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男爵令嬢、神の家にて

 石造りの壁が外の喧騒――風にそよぐ木々のざわめき、小鳥の鳴き声、それに子供たちの遊ぶ声など――を吸い込んで、聖堂の中に清らかな静寂をもたらしていた。

 ユリアーネは聖堂の一番隅の席に腰掛けて、その静寂に聞き入っている。儀式の際は周辺の民でいっぱいになるこの場所も、今は彼女以外には誰もおらず、ユリアーネは久しぶりに誰に注目されることもひそひそと囁かれることもない孤独を満喫していた。


 ここは、父の領地の一角にある修道院。

 父が寄付をする際などに伴われて、ユリアーネは子供の頃から何度もこの神の家を訪れていた。トリスタンに連れられて見た王都の大聖堂はもっと大きく豪華で参拝する人も絶えることがなかったが、彼女にはこちらのささやかな建物の方が好ましかった。

 色付きのガラスが床に描く鮮やかな影も、素朴ながら慈愛あふれる微笑みを浮かべた木彫りの聖母像も。この場の何もかもが彼女にとっては懐かしく心落ち着くものだった。


「ユリアお嬢様。ここにいらっしゃったのですね」


 呆けたように座り込んでいたところに背後から声を掛けられて、ユリアーネは慌てて立ち上がった。振り向くと、そこには上品な老婦人が穏やかな微笑みを浮かべている。


「院長様。突然お邪魔して申し訳ありませんでした。それに、あの……ありがとうございます」


 足元まで隠す黒い服に身を包み、白くなってきた髪をベールで覆ったこの女性こそ、この修道院の長を務める人だった。

 伴も連れず、おそらくはひどい顔色で突然訪ねたユリアーネに何を尋ねることもなく、いつも通りに接してくれた。その優しい心遣いに、ユリアーネは心からお礼を述べた。院長は、気にしないで、とでも言うように手振りで彼女をまた座らせ、自身も隣に腰掛ける。


「いいえ。子供たちが久しぶりにお嬢様に会えてはしゃいでいました。騒がし過ぎなければ良かったのですが」

「そんなことはありませんわ」


 この修道院は孤児院も併設している。ユリアーネも、小さい頃は孤児院の子供たちに混ざって遊んだものだ。大きくなるにつれておやつを作ったり本を読み聞かせたりと世話をする側になっていったが、無邪気な子供達と触れ合うのは、彼女にとって常に楽しいひと時だった。


「わたしも、あんな子供たちが欲しかった……です」


 あえて過去形を使うと、胸が苦しくなって声が震えた。


 結婚するあてなんてまるでなかったけれど、ユリアーネはいつか沢山の子供に囲まれた暮らしをしたいと思っていた。孤児院の子供たちも可愛いし幸せになってほしいけれど、彼女自身の子供たちが欲しい、と。トリスタンに出会ってからは、――図々しくてはしたないこととは思うけど――彼に似た子をあやしたり髪を梳いたりする光景を夢想することもあった。


 でも、もうそんな夢が叶うことはないだろう。トリスタンはアーデルハイトと結婚して王位を継ぐべきだし、王太子を惑わしたなんて醜聞にまみれた娘に縁談がくるとは思えない。


(わたしは、ずっとひとりぼっち……)


 涙をこらえてうつむいて。スカートをぎゅっとにぎりしめると、その手に院長の柔らかく乾いた手が重ねられた。


「何か、あったのですね? 私で良ければお聞きしますよ」


 弱っているのを見通して、そっと寄り添ってくれる優しさにすがってしまいそうになる。でも、ユリアーネは首を振った。


「もうしばらくしたら、院長様のお耳にも全てが届くと思います。今のわたしからは言えません」


 婚約者のいる人を好きになってしまったこと。しかもその人はこの国の王太子で、婚約者と王位を投げてまで彼女と結婚したいと言わせてしまったこと。

 それらの全ては、優しく慈悲深いこの老婦人に伝えるにはあまりに恥ずかしくて分をわきまえないことだと思えた。

 どうせすぐに噂は広がってしまうのだろうけど――でも、父にこの騒動について、それに家名に泥を塗ったことを謝りに行く勇気が持てるまで、院長の優しさに甘えさせて欲しかった。この静かな聖域で、心を落ち着かせて欲しかった。


「ユリアお嬢様」

「わたしを哀れんでくださるなら――どうかここに置いてくださいませ」

「お嬢様! なんということを……」


 それでも何も言えない心苦しさも確かにあって、絞り出すようにつぶやくと、院長は血相を変えてユリアーネの顔をのぞき込んだ。


「お父様にはご相談なさったのですか」

「いいえ。でもきっと仕方ないと言ってくれますわ」


 とっさに口をついたことではあったけれど、生涯を神に捧げて修道院で過ごすというのは良い考えのように思えた。家のために婿を取る道が絶たれた今、そして世間の噂にさらされるであろうこれからを思うと、父のためにものうのうと今まで通りの生活を続けるなんてしてはいけないような気がする。アーデルハイトを傷つけトリスタンの人生を狂わせた罪を償うためにも、この修道院で慎ましく祈りと孤児の世話だけに専念して生きるのが良いのではないだろうか。


