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05 なくしたものは

 * * *



 (つき)()は目覚めて少しの間、自分がどこにいるのかわからなかった。



 初めは視線だけを動かし、次に首もゆっくりと動かしながら周囲を確認する。病室のようだった。


 病院特有の匂いの中に、甘い香りが混ざっている。夏を思わせるその香りがどこから漂って来るのかしばらく考え、(すい)(みつ)だと気付く。

 小さい頃からの月華の好物のひとつだった。



 ふと、サイドテーブルに置かれている物に視線が()まる。月華の手帳だ。

 青を基調としたチェック柄の表紙は(すす)けたように汚れている。大切に挟んである写真の角がちらりと見える。


 ぼんやりと眺めているうちに、突然記憶がよみがえった。



「あ、あ、あああっ! たけちゃん――たけちゃんたけちゃんっ!」



 月華の叫び声を聞き、眼鏡を掛けた小柄な看護師が飛び込んで来た。

「どうしましたっ? あぁっ、笹井さん!」


 慌てた看護師に押さえつけられるが月華は激しく抵抗した。

「たけちゃん! たけちゃんを助けなきゃ! たけちゃんが燃えちゃう! あたしのせいで!」


「大丈夫ですよ。燃えてませんから落ち着いて。大丈夫だから」


 暴れる月華を押さえながら、それでも看護師は穏やかに声を掛け続ける。



 振り回す月華の腕が当たって彼女の眼鏡が飛んだ。




 カシャン――




 月華はその音ではっとする。



「大丈夫、ですから」



「――本当?」



 看護師は何に対して『大丈夫』と言ったのか月華にはわからない。だが困ったような表情のまま微笑む彼女を見ているうち、ようやく月華は落ち着いて来た。

 それとともに湧き出すのは後悔の念と、彼女に対する申し訳なさ。



 だがまた、鮮烈な炎の映像が脳裏に浮かぶ。


 あの状態で、どうして『燃えてない』なんてことがあるのだろう――それとも、先にミラーハウスから避難できていたのだろうか。

 思わず身震いをする月華。



 看護師は月華の頭を優しく撫で、乱れた髪を直す。


「怖い思いをしたのね――かわいそうに」



「ううん、あたしよりも……あの、看護婦さん、たけちゃんがどうなったか知ってますか?」


 知るはずがない、もしくは知っていても教えてくれないんじゃないだろうか、そう思いながらも問わずにはいられなかった。

 看護師はまた困ったような笑顔になり、首を傾げた。


「私はちょっと――担当の人を連れて来るから待っていられる?」

「わかりました……」


 月華は深く息をつく。看護師はようやく安堵した表情になり、押さえている力をそっと緩める。


「いい子にしていてね?」

「はい――あの、ごめんなさい」


「ううん。起きたら病院(こんなとこ)だものね、驚くのも無理はないわ」

 そう言って、看護師は床に落ちた眼鏡を拾う。



「じゃあ待っててね」


 看護師は眼鏡を胸ポケットに引っ掛けるともう一度振り返り、病室を後にする。


 出て行く時に扉に隙間を開けて行った。そこから何かが――今度は月華を捕らえるために――病室に入って来るのでは、という恐怖がよぎる。



「そんなわけ、ない」と月華は声に出し、首を振る。


 ここは真昼の病院だ。どこもかしこも白く、清潔で安全なんだ。看護婦さんだって「大丈夫」って言ったじゃない……



 月華は自分にそう言い聞かせ、深呼吸をして目を閉じた。



 * * *



 今日の担当だという看護師のネームプレートには『新庄』と(しる)されていた。


「よろしくね、月華ちゃん」

 看護師の新庄はてきぱきと月華の世話をする。検温したり脈を取ったりしてはカルテに書き込み、「何か欲しいものはある? あとご両親に連絡とか――」と、小首を傾げながら問うた。


