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第一王子、対応を誤る

 王太子府での雑務を終えると、トリスタンはユリアーネのために準備した一室へ向かった。どうも浮かない顔だった様子の彼女を気遣って。そして弟のジークフリートが上手くやったか確かめたくて。


 一瞬、彼女はどこかへ散歩にでもでているのかと思った。時刻は夕方だというのに、ユリアーネの部屋に灯りがともっていなかったから。


「ユリア、いないの……?」

「――殿下……?」


 返事がないことを予想しつつも一応ノックしてみると、しかし扉は内から開かれた。


「ユリア……!?」


 だが、薄暗い室内から顔をのぞかせたユリアーネのあまりの顔色の悪さに、トリスタンは言葉を失った。中へ導かれるのももどかしく、ほとんど突き飛ばしかねない勢いでに駆け寄って肩を揺さぶる。


「どうしたんだ!? 誰かにいじめられたのか!? まさか、ジークが――」

「いいえ、そんなことは。いじめられるなんて、ありません……」


 弱々しく首を振るユリアーネの言葉は、とても信じられるものではなかった。どうしてひとりにしてしまったのかと、トリスタンは内心で激しく自分を責めた。アーデルハイトはそんなことをしないと信じているが、彼女を崇拝する者が多いのは彼もよく知っていたのに。アーデルハイトとの婚約破棄は全てトリスタンに咎があるはず。決してユリアーネが標的になって良いはずがない。

 後悔に身をさいなまれながらユリアーネを抱きしめようとすると、少女は彼の腕を振りはらうようにして逃げてしまう。怯えきった仔兎のような、見るも哀れなようすだった。


(私に近づくな、とでも言われたのか!?)


 うつむくばかりのユリアーネをどう慰めたら良いか分からなくて、トリスタンはただ途方にくれた。触れるのを拒否されてしまったら、一体どうしたら良いのだろう。


「誰に……なんて聞いても君が言うはずはないな。でも、私を頼ってくれて良いんだよ? 君のためなら、私は何だって苦にはならないんだから」

「本当にわたしのため、でしょうか……?」

「え?」


 涙のにじんだ目で見上げられる。弱りきってはいても可愛らしく、儚げな姿はやはり抱きしめたくて仕方なくなる。だが、そんな場合ではないということは、恋に浮かれたトリスタンにもさすがに分かった。


「落ち着いて、泣かないで……」


 彼は王太子としては一応優秀ということになっていた。年長の重臣に囲まれても、他国の大使と相対しても、それなりに威厳を保って振る舞えるはずだった。それが、恋した女性の涙を前には今まで培った知識も経験も何の役にも立たなかった。


「……お茶でも飲もうか?」


 そうしてどうにか絞り出した言葉は、いかにも間抜けで気のきかないものだった。




 それでも甘くした熱い茶を啜るうちに、ユリアーネも多少は落ち着いてくれたらしい。ぎこちなくではあったが、トリスタンに微笑みを見せてくれる。


「取り乱したところをお見せして、申し訳ありませんでした」

「いや、笑ってくれて嬉しいよ」


 そうは言いながらも、トリスタンの表情も声もやや沈んでいる。彼のいない間に何があったのか聞きたくてたまらないが、聞いても良いものか分からなくて掛ける言葉が見つからなかった。部屋に灯りをともした後でも、微笑みを浮かべてはいても、ユリアーネの表情は明らかに暗かったから。


「あの、殿下にお聞きしたいことがありましたの」

「何だい?」


 だから、ユリアーネの方から切り出した時、トリスタンの声は弾んでいた。彼女が自分の行いを必ずしも喜んでいないことに、気づいてはいたから。弟とこそこそとした企みを巡らせてはいても、彼女の心が得られなければ意味がないから。だから、ユリアーネが心の裡を明かしてくれると思って舞い上がったのだ。


 ユリアーネは茶器を卓に置くと姿勢を正し、両手を膝の上でしっかりと組んだ。その表情は真剣そのもの。上向いたばかりのトリスタンの気分が瞬時にしぼみ、不安に唇を結んでしまうほどに。


「ジークフリート殿下にお聞きしたのですが」

「弟に?」


(やはりあいつか……!)


