公爵令嬢、ひとり旅
「嬢ちゃん、乗るのかい、乗らないのかい!?」
「え……」
乗合馬車の御者に苛立ちもあらわに怒鳴られて、アーデルハイトは絶句した。乗るのかと言われても、馬車には既に人が乗ることのできる空間はないように見える。
「次の馬車を待ちますから、行ってくださいませ――」
やけに機嫌の悪そうな御者に負けじと声を張り上げると、車中の客から次々に声が掛かった。
「何だ、乗りたいのかい」
「次の馬車もこんなもんだよ」
「細いんだから乗っちまいな」
あまつさえ彼女の手をとって馬車に引っ張りあげようとする者もいた。
「え、ええ!?」
戸惑いの悲鳴を上げたのも一瞬のこと。瞬く間に、アーデルハイトは馬車の座席にわずかに残った隙間に押し込まれていた。細身だと評判の彼女でさえも窮屈さを感じるほど。布地をたっぷりと使ったいつものドレスだったら、収まることはできなかったかもしれない。
(これが……民の暮らしというものなのかしら……)
生きた鶏を抱えた少年と――彼女には名前は分からなかったけれど――何かの野菜の山を抱えた中年の婦人に挟まれて、アーデルハイトは落ち着かなく身体を縮めた。
早朝に屋敷を抜け出して、すでに何度も乗合馬車を乗り換えてきた。シュトラールラント国では国中の都市を繋ぐ交通網が整備されているから、日が暮れる前にはアイヒェンオルト男爵領に到着できると計算してのことだ。このために、前日からメイドに私服を借りたり小銭を用意させたりして準備をしていた。もちろん公爵令嬢の彼女にとしては例のないことではあったけれど、婚約破棄の直後で腫れ物扱いとあって、誰も何も言わずに言うことを聞いてくれた。
王都を発ってからしばらくは、馬車に乗り合わせる客もアーデルハイトにも見慣れた服装をしていた。商用で近隣の都市に出かける殿方や、郊外に遊びに出かけるご婦人方など。それが、高い建物がまばらになって道路が石畳からむき出しの土になり、代わりにどこまでも丘陵や麦畑や牛や馬が草を食む牧草地の光景が広がるようになると、馬車の客層も変わっていった。
農夫や牛飼い……と呼ぶのだろうか。真っ黒く日焼けして訛りのある言葉で、大声で語り合う男たち。女性も同じように声が大きくて言葉遣いも荒々しくて。土や草の匂い、それに獣っぽい臭いを漂わせる人もいて。話しかけられてもどう答えて良いか分からなくて。アーデルハイトはずっと居心地の悪い思いをしていて、恐怖さえ感じるくらいだった。
(でも、怖じ気づいている場合ではないわ。アイヒェンオルト男爵にお会いしなくては。そして、ユリアーネ嬢を説得するのよ……!)
トリスタンにユリアーネを諦めさせるつもりは、アーデルハイトにはもうなかった。ユリアーネを語る時、トリスタンはとても幸せそうに笑っていた。彼のあんな表情は長年婚約者として傍にいたアーデルハイトでさえ見たことがない。トリスタンは、ユリアーネ以外の女性と結婚する気はないのだと、悟らざるを得なかった。
ユリアーネが王妃の座を狙ってトリスタンに近づいたのでなければ、アーデルハイトも心から応援することができたかもしれなかったけれど。でも、彼女はトリスタンが廃太子を言い出した途端に第二王子のジークフリートに擦り寄ったらしい。
ユリアーネには野望など捨てて、一生トリスタンに付き合ってほしいと思うのだけど……果たしてそんな女性が大人しく諦めてくれるだろうか。
(諦めてもらわなくては。そのためにも、お父様の男爵からも話していただくんだから)
アイヒェンオルト男爵は、後継ぎがいなくて悩んでいたという。それなら、王太子でなくなったトリスタンが婿に行くのは歓迎するだろう。父親からの説得なら、ユリアーネも折れてくれるかもしれない。もしも、それでダメなら――
アーデルハイトは、隠し持った包みを服の上からぎゅっと握り締めた。個人的に所有している宝飾品を、傷がつかないように天鵞絨で丁寧にくるんだものだ。王妃の身を飾るものには及ばないが、公爵家に代々伝わる由緒あるものや、未来の王太子妃に相応しいようにあつらえたものばかりだ。
