いながら、伊達に挨拶を返した。
伊達は教師とすれ違い、曲がり角を曲がった瞬間、また走り始めた。蹴られた床が衝撃でめくれ上がるほどの加速だ。
「すげぇ! 教師の前で体裁を保ちやがった。こいつの体裁は鋼鉄か⁈」
「まだだ! まだおわりではない!」黒菜は興奮しすぎて、アニメのキャラの口調がのりうつっていた。
伊達は教員用トイレを視界に入れた。キキーーッと靴を鳴らし、扉の前に急ブレーキ、そして扉を押しのけ、中に入る。
その瞬間、黒菜の出した足につまづいた。
黒菜は、伊達の動きを予想し、直前、ここにテレポートしていたのだ。
伊達の視界は、床だけになった。黒菜は、倒れゆく伊達をほくそ笑みながら見ていた。
しかし、伊達は思いっきり右足を出し、体を支えた。そして、バレリーナのように回転して、倒れる勢いを利用し、そのまま便座にヒップアタックを食らわした。黒菜には気づかなかったようだ。
唖然とする黒菜。その目の前の個室で、伊達が慌てて下着を下ろす音が聞こえる。
流石に個室を開ける勇気はなかった。黒菜は「やるじゃん」と呟き、その場を去っ……
放水!
「きゃああああぁぁぁぁんんんんんん!!」
伊達の悲鳴とともに、ドドドドドドドというマシンガンの音が聞こえた。どうやら伊達のマシンガンのようだ。
あまりの小水の勢いに、尿道が焼かれるような痛みを感じた伊達は、思わず叫び声をあげたのだ。
黒菜はその声に驚き、伊達の入った個室を見つめた。伊達の声は、途中から口に手を当てているのだろう。くぐもり始めた。
黒菜はトイレからでながら「ふふっ」と笑った。
「おい、黒菜。蛇口戻しておかないと、水道代がかさむぜ。まあ、うちのじゃないけどな」
「あ、うん。じゃあ30分後に閉まるようにタイマーしとくね」黒菜はマホーンをタップする。
「ふふ、お主も悪よのう……」
「いえいえ、伊達ほどでは……」この漫才にも慣れてきた。
黒菜はテレポートで家に帰り、すぐにお風呂に入った。
黒菜がお風呂でくつろいでいる間。伊達はずっと放水し続けた。このまま永遠にトイレから出られないのだろうかと思い、終盤には涙を流していた。やっとトイレから出ると、窓の外は暗くなっていた。
伊達は、スマホで、執事に迎えを要請した。
黒菜は伊達の醜態を思い出しながら、体を洗った。風呂に入っている間、ずっとにやけっぱなしで、風呂から上がった黒菜は、いつもより、さっぱりした気分だった。
真っ暗な台所に歩いて行き、台所の電気をつける。そして、テーブルに置いておいたマホーンを使い、その辺のスーパーから、唐揚げ弁当と、ポテトサラダを取り寄せた。
唐揚げ弁当をレンジで温め、温め終わった弁当の上に、ポテトサラダを乗せ、自分の部屋へ運んだ。
「いい湯だったか?」部屋に入ってきた黒菜にゴエモンが聞いた。
「すごくいい湯だった」黒菜は笑顔で答えた。
「弁当買っておいたのか? 飲み物は?」
「あ、忘れた」
黒菜はそういうと、机に弁当を置き、マホーンをいじり始めた。ジュースを取り寄せたようで、机の上にコーラが出現した。
「魔法って、本当便利だよね」
黒菜がコーラを開けた。プシュッと音がする。
「ちゃんと冷えてるの買ったか?」
「もちろん」黒菜はそういうと、コーラを一口飲んだ。
黒菜はゴエモンと話しながら、弁当を食べ、伊達の観察に移った。弁当の残骸は、ゴミ箱に無理やり突っ込んだ。
昨日、いじめっ子達の盗撮をしてから、気分が悪くなった黒菜は、いじめっ子達の私生活は覗かないと決めていたが、伊達はいま、家族が海外にいると確定しているため、彼女なら見ても問題ないだろうと判断したのだ。
黒菜は無意識に、いじめっ子の家族の悲しむ顔を見ることを拒否していたのだ。
「さて、もう家に帰っているかな」
黒菜はそう言いながら、机に肘をつき、マホーンのカメラ(遠隔撮影)を起動させる。表示されたマップをスライドし、伊達の家をタップした。
マホーンに伊達の部屋が映る。しかし、伊達はいない。
「うーむ、どこにいるんだろうな。人名で検索すれば、すぐ出るぞ」ゴエモンがマホーンを覗き込み、言った。
「わかった。そうする」
黒菜が伊達の名前をマホーンに打ち込むと、マップに伊達の位置が表示された。となりの部屋だった。
伊達は勉強部屋とは別の、ベッドと本棚だけの部屋にいた。寝室のようだ。ベッドには天蓋が付いており、本棚は大層な装飾がされている。黒菜には、無駄に金をかけているようにしか見えなかった。
「いた。今日は勉強しないのかな?」
「股間が痛くて座れないんじゃないのか?」
「まさかぁ……そうなの?」黒菜は伊達の動向をしっかり見るようにした。