「そのようなはずはございません! 修道院(ここ)に入るのは、俗世の縁も幸せも捨てるということですよ。男爵様のお嬢様がなさることではありません。ユリア様、本当によく考えた上で仰っているのですか!?」


 これほど厳しく院長に叱られたのは初めてだったかもしれない。ユリアーネは震えたが、かえって心は頑なになった。激しく首を振りながら、叫ぶ。


「院長様は何があったかご存知ないからそう言ってくださるのです!」


 思わず高めた声は、聖堂の高い天井によく響いた。ほわん、という残響を聞きながら、ユリアーネは思わず頬を染めた。心配してくれた院長に対してあまりに無礼で、神聖な場所であまりに無作法な振る舞いだった。


「――では、聞かせてくださいますね」


 院長は、恥じ入った彼女を包むような、聖母の微笑みを浮かべていた。その微笑みに促されて、ユリアーネはぽつぽつとこの数ヶ月の出来事を語り始めた。




「わたし……婚約者のいる方を、そうと知っていながら好きになってしまったのです」


 といっても、この国の王太子のことだとは言えなくて、ぼかして言い方にはしたけれど。


「その方があまりに優しくしてくださるから思い上がってしまったのです。その上、その方はお家のことも婚約者の方も放り出して、わたしに求婚するなどと仰って……。とても大事なお役目のあるお家で、婚約者の方もとても美しい素晴らしい方なのに。わたしは、とても罪深いことをしてしまいました……」


 とつとつと語りながら、ユリアーネは院長の歳を重ね皺の刻まれた顔をうかがった。きっとふしだらな娘だと軽蔑されたことだと思う。親身に優しく接してくれるのももう終わってしまったかもしれない。

 さっきよりも厳しい声で叱られるのね、と恐れながら言葉を切ると、でも、老婦人はおっとりと笑っていた。


「まあ、それだけですの?」

「――え!?」

「私、もっと大変なことかと思ってしまいました」

「大変では……ないのでしょうか」


 ユリアーネはとんでもないことをしてしまったと震えていたというのに。相手が王子だということを伏せたからだろうか。でも、それにしたって婚約者のいる方を奪うのは許されないひどいことだと思うのだけど。

 戸惑うユリアーネの手を、院長は優しく励ますように握った。


「ええ。世間知らずのお嬢様に襲いかかる罠は本当に恐ろしいものもありますから。私は俗世を離れた身ではありますけれど、ここへ相談や懺悔に訪れる娘さんはとても多いのですよ。……心配していたほどではなくて、安心いたしました」

「ですが、院長様」


 院長様は一体どんな心配をなさっていたのかしら、と驚きながらユリアーネは言い募った。


「婚約者がいる方ですのよ? いけないことですわ」

「世の中には奥様やお子様がいるのを隠して女性に近づく殿方もいますもの。その方は、少なくともお嬢様と結婚するために努力してくださったのでしょう?」

「でも……」


 院長の声も、手も、笑顔も。全てが優しくて、ユリアーネの全てを包み込むよう。その優しさに甘えて、これで良いのだと信じてしまいそうになるくらい。


「そしてお嬢様もその方を愛しているようにお見受けします。愛し合う二人が出会った、それは素晴らしいことではありませんか」

「いいえ、違います! あの方はわたしを愛している訳ではないのです!」


 やっと反論の糸口を見つけて、ユリアーネは叫ぶ。聖堂に悲痛な声が幾重にも響いたけれど、言葉が次々に溢れるのを止めることはできなかった。


「わたし、聞いたのです。あの方はお勤めも婚約者の方も煩わしかったのだと……。そこでわたしと出会って、田舎の暮らしに心を惹かれてしまったそうなのです。わたしは、逃げるための口実にしか過ぎなかったのです!」


 ほとんど涙声になりながら訴えると、院長は考え込むように黙り込んで、ユリアーネの髪を撫でた。しばらくそうしてから、励ますような微笑みでまた口を開く。でも、ユリアーネにはまるで良い言い訳を見つけたみたいに見えてしまう。


「その方が本当にそう仰ったのですか? お嬢様は人伝てに聞かされただけなのでは? そんな、逃げるためだけに人生の大事なことを決めてしまう方なんて――」

「でも、その方はそうだったのです! わたし、お尋ねしましたもの。本当にわたしのことを愛してくださっているなら、どこが良いのか教えてください、と。でも……」


 トリスタンとのやり取りが蘇って、ユリアーネは言葉を詰まらせた。

 トリスタンは彼女を納得させる言葉を言ってくれなかった。口にしたのは誰にでも当てはまるようなことばかりで、ユリアーネでなくては、と思えることは挙げてくれなかったのだ。

