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男爵令嬢、途方に暮れる

 アイヒェンオルト男爵令嬢ユリアーネは、この頃自分がずっと夢を見ているのではないかと思っている。


 夢の始まりはいつからだろう。きっとあの日、父の領地の森の中で怪我をした貴公子を助けた時からだ。

 彼女の故郷、父の領地はオーク(アイヒェ)の豊かな森が広がる穏やかな地――と言えば聞こえが良いが、要するに田舎だった。実家も決して裕福とは言えないし、大変恥ずかしいことに父の目の届かないところでは盗賊が出没するなど治安の良くないところもあるという。

 だから男爵令嬢といえども、ユリアーネも父や屋敷を手伝うことが何かと多い。あの日も、何だったか伝言を預かって馬を走らせていて。それで、あの方を見つけたのだ。


(あの時あの道を通らなかったら……いいえ、そうしたら殿下のお命も危うかった。それに、殿下のいない人生なんて……)


 確か雨上がりで霧が深い日でもあった。土砂崩れでもあったら危ないと思いながら道を選んで、まさしく崩れたてで土が剥き出しになった斜面に当たって眉を寄せ――そして黒い泥と白い霧の合間に煌く金色が見えた。

 人だわ、と思った瞬間、ユリアーネは馬から降りて駆け寄っていた。幸いにその人は土砂に埋もれていた訳ではなくて、泥に馬の脚を取られて滑り落ちてしまったようだった。弱々しくはあっても息も意識もはっきりしていた。それでも手当が必要なのは明白だったので、彼女はその人を懸命に揺すって立ち上がらせ、自分の馬に乗せて屋敷へ連れて帰ったのだ。


 霧深く気温も低い中だったから必死だった。だからその人が非常に身なり良く、容姿も優れた王子様のような人だと気付いたのは屋敷にたどり着いてからだった。そして温かいスープを供して顔色も良くなったその人から、実際にこの国の王子様だと聞かされて、ユリアーネは心臓が止まりそうなほど驚いた。というか、王太子殿下に粗末なスープを飲ませたのは、絶対に死に値する不敬で重罪だと思った。


(でも、あの方はとても優しかったわ)


 ユリアーネが手ずからトリスタンの破れた衣服を繕ったのも、彼の傷の手当をしたのも、屋敷の人手が少なくて王子への応対がまともにできそうだったのが彼女しかいなかったからに過ぎない。だから家の貧しさを露呈しているようで、彼女は顔から火が出る思いだった。

 でも、トリスタンはしきりに恐縮する彼女を褒めてくれた。心優しくて控えめで、なのに行動力もあるのが素晴らしいと。……怪我をした人を放っておけないのは人間として当然のことだと思うから、きっと男爵家の窮状を見ない振りで言ってくれたのだと思う。


 とにかくトリスタンは数日を彼女の父の屋敷で過ごし、その間には幾らか会話も交わした。ことの発端になった狩りのことや、華やかな王宮、そこでの舞踏会のことなども。そしてトリスタンには公爵令嬢の婚約者がいることも知った。

 だから、恢復したトリスタンを見送った時、ユリアーネはこれで終わったと思ったのだ。多少の縁はあったとしても、王太子が田舎娘にこれ以上関わることなどあり得ない。ほんの少し聞いただけでも、婚約者だという令嬢は非常に美しく聡明な人だとうかがえた。

 だから、その数日のことは美しい思い出として大切にしまっておこうと思っていたのに。


(夢ならあの時に覚めていれば良かったのよ!)