ユリアーネが王妃の名誉を欲しがっているのならば全くの無意味になってしまうけれど。もし、彼女が求めているのが贅沢な暮らしや豪華な衣装なら、もしかしたらこの宝飾品を渡すことで取引に応じてくれるかもしれない。
アーデルハイトにとっても思い出深くて手放しがたいものばかりではあるけれど。でも、ユリアーネの本性を知ってトリスタンが傷つくところなど見たくなかった。
ユリアーネとの縁を後押しすることこそ、元婚約者のために彼女ができる唯一のことだと、アーデルハイトは思っていた。
こつこつ、と。腕を軽く叩かれるような感触に、アーデルハイトはそちらの方を見下ろした。すると、隣の少年が抱えた鶏が首を伸ばして彼女の腕をつついていた。
「きゃっ」
思わず悲鳴を上げて嘴を避けようとすると、ぎゅうぎゅうに詰められた車内のこと、逆隣の婦人が抱える野菜の山を崩してしまいそうになる。
「ご、ごめんなさい……」
恰幅の良い婦人に無言でぎろりと睨まれて、アーデルハイトは身を縮めた。その間にも鶏は彼女の服をつついていたのだが――騒ぎに気づいたのか、飼い主らしい少年は慌てたように鶏を抱え直してくれた。
「あ、ごめんなさい、お姉さん。気付かなかったよ」
「い、いいえ。良いのよ……」
少年の腕の中で、鶏は悪気などないかのように首を傾げてアーデルハイトを見上げていた。黒いつぶらな瞳は可愛らしいと言えなくもなかったけれど、とさかの赤やざらざらとしていそうな質感はどうも怖いと思ってしまう。
ふと、トリスタンが語っていたことを思い出す。
――彼女は羽をむしるのも鱗を取るのも嫌がらずにやるんだよ。
(ユリアーネ嬢なら、鶏が怖くないのかしら。庶民なら、こんな子供でもやることなのかしら)
「ねえ、その鶏、羽をむしったりするのかしら?」
「……こいつは雌だよ。卵を産むんだ。そんなことしないよ!」
少年はしっかりと鶏を抱え込むと、アーデルハイトから遠ざけた。とても危険で残酷なことを言ったかのように睨まれて、アーデルハイトは少なからず落ち込んだ。
「そうなの。ごめんなさい、わたくし、全然分からなくて……」
「お姉ちゃん、世間知らずっぽいからなあ。酔ったりしてない? 本当にこの馬車で合ってる?」
「ええ。アイヒェンオルト男爵領に行きたいの。合っているはずだけれど」
「うん、そうだね。この馬車で終着駅まで行って、そこでオークの標識が描かれた馬車に乗れば良いんだ。御者はみんな分かってるから聞けば良いよ!」
「……ありがとう」
よほど頼りないと思われているのかもしれない。小さな子供に言い聞かせるような口調で、鶏を気にしながらも手振りも加えて説明してくれた少年に、アーデルハイトは弱々しく微笑んだ。社交界においては彼女は大人びているとかしっかりしていると評価されていたけれど、この馬車の中では歳下の子供にさえも心配されてしまうらしい。
それでも怒る気にもなれないくらい、確かに彼女は心細くて不安だった。
「あんた、男爵様のところに行くのかい? ご主人様のお使いか何か?」
「え、ええ。そんなところです」
野菜を抱えた婦人が話しかけてきたので、アーデルハイトは飛び上がりそうになった。さっき睨まれたばかりだったから。
「暗くなると物盗りが出ることもあるってのにねえ。若くて綺麗な子が、危ないよ。ひどいご主人だねえ」
婦人は顔を顰めて吐き捨てるような口調で言った。まるで叱られているような気分になったアーデルハイトだったが、どうやら心配してくれているらしい、と気づいて婦人をまじまじと見直す。黒く日に焼けた顔に、小さく埋もれるような目。表情をうかがうことは難しかったけれど、よく見れば怖い感じではなく、実直な人のようにも思える。
(男爵は……私を歓迎してはくださらないかしら)
婦人の言葉を反芻して、アーデルハイトは改めて不安になった。アイヒェンオルト男爵と話さなくては、という一心で飛び出したのは良いものの、考えて見れば男爵はあのユリアーネの父親だ。彼女のことを、トリスタンと娘が結ばれるための障害として煙たく思っているかもしれない。仮にも公爵令嬢であるアーデルハイトのことを、そうそう害することもできないだろうけれど……。
