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公爵令嬢、諦めない

「お父様、わたくしは本当に大丈夫ですから。ひとりにしてくださいませ」


 娘の気持ちを心配してか、不実な元婚約者(トリスタン)に憤ってか。しきりに話しかけてくるレーヴェンブリュール公爵を、アーデルハイトは優しく――しかしきっぱりと――遮った。


「アデル。だが……」


 眉を寄せて彼女をのぞき込む父の表情はいつになく不安げで、いっそおかしく思えるほど。だからアーデルハイトは少しだけ微笑んだ。

 無理をした訳でもなかったのだけど、父はそうは捉えなかったようで一層悲しげに眉を下げる。でも同情や気休めは彼女が今、一番欲しくないものだ。


「お願いです。お父様」

「……分かった。だがくれぐれも早まった真似はしないように。父も母もお前を愛しているのを忘れるな」

「もちろんですわ」


 まるで自害を恐れているような父の言葉に、アーデルハイトは更に笑った。

 そして父の視線を背に感じながら、王宮の中庭に足を向けた。花とそよ風に囲まれれば、少しは気持ちを落ち着けられるだろうと思ったから。




 しかし、そこでもアーデルハイトはひとりになることはできなかった。中庭に足を踏み入れた瞬間に、待ち受けていたかのように数人の男女に取り囲まれてしまったのだ。


「アデル様、あの……わたくしたち、とても心配しておりましたの」

「殿下は――その後様子では、やはりお気持ちを変えられることはなかったのですね」

「何てお気の毒な」

「私たちは貴女を王妃として迎えるのを楽しみにしておりましたのに」


 皆、このシュトラールラントの貴顕の子女たちだった。男性は王太子トリスタンの学友であり、将来の側近になるはずの者たち。女性は宮廷で将来の王妃を支える貴婦人として、幼い頃から共に過ごした者たちだった。


「皆さま。わざわざ探してくださったの?」


 アーデルハイトは友人たちひとりひとりを見渡して苦笑した。彼らが事情を知っているのも無理はなかった。先ほど集められた重臣たちは、いずれも彼ら彼女らの親族だったから。トリスタンは婚約破棄と継承権放棄のために、それは精力的に有力者に根回ししていたようだったから。子女である友人たちも内々には話を聞いていたのだろう。父が何も聞いていなかったのがむしろ驚くべきことだった。


(皆さま、よほどお父様には言いづらかったのね……)


 お陰で青天の霹靂(へきれき)に打たれることになった父は大変気の毒なことだった。


「わたくしたち、殿下に抗議しようと思いますの」

「お相手の令嬢とかいう方にも。アデル様という婚約者がいらっしゃると知りながら殿下に取り入ったなど!」

「図々しいにも程がありますわ!」


 友人たちがアーデルハイトのために憤ってくれたのは、とても嬉しいことだった。だからアデルの頬には自然に微笑みが浮かんでいた。薔薇がほころぶような、と賞賛されるその笑顔に、口々に言い立てていた令嬢たちや貴公子たちも一斉に見とれて黙り込んだ。

 その隙をぬって、アーデルハイトは父に対してと同じようにきっぱりと告げる。


「皆さまのお心遣いには心からお礼を申し上げますわ。でも、わたくしのことは心配しないで。殿下も――ユリアーネ嬢も見守って差し上げましょう」

「でも、アデル様……」


 令嬢のひとりが何か言いたげに口ごもったが、言わせる前に薔薇の微笑みでまた言葉を失わせる。


「本当に良いのよ。それよりも、今までと変わらず王家にお仕えして差し上げて。……わたくしは、思っていたのとは違う形になりそうだから。しばらく気持ちの整理をしたいの」

「次の王太子にはジークフリート殿下がおなりでしょう? アデル様、ジーク様と婚約なさるのかしら?」

「陛下やお父様のご命令があれば。でも、今は分からないわ」


 正直に言うと、三つも歳下のジークフリートとの婚約なんて現実味が湧かなかった。でも、とりあえずそう答えた方が友人たちは納得しそうだとアーデルハイトは計算した。彼女は王妃になるものと、周囲も今まで信じ込んできたのだから。


「ねえ、ひとりにしてくださるかしら。わたくしは大丈夫だから」


 父にも頼んだことを、アーデルハイトは友人たちにもねだってみせた。上目遣いも首を傾げる角度も、彼女の美貌を際立たせると知り尽くしたものを使って。……王妃になった時には役に立つだろうと、長年研究してきた技だ。


