第二王子、赤面する
「アデル、ごめんなさいっ」
馬車の扉が閉まるなり、ジークフリートはアーデルハイトに頭を下げた。狭い車内でできる限り身体を縮めて、肘などを壁にぶつけながら。
アーデルハイトが、話をしたいと言って彼と同じ馬車になるようにさせたのが怖かったのだ。彼女の話とは、ジークフリートが兄と一緒になってついた嘘の件に決まっている。
すでに全てバレていて、彼女にすっかり嫌われ軽蔑されているのは覚悟しているが――過去の自分自身を殴り倒したいほど後悔してはいるが――、アーデルハイトの方から切り出させるのは男としても加害者としても最低だ。どんなに言いづらくても怖くても、打ち明けるのは彼の方からでなくてはならない。
「騙していてごめん! 兄上とユリアーネ嬢は心から愛し合っているし彼女は清楚そのものの女性だ。とても、心配をかけてしまって、君を苦しめてしまったけど――みんな、僕たちが仕組んだことだったんだ。ううん、実際に君に嘘をついたのは僕だ。許してほしいなんで言えないけど、謝らせて。罰なら何でも受けるから――」
兄のトリスタンがユリアーネにしたように、ジークフリートはなりふり構わず愛する人に自分の罪をさらけ出した。改めて口にすると、どうしてこれが良い考えだなどと思ってしまったのだろう、と思う。
「やっぱり嘘、だったのね」
アーデルハイトのため息は芳しいそよ風のようだった。けれどそれは鋭い刃のようにジークフリートの胸を抉った。
「考えてみればユリアーネ様が……あんなことを考えているなんて言ったのはあなただけだったわ。そしてユリアーネ様はどう考えてもあんな誤解を招くような方じゃなかった。だから、わざと嘘をついたとしか思えなかったのだけど」
「アデル……」
「わたくしがどう感じたか、なんて些細なことよ。わたくし、あの清らかな方にとてもひどいことを思ってしまっていたわ。それだけじゃない、口に出して知らせてしまったのよ。あの方は許してくださったけど……。でも、あんなに恥ずかしくていたたまれない思いをしたことは初めてだったわ」
「……ごめんなさい」
アーデルハイトは決して声を荒げてはいなくて、ため息の調子のまま、嘆くような愚痴るような口調だった。でも、だからこそジークフリートは反論の言葉もなくひたすらにうつむいた。バレた時の彼女の反応は分かっていたはずなのに。何の罪もない優しい令嬢を
悪く思っていたとしったら、必ず傷つくと知っていたのに。アーデルハイトの気高さの前に、自分自身がいてはならないような卑しく小さな存在だと思えて仕方なかった。
「謝るのはユリアーネ様に対してでしょう。……トリスタン様とどのようなお話になるかは分からないけれど。あの方は許しておしまいになる気がするけれど。……それでも、一番傷ついたのはあの方ですもの」
それを聞いたジークフリートは反射的に嘘だ、と思った。ユリアーネを気遣いながら、アーデルハイトの瞳もいつもより深い青に沈んでいるように見えた。彼女の悲しみを映しているかのように。
「アデル。兄上を……愛していたの?」
恐る恐る、問いかける。アーデルハイトは高貴な義務感から兄を支えているのだと思っていた。そして、彼が王太子になればすんなり支える相手を変えてくれるものだと。だが、その前提が間違っていたとしたら――彼は一層罪深い。兄の心変わりを歪めて伝え、更に傷心の彼女に意に反した婚約を迫るつもりだったのだから。
「敬愛していたつもりだったわ」
不安と恐れを込めて見つめる先で、アーデルハイトは弱々しく首を振った。
「でも、ユリアーネ様を見たらもうそんなことは言えない。わたくしは、あんな熱い眼差しでトリスタン様を見つめたことはないし、あの方を語る時もあんなに嬉しそうではなかったと思う」
「そう……」
それを聞いても、ジークフリートは喜んで良いのか分からなかった。ユリアーネには敵わないと言いつつも、アーデルハイトは彼女なりに兄を愛そうとしていたのだと気づいたから。
彼はここでも愛する人を甘く見ていた。たとえ家と国のための婚約でも、アーデルハイトなら夫となる人を愛そうとするに決まっていた。王妃に相応しい気品も教養も、そのために努力を重ねたからだ。結果的にトリスタンの愛を射止めたのはユリアーネだったけれど、アーデルハイトの長年の努力と想いは、簡単に引き継げるようなものでは決してなかったのだ。