 真面目な顔でうなずきつつ、トリスタンは内心で弟を罵った。計画に協力してくれているとはいえ、ジークフリートの動機はあくまでアーデルハイトを手に入れること。そもそも弟はアーデルハイトを崇拝しすぎているきらいがある。ユリアーネの前で想い人を褒めちぎって彼女に劣等感を覚えさせるくらいのことはあったのかもしれない。


「あいつの言うことなんか気にしなくて良い。何なら私から叱っておこう」

「そういうことではないのです」


 頼りがいがあるところを見せようと毅然として言ったつもりなのに、ユリアーネはふるふると首を振った。


「あの、ジークフリート殿下は仰っていました。殿下は堅苦しい王宮や、義務を……何というか煩わしく思っていらっしゃったと。それで、アーデルハイト様とも、その、あまり仲がよろしくなかったと……」


(なんだ、そんなことを言ったのか)


 トリスタンは、神妙な顔で聞き入る振りで、表情には出さずにいぶかった。ジークフリートが言ったということは、彼らの計画に沿ったもののようだった。つまり、客観的にもトリスタンは王太子に相応しくないと聞かせることで、ユリアーネの後ろめたさを拭おう、という。ユリアーネはどうやら、彼が地位を失うことやアーデルハイトのために遠慮しているようだったから。彼女に関係なく、トリスタンが王太子の立場に執着していなかったと教えるのはユリアーネにとっても良いことのはずだ。

 だから、ジークフリートはよく役目を果たしたはずだった。なのにどうしてまだユリアーネが泣きそうな顔をしているかは分からなかったが――


「あの、それは本当のことなのでしょうか?」

「ああ、そうだよ」


 だが、トリスタンは計画が順調に運んでいることを信じて笑顔でうなずいた。


「私だって以前言っただろう。アデルのことは愛していないと。それに、王太子の称号も対したものじゃない。――君の魅力の前にはね」


 囁くと同時に、ユリアーネの手を取ろうとする。しかし、白魚の手はそれこそ水の中の魚のように素早く、するりと彼の指先から逃れた。


「そんな。本当のことなのですね……」

「ユリア?」


 弟に遅れること数刻、トリスタンもやっと計画がおかしな方向に進んでいることに気がついた。笑顔で彼に抱きついてくれると思っていた恋人は、蒼白な顔色で、目を見開いて彼のことを凝視している。


「ユリア、どうしたというんだ――」


 トリスタンはそれ以上続けることはできなかった。ユリアーネの悲鳴のような声に遮られたのだ。


「殿下、ご自身の義務から逃げるのはいけませんわ!」

「に、逃げる?」

「殿下はお勤めやアーデルハイト様から逃げたかっただけなのでしょう? わたしという都合の良い娘がいたから、これ幸いと利用されただけでしょう? わたし、殿下に出会ってすっかり舞い上がってしまって……いけなかったとは思うのですけど、でも、決して殿下をそそのかしたつもりはありません! 殿下、どうか一時の感情に流されて大事なお役目を投げ出すなんてお止めください。本当にもう間に合いわないのですか? どうか考え直してください!」

「それは違う!」


 一息にまくしたてたユリアーネに圧倒されたものの、トリスタンはすぐに我に返った。ユリアーネはとんでもない誤解をしている。誤解の原因になったらしいジークフリートとはあとでよく話し合わなければならないが、今はとにかくユリアーネを納得させなければならない。トリスタンは必死に考えながら息を吸った。


「私は君を愛している! 婚約破棄も継承権放棄も、全て君のためにやったんだ!」


 そんな言い方は重すぎてユリアーネの負担になるかもしれなかったが、そんなことを気にかける余裕もなかった。


「王太子である限り君との結婚は難しいから。……強引なやり方になったのは悪かったが、全て愛のためにしたんだ。本当に、継承権を軽んじている訳じゃない。君がそれほどに大事なんだ!」

「信じられません!」


 渾身の告白はひと言のもとに切り捨てられた。それどころか、ユリアーネはそれ以上聞きたくないとでも言うかのように、両耳を塞いで激しく首を振る。


「始めからおかしいと思っていたんです。わたしなんてただの田舎娘ではないですか。王太子殿下があんなに優しくしてくださるのには理由があったはずなんです。それに気づかないで諌めることもしなかったなんて、なんて愚かな娘だったのでしょう」

「違う、私は本当に君を愛している……」


 トリスタンは愛とはこの世の何より尊いものだと思っていた。けれど、今この場で口にしてみると驚く程に虚しく嘘くさく聞こえた。少なくとも、ユリアーネを信じさせるのには到底足りない。


「わたしの一体どこを? アーデルハイト様のように美しくも賢くもないし、教養も何もないのに!」

「君は怪我をした私を介抱してくれた。その優しさは素晴らしいものではないのか? 料理の腕も裁縫の腕も素晴らしかった。私の周囲にはそんな女性はいなかったから……」

「傷ついた人を助けるのは人として当然のことですわ! それに、料理も裁縫も、我が家が貧しいからというだけのことです。農家の娘なら誰でも同じことができます」

「父君を手伝う姿が健気で働き者で……」

「それも当然のことですわ。親が苦労をしている時に支えたいと思わない子がどこにおりましょう?」


 褒め称えているつもりなのに、ユリアーネは頑なに首を振り続ける。


(それを当然と言えるのが素晴らしいと思うのだが……)