 そしてユリアーネは気づいてしまう。


(わたし……あの方に愛されていないのが何より辛いのね……)


 トリスタンの将来も、王位の行方も、アーデルハイトの立場も、ユリアーネにとっては実は二の次だった。トリスタンの愛を実感できたとしても、多分固辞したのは変わらなかっただろうけど。でも。わたしなんかを愛してはいけません、もったいないですけど去らせていただきます。そんな形を取ることができたなら、きっとこんなに悲しく惨めな思いはしていなかったと思う。トリスタンは彼女を愛していなかったと気づかされたからこそ、ユリアーネはとてもがっかりして取り乱してしまったのだ。


(なんて勝手なのかしら。きっとトリスタン様も分かっていらっしゃったのね。だからわたしを愛してくださらなかったのね……)


 自分の醜さに気づくと一層悲しくなって涙が溢れる。そんなユリアーネを、院長が強く揺さぶった。


「お嬢様のお気持ちは? その方がお好きではないのですか。ちゃんと伝えられたのですか?」

「わたしは……」


 揺さぶられた衝撃で涙がこぼれて頬を伝ってしまった。でも、そんなことも気にならないほど、院長の言葉はユリアーネの()を揺らした。


(わたし……あの方に気持ちを伝えたことがあったかしら)


 好ましいというようなことは言ったことがあると思う。でも、女として、愛や恋として好き、とは言っていないはずだった。だって、はっきりと言ってしまうのはあまりに図々しいと思ったから。ずっと一緒にいたいと言われてうなずいたことはあったけれど、それも現実のこととして真剣に考えた上でではなかった。ただ、夢物語に過ぎないと思っていた。でも、彼女が夢だと思っていたことを、トリスタンは真剣に叶えようとしていた。


 ユリアーネの顔色で何かしらを悟ったのだろう、院長は励ますように彼女を抱きしめて言い聞かせた。


「お伝えしてはいないのですね。お伝えしなければその方だって分かりませんわ。人の心は言葉でなくては伝わらないのですもの。

 お嬢様のお気持ちを知れば、その方のお心も――単なる逃げではなくて――一層強くなるでしょう。そうすれば、お嬢様もためらうことなどないのではありませんか?」


 柔らかく暖かく包み込まれる感覚に、ユリアーネは降伏してしまいそうになる。院長の言う通りに、トリスタンと結ばれても良いのだと思いそうになってしまう。あの方に想いと伝えて、結ばれて。故郷で一生幸せに暮らす。なんて甘い夢だろう。

 甘い夢に浸りそうになって――でもいけないと、ユリアーネは必死で院長の腕から逃れた。


「で、でも気持ちをお伝えするなんてとんでもないことですわ。好きになってはいけない方ですもの。許されないことですもの。どの道、諦めるより他になかったのです」


 けれど院長はユリアーネを離さず、間近にしっかりと目を合わせて、告げる。


「本当にいけないこと、許されないことならば、どれほど望んでも決して叶えられることはありません。たとえ辛くても、叶えられる道があるならば――神はそれを許してくださっている証でしょう」


(トリスタン様は……叶えようとしてくださったのかしら)


 ユリアーネは初めてトリスタンの心の中に思いを馳せた。アーデルハイトとの婚約破棄を言い出す時、彼はとても緊張しているようだった。継承権放棄についても、国王たちに話を通していたようだった。彼女のために、道を拓こうとしてくれていたのだろうか。


 一体どうしてあんな強引なことをするのだろう、と思っていた。突然大変なことに巻き込まれて、ひどいと思う気持ちもあった。でも、思うだけで伝えてはいなかった。ユリアーネ自身の言葉が招いたことだというのに、アーデルハイトに頼ろうとしたりして、自分でどうにかしようという発想はなかった。これでは、いけない。


 トリスタンときちんと話すのだ。愛していること、一緒にいたいということ。婚約や王位がどうなるかは、それを確かめてからでなければ話せない。

 涙を拭って大きく深呼吸すると、ユリアーネはきっぱりと言った。


「院長様……わたし、失礼させていただきます。急に来たばかりで、申し訳ないのですけれど」


 飛び出してきてしまって、さぞ心配していることだろう。そのことも謝らなければならないし、一刻も早く王都に戻りたかった。


「ええ、もちろん構いませんわ」


 突然言い出したことなのに、院長は嫌な顔ひとつ見せなかった。それどころか、先に立ち上がってユリアーネに手を差し伸べてくれる。


「お嬢様が好きになったという方にお会いしたいものです。紹介してくださいますね?」

「どうなるかは分かりませんわ。でも、できるならば、必ず」


 ユリアーネは頬を染めて答えた。

 大事を起こしてしまった罪悪感は消えないし、アーデルハイトを始め迷惑をかけた人たちにも謝らなければならないけれど。でも、父にさえ顔向けできないと思っていたことを考えると、気持ちはだいぶ楽になっていた。

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