第二王子、我に返る
(これはまずい……!)
アーデルハイトの登場に、ジークフリートは多いに焦った。アーデルハイトとユリアーネを絶対に会わせてはならないと、兄と決意したばかりなのに。
先日アーデルハイトと話した東屋へユリアーネを連れてきてしまったのは、彼の過ちだった。意図したつもりはなかったけれど、アーデルハイトとの記憶が彼の無意識に深く刻み込まれてしまっていたのかもしれない。
ユリアーネはどういう訳かアーデルハイトを見るなり脱兎のごとく逃げ出した。兄が吹き込んだという彼女の噂に怯えたのだろうか。だが、これはまたとない幸運だった。
「ユリアーネ嬢!? 待って――」
「アデル、彼女に近づいちゃダメだってば!」
非常に珍しいことにドレスの裾を乱して駆け出そうとするアーデルハイトの前に、必死に立ちふさがる。数年前に身長を追い越していたこともあって、どうにか止めることに成功できた。ユリアーネのぱたぱたという軽い足音が遠ざかり、やがて王宮の石の壁に消えていく。
ジークフリートは安堵の溜息をつき――一方のアーデルハイトは完璧な形をした唇を尖らせた。
「彼女と話をしたかったのに」
「兄上と話すって言ってなかった? 王太子府に行ったって……」
アーデルハイトがトリスタンの姿を求めてあちこち尋ねまわっていたと聞いた。同時になぜかユリアーネがアーデルハイトを探しているとも聞かされたから、万が一にも鉢合わせないようにユリアーネを引きつけていたつもりだったのに。
(兄上は何をしていたんだ!)
二人の令嬢の出会いを防げたことで人心地つくのと同時に、兄への苛立ちがふつふつと湧き上がってくる。
いかにユリアーネに夢中なのかをアーデルハイトに見せつけて、幻滅させるという話ではなかったのか。弟に対してはうんざりするほど切れ目なくのろけ話を聞かせ続けられるくせに、元婚約者ひとり醒めさせることができないとは。愛の力とはその程度のものなのか。
そもそもユリアーネがあんなに浮かない顔をしているのもおかしい。本来なら、今頃ジークフリートはアーデルハイとの将来だけを考えていれば良いはずだったのに。どうして兄の恋人の不安を和らげることまでしてやらなくてはならないのか。
まったく、兄が頼りないと弟に苦労が降りかかる――
「――彼女と何を話していたの?」
「え?」
心の中で兄を罵倒するのに忙しかったので、ジークフリートはアーデルハイトの問いかけに反応するのが遅れてしまった。いつも彼女の言葉なら何一つ聞き漏らしたくないと思っている彼にしては、痛恨の不覚だった。
「遠目だったけど、楽しそうに見えたから。気になったの」
アーデルハイトの口調は、因縁のある相手と歓談していたのを咎めるものではなかった。心底不思議そうに首を傾げてジークフリートを見つめている。軽く傾げた顎の線の美しさに、首筋の白さに、そして深い青の瞳に見つめられて、ジークフリートの鼓動は早まる。
しかしそれは単なる照れでも見蕩れているというのでもなかった。
(これはまずい……!)
ジークフリートは声に出さずに再び絶叫した。彼はユリアーネのことを、兄をたぶらかした女狐として軽蔑している――ということになっている。もちろん彼女がそんな女性でないのは承知しているが、兄の婚約破棄と廃太子をつつがなく現実のものとするためには、アーデルハイトの誤解はそのままにしておかなければならない。……彼が嫌われないためにも。
虚しく口を開閉させるジークフリートに、アーデルハイトは首を反対の方向に傾げて彼の心臓を打ち抜いた。返事がないのに困惑したように眉を寄せた姿も息を呑むほど美しい。
「ユリアーネ嬢の顔は見えなかったけど、彼女も笑っていたのかしら。……困っているのではないかと思っていたのに」
アーデルハイトが独り言のようにつぶやいた言葉に、ジークフリートの脳裏に何か天啓のようなものが閃いた。アーデルハイトからはユリアーネの表情は見えていなかった。あの令嬢の青ざめた顔色には気づかれていないらしい。
それに、アーデルハイトはユリアーネについて吹き込んだ嘘をも思い出させてくれた。
ユリアーネは王妃になるためにトリスタンに近づいた――。
(そうだ、ユリアーネ嬢を悪者にしておかなければいけない……!)
