王子たち、反省会を開くも反省はせず
シュトラールラント国の王宮は広い。
舞踏会をもよおす大広間や荘厳な謁見の間。王族の私的な空間や官吏が行き来する一角など。様々な目的の様々な趣の区域が複雑に絡み合い、時には重なりあってひとつの小都市のような様相を呈している。
そして複雑な構造ゆえに、人目につきにくい場所というものも存在する。生まれた時から王宮で暮らしている二人の王子は、そんな空間をよく知っていた。
約束の場所――とある建物の裏側の、薄暗く湿っぽい一角――に現れた兄を見て、ジークフリートは不審に思って眉を顰めた。
「どうしてそんな顔をしてるのさ」
この国の王太子――継承権放棄を受け入れられたといってもまだ公にはされていないから、兄の現在の立場は非常に微妙だ――、トリスタンはなぜか青ざめて憔悴した顔をしていたのだ。令嬢や貴婦人たちが黄色い声を上げる長身の貴公子だというのに、今は一回り小さく見える気さえする。
「……ユリアが喜んでいない」
「はあ?」
そしてトリスタンがぼそりと漏らしたつぶやきを聞いて、ジークフリートは一層顔を顰めた。
王や国の重鎮を巻き込んで廃嫡騒動を引き起こしたのは、全て愛し合っているとかいうユリアーネ嬢と結ばれるためではなかったのか。ずっと一緒にいたいと言ったら、彼女は頬を染めて頷いてくれたのではなかったのか。
アーデルハイトが健気にも悲愴な決意を固めているのをよそに、浮かれた顔でのろけ話を聞かされるに違いないと、少なからず苛立ちを感じながらやってきたというのに、一体どういうことなのだろう。
「何があったの?」
「うむ。どうやら彼女は思いのほか奥ゆかしいようだ――」
そして兄からユリアーネの反応を聞かされて、ジークフリートは思わず嘲笑を浮かべた。
「とんだ空回りじゃないか。兄上は相手の気持ちも確かめないで求婚しようとしてたのか!」
美しく聡明なアーデルハイトという婚約者がいながら身分違いの令嬢に入れあげて、暴走した挙句にこのザマとは。
弟にあげつらわれて、トリスタンはむっとしたように顔をしかめた。
「うるさい。ユリアは私を好きだと言ってくれたんだ。今はちょっと動揺しているだけだ。
――そういうお前はどうなんだ。アデルはお前と婚約してくれそうか?」
「それは……」
今度はジークフリートが口ごもる番だった。そして弟から元婚約者の反応を聞き終えると、トリスタンは発酵したての若いワインの泡が弾けるような高らかな笑い声を上げた。
「アデルの高潔さを甘く見ていたな。彼女がそう簡単に人の不幸を願ったり私を見捨てたりなんてするものか!」
先ほどジークフリートが兄を嘲ったのを鏡に映したような構図になった。トリスタンとジークフリートと。五歳の歳の差はあるが、性格は非常によく似ているのだ。
「兄上だってユリアーネ嬢を甘く見てたんだろ!? 王位をなげ打って求愛したら喜ぶに決まってる、何て言って。よく考えたらそんなおめでたい発想の令嬢なんているはずがなかった。可哀想に、彼女が怯えるのも当然だよ!」
「黙れ。弟の癖に生意気な」
不安そうな表情の恋人の姿を思い出したのか、弱々しく反論したトリスタンを、ジークフリートは鼻で笑った。
「無駄に歳を重ねた方が恥ずかしいと思うけど」
「何!?」
高貴な王家の血筋を引くはずの二人、国で最高の教育を受けたはずの兄弟は、下町の子供と同じようににらみ合い――すぐにどちらともなく視線を外した。
「やめよう。時間の無駄だ」
「確かに。こんなことをしている場合ではない」
彼らが人目を避けて会える時間は限られている。トリスタンのことは官吏たちが、ジークフリートのことは教師たちが、今頃は必死になって探しているはずだ。更にその他にも王子たちと面識を得ようとする者は絶えない。
計画の見直しは迅速に、かつ的確に済ませなければならないのだ。
「何が間違っていたんだろう……」
そのつぶやきもまた、兄弟のどちらの口から漏れたのか判じがたかった。
ユリアーネへの恋心を自覚してすぐ、トリスタンはジークフリートに相談していた。アーデルハイトとの婚約をどうするか、は国の将来に関わる公的な事柄であると同時に、この数年兄弟の間にわだかまった問題が進展するための、糸口でもあったからだ。