「遅くなったら男爵様に泊めていただけないかと思っているのですけど……」
取りあえず婦人を安心させようと思ってアーデルハイトは無理に答えをひねり出した。だが、婦人はなぜか嬉しそうに歯を見せて笑った。
「ああ、そうだねえ。優しい方だもの。若い子を夜道に放り出したりはなさらないよ」
「優しい方……なのですか」
黒く灼けた顔の中、婦人の白い歯はやけに眩しく見えた。戸惑い首を傾げるアーデルハイトに、反対側の少年も明るい声を掛ける。
「そうだよ。お嬢様もすごく優しいんだ。お姉ちゃん、会ったことないの?」
「ええ……初めてで……」
お嬢様、とはつまりユリアーネのことだろう。意外なところから意外な評価を聞かされて、アーデルハイトは驚きに目を見開いた。たまたま乗り合わせた少年や婦人が、これから会おうとしている人たちのことをよく知っているようなのに驚いたのだ。実のところ、アーデルハイトでさえ男爵やその令嬢の人となりをほとんど知らないというのに。
「お二人とも、アイヒェンオルト男爵領にお住まいなのですか?」
だが、両側に代わる代わる目を向けながら尋ねると、二人はそろって首を振った。
「いいや。だけどこの辺だと評判だねえ」
「お嬢様も男爵様を手伝ってあちこち出かけてるから。領民じゃなくても見かけたことがあるって奴は結構いるよ」
がたがた、ごろごろ。馬車の車輪が立てる音に、振動に、アーデルハイトはしばし耳と身体を預けて考え込んだ。少年が気遣ってくれた通り、贅沢な馬車に慣れた彼女には薄いクッションも、石に乗り上げでもするのか時たま投げ出されそうなほど激しく揺れる車体も堪えるものだった。朝からの疲れも溜まっているし、狭いところに押し込められた脚や硬い座席に座りっぱなしの腰のあたりは痛みを訴え始めている。
でも、そんなことも忘れるくらい、男爵たちへの評価は彼女を戸惑わせた。今回の騒動が起きるまで、アーデルハイトはアイヒェンオルト男爵領など――多分聞いたことくらいはあったのだろうけど――考えにも上らせたことがなかった。そして初めて意識したきっかけがきっかけだったから、良い感情を持ちようがなかった。でも、初めて出会った人たち、嘘をつく動機がまるでない人たちが男爵やユリアーネのことを笑顔で語っている。
ここで初めて、アーデルハイトは何かおかしい、と思い始めた。
「素晴らしい方々なのですね。……意外ですわ、貧しい領地だと聞いていましたから」
同乗者の顔色をうかがいながら言ったことに、アーデルハイトは軽い自己嫌悪に陥った。まるで豊かでないのを卑しむような言い方になってしまったから。領地や領民を富ませるのが領主の務めではあるけれど、受け継いだ領地によって難しさが全く違うのを、よく承知しているはずなのに。誰もが――彼女の父のように――港や鉱山など、富を生む資産を有している訳ではないのだから。
「確かに何もないとこだけど」
「まあ、だからご領主様自ら色々やらなくちゃいけないのかもしれないねえ」
「でも、全然威張ったりしない方たちだよ」
少年も婦人も、苦笑しつつ宥めるように彼女の言葉を肯定した。やはり、領地の豊かさと領主の人となりは関わりないものなのかもしれない。
アーデルハイトは再び沈思する。
(わたくしは、民をどのように考えていたのかしら)
民のために、とは常に彼女の頭にあることだった。貴族として、王太子妃――ひいては王妃になる者としては当たり前のことだった。けれど、彼女にとって民、とは漠然とした総体、あるいは数字に過ぎなかったように思う。ひとりひとりがどのように暮らしているか、自分の目で見ようとすることは今までなかった。
公爵領も国土も、ひとりの目で全てを見ることは不可能だし、上に立つ者は大局を――はるかな未来を考えて動くべきだ。だから、アーデルハイトが民の暮らしに無知であっても決して恥ではないはずだ。個々の民に手を差し伸べるのは役人や官吏などがやることであって、彼女がすべきはもっと上の、領主や貴族を束ねることなのだから。
