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男爵令嬢、逃げる

「アーデルハイト様ですか? 申し訳ございません、どこにいらっしゃるか存じておりません。それよりトリスタン殿下は王太子府にいらっしゃいます」

「いえ、殿下ではなくて……」


 言い募ろうとするユリアーネを遮るように、その侍従は優雅な礼をして去っていった。止める間もない素早さだった。


(また教えていただけなかった……)


 ひとり残されたユリアーネはがっくりと肩を落とす。彼女も一応男爵家の娘であるからには、侍従の態度は無礼にあたるのかもしれない。けれど、彼女の存在が引き起こした――ということになっている――事態の大きさを考えると、どのように扱われても文句を言ってはいけない気がした。


 他に話しかけられそうな方は、と見渡しても、ユリアーネと目を合わせてくれる者はいない。無視されるくらいならまだ良いが、こちらを見ながら扇の陰で何かささやき交わす貴婦人たちなどは、一体どのように言われているのか恐ろしくて、近づくことさえできそうにない。

 そもそもユリアーネはこれまで王都に出たことはなかった。父の領地の運営を手伝わなければならないから、裕福な家の令嬢のように社交界を楽しむ余裕などなかったのだ。だから婿に来てくれそうな男性にも巡り会えなかったという悪循環だったのだが、とにかく彼女には華やかな流行の衣装で着飾った人々に対してどうしようもない気後れがある。

 ドレスの着こなしにおかしなところはないか、髪型は野暮ったくはないか。そもそも田舎の男爵令嬢風情が洗練された都会の方々に気安く話しかけても良いのだろうか。


 トリスタンに強く乞われて今夏の社交に顔を出したものの、楽しいことや綺麗なこともたくさん見聞きしたものの、気疲れも溜まっていたところだった。そこへ今回の婚約破棄と廃太子騒動だ。

 ユリアーネにとっては、人前に姿を見せるのはガラスの破片が敷き詰められた上を歩くようないたたまれない思いだった。人々の視線も、ナイフのように突き刺さるような気さえする。


(誰か、もっと話しやすそうな方はいらっしゃらないかしら……)


 それでも立ち止まる訳にはいかなかった。トリスタンの本来の婚約者――レーヴェンブリュール公爵令嬢アーデルハイトと、話をすると決めたのだ。今の事態はユリアーネの手に余る。トリスタンは話を聞いてくれないし、国王やレーヴェンブリュール公爵は雲の上の人過ぎてどうやって会えば良いか分からない。彼女のことを腹立たしく思っているに違いないと考えると、たとえ方法を知っていても図々しく謁見を乞うことなどできなかっただろうと思う。

 ユリアーネを嫌っているのはアーデルハイトも同じことだろうが、少なくとも彼女はユリアーネと同じ年頃の令嬢だ。繊細な芸術品のような美貌に優雅そのものの立ち居振る舞いは、やはり近寄りがたいものではあるけれど、まだしも話しやすそうだと思えた。

 トリスタンの話によると、非常に気の強い方でもあるということだけど……でも、そう思って怖がって避けていたからこんな事態になってしまったのだ。今の状況は決してユリアーネの本心ではないと、分かってもらわなければならない。もちろんその前にあの方を誇りと体面を傷つけてしまったことに対して謝らなければならないけれど。


(許していただけるかしら……)


 胸をよぎった不安を、ユリアーネは激しく首を振って追い払った。許してもらえるかどうか、など考えてはいけないと思う。許してもらえてももらえなくても、謝るのはとにかくも必要なことだ。怖いから会いづらいからと謝ることもできないなんて、父が知ったら怒り悲しむに違いないから。そう、それは人として当然の、でもとても大切なことだ。


(頑張らなくちゃ)


「あの、お聞きしたいことが――」


 新たに決意すると、ユリアーネは勇気を振り絞って通りすがった侍女に声を掛けた。




「アーデルハイト様に何のご用なのですか? あの方はすでに十分心を痛めていらっしるのに。この上あの方を苦しめようというのですか?」

「いえ、そんな……」


 何人目かに話しかけた令嬢は、絶句したユリアーネを睨みつけるとくるりと踵を返してしまった。去り際につぶやいた恥知らず、という一言で彼女の胸をえぐりながら。


(やっぱり……そう見えてしまうのね……)


 涙で視界がにじむのを、必死にこらえる。人前で泣き出してしまうのがみっともないということくらいはユリアーネだって分かっているから。

 でも、そろそろ限界だった。会う人ごとに冷たくあしらわれてひどい言葉を投げつけられるのは。世間の人々からは、彼女はそうされて当然の女だと思われているのだ。


(今日はもう帰ろうかしら)


 帰る、といっても、アイヒェンオルト男爵家には王都に屋敷を構える余裕などないから、トリスタンが用意してくれた王宮の一室ということになるのだけど。そして、ユリアーネにつけられた使用人たちは一応親切で優しくはあるのだけど、彼らでさえも胸の中ではあ何を考えているのだろうかと思うと寛ぐなんてまったくできないのだけど。