つまり、ジークフリートは兄の婚約者であるアーデルハイトに恋しているのだ。
弟王子が兄とその婚約者の後を追い回すのは、周囲は少年らしい背伸びだと思っていた。アーデルハイトでさえも可愛らしい弟分だとしか認識していないだろう。けれど実際には、ジークフリートは子供なりに懸命に兄と張り合っていたのだ。
もちろん彼もよく躾けられた王子であるからには、何事もなければ彼女に気持ちを打ち明けようなどとは考えなかっただろうが――兄王子が他に愛する女性ができたというなら話は変わる。
トリスタンからユリアーネの存在を知らされた時、ジークフリートは叫んだ。
「何としてもその令嬢と結婚してくれ、兄上! アデルは僕がもらうから!」
そしてその叫びと共に、二人してトリスタンの廃太子へ向けて尽力することが決定した。
ユリアーネを愛人にとどめたくないとしても、アーデルハイトとの婚約破棄は避けられないとしても、継承権放棄は唯一の道ではなかった。トリスタンとしてもそう簡単に継承権を放棄するのは褒められたことではないと承知しているし、ならばユリアーネを王太子妃にすべく根回しするのが本来の筋といえるはずだった。
しかし、両王子はこちらの案に対してそれぞれ不安を抱えていた。
トリスタンはユリアーネの実家の爵位が低いことを懸念した。
「彼女が王宮での生活に馴染めるはずがない。しかもアデルが傍にいて、いちいち比べられるのでは尚さら居心地が悪いはず。――そんなことでは私が嫌われてしまう!」
ジークフリートはアーデルハイトの実家の公爵家の思惑をこう推し量った。
「公爵はアデルを王妃にしたいはず。一方的に婚約破棄されるなら尚のこと、次の相手には兄上以上を求めるだろう。ただの第二王子じゃ見向きもされない。僕とアデルが結婚するためには少なくとも王太子くらいにはならなくちゃ!」
愛する相手を手に入れるためには王位でさえもごく軽く扱われるという点でも、二人の王子はよく似ていた。ジークフリートがアーデルハイトへの恋心を自覚して以来、兄弟の関係は密かにぎくしゃくしていたのだが、共通の目的を得た二人は数年ぶりに手を握って共闘することになったのである。
トリスタンが王位継承権を放棄することについては、比較的簡単な問題なように思われた。
多少なりとも公務を受け持って来ていたトリスタンは重臣や高官に根回しすることの重要性を既に理解していたし、彼らを説得する論理性も身につけていた。
ジークフリートも、アーデルハイトの気を惹くためという極めて私的な動機からではあったがトリスタンに見劣りすることのないように勉学に精を出していた。
やる気をなくした第一王子よりも、幾つか歳下というだけで能力的には問題のない第二王子を王太子にする方が良い。国王を始めとする国の中心を担う者たちがそう考え始めるのに、そう時間はかからなかった。
「そこまでは順調だったはずだ。私の熱意ある説得が功を奏したのだ」
「僕の努力が正当に評価されたのも忘れないでよ」
とにかく両王子が望むことへの、形式だけは整った。そして計画の最大の問題になりそうだったのが、彼らが愛する当の令嬢たちだった。
アーデルハイトは義務を重んじる気高い人柄だ。トリスタンの暴挙とも言える行動を、かならず諌めようとするだろう。
ユリアーネの方も。優しく純粋な少女だから、他人の婚約者を奪う形になるのは気が咎めるかもしれない。
だから王子たちは彼女たちにちょっとした嘘をつくことにした。
ジークフリートはアーデルハイトに注進した。
ユリアーネ嬢は王妃になろうと企んでトリスタンを篭絡した。しかし彼女の思惑とは違ってトリスタンは継承権の放棄を考えているらしい。婚約破棄と、それに伴う廃太子を認めれば、泥棒猫に対する絶好の意趣返しになるはずだ――。
トリスタンはユリアーネに囁いた。
アーデルハイトは気位の高い女性でトリスタンを愛してなどいない。王太子妃、ひいては王妃の地位にしがみついているだけ。トリスタンがいなくなっても次の王太子を狙うだけだろう。だから気にする必要など何もない――。
「途中までは上手くいっていたと思うんだけど」
「ああ。ユリアとアデルが近づくこともなかったし、アデルも婚約破棄を了承してくれた」
