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公爵令嬢、説得を試みる

 アーデルハイトがトリスタンを見つけるのには、しばらく時間が掛かってしまった。こんなことは今までなかったことだった。王太子をその婚約者が訪ねるのは当然のことで、誰に聞いてもすぐに彼の居場所を教えてくれたから。

 でも今では――


「申し訳ございません。殿下がどちらにいらっしゃるかは存じません」

「そう。ありがとう」


 困ったような笑顔で頭を下げた侍女に礼を言うと、アーデルハイトは彼女を元の仕事に戻してやった。

 もうこれで何人目だろう。誰も彼もが口裏を合わせたようにトリスタンの居場所を知らないと言うのだ。使用人ではない貴族の令嬢や、個人的に話したこともある高官には、逆にあんな方に会うのはお止めくださいと懇願される始末だった。更にはもっと楽しいことを考えましょう、とお茶やお菓子に誘われたりもする。

 みんな、アーデルハイトを気遣ってのことだとは分かっている。けれど、腫れ物のような扱いには少々疲れを感じ始めているところだった。


(でも、かなり絞られてきたわね)


 トリスタンがいるはずのところなど限られているから。他の者たちが遠ざけようとしているとしても、いない場所を潰していけばいずれは彼に会えるはずだ。

 アーデルハイトはこぼれかけたため息を呑み込んで、疲れた足を叱咤すると、背筋を正して()婚約者を探す旅を再開した。




 結論としては、トリスタンは王太子府にいた。名前の通り、王太子の公務を補佐し、儀礼などを滞りなく進めるための官吏が配された機関になる。廃太子が内々にとはいえ決まっているトリスタンにはもう縁がないはずの場所ではあるが、引き継ぎや私物の片付けは必要ということらしい。


「……本当に、ここを引き払ってしまってよろしいのですか?」


 婚約者ではなくなっても、二人は生まれた時からお互いを知っている幼馴染だ。だからアーデルハイトは堅苦しい挨拶は抜きにしてトリスタンに話しかけた。


「アデル。久しぶりだね」


 トリスタンも彼女を咎めることはなく、いつも通り――に見える――爽やかな笑顔を見せてくれた。が、アーデルハイトの固い表情に気がついたのが、それはすぐに困ったように苦笑に取って代わる。


「本当に、と言われてもね。もう決まったことだろう? 君も頷いてくれたじゃないか。今さら撤回するなんてできないよ」

「ですが……」


 アーデルハイトは辺りに幾つもの箱が積み上げられているのを見てとって、悲しく目を伏せた。トリスタンの私物ということなのだろう。ずっと夫になると信じて生きてきた人がこの王宮を去ってしまうということを改めて突きつけらると、少なからず動揺してしまう。王太子府の内部がどこか散らかって埃っぽいのも、ジークフリートのために模様替えでもするのか一部の調度類が運び出されてぽっかりとした隙間が空いているのも、彼女の寂しさをかき立てた。


(いいえ、わたくしのことなどどうでも良いの。このまま放っておいたら、トリスタン様も……ユリアーネ嬢も傷つくことになってしまうわ)


 もしかしたら、既にユリアーネはトリスタンを見限ったのではないかと期待していた。王妃になるという野望をトリスタンの無邪気な想いにくじかれて、実家か、あるいは醜聞を避けてどこか遠い国にでも去っているのではないかと。

 でも、この様子ではトリスタンは純粋で愛らしいユリアーネの幻想をまだ信じているようだ。ユリアーネの企みを暴くのは簡単だが、恋人との明るい未来を思い描いているであろうトリスタンの夢を砕くのは忍びない。だから、アーデルハイトは遠まわしな諫言を選んだ。


「ですが、ユリアーネ嬢は果たして幸せになれるでしょうか。大変な醜聞になってしまっていますもの。あの方のためにも、考え直されては……? わたくしからも陛下や父に口添えをいたしますから」


 言いながら、おためごかしの言い方にアーデルハイトの胸は痛んだ。ユリアーネを思う振りで、自分が悪者になりたくないだけだと分かっているから。寛容な振りをしてトリスタンの恋心を踏みにじろうとしているから。

 でも、これこそが彼女に求められた役割だ。夫が――夫となるべき人が道を誤りそうな時に、宥め諭し、正すのが。きっとどう言ってもトリスタンに嫌われてしまうだろうけれど。


「お二人が愛し合っているのは分かりました。わたくしとしても、お二人の邪魔をしたい訳ではございません。形ばかりの王妃で結構です。公務の他は、ずっとお二人でお過ごしになれば良い。――それではいけないのでしょうか」