 だが、トリスタンはまたアイヒェンオルトの領地を訪れた。ユリアーネへの礼だと言って、目もくらむようなドレスや宝石を携えて。当然のことをしただけなのに、高価なものは受け取れない。かといって王子からの賜り物を無碍にするのも恐れ多い。そんな葛藤に揺れる彼女とトリスタンの間で多少の押し問答があり――結局ユリアーネは一番小さな真珠の耳飾りだけを受け取った。

 無礼にあたるかと思って恐る恐る見上げたトリスタンの顔は、青い瞳は、とても嬉しそうに微笑んでいた。その晴れた空のような笑顔を見た瞬間に、多分彼女はトリスタンと恋に落ちてしまったのだろう。


 私なんかに構わないでください。もったいなさすぎるお心遣いです。そんなことを言いながら、ユリアーネはトリスタンとの逢瀬に心を震わせていた。彼の訪れを心待ちにして、彼と過ごす時間に酔いしれていた。トリスタンに連れられて見た王都の賑わいも、流行の菓子やドレスも、洗練された人たちとの交流も、彼女が今までに知らない華やかな経験だった。

 そう、ユリアーネはまさしく美しく楽しい夢の中で浮かれていたのだと思う。




(でも、だからといって、こんなことを望んでいたのではないわ!)


 通された王宮の一室で、出された茶に手をつけることもせず。ユリアーネは何度目かに心の中で絶叫した。椅子に落ち着くこともできず、ごく浅く腰掛けて背筋を正し、両手を胸の前で握りしめている状態だ。

 案内してくれた侍従も、茶を出してくれた侍女も、どこかよそよそしく刺々しい態度だった。当然だろう。ユリアーネのために、トリスタンは王太子の地位を放棄してしまった。婚約まで破棄すると、国王陛下やお偉い方々の前で宣言してしまった。国政に揺るがす大事を引き起こした女に対して、優しくして欲しいなどと期待することはできない。


 何も知らなかった、なんて言っても信じてもらえないだろう。それがとても図々しく聞こえるであろうことは世間知らずのユリアーネにも想像ができた。何より、婚約者がいる相手だと知りながらずるずると交際を続けていた彼女の罪は否定できないと思う。でも、絶対にこれ以上の関係にならないと思っていたから、王子の気まぐれに過ぎないと思っていたからこそひと時の夢に浸っていたのに。


 トリスタンが一体何を考えているのか、どうしてこうなってしまったのか。ユリアーネにもさっぱり分からない。だけど、彼女がそれを聞いたらきっと誰もが激怒することだろう。だから彼女は涙目で黙りこくるしかなかった。


(夢を見ているのかしら。とても悪い夢を……)


 分を過ぎた夢を見続けた代償ということなのだろうか。さっき悲鳴を上げていたら、自分の声で目を覚ますことができたのだろうか。

 でも、そんなことができたはずがない。部屋に入る前にトリスタンに喋らないように言い含められていたし、居並んだ人々の鋭い視線や好奇の眼差し、怒りもあらわに怒鳴っていた公爵を思い出すと、今もまた身体が震えてしまうほどなのに。あの場で何かを言い出すなんて、ユリアーネには無理だった。


 だからユリアーネはまだ悪夢のただ中にいる。いや、本当は自分でも分かっているけれど。これは現実なのだと。だって頬をつねっても腕に爪を立てても目覚める気配なんてないから。

 でも、ということは彼女のためにトリスタンが婚約を破棄して王位継承権を放棄したということで。彼女はとんでもない罪を背負ってしまったということで。


(一体どうしてこんなことになってしまったの……!?)


 彼女は途方に暮れるしかなかった。




 と、部屋の扉が急に音高く開いた。


「ユリア! 一人で寂しかっただろう!」


 取り次ごうとする侍従や侍女を振り払うように、嵐のように入室してきたのはトリスタンだった。満面の笑顔が、輝くような金の髪が、沈み込む一方だったユリアーネの心をほんの少しだけ照らしてくれる。


「殿下」


 そうだ、トリスタンならきっとどうにかしてくれるだろう。王太子ともあろうお方があのように立場を蔑ろにするなどあり得ない。きっと――ユリアーネのような田舎者には分からないけれど――何か大掛かりな出し物だったのだろう。全ては悪ふざけだったのだ。きっと、彼は種明かしをしてくれる。何も恐ろしいことはないと、彼女を安心させてくれるのだろう。


