03 別離と再会
* * *
「たけちゃん! たけちゃん!」
月華は大きな鏡を叩いて叫んでいた。
健が全身の体重を掛けて大きな鏡を押した瞬間、月華は地震が起きたかのような揺れを感じた。
しかしそれは、目の前の鏡が震えたせいだった――と気付いた時には回転ドアのようにくるりと鏡が翻り、その隙間に健が吸い込まれて行くのが目に入った。
慌てて手を伸ばすが間に合うはずもなく、叫び声ひとつあげず目を丸くして月華を見つめる健の姿は、見る間に小さくなって行く。
健が暗闇にすっかり溶けてしまうと、鏡は満足気にまたぶるぶると揺れ始め、隙間を閉じるべくゆっくりと回り始める。
「だ、だめっ!」
月華は慌てて鏡を押すが、鏡は小柄な月華を容易に押し返し、間もなくぴたり閉じてしまった。
その後はどれだけ叩いても押しても、大きな鏡はぴくりともしない。
呆然としてその場に座り込んでしまった月華には、目の前で起こったことが事実だとはまだ思えなかった。
月華たち幼馴染み四人のうち、三人もがこの建物に飲み込まれてしまった――しかもその原因が自分であるということが、徐々に月華の上に重く圧し掛かる。
あの時も、ここに入りたいと言い出したのは月華だった。今日も、あたしが探しに行こうと言い出さなければ、健が消えることはなかったのに――
激しい後悔が月華を襲う。
「どうしよう……あたしのせいで」
助けを呼ばなければ、と頭の隅では思う。
だがどうすればいいのかまったく思いつかない。
鏡を叩き割るにしても手近なところに手頃な得物は見当たらない。
携帯を持っていることすらも、月華の意識からはすっかり消えていた。
どれくらいそうして座り込んでいたのだろう。
ふと、月華の視界のの端で何かが動いた。それに気付いた時には月華の背筋に冷気が駆け上がったが、同時に一縷の望みも抱いた。
「たけちゃん?」と月華は呼び掛ける。「たけちゃん? 大丈夫だったの?」
ふらふらする足で立ち上がり、その何かを追う。
それが映っていたと思った場所は、三叉路のように分かれていた。
「どこにいるの?」
心細さで声が震える。
くすくすと笑い声が聞こえて来た。中学生の健のものではない、小さな子どものような無邪気な笑い声。
「だれ?」
「――あたし」
今度は後方から声が聞こえて振り返る。しかし鏡に月華が映っているだけだ。
と――鏡の中の月華が薄く微笑む。
「あたし。久し振りだね、月ちゃん」
「うそ……日香?」
薄暗い中で目を凝らしてよく見ると、月華より髪が短い。月華よりも目尻が上向きな気がする。
何よりも左頬のほくろ、そして月華にはないえくぼ――それだけは見間違いようがない。
似ていないと言われていた双子の日香が、そこに立っていた。
「嘘じゃないよ」
そう言って鏡の中の日香はまた笑った。
* * *
「たけちゃん!」
倒れるままの体勢で健が振り返ると、手を伸ばしている月華の姿が見えた。
どうやら鏡は中心を軸に回転するような仕組みだったらしい。
だがそれらは、健の視界の上方へぐんぐん遠ざかって行った。
ボフッ――
健は肩と背中に柔らかい衝撃を感じる。
マットレスのような物の上に落ちたらしい。左肩を下にして落ちたが衝突時の痛みは意外になかった。
時間にしてほんの数瞬の落下だったはずが、上方に月華の姿は見当たらず、呼び掛ける声も聞こえない。
「鏡にぶつけた時の方が痛かったな。マットがあって助かった……でもここ、どこだろう?」と、健は独りごちる。
そのまま飛び降りると、マットは胸の下辺りまでの高さになった。一メートル以上もの厚みがあったらしい。
健は広い部屋にいた。
ここが図面に載っていた――いや、載っていなかった場所なのだろうか、と周囲を見回す。壁には鏡の一枚もない、がらんどうの空間だった。
迷路とは違う薄明かりが部屋に満ちている。
光源を探して見上げると、明かり取りの小窓が天井についていた。
スタッフルームとして使われていた場所のようにも見える。
「しずる……」
突然呼び掛けられて声の方向に振り向くと、小さな男の子が部屋の反対側の壁際にいた。
「誰だ? どうしてその名前――」健は相手を睨みつける。
「僕が怖いの? こんなに小さいのに」
男の子はふふ、と笑う。その笑い方に聞き憶えがあった。
「まさか――健なのか?」
いや、そんなはずがない……と心の中で続けてつぶやく。
俺が中学生になったのだから、あいつも同じだけ成長していなければならない。こんな小さいままなわけがない、と。
「そう――健だよ。久し振りだね、康」
にっこりと微笑む。それは記憶の中の彼と同じ笑みだった。
「でも、そんなはずは」
「何が?」と小さい男の子は首を傾げる。
「健は行方不明になって、万が一生きてたら俺と同じ――」
健――いや、康は自分の言葉に愕然とする。
万が一生きてたら?
思わず出た言葉に、健がもうこの世にいないことを望んでいる、と白状してしまった気分になる。
「やっぱり、そうだよねぇ……僕、生きてるわけがないって思うよね」
小さいままの健は自嘲的に笑う。
未だ園児のように見える彼には不似合いな表情だった。
「どう説明したらいいかなぁ。僕と日香ちゃんは、ずっとこのままここに閉じ込められているんだよね。ミラーハウスに入って来た人たちの声は聞こえるけど、誰も僕たちの声には気付いてくれない。おかしいとは思ってたんだけどさ。空腹にもならないし眠くもならないんだ。ずっと……ずうっと」
「そ、そうなんだ」
康は半信半疑で健の言葉を聞いていた。
頭を打って幻覚が見えているのかも知れない……いや、いっそのこと幻覚だった方がよほどいい。
そう思ったが、何度も目をしばたかせてもこっそり自分の腕をつねってみても、目の前の健は消えそうになかった。
「あの日、康たちとはぐれて迷って、仕掛け扉からここに落ちてさ。その日は多分、ずっと気絶してたみたいだ。目が覚めた時には周りが静かだったから」
「でもさ、でも、日香と一緒だったんだろ? 日香はどこに……」
「あぁ、そうなんだけどね――それはもういいんだ」
ふぅ、とため息をつく。
健の声を聞いているうちに、康の心には急速に恐怖が芽生えて行く。
目の前にいる健が幻覚でなければ、幽霊の類かも知れないという考えも頭の隅にあった。
だが万が一、健がこのままの姿で今まで生きていたのだとしたら……?
「そうだ康。あの日、ここに入る前に記念撮影したよね。あの写真は?」
と、健は幼く無邪気な声で問い掛ける。
「それは――つ、月華が持ってて」
康は何故だか落ち着かない。寒いわけではないのに鳥肌が立っていた。