 その提案は、アーデルハイトが譲れる最後の線、一縷の希望だった。ユリアーネが王妃の称号までを求めているのだとしたら全く意味のない申し出になってしまうが、彼女の目的が王に愛される名誉や宝石、華やかな王宮での生活だったとしたら。もしかしたらこの条件を呑んでくれるかもしれない。


「アーデルハイト」


 しかし、本当に珍しくトリスタンに愛称ではない正式な名前で呼ばれて、アーデルハイトはふるりと震えた。彼がこんなに厳しい声や表情をしたのは、長い婚約者時代でもほとんどないことだったのに。


「いつも冷静で妥当な判断ができるのは君の美徳だと思う。でも人の心は、愛というのは理性だけでは語れない。あの場でも言ったが、私はユリアをただの寵姫になんてするつもりはない。彼女と正式な夫婦になるには、こうするしか道がないんだ」

「殿下……」


 うつむいたアーデルハイトの肩を、トリスタンは慰めるようにそっと触れた。婚約者同士としてではない、親しいけれどただの友人としての控えめな触れ方だった。そして、重くなった空気を振り払うかのようにまた明るい笑顔を浮かべる。


「ユリアのことを心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だ。彼女は私が必ず幸せにする」


 トリスタンの笑顔は曇りのない青空のように晴れやかなものだったけれど、あまりに明るすぎてアーデルハイトを不安にさせる。この方は、本当に何もかも考えた上で行動したのだろうか。これほどの大事で、後先考えていないだなんてあり得ないけれど、どうもトリスタンは楽観的すぎるように見えた。


「あの方と……ユリアーネ嬢と結婚なさったらどのように暮らしていかれるのですか?」


 トリスタンの覚悟のほどを探ろうと、アーデルハイトは少し踏み込んだ質問をしてみた。


「彼女は兄弟がいなくてね。父君は後継ぎについてずっと悩んでおられたらしい。なにぶん中央を離れた領地のことだから、なかなか婿に入ってくれる人もいないということで」


 しかしトリスタンは淀みなく答える。


「私も訪れたことがあるが、自然が豊かで素朴な人々が暮らすところだ。ユリアと二人、あの地のために生涯を捧げるのも良いと思っているよ」

「殿下が王となって国を豊かにされれば……そうすれば、アイヒェンオルト領も栄えるでしょうに」


 明るく語るトリスタンとは裏腹に、アーデルハイトの胸には暗雲が立ち込めていく。それでは、ユリアーネの父――アイヒェンオルト男爵も二人の結婚を歓迎しているのかもしれない。元王太子という立派な――立派すぎる――婿の登場に喜ぶ父を、ユリアーネは失望させられないと思っているのかもしれない。だから、予期せぬ事態に陥ってもトリスタンに本心を打ち明けられないということなのだろうか。


「私は王の器ではなかったようだ」


 トリスタンはあくまで軽く明るく、肩をすくめた。


「堅苦しい儀式とか、華やかだけど緊張感あふれる外交とか社交とか。そういうのが一生続くのに耐えられないと思ってしまった。それよりは愛する人とささやかでも暖かい家庭を築く方が良い。私は君に相応しい男ではなかったんだよ」

「そんなこと……」


 アーデルハイトは弱々しく首を振った。確かにトリスタンが言ったようなことは、彼女には全く苦にならない。それが彼女の本来の性質なのか、王妃となるべく躾けられてきたからなのか、自分でも区別がつかないけれど。とにかく、彼女が今まで思い描いてきた将来の姿、理想と信じて目指してきた姿が否定されたのは分かってしまった。


「ユリアーネ嬢となら、暖かい家庭が築けるとお考えなのですね」


 意味もなく手近な机の艶やかな表面を撫でながら、アーデルハイトはつぶやいた。トリスタンが語るユリアーネの言動に何かおかしな点が見つかるのではないか、それを指摘したらトリスタンも目を覚ましてくれないだろうかと、仄かな期待を抱きながら。


「ああ、もちろんだ!」


 トリスタンは自信たっぷりに頷いた。心から嬉しそうな、将来の幸せを疑ってなどいないであろう様子だった。


「ユリアは料理もとても上手なんだ。上流の令嬢は自ら鳥や魚をさばいたりはしないだろう? でも彼女は羽をむしるのも鱗を取るのも嫌がらずにやるんだよ。私もやらせてもらったけれど。初めてのことを教えてもらいながら手伝って、しかも褒めてもらうなんて一体何年振りのことだっただろう!」