 ふらふらとおぼつかない足取りで、涙がこぼれそうな目を押さえながら引き返そうとした時だった。


「――ユリアーネ嬢?」


 不意に掛けられた声に、ユリアーネは顔を上げた。


「ああ、やっぱり貴女だった! 兄上を探しているの? まだ王太子府にいると思うけど……」

「ジークフリート殿下」


 煌く金の髪と晴天のような青い瞳を煌めかせて微笑んでいたのは、第二王子ジークフリートだった。兄のトリスタンの面影がある優しい顔立ちの少年がにこやかに笑いかけてくれて、ユリアーネの心はほんの少しだけ上向いた。やっと、彼女の話を聞いてくれそうな方が現れたと思ったのだ。


「いいえ、お探ししているのは殿下ではないのです。わたし、アーデルハイト様に謝らないと思って――」

「兄上はしばらく出てこないよ。良かったら少しお話しない? 義姉になる人だからね。ずっと挨拶しなきゃと思ってたんだ」


 でも、ジークフリートもユリアーネの言葉に耳を傾けてくれなかった。口調も表情もあくまで親しげではあったけど。


「いえ、殿下ではなくて――」


 声が小さかったのかしら、と繰り返そうとしたユリアーネだが、最後まで言わせてはもらえなかった。


「遠慮しないで。落ち着ける場所を知ってるから」


 ジークフリートは、強引にユリアーネの手を取ると何かから逃げるような勢いでどこかへ引きずっていってしまったのだ。




 そうして、ユリアーネは王宮の中庭の一角に案内された。石造りの椅子とテーブルのある東屋で、爽やかな風で木々や花の香りが運ばれてくる、確かに美しい場所だった。


「どう? 良いところでしょ」

「はい……」


 ジークフリートは手際よくお茶とお菓子を運ばせてくれた。心も体も疲れていたユリアーネには、甘い香りはとても安らげるものではあったけれど、これではどうしても座り込んで話をしない訳にはいかなくなってしまう。


(アーデルハイト様を探さなければいけないのに)


 内心焦りながらお茶を口に運んでいると、ジークフリートがにこりと笑って話しかけてくる。


「こうして話すのは初めてだね。兄上は貴女を隠しておきたかったらしい」

「いえ……わたしこそ、ご挨拶もしないで……」


 ジークフリートの態度は相変わらず親しげだったけど、ちゃんと挨拶しなかったのを暗に責めているのかしら、とユリアーネはおののいた。ジークフリートはもちろん、国王にも王妃にも、彼女は挨拶らしい挨拶をしていない。国に関わる大事を起こしておいてこんな有り様では、この少年にも嫌われてしまっているのかもしれない。

 けれどジークフリートは晴れた青空のような微笑みを崩さなかった。兄のトリスタンに似た笑顔だと思う。


「いや、兄上のせいだというのは分かっているよ。まったくあの人はいつも勝手で……。貴女も大変だったでしょ」

「そんな! わたしなどが殿下とお近づきになるなんて……本当に、夢のようで……」


 何と言えば図々しく聞こえなくなるか分からなくて、ユリアーネはもごもごと曖昧に答えた。ジークフリートは彼女よりも歳下だが、王子として教育されているからか、驚くほど堂々とした振る舞いで何だか萎縮してしまう。


