04 さいごの決意
「そうか。康は持っていないんだね。あれ見たかったなぁ……」
健は少し寂しそう顔を伏せるが、すぐまた上げた。
「ね。僕って、大きくなったらそんな顔になるんだね……ここには鏡がないから、自分の顔も忘れちゃったんだよ」
ふふ、と健は微笑む。
「そ、そうか。まぁ、ぼ……俺らは一卵性双生児だからな。健も中学生になったらこういう顔だろうな」
康は引きつりながらも笑顔を浮かべて同意した。
「そうだね――」
だが健の笑みは間もなく消え、また深くため息をついた。
「――僕たちね、賭けをしていたんだ」
「賭け?」
急に話を変えられ、康は不審げな表情になる。
「ここが壊される前に康たちが来てくれるか、ってのと、僕たちのどっちがどっちに先に会うか、っていう」
健はそう言いながら、悲しそうに微笑んだ。
「何を言ってるんだ?」
「確率的には四分の一だろ? 僕が康と会う、僕が月ちゃんと会う……それから、日香ちゃんが月ちゃんと会う、日香ちゃんが康と会う」
康はゴクリと唾を飲み込んだ。
『確率』などという言葉を、四歳の彼が知っていただろうか――康には当時の自分たちの様子が思い出せなかった。
それよりも、本当に健なのだろうか。十年間、まったくと言っていいほど変化していない、今自分の目の前にいるこれは、一体――
「それがどうしたっていうんだ?」
ようやく声を絞り出した康だったが、対して健は表情を消し、何度目かのため息をついた。
「このミラーハウスがさ、要求するんだ。『代わりに置いて行け』って」
「代わりって……?」
康はここにまつわる噂を思い返してぞっとした。それは『ミラーハウスに入った人が、別人のようになる』という噂だ。
そして、この遊園地では子どもが消えるという噂も。
だが、健と康はミラーハウスに入る前に入れ変わっていたのだ。
お揃いの服を着ていたので名札を取り換えるだけでいいから、と半ば強引に康が入れ替わりごっこを始めた。
嫌がる健には「ちょっとしたいたずらだ」と康は説明したが、本音は健への対抗心があった。
当時、入れ替わっていた事実を知っているのは健と康の二人だけ。
結果として日香と健は帰って来なかったが、康はミラーハウスの噂は信じていなかった。
それでも後ろめたさはいつまでも残った。
だから健として月華を守って行こうと決心もしたし、健と自分とのギャップにも苦しみ、時には月華に当たってしまうこともあった。
「僕は充分待った。本当は康がここに残るはずだったのに、あの瞬間僕が身代わりになったんだ」
「健……」
外見は幼いままで、既に自分とは異質の存在になった双子の片割れ。
「僕は一番大切なものを失ったまま、この十年間を過ごして来た。月ちゃんは家に返してやらなきゃいけないから、今度は康の番だ」
「な、何を言ってるんだお前は」
「ミラーハウスが望んでいるんだよ、康」
健は暗い笑みを浮かべる。
「莫迦じゃないのか!」
反射的に、康は叫んでいた。
「お前も日香ももう死んでいるんだ! ミラーハウスの噂なんて嘘っぱちだ! 僕は――俺は、月華が一番大事で――今も――」
叫びながら、康はめまいを感じる。
自分を見つめる健の冷ややかな視線が全身に刺さるようだった。
ここは空気が薄いのだろうか、と康は一瞬思う。
酷い立ちくらみのようなめまいに足元がふらつき、視界の中の地面が近くなる。
「たけ――」
呼び掛けようとするが更にめまいが酷くなり、両手で上半身を支えていないとそのまま突っ伏してしまいそうだった。
「月華が大切だなんて嘘だろ。康は自分が一番大切だったんだ――だから健が邪魔になった」
健の声が頭上から聞こえる。
いや、それは康自身の心の声かも知れない。聞こえて来たのは幼稚園児特有の高く幼い声ではなく、変声期を迎えた少年の声だったのだから。
「俺は――」と、その声に言い返そうとしたが耐え切れず、康は倒れてしまう。
「――月華は絶対守る……」
固い決意を込めた少年の言葉が、さいごに聞こえた。
* * *
「待って! 日香! 置いてかないで!」
月華はミラーハウスの中でまた迷っていた。
くすくすと笑いながら、鏡の中の日香は逃げて行く。その姿は時々消え、また二人にも三人にも増え、月華を惑わしながら移動する。
どこをどう歩いたのかもうわからない。
あの大きな鏡の場所にひとりで戻れる自信はなかった。
「ねえ日香――」
「こっちだよ」
すぐ耳元で声が聞こえた気がして咄嗟に手を伸ばすと、ひんやりとしたドアノブに触れた。
「日香っ?」
勢いよくドアを開けると、先ほど上って来た階段があった。
「――あれ、外に出ちゃった……?」
しかし日香の声がしたのはこっちの方だったはず、と月華は階段を下りる。
ひょっとして迷っていた月華を案内してくれたのだろうか、と考えながらまた呼び掛ける。
「日香? どこなの? 今までどこにいたの? ねえ、出て来て? お願いだから一緒に帰ろうよ……」
日香を探し、ミラーハウスから離れてきょろきょろしていると、後ろの方からバチバチと爆ぜるような音が聞こえた。
「あれって確か――たけちゃんがロウデンって言ってた音?」
引き返して様子を見て来ようかと一歩踏み出した時に――
ボ、ボンッ
建物の裏手から小さな爆発音と共に、炎が突然ごうと噴き上がる。
「え、やだ、たけちゃんっ? 日香?」
勢いよく燃え上がった炎は瞬く間にミラーハウスを覆う。
古い木造の建物のため、引火してしまえばあとはただ燃えるばかりだった。
月華はぎゅっとマスコットを握り締め、恐怖で震える脚をミラーハウスの方へ踏み出す。
「だめ……燃えちゃ駄目だよ。だって、まだ中にはたけちゃんが――たけちゃん! 誰か!」
しかし炎の勢いは留まるところを知らず、轟々と音を立てて燃え盛る。
やがて何かに引火したのか、小さな爆発が次々と起こり始めた。
次第に火の粉も舞い始め、炎の熱と恐怖のために月華はそこから一歩も進めなくなってしまった。
いつの間に野次馬が集まり、周囲が騒がしくなっている。遠くからサイレンも聞こえ始めた。
ゲートの中にいる月華を見咎め、火事から引き離そうとした数人がゲートを乗り越えて近寄って来た。
だが月華はそれらにも気付くこともなく、声の限りに健を呼び続ける。
大きな爆発が幾度か起こり、野次馬からも悲鳴があがる。踏み出そうとして片足を浮かしていた月華はその爆風で数メートルも飛ばされ、全身を地面に叩きつけられる。
今度は月華の近くで悲鳴があがった。
「おい、大丈夫かあんた!」
誰かが呼び掛ける声が聞こえた。身体を揺す振られるような感覚もあったが、月華は既に朦朧としている。
「たけちゃんが……まだ……」
ようやくそれだけ囁くと、月華は意識を失なった。