無実の令嬢を悪し様に言うことに対しては、胸を刺されるような罪悪感があった。アーデルハイトの笑顔を見たときに走る胸の痛みとは全く別種のやましい類の重い痛みだった。
だが、今さら引き返せない。全て、彼と兄とが愛する人を得るために必要なことなのだ。
ジークフリートは罪悪感を振り切って、やや引きつった笑顔を浮かべた。
「ああ、あれは話を合わせていただけだよ。あからさまに嫌な顔なんてできないからさ。……一応、兄上の恋人ということになるのだし」
「それもそうね」
アーデルハイトはとりあえず、といった表情でうなずいた。その上で更に彼を追い詰める質問を投げかけてくる。
「で、何の話をしていたの?」
当然の疑問だった。ジークフリートは笑顔を絶やさないようにしつつ必死に頭を回転させて、もっともらしい答えをひねり出そうとした。
「か、彼女に言い寄られていたんだ!」
その結果口から飛び出したのは、苦し紛れかつユリアーネに対して無礼極まりないことだった。だが、言ってしまったことを取り戻すことはできないし、言ってみると意外と筋が通るような気がしないでもなかった。
目を見開いたアーデルハイトを前に、ジークフリートは早口でどもりつつ訴える。
「ほら、兄上の次は僕が王太子になるだろうから。僕にすり寄ることにしたみたい。兄上の愚痴を言われたんだ、頼りないとかそんなことを。僕も兄上のせいで最近慌ただしかったからさ、つい乗っちゃって――」
「ユリアーネ嬢が、そんなことを」
「そう! もちろん笑って気を持たせただけだよ? 誘惑されるつもりなんてされるもんか! 僕は兄上と違うから! 兄上みたいに不実な真似はしないから!」
ユリアーネに言ったこと、言っていないこと。兄について考えていたこと、考えてもいないこと。虚実織り交ぜて語るうちにジークフリートはひどく早口になっていた。アーデルハイトに対してごまかさなければ、という思いと同時に、彼女に対する見栄のようなものが彼を駆り立てているようだった。
見栄――つまり、彼だって女性から言い寄られるし、しかもそれになびかない気概もあるのだ、という。
「ひどいわ……」
だから、夢中になるあまりにジークフリートは気づかなかった。先ほどのユリアーネと同様に、アーデルハイトの表情がどんどん強ばっていくのを。いつもぴんと背筋を伸ばしているのに、しおれるように彼女の立ち姿が一回り小さくなってしまっているのを。
「アデル……?」
ジークフリートが気づいた時には、アーデルハイトの青い目は深い湖のように涙をたたえていた。彼が初めて見る、彼女の頼りなく弱々しい姿だった。
「ど、どうしたの!?」
慌てふためくジークフリートの前で、涙を溢れさせまいとするようにアーデルハイトは上を向いて目を瞬いた。
「トリスタン様はもうダメよ。わたくしの話なんか聞いてくれないの」
「……ひどいね。君をそんなに悲しませるなんて……」
ジークフリートは半端に手を宙に浮かせた体勢でつぶやく。本当ならアーデルハイトを抱きしめて慰めたかった。でも、兄の名前を呼んで涙ぐむ彼女に触れても良いものかどうか、そんなことが許されるのか、今ひとつ自信が持てなかったのだ。
一方で、同時にほのかな期待も湧き上がる。兄が、役目を果たしてくれたのではないかと。今度こそアーデルハイトも兄を見捨ててくれたのではないかと。
(これは、絶好の機会なのかもしれない……)
ジークフリートは唾を飲み込むと慎重に言葉を選ぶ。
「もう、良いんじゃないかな。兄上はユリアーネ嬢に夢中で君をないがしろにしている。これ以上、忠告してあげるなんて――」
「そう、トリスタン様はユリアーネ嬢を愛していらっしゃるみたい」
アーデルハイトは秋の風を先取りしたような深く寂しげなため息をついた。そんな憂いに満ちた表情でさえ、彼女は美しく気品に溢れていた。けれどジークフリートにはそれにみとれる余裕などない。兄と彼女の間に何があったかは分からないが、とにかくまた予想と異なる展開になったということだけは分かったのだ。それも、恐らく彼にとって喜ばしいものではないと思われる。
「あの方と支え合う、慎しまやかな生活が良いのですって。……わたくしはそんなこと、考えたこともなかったのに」
「アデルは、ずっと頑張ってたじゃないか! 誰よりも優雅で、堂々として気高くて。理想の王妃になれるって、みんなが――」
「わたくし、王妃や王太子妃にはなろうとしたけれど、トリスタン様の妻になろうとしたことはあったかしら。分からなくなってしまったの」
アーデルハイトは見たこともないほどにしょげかえっている。まるで大輪の薔薇がしおれてしまったよう。見ていて可哀想になるほどの姿に、ジークフリートの胸には再び兄への怒りが再燃する。
(兄上は一体何をどう話したんだ!?)