「何かあったらご相談に乗りますわ」

「くれぐれも無理はなさらないでください」


 そして計算し尽くされた表情に、友人たちは魅了されてくれたようだった。皆、口々に慰めと励ましの言葉を述べて――やっと、アーデルハイトはひとりきりになることができた。




 中庭の東屋、そこにしつらえられた石造りの椅子に腰掛けて、木々を眺める。陽光を透かす緑は爽やかで美しいものではあったけれど、アーデルハイトの心を完全に晴らしてはくれなかった。彼女の目に映るのは柔らかな若葉でも花の蕾でもなく、先ほどあった少女の姿ばかり。アイヒェンオルト男爵令嬢ユリアーネ嬢。彼女の()婚約者が、愛しているという女性。


(近くで見たのは初めてだったわ。とても可愛らしい方なのね……)


 トリスタンが婚約者(アーデルハイト)以外の令嬢と親しくしているという噂は聞いていたし、憤る者、牽制しようと息巻く者もいた。彼女の目が届く範囲では宥めていたつもりだったけれど。王太子として教育を受けてきたトリスタンなら、そう簡単に義務を投げ出し王家の名に泥を塗るような真似はしないと信じていたから。

 ユリアーネも特に彼女に張り合うような気配は見せなかった。だから、大丈夫だと思っていた。


 でも、結果はこの通りだ。王太子としては願いを叶えられないと悟った彼は、あっさりと義務も権利も放棄することを決めたらしい。


 ユリアーネはそれほどに魅力がある女性なのか。それならば良い。アーデルハイトとしても諦めがつく。でも、もしそうでないなら――


「浮かない顔だね。……やっぱり、辛いよね」

「ジーク」


 ため息をつこうとした瞬間に掛けられた声にアーデルハイトは顔を上げ――第二王子の、ジークフリートの姿を認めて微笑んだ。まだ十六歳で幼さを残した顔立ちの彼は、義姉になるはずだった令嬢を心配そうに覗き込んでいる。


「兄上が、ごめんね……」

「良いのよ。貴方が教えてくれていたから、心の準備はできていたわ」


 アーデルハイトの口調は父や友人たちに対するものよりずっと砕けたものだった・

 ジークフリートこそ、今の彼女が普段通りに話せる唯一の相手かもしれないから。彼は()()()()()|を知っているし、トリスタンが彼女に婚約破棄の件を持ちかける前に、王太子の企みを教えてくれたのもこの第二王子だったのだ。


「ユリアーネ嬢は、とても驚いたご様子だったわ。トリスタン様、やっぱり彼女にもちゃんと話していなかったのね……」

「恋は盲目とはよく言ったものだね。好きになった相手は清らかで純粋な女性だとしか思えないらしい」


 ジークフリートの声は皮肉と嘲りが込められていて、実の兄に対するものとしては適切とは言えなかった。でも、先ほどのトリスタンの浮かれよう、そしてユリアーネの驚きようを見た後だと、アーデルハイトにも無理はないと思えた。


「貴方が教えてくれたことは本当のようね」


 呑み込みかけたため息を、そっと吐き出す。恋人と結ばれると知っても、ユリアーネは決して喜んでいなかった。トリスタンからは見えていなかったかもしれないけれど、退出する際など、彼女はむしろこの世の終わりが訪れたかのように青ざめた顔をしていたのだ。


「ユリアーネ嬢はトリスタン様を愛していない。あの方は王妃になりたかっただけなのね……」

「可愛い顔をしてとんでもないよね」


 兄の恋人をけなしているというのに、ジークフリートはいたずらっぽく、そして意地悪く笑った。そしてひざまずいてアーデルハイトの手を握る。


「貴女が彼女の企みをくじいたんだ。王冠どころか、これで彼女は田舎の貧乏貴族のまま。兄上だって報いを受ける。野望が叶わないと知ったらユリアーネ嬢だって清らかで優しい乙女のままではないだろうね。そんな相手と添い遂げるのが、貴女を捨てた兄への罰だ」

「――え?」


 彼女を見上げるジークフリートの微笑みは爽やかで、言葉には熱が、指先には力がこもっていた。だから彼は本気で言っているのだろう。それは分かる。疑問の余地はない。でも、だからこそ、アーデルハイトは戸惑った。