なぜ思い通りにいかなかったか、といえば――王子たちは二人そろって愛する人の気性を見誤っていた、ということに尽きるだろう。
アーデルハイトは二人が考えていたよりも心優しく忍耐強かった。恋に目を塞がれた婚約者でも、彼を惑わした――ということになっている――その恋人でも、見捨てようとはしなかったし、まして遠くから不幸を嘲笑うなど夢にも思っていないようだった。
ユリアーネも二人が考えていたよりも冷静で現実的で、そして決して夢見がちなだけの少女ではなかった。トリスタンに惹かれていたのは本当でも、自分と結ばれるために彼が婚約破棄や廃太子を選んだのを決して喜ばず、事態の重大さに恐れおののいていた。
「つまり、我々が愛した人たちはそれだけ素晴らしい女性だということではないだろうか」
トリスタンの総括に、ジークフリートは重々しく頷いた。
「そうだね。僕たちが思った以上に清らかな心の人たちだったということだから」
愛した相手は違っても、その女性に心底惚れ込んでいるのは二人とも同じだった。そしてその人を手に入れるために手段を選ばないところも兄弟の共通点だった。彼女たちの人格を認めてもなお、彼らは計画の遂行を諦めていない。思考が似ているからこそお互いに止めることはなく一つの方向へ加速するばかりなのだ。
「だが、だからといって計画のことを打ち明けるなど思いもよらない。そうだな?」
「当然! そんなことをしたら嫌われてしまうに決まってる!」
アーデルハイトもユリアーネも、相手の令嬢に対して歪めた姿を吹き込まれていたと知ったら怒るだろう。いや、それよりも問題なのは、嘘を信じて相手を悪く思ってしまったことかもしれない。どちらの女性も、普通ならば簡単に人を嫌ったり避けたりするような人ではないから。そのように仕向けた王子たちは、さぞ怒られ嫌われ軽蔑されてしまうだろう。
「二人を会わせる訳にはいかないな。実際顔を合わせて言葉を交わせば話に聞いていたのと全然違うと気づかれてしまう」
「少なくとも、廃太子が公に発表されて後戻りができなくなるまでは。その後は、兄上たちはどこか遠くで幸せになってくれ」
「もちろんだ。さて、そのためにどうするかだが――」
王子たちは頭を寄せ合って相談した。いずれも金髪碧眼で容姿に秀でた貴公子だというのに、その姿はどこか後ろ暗くてせせこましかった。本人たちは、愛のための純粋で一途な行動だと信じていたが。
ほどなくして結論は出た。
トリスタンは爽やかに微笑んで自分の役割を確認する。
「それでは私はアデルを担当しよう。ユリアに溺れているどうしようもないところを見せつけるのだ。そうすれば本格的に愛想をつかせて放っておいてくれるだろう」
ユリアーネのことを語りだすと止まらなくて、彼はしばしば弟をうんざりさせていた。演技のつもりでなくても、アーデルハイトに対しても同じことが起きるだろう。
ジークフリートも幼さの残る顔に固い決意を浮かべて宣言した。
「僕はユリアーネ嬢を受け持つ。アデルと遠ざけつつ、兄上がいかに王太子として不真面目だったか教えてあげるんだ」
実際、トリスタンは恋心のために義務を放棄しようとしているのだから、不真面目極まりないという評価はごく正当なもののはずだ。ついでにアーデルハイトをうるさがっていた、とでも付け加えれば良い。トリスタン以外の者からの証言があれば、きっと彼女も自分が悪い訳ではないと分かってくれるだろう。
「そちらは頼んだ。……だが、絶対にユリアは渡さないからな。間違っても好きになったりしないように」
「誰が! 僕が好きなのはアデルだけだ。兄上こそ未練がましい真似はしないでくれ」
兄弟はまたにらみ合ったが、それもほんの数秒のこと、すぐにお互いに笑顔になった。
「健闘を、祈る」
「ああ、そっちこそ」
二人は固く握手を交わすと、それぞれ別の方向へ去っていった。
こうしてくだらない言い争いをするのもあとわずかな間だけのはずだ。もうすぐだ。もう少しだけ、愛しい令嬢たちをごまかし通すことができたなら、彼らは彼女たちと結婚できるはずだった。
二人の王子はそう信じて疑っていなかった。
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