慰めるべきか、謝罪の言葉を重ねるか。ジークフリートは思い悩んで押し黙り、アーデルハイトも口を結んで窓を流れる景色を眺める。馬車の中、ふたりの間にはしばらく車輪の音だけが響いた。
「わたくし、あなたと婚約することになると思うわ」
ジークフリートにとっては情けないことに、次に口を開いたのはアーデルハイトの方だった。更に、彼女が告げたことは彼の心臓を驚きとほんの少しの喜びに――後ろめたさもあったけど――跳ねさせる。
「え、でもレーヴェンブリュール公爵は僕には渡せないって……」
「今はお怒りかもしれないわね。でも、冷静になればお父様も分かるはず。公爵家に釣り合う身分のお若い方で、独り身の方やお相手がお決まりでない方はいないもの。外国の方まで選択に入れれば分からないけれど――」
「そんなのは嫌だ!」
立場も忘れてジークフリートが叫ぶと、アーデルハイトはやはり弱々しく微笑んだ。
「でも、婚約破棄された女では外聞が悪いわね。それに、わたくしはこの国が好きだもの」
「だから……僕と、婚約してくれる?」
「ええ」
アーデルハイトが説明したのと同じことを、ジークフリートも考えていた。だから彼女と婚約できるだろうと期待していた。
でも、こんな悲しげな顔で言われるとは思っていなかった。兄たちのことを少しは怒ったり嘆いたりするかもしれないけれど、それはジークフリートに対する感情ではなくて。優しく苦笑しながら彼のことを受け入れてくれるものだと思っていた。
「アデル、ごめんなさい。君の気持ちを考えてなかった――」
「わたくしは義務を果たします。それが王妃でも王子妃でも。……でも、結婚に夢を見ていない訳でもないの」
アーデルハイトの声にはいつもの華やかさも朗らかさもなかった。そこに滲むのは悲痛なまでの覚悟で。自分との未来を考えるのが彼女にとっては苦しみなのだと悟ってジークフリートは後悔と罪悪感に唇をきつく噛み締めた。
「だからあなたのことは嫌いたくない。だから、教えてちょうだい。――どうしてこんなことをしたの?」
恐ろしい問いかけに答える覚悟を決めるために、ジークフリートは何度か大きく息を吸って吐いた。
「……君を、愛しているから」
言いながら、この言葉を告げる状況を決定的に間違えたな、と思う。
兄と婚約していた頃はもちろん口には出せなかったことだけど、例えば兄がユリアーネに求婚することを決意した時、とか。継承権放棄を言い出した時、とか。アーデルハイトが彼と婚約せざるを得ない状況を作るのではなくて、自分から一緒の人生を歩んで欲しいと言い出せば良かった。
驚いたように、困ったように彼を見つめるアーデルハイトの微妙な表情を見て、ジークフリートは心底過去の行動を悔やんだ。
「兄上がユリアーネ嬢と結婚すれば、僕が王太子になる。そうすれば君と結婚できると思ったから。そのためには、兄上を説得して思いとどまらせようなんて思って欲しくなかったんだ。だから、きっぱりと捨ててくれるように、あんな嘘を……」
「助けに来てくれたのも……その、愛のためだったのかしら」
「……うん」
ジークフリートは小さくうなずいた。アーデルハイトの困ったような顔つきからして、感動したり感謝したりしている訳ではないのは明らかだったから。
(そうだ……僕は足手まといでしかなかったじゃないか……)
愛する人を助けたい、という焦りと高揚が去って。思い返してみれば、彼はろくに役に立っていなかった。騎士たちが止めようとしたのも今ならよく分かる。多分彼などいない方がずっと楽に作戦は進められていたに違いない。
「わたくしも勝手なことをしてしまったし、助けてもらったのは嬉しかったけれど……でも、あまり良くないことだと思うわ。あなたたちに何かあったら、罰を受けるのは騎士の皆さまだったのよ」
言いづらそうに苦言を呈されて、ジークフリートはうなだれた。館に突入するまでは確かにそう気づいていたはずなのに、アーデルハイトの姿を見た瞬間に全て吹き飛んでしまったのだ。これでは兄を笑えない。
「彼らにも謝るよ……」
「王子に謝罪されたのではあの方たちも困るわ。お礼を言って、労って差し上げるのが良いと思う」
「……そうします」
アーデルハイトの指摘に、ジークフリートは未熟さと視野の狭さを思い知らされる。謝って罪を償うどころか、出来の悪い生徒のように叱られ、たしなめられる一方な雰囲気さえあった。
(これじゃダメだ……アデルは完璧すぎる。僕にできることなんてあるのか……?)