「特に……あの、お父さんたち、怒ってましたか?」


「ん~、あたしはその時いなかったけど――」とカルテをめくる。

「怒ってなかったみたい。というか泣いてたようよ。安心なさったんでしょう。あたしが言うことじゃないけど、もうこんな危ないことしちゃ駄目よ?」


 苦笑する新庄に対し、月華はいたたまれなくなり首をすくめる。


「はい……ごめんなさい」



「謝るのはご両親にね。あと、心配掛けるのは……なんて、言い過ぎはお節介ね」

 あはは、と軽く笑って彼女はカルテを置く。



「あの、それで――」


「ああ、『たけちゃん』ね。それを訊きたいんだったっけ」

 意味深長な笑みを浮かばせながらそう言われて、月華は赤面する。



「たけちゃんなら大丈夫よ。月華ちゃんが――あ、月ちゃん、って呼んだ方がいいのかしら?」


「どうして……?」

「お見舞いに来た子がそう呼んでいたのよ。彼氏くんかな? たけちゃんって」


 ふふ、と微笑む新庄に、月華は言い訳する。

「その……幼なじみで、小さい頃から一緒だったから」


「そうなの。いいなぁそういうの。お姉さんにはいなかったのよねえ」

 その口振りはどうも、(たける)のことを月華の彼氏だと決めつけているようだった。



 そんなんじゃない、と言ってもよかったのだが、じゃあどんな関係なのかと問われると月華自身にもよくわからない。



「もう少ししたら来ると思うわ。学校が終わる時間なんでしょう? 待ち遠しいでしょうね。いいなぁ――じゃあ、あたしは戻るわね。何かあったらこれ、押して呼んでね」


 扉を閉める直前、もう一度笑顔を向けて看護師は出て行った。




 数分後、コンコンと扉をノックする音が聞こえ、月華は「あ、はいっ」と勢い込んでこたえる。

 すると待ちきれないような勢いで扉が開く。そこには、目の前の光景が信じられないとでも言いたげな表情をした健が立ち尽くしていた。



「月ちゃん――目が覚めたって聞いたから……」

 頬が紅潮しているのは嬉しさからだろうか。目も少し潤んでいるようだった。


「良かった。ほんとによかった。もう一度会えるなんて――」



「え、やだそんな、大袈裟だなぁたけちゃ――健くん」


 月華が苦笑すると「たけちゃんって呼んでよ。僕そっちの方がいい」と、健は悲げな表情になる。



「え、そうなの? 健って呼べって、あんなきつい言い方で」


 月華の言葉に健は一瞬、何か込み上げるのをこらえるように顔を歪ませた。



「それは――でもやっぱり、そうじゃないことに気付いて。月ちゃんには、たけちゃんって呼んで欲しいって思ったから」



「そう、なの。実はあたしも、月ちゃんって呼ばれるのは久し振りで嬉しかった」


 じんわりと月華の心に安堵が広がった。

 ミラーハウスに入った後に変わってしまった(たけちゃん)が、もう一度入ったことによってまた戻って来た――そんな風に感じられた。


 でもそんな不思議な話があるわけない、とも思う。




 小さい頃、月華たちは大切な人たちを失った。

 健の変化はそのせいだと考えていたが、月華は最近、健と一緒にいることをつらく感じていた。


 喪失をいつまでも昨日のことのように感じさせられるからだ。



 では何故、また健が昔の彼のように戻ったのだろう――そこに小さな疑問が残る。だが今の月華にとっては些細なことだ。

 自分も健も無事に帰って来れたのなら、それ以上の何を望むというのか。



 失った半身は戻って来ない。

 過去は変えようのない事実。


 あれはきっと、そのことを確認するための儀式だった、と月華は思い直す。

 そして月華にとっては、健がどれだけ大切だったかを思い出すための儀式でもあったのだろう――と。




「ねえたけちゃん。ミラーハウスの中で(にち)()に会ったの……って言ったら信じてくれる?」


 ベッドの縁に腰掛けた健に、月華は重大な秘密を打ち明けるように囁いた。

「何言ってんだ。莫迦莫迦しい」と言われるのを少し恐れながら。



「へぇ……? 夢を見たんじゃなくて?」

 健は寂しそうに微笑む。


「え? う~ん。そう言われると、自信がなくなって来るなぁ」

 直接触れたわけではないから、パニックになって幻覚を見ていたんじゃないか、という気にもなる。



「でも、月ちゃんが会ったというのならそうなのかもね。あのままミラーハウスの中に取り残されていたらと思うと……きっと、そうならないように、日香ちゃんが助けてくれたんだよ」



 微笑む健を見て月華は安堵する。やはり健は優しい、変わっていない、と。


「やっぱりそうかな。日香はあたしが困っている時いつも助けてくれたから。そうだといいな――本当はもう一度会いたかったけど」



 月華がそう言って笑うと、健は息を飲んだ。

「――ごめんね」



「え? 何か言った?」

「ううん、なんでもない」と、健は俯いてぼそりとつぶやく。




「ねぇ……月ちゃんのこと、ぎゅーってしていい?」


「な、なんで急に」

 ミラーハウスに入る前の約束を思い出し、月華はうろたえた。



「小さい頃は月ちゃんがよくしてくれたじゃない。僕が悲しい時にさ。だから今度はその、僕が……だ、駄目かな?」


 遠慮がちに訊ねる健の顔は耳まで赤かった。



「そうだけど――何年振り?」

 くすくすと笑う月華の頬もうっすらと赤い。


「いいよ――でもまだちょっとあちこち痛くて。筋肉痛かな、だから――」


 最後まで言い終わらないうちに、月華は健にそっと抱擁される。

 緊張でこわばった健の腕は、強引にキスしようとした時の様子とはまったく違い、昔ながらの臆病で慎重な健そのものだった。



 まるで別人みたい……やっぱりあれは、恐怖を誤魔化すために虚勢を張っていたんじゃないかな。

 月華は抱き締められながらそんな風に考える。



「あのまま失くしてしまうのかと思って……でもこうしてると、僕はちゃんと生きてるんだあって感じられる。ほんとよかった……」


 健は鼻声だった。



「大袈裟ぁ……泣いてるの? なぁんだ、相変わらず弱虫くんなんだから……」


 月華は思わず笑うが、その声もまた少し鼻に掛かり、震えている。




 午後の陽射しは、寄り添う二つのシルエットを柔らかく浮かび上がらせていた。


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