兄が嫌われるのは当然だが、それでアーデルハイトが傷つくようなことはあってはならないのに。彼女には何一つ非などないのに。
ジークフリートが兄を罵るべく大きく息を吸った瞬間、アーデルハイトはまたため息をついた。
「ユリアーネ嬢がトリスタン様を愛しているならまだ良かったのに」
「――え?」
「二人が愛し合っているならそれでも良いと思えたかもしれないのに。あっさり貴方に鞍替えするような方だなんて。トリスタン様があまりにお気の毒だわ……!」
言おうとしていた罵倒も、その次に予定していた慰めの言葉も、ジークフリートの脳裏から消え去った。息をすることさえ忘れてしまったかのよう。それほどに、アーデルハイトの嘆息が彼の心を揺さぶっていた。
(僕の言ったことでアデルが傷ついている……!?)
とっさについた嘘でしかなかったのに。そんなつもりではなかったのに。彼は婚約者に拒絶されて悲しむアーデルハイトを慰める役だと思っていたのに。なのに、彼女を悲しませているのは兄でもユリアーネでもなく、彼自身にほかならなかった。
しかも、彼女の言葉は彼の胸に恐ろしい疑問を呼び起こした。
「アデル……君は、兄上のことが好きだったの……?」
義務で結ばれただけの婚約だと思っていた。王になる者であれば、彼女は誰でも支えてくれるものだと信じていた。だから兄たちを応援する気にもなったし、事が円滑に進むようにちょっとした――そのつもりだった――嘘もつくことにした。
でも、もしアーデルハイトがトリスタンを愛していたなら。彼らは――彼は、彼女を必要以上に傷つけてしまったことになる。
「分からないわ。ただ、わたくしではダメだったのね……」
目を伏せたアーデルハイトの悲しげなつぶやきはジークフリートの胸を抉った。今この時になって初めて、彼は自分が恐ろしい間違いをしでかしてしまったことに気づいた。愛している人に対して、どんな理由があっても――そして面倒なく婚約にこぎつけたいだなんて、今思えばこの上なくくだらない理由だった――嘘をつくなんて許されるはずがなかったのだ。
「アデル、あの……」
それでも真実を告げるべきか迷って、ジークフリートは言葉を濁した。勝手に兄を裏切るのも、決定的に嫌われてしまうであろうことを打ち明けるのも、どちらも怖かったから。
「ユリアーネ嬢に会わなくては」
そんな彼を無視して、アーデルハイトはきっぱりと宣言した。さっきまで泣き出しそうだったのが信じられないほど力強く。
「……どうして?」
ジークフリートの方は、もうどうして良いか分からない。二人の令嬢を合わせてはいけなかったはずだけど、止める権利なんてないようにも思えてきて、立ちすくんでしまっている。少なくとも、これ以上嘘を重ねる気力なんて残されてはいなかった。
「お願いするのよ。彼女の本心がどうであれ、トリスタン様の幻想を守ってくれるように。あの方を幸せにしてくれるように」
(アデル。そこまで兄上のことを……?)
胸を焼いた激しい嫉妬は、さすがに口に出すことはできなかった。口に出して、兄への想いをはっきりと聞かされるなんて辛すぎる。何より、嘘をついてアーデルハイトを傷つけた彼がそんなことを言うのは、許されない気がした。
「ユリアーネ嬢はどこへ行ってしまったのかしら。わたくしを避けているのかしら」
「さあ……分からない……」
呆然としつつ答えたその時、ジークフリートは初めて思い至った。先ほどのユリアーネがやけに青い顔色をしていたこと。罪悪感を覚えないように一生懸命説明してあげたはずなのに。
……でも、彼はアーデルハイトに対してひどい失敗をしてしまった。ユリアーネに対しても、果たして正しい対応ができていたのだろうか。
(兄上は、大丈夫なのか……?)
ジークフリートは言いようのない不安に襲われ、兄がいるであろう王太子府の方向に視線を巡らせた。