「……ジークフリート様は、お怒りではないのですか?」


 ユリアーネは恐る恐る尋ねた。トリスタンの暴挙によって、第二王子の人生も少なからず狂わされることになった。急に王位を継ぐことになって動揺していないはずがない。


「全然! 王様っていうのも悪くないと、ずっと思ってたから」


 ジークフリートの屈託のない笑顔に――作ったものかもしれなかったけど――ユリアーネも緊張を解いてくすくすと笑うことができた。


「良かった、笑ってくれた。――ねえ、僕の方こそ心配だったんだ。兄上のことを怒ってない? 何も聞いていなかったんでしょ?」

「怒るなんて……ただ、とても驚いて、怖くて……」

「そうだろうね。気持ちは分かるよ」


 ジークフリートは大きくうなずいた。その目に同情が宿っているような気がしたのは、ユリアーネがそう望んでいるからだろうか。何か、都合が良すぎるような気もしたけれど。


「でも、どうか兄上のことを嫌いにならないで。貴女を逃がしたくなくて必死なだけだったんだ」

「殿下を嫌いになるなんてありえませんわ……」


 思わず本音を漏らしてから、ユリアーネは慌てて付け加えた。


「でも、殿下にはアーデルハイト様がいらっしゃるではありませんか。あんなに美しくて素晴らしい貴婦人でいらっしゃるのに、私なんて……」

「でも、兄上が愛しているのはアデルじゃない。貴女だ」


 ジークフリートは声を低めて内緒話のように囁いた。ユリアーネは、そんなことは、と反射的に首を振りそうになるけれど、ジークフリートが続ける方が早かった。


「だから貴女のせいなんかじゃないんだ。兄上とアデルは上手くいっていなかったと思う。……アデルがあまりにも完璧だったからかもしれないね」

「そんな……」


 口では否定しながら、ユリアーネはトリスタンの口ぶりを思い出していた。確かにアーデルハイトに対して不自然なくらいきつい言い方をしていたような気も、する。


「アデルは容姿だけでなくて内面も素晴らしい人だから。義務を果たすのは当然のこと、公務のために心を殺すのも苦にはならない、そんな人なんだ。兄上はそんな彼女と比べられるのが嫌だったのかもしれない。まあ、王太子の身で義務が嫌だなんてそうそう口には出せなかったのだろうけど」


 ジークフリートは改めてユリアーネの姿を眺めると、ふっと笑った。


「でも、貴女と出会ってからはだいぶ表情も明るくなったように思ったよ。堅苦しい王宮から抜け出して自由に振る舞えるというのが良かったのかも」

「そう、ですか」


 ぎこちなくうなずきながら、ユリアーネは恐ろしい可能性に思い当たっていた。

 ジークフリートの言うことは分からないでもない。王族の身分がただ羨まれるだけの華やかなものではないのは、トリスタンから聞いた言葉からもうかがうことができていたと思う。でも、今聞いたことからすると、トリスタンはまるで立場から逃げたいとでも思っていたようだ。


 普通ならそんなことは許されない。でも、トリスタンはユリアーネに出会ってしまった。後継ぎとなる婿がいないという話もしてしまった。はしたなくも熱い眼差しを向けてしまった。義務を投げ出すための絶好の理由を、ユリアーネは与えてしまったのではないだろうか。


「……でも、それは息抜きということですよね? 父の領地は、それはもう何もない田舎なんです。都の方には物珍しかったかもしれないのですが」

「謙遜しないで。兄上は、王宮よりも貴女のご実家の方が気に入ってるみたいだ。釣りとか狩りとか、農民とのおしゃべりもしたんだって? そういうのどかで慎まやかな生活をしてみたいと、思うようになったみたいだ」


 一縷の希望を込めて問いかけたことは、爽やかな笑顔で否定されてしまった。


(どうしよう……)


 トリスタンは確かにそういう――田舎の風景を気に入っているように振舞っていた。でも、ユリアーネとしては見るべきものが何もない田舎に気を使ってくれたものだと思って疑っていなかった。つまらない日常の生活なのに、よく笑顔を保ってくれたものだと恐縮しきりだったのだ。

 決して、王太子の立場を疎ましがっているトリスタンに逃げ場を与えたつもりはなかった。


 ジークフリートはユリアーネが青ざめているのには気づかないで朗らかに続けている。


「アデルとではそんな生活は望めないからね。貴女を選んだのも当然のことだと思う。父上もやる気のない者に玉座を与えられないって言ってただろう? 貴女は気にする必要なんてないんだ」

「アーデルハイト様」

「彼女も兄から解放された方が良いんだ。あんないいかげんな人じゃなくて、もっと相応しい相手がいるはずだ」

「いいかげん……」


 ユリアーネの目からみたトリスタンは、誠実で礼儀正しい方だった。決していいかげんなどという言葉が相応しい人柄ではなかったと思う。


(わたしのせいだわ……)


 ジークフリートにそう言わせてしまったのは、ユリアーネのせいだ。トリスタンがユリアーネと出会ってしまったせいだ。もし彼女に出会わなければ、心中不満があるとしても、トリスタンはいずれは王になってアーデルハイトと結婚していただろう。

 ユリアーネのせいで、トリスタンもアーデルハイトも人生を狂わされてしまったのだ。


「ユリアーネ嬢? どうしたの?」


 ジークフリートはやっと彼女の浮かない顔に気づいてくれたらしい。心配そうな顔で覗き込んでくる。


「わたし……アーデルハイト様に申し訳なくて……」


 そんなつもりではなかったのに、と。心の中で何度も叫んできたことを、震える声で言おうとした時だった。芝生を踏む柔らかな足音がユリアーネの耳に届いた。


「ジーク? と……ユリアーネ嬢?」


 銀の弦を張ったハープでも奏でているような、澄んだ美しい声が響く。はっと顔を上げて見れば、目に映るのもそれは美しい女性。トリスタンとも似合いであろう、金の髪を輝かせて、青い瞳を見開いて。

 そこに佇んでいたのは、アーデルハイトその人だった。


「アーデルハイト様……わたし、わたし……」


 謝らなければ、と思っていたはずだった。でも、たった今ジークフリートから聞かされたことがユリアーネの心を完全に折っていた。全て自分のせいだと分かった以上、この方に合わせる顔などあるはずがない。


 言葉にならない悲鳴を上げながら、ユリアーネはその場から逃げ出していた。

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