でも、ユリアーネは彼女が知らない世界を知っている、と考えるのはとても不思議なことだった。トリスタンがその未知の世界に惹かれて彼女に背を向けようとしているなら、なおのこと。
両側の少年と婦人を改めて――不躾にならない程度に――しげしげと見る。最初は薄汚れてどこか恐ろしいと思ってしまったけれど、言葉と笑顔を交わした今なら、生き生きとして気さくで――彼らの飾らない態度が、好ましくさえ思えてくる。
――羽をむしったり、魚の鱗を取ったり。
トリスタンの声が耳に蘇った。ユリアーネにも、この馬車の乗客のような逞しさというか生命感があるのだろうか。この人たちの素朴さと、話に聞いたような野心を同時に持つことはできるのだろうか。
(あの方がどのような世界に生きているのか、知りたいわ)
「おふた方は、普段どのようなお仕事をなさっているのですか? わたくしに教えてくださいませ」
気がつくと、アーデルハイトも笑顔で少年たちに問いかけていた。
家畜の世話や畑の管理について教わるうちに――アーデルハイトには今ひとつしっかりとした絵が描けなかったけれど、とにかく彼らのこだわりは公爵家出入りの職人にも劣らないということはよく分かった――馬車はあっという間に終着駅に着いた。
「オークの標識だよ! 間違えないでね」
「気をつけて行くんだよ」
「ええ、ありがとうございます」
すっかり打ち解けて話せるようになった同乗者とも別れる時だ。一抹の寂しさを感じつつ、アーデルハイトはそれでも笑って手を振った。
時刻は夕方になり、闇が迫る中で彼女はひとり馬車を待つことになる。でも、早朝に屋敷を出発した時とは違ってアーデルハイトはこのささやかな冒険を楽しみ始めていた。侍女や従者に囲まれて、壊れ物のように大事に包まれて移動するよりも、自分の足で歩いて悪路に揺れる風景を眺める方が、なぜか素晴らしく貴重な体験に思えてきたのだ。
伸びをして、凝り固まった肩や足腰をほぐしながら、しみじみと考える。
(大した距離ではないけれど……とても長い旅をしてきたような気がするわ)
それも全て、ユリアーネと会うために。馬車の乗客たちと言葉を交わした今なら、最初ほど身構えている訳ではないけれど、トリスタンやジークフリートとのやり取りを踏まえると、やはり怖い。くだんの男爵令嬢は、アーデルハイトが今まで努力し築き上げてきたものを、完全に壊してしまいそうだから。
「ユリアーネ嬢……一体どんな方なのかしら」
呟いた声は、馬車の車輪が軋む音にかき消された。顔を上げれば、少年に教えられたオークの標識の馬車が到着したところだった。男爵領からやってきて、乗客を下ろして引き返すはずだ。これに乗れば、アーデルハイトの旅路も終わるはず。
不思議な感慨を覚えながら、アーデルハイトは下車する乗客のために一歩譲った。
馬車から真っ先に飛び降りたのは、小柄な人影――恐らくは若い女性だった。よほど焦っているのか、服の裾をふわりと舞わせ――着地に失敗して地面にくずおれてしまう。
「あの、大丈夫ですか……?」
「は、はい。申し訳ありません……」
手を差し伸べたアーデルハイトは首を傾げる。先ほどの同乗者たちと違って、その少女が発したのは非常に上品な言葉遣いだったから。まるで、貴族の令嬢のような。
「あ、アーデルハイト様――!?」
そして更に名前を呼ばれて、彼女は驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
「ユリアーネ嬢……!」
今思えば、アーデルハイトは目的の女性の声さえろくに知らなかった。可愛らしい容姿だとは知っていたけど、今聞かされた柔らかい声も、彼女に似合いの可憐なものだった。
(どうして、こんなところで……!?)
アーデルハイトと同じように、目も口もぽかんと開けて固まった少女。その少女こそ、彼女が追い求めたアイヒェンオルト男爵令嬢ユリアーネその人だった。