焦りを募らせて黙りこくるジークフリートをどう思ったのか、アーデルハイトはふとため息をついて首を振った。
「わたくし、ずっとこの調子になりそうね。口うるさい女だと思われてしまいそう。……トリスタン様もそうだったのかしら」
「口うるさいなんて……そんなことないよ!」
これもまた、彼がついた嘘の影響だった。兄が義務を――アーデルハイトを煩わしく思っていたなんてことはない。彼ら兄弟はふたりとも、美しく聡明な公爵令嬢のことを心から尊敬していた。……多分、彼女ならばいつでも冷静に割り切った決断ができるだろうと甘えてしまっていたのだと思う。だが、彼女だってまだ若い少女でしかなかったのに。彼らはそれに気づいていなかったのだ。
気高いアーデルハイトの、自嘲するような寂しげな笑みはジークフリートの心を激しく揺さぶった。常に正しい彼女に、余計な負い目を感じさせてしまった。それは多分、単に嘘をついて傷つけた以上の罪だった。
「アデル、ごめん……!」
「過ぎたことだもの。もう、良いわ。」
それは赦しではなく諦めの言葉でしかなかったので、ジークフリートは更に焦った。あまりに焦ったので、身を乗り出してアーデルハイトの手を握りしめてしまう。
「今回のことだけじゃなくて! 僕は、王太子になれば君はずっと一緒にいてくれると、支えてくれると思ってた。ずっと君に甘えるつもりだったんだ。それが、一番悪いことだったと思う」
「ジーク……?」
アーデルハイトが手を引っ込めてしまう前に、ジークフリートは――自分でも何が言いたいかよく分かってはいなかったけど――必死に続けた。
「君にしてもらうだけ、なんて間違ってたんだ。君と結婚したいなら、愛してもらいたいなら、まず君に相応しい男にならなくちゃいけなかったんだ。君は、王子なら誰でも結婚してくれるのかもしれないけど、僕もそう思ってたんだけど――でも、そんなのじゃ嫌だ。アデルに認めてもらって――愛して、もらいたい。今のままじゃ無理なのは分かってるけど!」
アーデルハイトが何か言いたげに口を開いたので、遮られる前に一層彼女の手を引き寄せて声を高める。
「呆れられて、軽蔑されたのも分かってる。信じられないのも。でも、信じてもらえるように頑張る。だから待っていてほしい。時間は掛かると思うけど、何度も叱られてしまうかもしれないけど……」
今の自分がアーデルハイトに一体どう見えているのか。とんでもない大口を叩いているような気がして――そしてきっと気のせいではなく厳とした事実で――ジークフリートの声は次第に小さくなった。でも、最後まで言わなければならないから。彼は、アーデルハイトの青い目から目を逸らさなかった。
「僕たちの間を、ただの政略結婚なんかにはしない。必ず、君の愛に相応しい男になってみせる。君に支えてもらうだけじゃなくて、支え合える夫婦になりたいんだ。だから――そんな、悲しそうな顔をしないで……」
言いながら、アーデルハイトを悲しませたのは彼自身の行いに他ならないと気づいてしまい、ジークフリートはまたうつむきそうになってしまう。でも、彼女に笑っていてほしいのも事実だった。彼女が先ほど言ったように、犠牲になるような気持ちで婚約を受け入れられるのはあまりに辛すぎた。
「支え合う……わたくし、トリスタン様とはそんな風に考えたことがなかったかもしれないわ……。だから、ユリアーネ様に適わなかったのかしら、って思ったの」
「そんなことないよ! 兄上とユリアーネ嬢は……多分、運命みたいなものだったから……」