「今後の細々としたことを決めるのに時間が掛かってしまった。国民に発表する時期だとか、ジークフリートの立太子の儀式だとか。でも、君が関わることはないから安心してくれ。すぐに全てが落ち着くよ。――そうしたら、君の父上に挨拶に行こう」


 けれど、ユリアーネを抱きしめながらトリスタンが言ったことは、彼女の不安を全くやわらげてはくれなかった。むしろ、新たな疑問ばかりが湧いてくる。


「あの――父に、何のご用でしょうか」


 何を発表するのか、とか。どうして第二王子(ジークフリート)殿下が立太子するのか、とか。気になることは多かった。けれどそれを聞くのはあまりに恐ろしいことだった。だからユリアーネはなるべくあたりさわりのないことから確かめようとした。


「何って。結婚の挨拶に決まっているだろう!?」


 しかし、あたりさわりがないと思ったことこそ最大の爆弾だったらしい。

 トリスタンの答えに、心底当然と思っていそうな口調と表情に、ユリアーネは一瞬確かに気を失った。そしてすぐに自分を奮い立たせて目を見開いた。先ほどは黙っているうちにとんでもないことになってしまった。今度こそ、何が起きようとしているのか明らかにしなくてはならない。


「では――では、殿下! 先ほどのお言葉は本気だったのですか!? 本気で、あのような大事なことを……!? わたしなどのために――!」


 それでも何と言って良いか分からなくて支離滅裂になってしまったけれど。でも、何とか言いたいことは通じたようで、トリスタンはにこやかに頷いた。


「ああ、全て君のためだよ。私は君を愛しているから。君と結婚するためなら何でもするよ」


 彼はユリアーネに口付けようとして――やっと、彼女の顔色が悪いのに気付いてくれたらしい。初めて不思議そうに首を傾げた。


「君も、そう言ってくれたよね。私とずっと一緒にいたいと……」

「それは」


 言ったか言わないかで言えば、確かに言った。

 でも、それは夢物語だと思えばこそだ。トリスタンに愛されるとか結婚するとか、ユリアーネにとっては遠い世界のお伽話に過ぎなかった。だから、空を飛びたいとかお菓子の家に住んでみたいとか言うのと同じ気持ちで頷いていただけなのだ。


「……私が好きではなかったのかな」

「いいえ! お慕いしておりますわ」


 トリスタンが悲しげに呟いて俯いたので、ユリアーネは慌てて愛しい人の横顔をのぞき込んだ。彼女はずっと嘘をついていたつもりはなかった。見目良く礼儀正しいこの貴公子のことを好ましく思っていたのも、彼に愛を囁かれるのを夢想したのも本当のことだった。


「ならば何の問題もないね」


 けれどトリスタンがあまりにもあっさりと顔を上げて破顔したので、彼女はなにか取り返しのつかない間違いをしでかしたような気分になった。もしかしたらこの方は、状況を分かっていらっしゃらないのではないかしら。


「でも、でも……いけませんわ。継承権の放棄だなんて……」

「王なんて誰がなっても同じだよ」


 必死にことの大きさを分かってもらおうと言い募るのに、トリスタンは王子らしからぬ恐れ多いことをさらりと言った。


「父上は壮健だし廷臣たちも優秀だ。譲位の話が出る頃にはジークフリートも王太子として経験を積んでいることだろう」

「でも、公爵様はお怒りでした。きっと他の方だって……!」

「今だけだよ。私の本気を知ったら諦めるさ」


 トリスタンの言葉はあまりに自信に満ちているので、その通りだと信じそうになってしまう。けれどそんなはずは決してない。口付けようと顔を近づけてくるトリスタンを避けながら、ユリアーネは懸命に反論の糸口を探し――そして、トリスタンにとって一番痛いであろう点を突いた。