伊達は、ベッドから立ち上がるときに、なるべく尻に負担をかけないような仕草を見せた。歩き方もゆっくりとして、いつもより若干ガニ股で歩いている。正直言って情けない歩き方だった。
「ふふふ、なにあれ? ださ……」黒菜は伊達の情けない動きにご満悦だった。
その時、伊達のスマホが鳴った。
「お、誰かから電話がかかってきたぞ」
「ん? 親かな?」
伊達は部屋から出ようとしていた足を止め、ガニ股で歩きながら、枕元のスマホに向かった。
「スマホを取るのも一苦労だな」ゴエモンはクククと悪い笑みをこぼした。
「うーん。まずいね……これじゃ、明日学校休むかもしれない……」
「じゃあ、治してやったらどうだ? そういう機能もついてるんだぜ」
「マジで? そういえば、アプリ内に、回復って項目があったね」黒菜は、伊達の観察を一旦やめ、マホーンを操作し、回復の項目をタップした。
「あった。怪我の治療」
「それをタップして、治療したい人間の名前を入力だ。もちろん音声入力もできるぞ」
「えっとじゃあ……伊達麻紀を治療」黒菜がそう言うと、怪我の位置や不健康な部分が表示された。
「その中から、治したい場所を選ぶんだ」
「なるほど! うん、全体的に健康だね。尿道以外は……ふひひ」黒菜は不謹慎な笑い声を出した。「じゃあ、治療」
黒菜がボタンをタップすると、効果音がなり、治療完了という文字が出た。
「うわ、速い」
「ちなみに、ほかのやつの治療も出来るぜ、今のプランだと制限はあるがな」
「制限?」
「ああ、黒菜自身と、黒菜が魔法で傷つけたやつしか治療できない。例えば、魔法を使わず、黒菜が力ずくで傷つけたやつは治療できない」
「ほかのプランだとできるの?」
「ああ、確か百万円プランからだな?」
「え? なんでそんなに高いの?」
「どんな怪我でも治療できるとなると、医者の真似事を始める奴がいるからな。そう言う奴のために、ほかの魔法もセットで売らないと危険なんだよ。まあ、未成年には関係ないから安心しろ」
「そ、そうなんだ。ああ、ふーん……」黒菜は物事を深く考えるのが苦手だ。医者の真似事をして、なぜ、百万円プランが必要なのかわからなかった。
「ちなみに……」
「ちなみに?」
「自分の便秘の解消なら、今の料金体系でできるから、活用するといい」
「余計なお世話なんだけど……」
実は、余計なお世話ではなかった。
「それはそうと、伊達の様子を見なくていいのか?」
「あ、そうだった」黒菜は急いで、伊達をマホーンに映した。
マホーンに映る伊達は、ベッドに寝っ転がりながら、スマホで電話をしていた。
「今ちょっと、座れない事情があって……寝ながら話してますの、申し訳ありませんわ」
「言わなきゃ分からないだろう……」ゴエモンは突っ込んだ。
「相手は誰だろう? 親かな? 伊達は誰にでもほとんど同じ口調だから、わかりにくいよね」
「いや、親じゃないな。親の時より、声に気遣いが無い」ゴエモンは目をキラリと光らせた。
「え? そんなの分かるもんなの?」
「俺は使い魔だからな。ご主人の気分に合わせた行動を取るために、人の表情を、ある程度読み取れるようになってるんだ」
「え? じゃあ、私の表情も読み取ってるの? しかも、その表情に合わせた行動をするの?」
「ああ、そうだ。いつも風呂を覗いてもらいたそうな顔をしていたよな?」
「してねえよ!」黒菜の唾が飛んだ。
「着替えは?」
「見て欲しいなんて思ってない!」
「ふふ、ならそういうことにしとくぜ」
「バカじゃないの!」黒菜はゴエモンに、鉄槌を三度食らわせる。ポフポフッと音を立て、ゴエモンは潰れと弾みを繰り返した。
黒菜は鼻息を荒くしながら、マホーンの視点を伊達のスマホに近づけた。伊達が話している相手の声が聞こえてくる。
『なに? 座れないって、痔? 痔だろ? アナルオナニーにでもハマったの? ケツで自慰しすぎて痔ぃってか? ギャハハハハハ!』電話の相手は下品な子のようだ。声は甲高く、少年か、女子の声に思える。
「ちょっと桜木さん? 笑い事ではないのよ? 山田さんは精神病院に入院しているし、横井さんは一生両手に麻痺が残るようになったし、あと、神崎さんは……両足が疲労骨折して、一生松葉杖よ。深刻ですのよ……」相手は桜木という名前らしい。
黒菜はそれを聞いて、静かに息を吐いた。自分がしたことに罪悪感を感じているのだろう。でも、理性はそれを無視しようとしている。なにせ、自分はそいつらのせいで、自殺しそうになったのだから。
「私は殺されそうになったんだから……」口にも出した。
「で、それをした犯人が、その……私たちがいじめていた、黒沢さんのような気がするのよ……証拠はないんですけれど……なんとなく」伊達は珍しく、自信なさげに話した。