この期に及んでアーデルハイトとユリアーネを比較するのも、うかつにユリアーネを下げるような言い方をするのも明らかに得策ではないので、ジークフリートは曖昧なことしか言えなかった。
「でも、僕たちのやり方は間違ってたけど、兄上たちが結ばれたら良いと思う。だって、好きな人と結婚するのが良いに決まってるから。だから、僕がさっき言ったのも、僕だけのためってことじゃなくて、君にも幸せになってほしくて……義務だけの結婚じゃなくて……」
そしてこれがあまりに図々しい言い分なのもよく分かっていた。
「そうね。わたくしも冷え切った関係なんて嫌よ。愛し合えるならとても素晴らしいことだと思う」
だからアーデルハイトがそう言って微笑んだ時、ジークフリートは驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
「アデル? 僕を……許してくれるの?」
恐る恐る問いかけると、アーデルハイトはきっぱりと首を振って彼を奈落へ突き落とした。でも、すくい上げるのもまた、彼女だった。固まってしまったジークフリートに、彼女は優しく微笑みかけてくれたのだ。
「あなたのことを信じられるようになるか、愛せるようになるかは分からないわ。でも、待つことならできそうだから。支え合う夫婦に……いつか、なりましょう」
「なる……絶対になるよ! 君の隣にいても恥ずかしくないように、立派な王になるから!」
勢い込んでうなずいたジークフリートに、アーデルハイトはくすりと笑った。目を輝かせた王子は、彼女の目には意外にも可愛らしく好ましく映ったから。
「あなたと婚約するなんて不思議だけど。ずっと弟だと思っていたのに」
「相手にならない……?」
「うーん、家族のようなもの、かしら」
「結婚すると家族になるのとは、違うよね」
「そうねえ……」
アーデルハイトが首を傾げるので、ジークフリートは不安になった。いつまでも弟扱いで男として見てもらえないのではないかと。不安のあまりに――そして、浮かれるあまりに、つい余計なことを口走ってしまう。
「キス、するとかどう? 婚約するなら、その証に」
もちろん調子に乗りすぎた提案だった。だから、彼は叱られる前に撤回しようとしたが――
「そう、しましょうか」
アーデルハイトは意外にも真剣な顔でうなずいた。
「えっ」
「目を閉じていて。恥ずかしいから」
「えっ」
(そっちからするんだ……)
疑問には思ったものの、異議を唱えることなど思いもよらなくて、ジークフリートは大人しく目を閉じた。乙女のように期待と不安に胸を高鳴らせて待って、そして――
柔らかく心地良い感覚が触れたのは、ジークフリートの額にだった。まるで寝る前の子供に与えるような軽い口づけ。
「子供みたいだ」
もちろんアーデルハイトの唇の感触は天使の羽が触れたかと思うくらいに彼の魂を震わせた。でも、やっぱりまだ弟扱いなのかと思うと、ほんの少しだけ――図々しいとは思ったけど――不満そうな口調になってしまう。
「まあジーク、あなたいつから大人になったつもりなの?」
すると歳上の愛しい人は、目を見開いて心底不思議そうに首を傾げ、その仕草で彼に自分の立場を思い出させた。
「はい――いいえ。ごめんなさい」
恥じ入ってうつむくと、頬に暖かなものが触れた。アーデルハイトの指先だ、と気づくのと同時に、顔が上向かせられる。
「大人になるのを待っているわ」
唇をかすめた感触があまりに柔らかく、そしてなぜか甘かったので、ジークフリートは真っ赤になったきり何も答えることができなかった。