「アーデルハイト様は? あの方は絶対に許してくださいません」

「あんな女!」


 なのにトリスタンは朗らかに笑ってユリアーネを呆然とさせた。その隙に、彼女の額に王子の唇が降りてくる。


「一番心配のいらないことだよ。ずっと言ってきただろう、彼女は私を愛していない。彼女も父親の公爵も、王妃の称号が欲しいだけだ。そのためなら喜んでジークフリートに嫁ぐはずだ」

「そんな……」


(嘘よ。アーデルハイト様、絶対にお怒りのはずよ……)


 トリスタンの婚約者である公爵令嬢を思い浮かべると、ユリアーネは氷の手で心臓を掴まれるような恐怖を覚えた。レーヴェンブリュール公爵令嬢といえば才色兼備の呼び声高い貴婦人のなかの貴婦人だった。ユリアーネも当然彼女の噂は知っていて、だからこそトリスタンが自分を選ぶことなどないと思っていた。

 そしてトリスタンから気性の激しい人だとも聞いていたから、怖くて近づくこともできなかった。でも、今となってはそれが間違いだったような気がしてならない。


 実際に間近に見たアーデルハイトの姿は、噂通りの、いやそれ以上の気高さと美しさだった。婚約者が目の前で他の女の手を取っているというのにどうしてあの冷静さと優雅さを保てるのか、ユリアーネにはどう考えても理解できない。


 あの美しい方が、きっと心の中では自分を軽蔑し忌み嫌っている。そう思うと恐ろしくて申し訳なくて消えてしまいたいほどだ。


「でも……謝らないといけませんわ。わたし、そんなつもりではなかったのに……」

「謝ってもどうにもならないよ。婚約破棄も廃太子も既に決まってしまったことだ」


 トリスタンが耳元に囁く言葉に、気が遠くなりそうになる。それではユリアーネは王太子を惑わした女狐として歴史に刻まれてしまうのだろう。確かにトリスタンとずっと一緒にいられたら、とは思っていたけれど。でも、決してこんな形ではなかった。


「心配しないで。君は必ず私が幸せにするから」

「わたし、アーデルハイト様に謝らないと……」


 優しく抱きしめられながら言われても全然安心なんてできなくて、ユリアーネは壊れたオルゴールのように頑なにぎこちなく繰り返した。すると、トリスタンの腕に急に力が込められる。


「それはいけない!」

「なぜ……?」


 あまりに強い腕と口調に驚いてトリスタンを見上げると、ひどく真剣で思いつめたような目をしていた。


「アデルはとても自尊心が強い女性だ。愛していないとはいえ婚約者を奪われて面白いはずがない。ユリア、謝る必要はないと言っただろう。何をされるか分からないんだ、彼女に近づいてはいけないよ」

「でも」

「全て私に任せてくれ」

「……本当に?」

「ああ。アデルは……怖いから。君と会うことがないようにしよう」


 トリスタンが恐れ、緊張しているのは本当のようだった。ユリアーネには不思議だったけれど、先ほど国王や公爵と話していた時よりも、よほど。


「分かりました……」


 大人しく頷いてトリスタンを安心させながら、ユリアーネは心の中で決意していた。


(やっぱりアーデルハイト様にお会いしなくちゃ)


 罵られても手を上げられても構わない。トリスタンがこれほど不安がるのだから、恐ろしくて強い方なのは間違いないのだろうと思う。怖いけれど――それほどの方なら、この訳の分からない状況を、何かもっと収まりの良いようにしてくれるのではないだろうか。

 どうにかしてアーデルハイトに会って、謝って。そしてトリスタンと仲直りしてもらおう。そうすればユリアーネは身に覚えのない汚名を負わなくて済む。


 そうすれば、この長い夢も覚めるはずだ。

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