『そいつが犯人だったとしたら、その黒沢って奴は、随分優しいんだね。それとも大馬鹿かな? お前らのいじめ、動画で見せてもらったけど、私がいじめられる側だったら、一族皆殺しにしてるわ。殺されないだけマシだと思いなよ! あはははは!』桜木と呼ばれた子は、マシンガンのように言葉が出てくる。
「なんだこいつ、誰の味方なんだ?」ゴエモンがつぶやく。
「動画って、そういえば撮られたことある……」上半身を裸にされ、胸にタバコを押し付けられた。確かその時撮影されていたような気がする。その時の痛みがフラッシュバックし、胸がじわっと焼ける感覚がした。
「桜木さん! 私は真剣に話してるんですのよ!」
『あはは、ごめんごめん。じゃあ、伊達は何をされたの?』
「え?……えっと……」伊達は言いにくそうにしている。
『何? 恥ずかしいことされたの? 言いたくないなら言わなくてもいいよ。早く言ってよ!』この子は何を言ってるのだろう。
伊達は大きく咳をして、覚悟を決めた。
「あの、お小水が……止まりませんでした」
『え? おしっこ? 止まらない?』
「はい、30分以上……」
『出続けたの?』
「はい、ものすごい勢いで……」
沈黙……。
『あははははははははははは!』
桜木は大笑いした。間接的に聞いている黒菜の耳が、キーンとなるほど大声だった。
「何この子!」黒菜はマホーンを持った腕を伸ばし、首を曲げ、笑い声を出来るだけ耳から離した。
「まるで、ヤク中だな」ゴエモンは手で耳をたたんでいる。
伊達は、桜木の笑い声がおさまるまで、スマホの上に枕をおしつけた。しばらく経つと、笑い声は、荒い息遣いに変わっていた。
『はあはあ、もし、その黒沢ってのが犯人なら、最高に面白い奴だね。ひひひ……』
「桜木さん? 私は、それで……その……尿道付近がとても痛くなったんですのよ?」
『ああ、それで座れないのか……』
「そうですのよ、今だって……」伊達はそう言い、下腹部に手を当てた。
痛くない。さっきまで歩くのもやっとだったのに。伊達は、立ち上がり、足を上げ下げした。
「あれ、痛くありませんわ! さっきまで歩くこともできなかったのに!」
『え? マジで言ってんの? 薬は?』
「いえ、何も飲んでませんわ。おかしいですわね」
『誰にも言わないから、へんな薬は?』
「いや、何もやってませんわよ⁈」
『へえ……』桜木はしばらく黙った。
桜木が黙ると、伊達も黙った。何か答えを待っているようだった。
『面白いね……』
黒菜はゾッとした。
さっきまで馬鹿みたいに、下品なことを喋っていた桜木が、低く、それでいて、知的な声を出したのだ。その声は、鋭いナイフのように黒菜の心に突き刺さり、嫌な予感を植え付けた。
『伊達ぇ、監視カメラ仕掛けろよ。それで、その黒菜ってやつと、教室全部を映せ。あと、お前の視点も』
「え? 盗撮するんですの? それって違法じゃ……」
『は? お前何言ってんの? いじめって犯罪だって知ってるか? 傷害罪、窃盗罪、暴行罪、侮辱罪、名誉毀損、強要罪、器物損壊、恐喝罪、さんざん違法行為してきたくせに、盗撮くらいなんだよ。くだらない』
「あ、そうですわね……」伊達は、桜木という子に圧倒され、声が小さくなっていた。
『前に作ってあげた小型カメラ、まだある?』
「ええ、ありますわ。修学旅行の時に、おでこにつけましたわ、その節はどうも」
『じゃあ、それを使って撮影して。撮影できたら、逐一、私に送信してよ。それで面白そうか判定するから』
「面白そうじゃなかったら?」
『解決方法は口頭で説明する、それで終わり』
「ああ、そうなのね……わかりましたわ。では、また」
『おやすみー』ガチャ!
面白そうだったら、どうするつもりなのだろう。伊達と黒菜は二人とも同じ事を考えていた。
しかし、違う考えもあった。伊達は、桜木に助けに来て欲しいと思っていたが、黒菜は、桜木に会いたくなかった。桜木に対して、うるさい印象以外に、なんとなく嫌な感じがしたのだ。
黒菜の不安そうな顔をみて、気を使ったのか、ゴエモンが黒菜の顔を覗き込んできた。
「心配するな、あの桜木って奴がどんだけ頭良くても、魔法にかなう奴なんていない」
「もしかしたら、あの桜木って子、マホーンを持ってるんじゃない?」
「いや、あいつの名前は魔装契約者のリストにはない。偽名は使えないから、大丈夫だ」
「わかった。それなら……」
黒菜の理性は納得した。しかし、心の奥底では、桜木に対する不安は消えていなかった。
黒菜は、心にモヤモヤを抱えたまま、眠りについた。