「そうですか」


 アーデルハイトは、トリスタンが言っていることを今ひとつ想像できないまま頷いた。


「男爵家はあまり裕福ではないから、ユリアも色々とやらなければいけないことがあるそうで。でも、彼女は決してそれを嫌がったり悲しんだりはしていない。いつも前向きで、優しくて……そして決して頑なという訳でもない。私が手伝いを申し出たら驚きはにかみながらも感謝してくれた。仲良くなった後に私に用事を言いつけることさえあった! もちろん命令ではなくて可愛いお願いだけどね」


 トリスタンの目は、目の前のアーデルハイトを見ていなかった。彼が見ているのは愛するユリアーネと、彼女の故郷の深い森だけ。よく知っているはずの王子がどこか遠くにいるような、見えない壁で隔てられているような気がしてアーデルハイトの心はどこまでも深く沈んでいく。

 そしてトリスタンはそれにも気づかない。


「血筋や地位や義務は関係なく、私自身を見てもらえるということ。彼女自身を見て、愛せるということ。そうして支え合って生きていくことが、この上なく素晴らしいと思い始めたんだ。だから……もう、他の生き方は考えられない」


(殿下ご自身……? わたくしは、確かにこの方と結婚して支え合っていくつもりだった。でも、それはトリスタン様と、なのかしら。それともこの国の王太子殿下と……?)


 アーデルハイトは不意に不安になった。トリスタンは王太子である。王太子はトリスタンである。それはいずれも彼女にとって自明のことで、両者の区別は必要ないと思っていた。と、思う。今までは意識さえしていなかった。でも、トリスタンの言い方からして、彼には王太子でない自分があると考えているようだった。……彼女は、それに気づいてあげられなかったのだろうか。


「……素晴らしいお考えだと思います」

「ありがとう」


 アーデルハイトの声がひどく乾いてひび割れているのに、トリスタンは全く気づいていないようだった。


(わたくしはこの方に相応しくないのかしら。でも……でも、ユリアーネ嬢だって下心があったのに!)


 彼女は婚約者としてトリスタンの心に寄り添うのが足りなかったのかもしれない。それは認めなければいけないのかもしれない。でも、だとしても、どうしてユリアーネでなければならなかったのか、アーデルハイトには納得することができなかった。どうして会ったばかりの令嬢のことを、そこまで愛して信じることができるのだろう。


「ユリアーネ嬢も、同じお考えなのでしょうか?」

「ああ、そう信じている」

「恐れながら、トリスタン様が王太子でなくても同じことになっていたのでしょうか?」

「彼女を疑っているんだね」


 トリスタンは眉を上げたが、声には咎める響きはなかった。


「当然のことだろうから責めることはしないけれど。だが、それこそ無用の心配だ。彼女は私の身分を知る前から私を親身に助けてくれたんだ」


 狩りの途中で怪我を負って迷った彼を助けた時の話だろう。正直に言えば、アーデルハイトはそれすらも計画するのは不可能でないと考えている。まして、その後の純真な振る舞いはトリスタンを――とても下品な言い方をすれば――落とす、ためのものかもしれない。


「……そうですね。大変な失礼を申しました。お許し下さい」

「良いんだよ。分かってくれれば」


 分かったという訳ではない。というか分かっていないのはトリスタンの方だ。ユリアーネは王妃になろうとして彼に近づき、見事に篭絡してみせたのだ。でも、それを言っても彼には届かないだろうと思えた。


(わたくしではユリアーネ嬢に敵わない……)


 最悪の場合、アーデルハイトは自分がユリアーネの企みを暴かなければならないと思っていた。でも、それさえも甘い考えだった。長年婚約者として過ごした彼女よりも、トリスタンは会ったばかりの令嬢の方を信じている。この短いやりとりでそうと思い知らされた。


「わたくし、失礼させていただきます……」

「ああ」


 沈みきった表情になってしまっているのを気づかれないように、アーデルハイトは顔を伏せて退出の挨拶を述べた。あっさりと頷いたトリスタンの口調からして、多分成功したと思って良いだろう。




 王太子府から出て外の空気に触れると、アーデルハイトは大きく深呼吸した。


(落ち込んだままでいる訳にはいかないわ!)


 トリスタンの説得には失敗してしまった。それなら今度こそユリアーネに会わなければならない。トリスタンにあそこまで愛されて、なおもその気持ちをもてあそぶことができるような女性なのか。少しでも彼を愛する心はないのか。自分の目で、確かめなくてはならない。


 ユリアーネを見つけるのは――トリスタン以上に、みんな彼女に会わせまいとするだろうから――大変だろうが、成し遂げなくては。

 訓練された淑女としての完璧な所作を保ちながら、アーデルハイトは広い王宮の中を探し人を求めて再び歩き出した。

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