 だが、そうと口にしてもユリアーネはうなずきそうになかった。彼女は本当に、心から当たり前のことだと信じているのだろう。

 ならば、他にどう言えば良いのか。トリスタンは必死に回転させた。ユリアーネを賞賛する言葉、伝えたいことは幾らでもある。


 彼女の結っていない髪が風に遊ぶ様はいつまでも見ていて飽きることがない、とか。彼が贈った宝石の髪飾りでも、あるいは大輪の薔薇や百合でも、ユリアーネのゆるく巻いた髪が描く曲線の美しさ艶やかさには敵わない。彼女には飾りなどいらなかった。香水さえも。ただ石鹸の香りや、それどころか雨に濡れた時の水の匂いだけでも、彼女から漂うというだけで何よりも芳しく思えて抱き寄せたくなる。


 他には、彼女の指先とか。都の貴婦人のように爪を伸ばして磨いているということはないけれど、ユリアーネの指先は何でもこなす。初めて会った時には手綱を握っていたし、家事も裁縫も、素早く的確に仕上げる様はまるで舞踏の名手の指先を眺めるよう。白く細い指先が、絡むこともなく目まぐるしく動いて何かしら仕事をする姿は、それくらい美しく洗練されている。泥や――時には鶏や魚を捌いた血にまみれていてさえそれは変わらない。最初はそれに見とれ、ついで触れたくなり、更には手伝いたいと思うようになった。舞いに例えるならば、舞踏会で手を取り合って踊る男女のように。


 あとは表情をよく映す栗色の瞳も、微笑みを浮かべた時の頬の線も。領地を駆け巡るからか細いだけではない――服の裾から少しだけのぞいたのを見て息が止まった――しなやかな脚も。声も、どんな些細な仕草でさえも。

 トリスタンにはユリアーネの全てが好ましく愛おしくてならない。


 のろけを聞かされたジークフリートが露骨に嫌な顔をするくらいに、そういうことはトリスタンの胸から湧き出てくる。だが、彼は今自信を失っていた。心の優しさを讃えたつもりなのに当然のことだと褒め言葉として認めてもらえなかった。その後で髪だとか指先だとか、そんなところを褒めるのはあまりに細かいというか即物的というか――身体目当てだと思われそうで怖かった。


「ええと……その……」


 しばらく気まずい沈黙が降りた。多分ユリアーネは待っている。トリスタンが彼女への愛を信じさせてくれるのを。多分、慕ってくれているのは本当だ。でも、彼女の疑いを拭い去ることのできそうなことが思い浮かばない。何か言わなければとは思っても気が焦るばかりで言葉が口から出てこない。


(始めから普通に伝えていれば良かったのか!?)


 今になってトリスタンは後悔に苛まれていた。どうして何もかも整えてから求婚しよう、などと思いついたのだろう。父王や貴族たちへの根回しはぬかりなく行ったのに、肝心のユリアーネには伏せていたのはどうしようもなく間違っていた。

 好意は伝えていたつもりだし、多分彼女のためにここまでしたという成果を見せたかったのだと思う。でも、そんな見栄のために彼女を傷つけるつもりなんてなかった。


 やがて、トリスタンをじっと見つめていたユリアーネも諦めたように顔を伏せた。


「殿下はわたしを愛したつもりになっているだけです。目を覚ましてくださいませ」

「それは違う……!」


 絞り出した声は弱々しくて、ユリアーネの顔を悲しげに歪ませただけだった。


「長い夢が醒めただけですもの。お恨みなどいたしません。どうか、わたしのことなどお忘れください。そして、今からでも遅くはありませんから、立派な王になってください」

「ユリア」

「……ひとりにしてください」

「ユリア」


 二度目の呼びかけに返事はなかった。全身で拒絶を示すユリアーネにかける言葉がなくて、トリスタンは黙って部屋を出るしかなかった。




 その晩、トリスタンは眠れなかった。ユリアーネにどう謝るか、どう愛を信じてもらうか、考えていて。

 そして迷惑だろうか、断られるだろうかと恐れながら翌朝早くユリアーネの部屋を尋ねた。


 しかし部屋は空だった。彼女についていた召使たちもいつ出ていったか分からないと証言した。もちろんトリスタンは王宮中をくまなく探させ――ほどなくして、ユリアーネは王宮のどこにもいないことが分かった。

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