「ジーク、貴方……お兄様が不幸になるのを望んでいるの?」

「――え?」


 今度はジークフリートが言葉を失った。ぽかんと口を空けて、眉を寄せる。無言の二人の間を初夏の風が吹き抜けて、甘い花の香りを届けた。

 その香りがまた吹き散らされる頃、おずおずと、意を決したように、ジークフリートは口を開く。


「……望んでないの? 兄上は勝手に婚約を破棄して、義務も放り出して――ざまあみろ、って思わない? 少しは痛い目を見ろ、って……」

「思わないわ。全然」


 呆然とつぶやいてから、アーデルハイトは慌てて付け足した。


「わたくし、そんなに意地が悪い女ではないわ。確かに悲しいし、驚いたけれど……。でも、トリスタン様もユリアーネ嬢も、軽率ではあるのでしょうけれど、だからといって一生不幸になるなんて。好きでもない相手と結婚するなんて、あまりにお気の毒じゃない!」

「で、でも」


 ジークフリートは混乱したようだった。

 アーデルハイトの手を振り払うようにして立ち上がり、座ったままの彼女の周りをぐるぐると歩き回る。彼も兄に似て金髪碧眼の妖精めいた貴公子だったが、汗ばんで無駄に手振りをしながら右往左往する姿は落ち着きのない熊のようだった。


「じゃあ、どうしてさっき頷いたりしたんだよ、アデルっ!? 君さえうんと言わなければ、父上も婚約破棄なんて認めたりしなかったのに!」

「だって、無理に説得しようとしてもトリスタン様が聞くはずないじゃない」


 いつも大人ぶって背伸びをしているジークフリートが子供っぽい口調になってしまっている。その慌てようがおかしくて、アーデルハイトは口元を手で隠してくすくすと笑った。

 幼い頃から王太子の婚約者として過ごした彼女にとって、ジークフリートは自分の弟も同然だった。トリスタンとの婚約は終わったけれど、この少年との親しい関係は変わらないだろう。それはきっと彼女にとって良いことだ。


「陛下や重臣方を説き伏せるほどに思い込まれてしまっているのですもの。逆に頑なになってしまうだけよ。でも、ユリアーネ嬢が……その、あてが外れて様子が変わってしまった後なら、聞いてくださるかもしれないわ」

「そうかなあ」


 情けない声を上げたジークフリートを励ますように、あるいは自分に言い聞かせるように、アーデルハイトは力強く頷いた。


「そうよ。それに、ユリアーネ嬢も諦めてくださるかも。だって、あの方はトリスタン様を愛していらっしゃる訳ではないのでしょう? 今頃は引っ込みがつかなくなって困っていらっしゃるでしょう。わたくしも口添えするから、ってお伝えしたら、あの方からもトリスタン様を説得していただけるんじゃないかしら」

「……そんなに兄上のことが心配なの? 他の人を選んだのに……」


 ジークフリートの呟きはとても小さなものだったので、風にさらわれてアーデルハイトの耳には届かなかった。それに彼女は自分の思いつきに夢中になって、それどころではなかったのだ。


「わたくし、ユリアーネ嬢にお会いしなくては。あの方は王宮に親しい方は少ないはず。相談できる相手もいらっしゃらないはずですもの」

「――それはダメだ!」


 鋭く遮られて、アーデルハイトは目を瞠った。名案だと思ったのに、と軽く唇を尖らせる。


「どうして?」


 疑問を込めて見つめる先で、ジークフリートはどういう訳か口ごもった。更に微かに頬を赤くして目を逸すので、アーデルハイトには何が何だか分からない。


「だって……それはマズいよ」

「だからどうして?」

「それは――そう、危ないから!」

「危ない? ユリアーネ嬢が?」


 きょとんとして首を傾げるアーデルハイトとは対照的に、ジークフリートは勢い込んで大きく頷いた。その表情に浮かぶのは、まるで問題の正解を見つけた子供のような満面の笑みだ。


「そうだよ、危ないよ。だって相手は王太子をたぶらかそうとした女狐だよ? それも、今は思い通りにならなくて虫の居所が悪いに決まってる! アデルが近づいたりしたら、腹いせに何をされるか分からないよ!」

「そうかしら」

「そうだよ!」


 心根の方はともかく、ユリアーネは見た目にはたおやかな少女としか思えなかったのだけど。でも、ジークフリートがあまりに必死に訴えるので、アーデルハイトはとりあえず頷くことにした。父や友人たちに対するのと同じようなことだ。


「じゃああの方に会うのは止めておくわ。代わりにトリスタン様と話してみましょう」

「放っておくことはしないんだ……」


 ジークフリートが何かうめいていたが、アーデルハイトはさして気に留めていなかった。もうトリスタンを説得する言葉を考え始めていたから。


 ユリアーネの本性を知ったら、トリスタンは悲しむだろうか。怒るだろうか。不興を買ってしまうかもしれない。でもやらなければならないだろう。拒絶されたとしても、アーデルハイトは彼を支えるために育てられてきたのだから。

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